※未来捏造(執筆時期の関係で原作の展開と齟齬があります)




「ねぇ、いつまで寝てるの。いい加減起きたら」

 おぼろげな夢を反芻していた頭に凛と澄んだ声が無遠慮に突き刺さり、雲を散らすように今しがたの幸福な幻を掻き消した。カーテンを素早くあけて窓をひらく不快な音。はだけた掛け布団の隙間、太腿の裏側を冷たい空気がすり抜けていく。突然の寒さと眩しさに鼻先まで毛布を引き上げながら、目を閉じたまま思わず顔をしかめた。二人の夜はいつだってとてもつれないもので、のろまなわたしを朝はノックひとつもなしに訪れてしまう。私に彼の来訪を拒む権利などない。眠気を噛みしめて仕方なくうっすら瞼をひらくと、まばゆい陽射しのなかで見慣れたきんいろが揺れていた。さながらそれは、うるさく光る明け方のかわものように。

「……アンタ、またひとの寝室に勝手に……」
「君の寝室じゃないだろう。それに団長の許可はもらってある」

 アルミンの声ははきはきとしていてどこにも寄りかかるところがなく、心にまとわりつくような疎ましさとは無縁だがそのかわりいつもどこか怖ろしい。だけどこの恐怖はわたしが勝手に彼に対して押し付けているわがままな印象のようなものだから、浮かび上がってきたところでそのつど押しこめ返してしまうよりほかない。これこそ疎ましさ、か。難儀なものだ。
 ベッドサイドの置時計をみると十時を少し過ぎたころだった。アルミンは隊服のジャケットも着ずに白いシャツを肘までまくり、肩につくかつかないかまで伸び散らかしたブロンドをうしろでひとつに縛っていた。飴色の縁の眼鏡を掛けっぱなしでいるところを見るに、夜通し根をつめて企画書の制作でもしていたに違いない。くたびれた彼の姿には新兵のころにはなかった性のにおいがさりげなく漂って、わたしを少し悲しくさせる。おそらくわたしのこのだらしのないスリップ姿をみて、彼がなんでもないふうを装いながらひた隠しにしている感情と、それは似たようなものなんだろう。

「食堂からレーズンパンとミルクを持ってきたんだ。一緒に食べよう」

 わたしがしぶしぶベッドから身体を起こしたのを見届けると、アルミンはベッドルームを抜けて簡易キッチンのテーブルのほうへと歩いていった。開けひろげたドアの向こうでピッチャーを傾け、マグにミルクを注ぐ彼の姿をぼんやりと眺めやる。夜通し仕事をこなしていた人間と夜通し男に抱かれていた人間が同じテーブルについて食事をするのか。しかもそれが同期の男と女なのだからなんとも薄ら寒い。彼のお気に入り同士、とでも言えば多少は聞こえが良いだろうか? いや、もっと滑稽だ。“お気に入り”の意味合いが違いすぎる。

「……エルヴィン、今日帰ってくる?」

 彼の名前を扱えることの特権を振りかざしても、アルミンはもうぴくりとも動揺することはない。毛布と一緒くたになっていたベージュのガウンを羽織ってさみしいベッドを降りた。素足で床を踏みしめるのはちょっと冷たかったけれど、今はそれが心地良くもあった。

「どうかな。内地に向かったから二、三日留守にするんじゃない」

 アルミンはバスケットのなかのパンをトングで丁寧に取り分けながら事務的な答え方をした。二、三日、か。じゃあ今日と明日は少なくとも一人ぼっちだ。耳から得た情報を怠さの抜けない頭で処理するのに手間取っていると、そんなわたしの明白な不機嫌をアルミンは目ざとく捉え、どういうわけかくすりと平和な笑みをもらした。

は放っておくと昼過ぎまで寝こけているから、団長も心配しているんだろうね、きっと」

 彼が向かい側の席についたので、私もそれに倣って椅子に腰掛ける。パンとミルクと、それにひとかけのチーズがあるぶん上等なブランチと言えるだろう。カップに口をつけ、冷たいミルクで喉をうるおす。入団したてのころは同じくらいの背丈だったのに、今やアルミンの身長はエルヴィンとも大して変わらない。こうやって向き合って座っていてもあのときのように同じ目線で笑い合えることはもう無かった。

「別に……、子ども扱いされているだけよ」
「そう? 恋人を気にかける口ぶりに聞こえたけどな、僕には」

 どんな意図があってそんな嘘を吐くの、アルミン。彼がアルミンに対してわたしのことを一体どういうふうに伝えているのか知れないけれど、もしも本当にわたしが彼の大切な女だったら自分の部下に寝起きの世話なんてやらせるものか。なんの前触れもなく、なんにも言わずに、この部屋を出て行ってしまうものか。二十も年下の女など彼にとって飼い猫のようなものに過ぎない。彼に甘やかされればされるほど、わたしは人間から遠ざかってゆくような気がする。そしていつか本当に取り返しがつかなくなるんだろう。色んなものが退化していって、あなたの言葉もじきに聞こえなくなる。誰にも届かないところで彼のためだけに啼き続けて、捨てられて、わたしは本当にそれがわたしの人生だと言えるのだろうか。

「アルミンだって本当はわたしのこと、愚かな女だって思っているんでしょう」

 パンに手を伸ばす。焼きたてだったのだろうか、そこにはかすかな温もりが残っていた。アルミンは口元の微笑みを抑えて、すっと静かに目を細めた。音の無い笑み。わたしの卑屈を見透かすように、そうして見透かしながらも決して掬い上げることのないように、アルミンはマグカップの取っ手を細い人差し指と中指でなぞりながら伏せ目がちに言葉を紡いだ。

「そんなことない。僕は君の選択を尊重してる。……ただ、少しさみしいなとは思うけれど」

 さみしい? 彼の呟きを疑問符でなぞると、アルミンはゆっくりと首をもたげてまるで図っていたかのようにまっすぐわたしを見据えた。眼鏡のうすいレンズの奥、彼の鮮やかな蒼い瞳のなかに居るのは、今ここに居るわたしではない。彼にまなざされるたびに私は、そこに閉じ込められているありし日のわたしのことを思いだす。それは人間から遠ざかっていくばかりのわたしを唯一引き戻してくれるちからだった。いくばくかの痛みの、いくばくかの苦しみの、そしていくばくかの愛のちからだった。

「君の飛ぶ姿は、君が思っている以上に美しかったよ」

 瞳の引力とひきかえに、遠い昔を思い描く彼の声はとても繊細にこだました。その途方もなく、おかしくもない冗談を笑い飛ばすだけの器量はわたしにはなかったから、かわりに指につまんだままだったパンのかけらで無理やりに自分の口を塞いだ。大きくちぎりすぎたそれは起きぬけの喉につまって、わたしは口じゅうにひろがる安っぽい小麦のにおいとレーズンの甘ったるい味に盛大にむせこんだ。

  ――君はまだ死んでない。だから君はこれからいくらでも死にに行くことができる。そのことを忘れないで。絶対に。









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