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ただいま、おかえり




 庭に植わっている木苺が今は盛りといっせいに実をつけた。甘酸っぱい果実の香りに胸まで浸かりながら、小さな実をひとつずつ、その手触りを確かめるようにしてもぎとっていく。またこの実を使ってジャムをどっさりと作り貯めるため、そしてできたての新鮮なジャムで今日のぶんのサンドウィッチを作るために。一ヶ月なんてあっという間だと、そう思うのは久しぶりのことだ。要するに、この数ヶ月の私の日常はそれなりに賑やかだったということなのだろう。単調な日々に抑揚がつけば、澱んでいた毎日も勢いをつけて流れていく。こんなに充実した楽しい感覚を、私は長らく忘れていた。
 ジャンが最後にこの部屋に来てからもう三週間が経とうとしている。今までの頻度から考えれば、彼が敢えてここに来ることを避けているのは明らかだった。それに心当たりもちゃんと、ある。私は彼を傷つけ続けていた。彼をあのひとに少なからず重ねていたことや、そのことを彼が敏感に感じとっていたこと。そしてそんな彼のさみしさに薄々気がついていたのに、見てみぬふりをしてきたずるい自分のこと。ジャンはもう、二度とここには来ないかもしれないと思った。どうすることもできないし、どうかしようとしてもいけない。それが、彼自身が決めたことならば。
 サンドウィッチをバスケットに詰めて、家を出る。乗り合いの馬車に揺られて調査兵団の本部に着くと、やけにあたりは静かだった。裏手の共同墓地はいつも以上に閑散としていて、慰霊碑のまわりにも人気がない。先月はジャンと一緒に、ここに来た。その前の月も、そうした。二人で居るとなんとなくそれだけで気持ちが安らいだのだ。あのひとの墓前にサンドウィッチをひろげ、はす向かいの慰霊碑にも同じものを捧げる。ジャンから伝え聞いたその子の名前を慰霊碑に刻まれた名簿のなかから探しだして、指でそっとなぞりながら。顔も声も知らない、彼の友人。おかしな話だけれど、私はこの数ヶ月でそんな彼とも少しだけ仲良くなれたような気がしていた。

「今日のジャムは作りたてなんだ。きっといつもより美味しいよ」

 そう言って立ち上がろうとしたとき、耳をつんざくようなけたたましい鐘の音が鳴り響いた。腰を抜かしそうになりながら、慌てて振り返る。それは調査兵団の本部で鳴らされた鐘だった。壁の門がひらかれたことを、つまり調査兵団の遠征部隊が壁外へと出発したことを告げる鐘の音だった。遠く、壁のほうを見つめる。目を凝らす。何が見えるわけでもないのに。あの下にジャンは居る。いや、居たのだ。今はもう居ない。彼はいつもこうだ。現れるときも、姿を消すときも、何も言わずに突然そうする。ほんとに、行儀が悪いんだから。

「……戻ってくるかなぁ、ジャンは」

 抜けるような青空の日だ。心地良い風が肌を舐める。ふたつの慰霊碑の間にへたりこみ、あのひとの慰霊碑を眺めやりながら、思ったままに語りかけた。

「ねぇ、先輩としてあなたはどう思う? 何度か見たでしょ、あの子のこと。彼けっこう、できる子みたいだよ。六番の成績で訓練兵団を卒業したんだって……あなたよりずっと優秀だね」

 芝生の上に身体を投げると、みずみずしい草の匂いが複雑な思考をかき消した。お墓の真ん中で寝ころぶなんて、行儀が悪いのはどうやら私も同じようだ。目を瞑れば思い出が蘇ってくる。あのひととの、ではない。ジャンとの日々だ。いつの間にか、いつからか、私たちは互いにとって何者かになっていた。その意味づけを、決して口にはしないまま。

「私ね、これでも色々考えたんだよ。自分がどうしたいのか。何を願っているのか。でも結局、ひとつしか思いつかなかった。私は、ジャンに生きていてほしい。それだけなの。あの子が生きていてくれるなら……」

(一緒に生きられなくったって、いい)

 最後の言葉を果たして声にしたのかしなかったのか、記憶の渦に溺れそうになっていた頭では判別がつかなかった。真実は自然と溢れていくものなのかもしれないし、あるいは噤むものなのかもしれない。太陽が木陰に隠れて、あたりはうっすらと光を失う。あかるく涼しい暗がりに守られながら、私はもう一度やわらかに瞼を閉じた。



 その日、ジャンは夕食をぺろりとたいらげたあと、明日までに頭にたたきこまなくちゃならないという陣形表とにらめっこしていた。食事を済ませると小一時間ほどソファの上でくつろいだり、まどろんだり、私の部屋にある本をたわむれに読んだりするのが彼のささやかな習慣だった。切羽詰まった課題を抱えている日くらいおとなしく寮に帰ればいいのに。それでもこの部屋に留まろうとする彼の意地っ張りなところが、妙に幼くてかわいらしかった。

「ジャン、これ、取れかかってる」

 ソファの下に脱ぎ散らかしてあった兵服のジャケットを片づけようと手に取ったとき、胸元の紋章の縫い合わせが半分ほど千切れてしまっていることに気がついた。すぐに取れてしまうほどではなかったが、そのまま放っておけるほど頑丈でもない。思わず声をかけると、陣形分担について呪文のようにぶつぶつ呟いていたジャンは、ぴたりと黙ってカーペット敷きの床に座っていた私に目を向けた。

「え……あー、今日の戦闘訓練でどっかに引っかけた、かも」
「縫いつけてしまってもいい? ぴらぴらして、気になる」
「お願いします。……ついでに次の遠征で死なねぇように願でもかけといてください」

 きっと特別な意味などこめられていない、それはたわいない相槌の延長のