p.s. : a certain romance-2




 いつもであれば三日と待たずに次から次に送られてくるハルさんからの手紙が途絶えて、一週間が過ぎようとしていた。調査兵団本部はいよいよ明日に迫った次の壁外遠征の最終準備でばたばたと忙しなく、独特の張りつめた緊張感に満たされていた。もとより全員が参加するわけではないが、途中で参加を見送られたとなるとなんとなく気まずさと疎外感を覚えて落ち着きが悪い。今ここにいる者が、確実に明日にはいなくなっている。ここにも、どこにも、いなくなる。ほとんど事実と変わらないようなこの予感をどうやって受け止めればいいのか、まだ少し考えあぐねている自分がいるような気がした。

「この報告書を、トワダ家まで届けに行ってくれないか」

 この忙しいときにじきじきに団長室に呼び出されて何事かと思えば、エルヴィン団長はデスクに視線を落としたまま数枚の薄っぺらな資料をこちらに差しだすだけ差しだしてきた。受け取って捲ってみるとそれは、トワダ家から援助された資金の用途を細かに並べ立てた支出表のようなものだった。まったく、随分とタイミングの良い雑用があったものだ。

「……俺が行くべきではないと思いますが」
「いや、むしろ君はこれ以上ない適任だと思っているんだが」

 団長は羊皮紙に澱みなくペンを走らせながら、軽々とそう言い放った。初めてハルさんの家を訪れた数日後、今日のように団長が俺に片手間の命を下したことを思い出す。眼鏡をかけて何かの書類につらつらと目を通しながら、あそこのお嬢さんが君と話がしたいそうだから明日にでも行ってくるといい、などと団長はまるで軽く提案でもするように言ったのだ。団長は決して皆まで語らない。常にどこかに残された曖昧さは、受け手に委ねられていると同時に、何かを誤魔化しているふうでもある。渋った顔をしたまま立ち尽くしていると、団長はようやく視線を上げた。ふっと笑みをこぼしながら。

「レディを待たせるのは野暮な男のすることだよ」
「待たせるって……呼ばれてもいませんので」
「そこを推し量るのが男だ」

 要は雑用ついでに彼女の機嫌を直しに行ってきたらどうだ、ということを遠回しに言っているに過ぎないのだろうが、そうやってまるでその辺に転がっている陳腐な色恋沙汰に投げかけるような言葉を敢えて選ぶのは何故なのだろうか。どうせ深入りをすることもできず、許されることもなく、あの部屋から出ることもままならない関係でしかないのに。いや、だからこそなのか。何かになぞらえ、何かを真似ながらかろうじてかたちを成しているのだと暗に叩きこむためなのか。口実のような雑用を与えられ、胸中では安堵と戸惑いがせめぎ合っている。どちらの感情に身を任せれば良いというのか、こればっかりは誰からの命令にも書きこまれていない選択なのだ。



 半日かけてもう何度も行き来した道に馬を走らせ、日没とともにハルさんの住む街へと辿り着く。この街へ入って始めにすることは、隊服のジャケットの脱衣だ。別に悪事を働いているわけでもないのだが、内地で背負う自由の翼は思った以上に悪目立ちのする代物だった。ジャケットを脇に抱えていれば憲兵団とも大した身なりの差はない。本当は私服で来られれば一番良いのかもしれないが、あいにく一般市民には移動の自由さえ滅多に与えられない決まりだ。延々と整備された石畳をくぐり抜け、奥まった場所に位置する彼女の家の門を叩くと、出迎えに来たのはもはや顔見知りの女執事だった。彼女は支出報告書などそっちのけで、俺の顔を見るなり「お待ちしておりました」と言って深々と礼をした。面食らった。団長の言う通り、俺は待たれていたのだし、待たしていたのだ。

「もうずっと、ろくに食事もとらずに時間さえあれば閉じこもって泣いてばかりで……わたくしが代わりにお手紙を差し上げようかとさえ思っていたところです」

 廊下を歩きながらつらつらと彼女が漏らすハルさんの話に耳を傾ける。大広間に近づくにつれて、速弾きの流麗なピアノの音色が大きくはっきりと聞こえてきた。大広間の前で立ち止まり中を覗いてみると、果たしてそこにはピアノを弾くハルさんの後ろ姿があった。どうやら稽古事の真っ最中らしい。後ろ姿だけでも彼女がいかにピアノを弾くことに没頭しているのかよく分かった。一心に、何かを振りきるように、音が鳴っている。楽器のことなど何ひとつ分からないが、それでも旋律にこもる彼女のなみなみならぬ熱が伝わってくるような気がした。

「旦那様もお留守ですから、中で演奏を聴いていかれますか」

 女執事がこっそりと耳元で問いかける。惹かれる提案ではあったけれど、結局頷くことはできなかった。

「……いえ。邪魔になると申し訳ないので、遠慮しておきます」
「そうですか。では先にお嬢様の部屋にお通しいたします」

 大広間を通り過ぎて階段をのぼり、彼女の居ない彼女の部屋に俺は初めて足を踏み入れた。今しばらくお待ちください、と言って執事が扉を閉めればそこは小さな静寂の世界だった。耳を澄ませばかろうじて階下で彼女が奏でる音の断片を拾い集めることができるかもしれないが。
 彼女の部屋はまず扉を開けると短い廊下があり、そこを抜けてさらに扉を開けると大きなワンルームがひろがっている作りになっている。そこにソファも、テーブルも、天蓋付きのベッドも、クロゼットも、本棚も、とにかく彼女のありとあらゆる生活が詰まっていた。いつもより少しだけ無防備な彼女の部屋を見渡してみる。ベッドの上には脱いだままのガウンが、ソファの上には読み止しの本が、そしてテーブルの上には何枚もの羊皮紙とインク壺と万年筆、そして馴染みのある薄いグレーの封筒が置いてあった。鼓動が速まる。ぱっと目についた羊皮紙に、自分の名前を発見してしまった。親愛なるジャン・キルシュタイン様、と。




親愛なるジャン・キルシュタイン様

この間はあなたのことを困らせてしまってごめんなさい。
あの時のあなたの困惑した表情を見て、二度とあんな言葉は口にしないとかたく誓いました。
もう決してあなたの選んだ仕事のことを邪魔したりなんかしない。絶対にあなたを困らせない。
だからひとつだけ、お願いがあるの。どうかこれからもこの部屋に、私に会いに来て。
それだけでいい。だって私は、



 それは書きかけの手紙だったが、書きかけとはいえそれがいつも送られてくる五枚も十枚もある手紙とは全く質の違う、簡素なメッセージであることは容易に分かった。彼女にしてはどこか拙く、急いているような文面。その乾いた文字列に何とはなしに指のはらを滑らす。インクのしみのかたちを、その意味を、自分に染み込ませるように。会いに来て。その一言を、何度も、何度も、何度も。やがて導かれるように封筒にも手を伸ばすと、中に何かが入っているようなかすかな重みがあった。手のひらの受け口に、そっと封筒を傾けてみる。手の内に転がってきたのは一本の銀色の鍵だった。どこの鍵かなんて考えなくとも、分かるだろう。

「ジャン」

 名前を呼ばれて咄嗟に鍵を封筒に突っこみ、振り返る。一体どれだけ集中して、一枚の手紙に見入っていたのだろう。いつから彼女はそこに居たのだろう。完全に閉まりきっていなかった部屋の扉を後ろ手に閉じると、さんはついさっきまで弾いていたであろう楽譜を胸に抱えて音もなくテーブルへと近づいてきた。

「すみません、俺、勝手に……」

 そう言うよりほかに言葉が思いつかなかった。さんは楽譜を置いて散らかった羊皮紙をまとめながら、首を横に振った。

「ううん、いいの。あなたに読んでもらうために書いたんだから」

 送る必要なくなっちゃったね、と言ってさんは弱々しくも気丈にほほ笑んだ。申し訳なさと恥ずかしさで息が詰まる。押し黙っているとテーブルの上を軽く片付けたさんと目が合った。一週間会わなかっただけでも、そのはかない表情にはどこか懐かしさをこみあげさせるものがあった。

「来てくれて、嬉しい」

 赤らんだ目もとの腫れが、一週間前のあのときと大して変わってないようにすら見える。あれからずっと、さんは泣き続けていたのだろうか。たった数行の手紙を書いては捨て書いては捨て、この部屋に涙を溜め続けていたのだろうか。またそれが溢れだしてしまう瞬間に立ち会うのがなんだかおそろしいような気がして、つい彼女の肩を抱きこんでその頭を胸に押しつけていた。さんの震える手のひらが俺のシャツをぎゅっと掴む。その震えを抑えこむように、俺は腕の力をさらに強めた。

「……どうしたら泣きやんでくれるんですか、さんは」

 お願いですから、教えてください。どうしてさんの弱さに直面すると、このひとのために自分にできることであれば何でもしてあげたい、という気持ちになってしまうのだろう。決して献身などではないのだと思う。むしろ自分にできる範囲のことだけをどれほど積み重ねたとしても、彼女が俺にぶつける感情とそれがぴったり釣りあうことなどとうていないに違いない。擦り減ることも削り取られることもないものしか差しだせないのなら、一体何を尽くしていると言えるのか。さんが俺の胸を押し返すようにして、ゆるりと顔を上げる。目の端に浮かんでいた涙がほろほろと零れて、さんの蒼白い頬を伝っていった。

「読んだでしょう。来てくれるだけでいいの」

 俺の問いかけに対して答えを与えようとしてくれているというよりも、自分自身を納得させようともがいているような痛々しい口ぶりだった。だったら、本当にそれだけで良いなら、今あなたの頬を濡らしているものは何だと言うんだ。もう少し俺に器量というものがあったのなら、一週間前の出来事を別に大したことじゃないと流すことも、すべて忘れたことにして二人をやり直すこともできたのかもしれない。夢のまた夢のような話だけれど。あんなふうに互いをさらけだしてしまったらもう、元通りにはなれないに決まっている。今までのようにただここに来て、向かい合って同じテーブルについて、同じ茶葉を淹れたティーカップを傾けているだけでは、二人はもう「同じ」では居られないだろう。

「本当に、それでさんは幸せですか」
「……幸せ?」

 きょとんした表情で俺を仰ぐさんを、ただ純粋にいじらしく思う。以前さんから貰った手紙に、こんなふうに書いてあったことがある。――私の退屈な生活の中にも、幸せだなと思うひとときがあるの。大好きなお菓子を食べているときと、ジャンとお話をしているとき。だからお菓子を食べながらジャンとお話するのは、私にとってとても贅沢な、心底幸せなことなのよ、と。……一字一句違わずに文面を覚えている自分に呆れてしまう。あの言葉を、嘘にしたくない。嘘にしてはいけない。それだけの理由で今は、自分をくまなく律していたかった。
 彼女の疑問符を拭うように、その濡れた目尻に唇を触れる。唐突な所業にさんの肩がびくりと跳ねても、構うことなく彼女の頬を伝う涙のあとを丁寧になぞり、彼女から溢れるしょっぱい水を舐めるようにすすり続けた。犬みたいだ、まるで。犬みたいなことを人間がしている。それはすごく陳腐で、そして厳かなことだった。

「ジャン、くすぐったいよ」

 さんがふわりと声を漏らして、二人のわずかな隙間にあった空気が優しくほころんだ。夢中になっていた行為を切りあげ、唇を離す。さんの目尻にあるのはもう涙ではなく、代わりにそこにあったのは甘い緩みだけだった。

「……やっと笑った」

 そう呟いた自分の声のほうがまるで今にも泣きだしそうで、さんは両腕を俺の腰に巻きつけながら「今度はジャンが泣く番?」と悪戯な笑みをした。肩にさんの額が寄せられる。そして数秒の沈黙のあと、さんはまたゆっくりと俺を仰ぎ見た。物語を紡ぎだすような間をあけて。

「あなたが教えてくれるのよ、ジャン。私に涙も、笑顔も」

 愛とも誘惑とも呪いともつかない、過ちのすべてに報いる告白だった。赤面することも忘れて彼女を抱きかかえたのは、きっと号泣する彼女に咄嗟に縋ったあのときとまったく同じ衝動だっただろう。千切れかけた鎖のように絶望的に変わらないものもあれば、そんな殺風景の中でも変えてゆける景色もある。だからこの日俺は、彼女の涙の作り方と笑顔の作り方を覚えた。それは無意識にしていたやみくもな行為を捨て、そのすべてを意識的に彼女の躯体に乗せていくということだった。









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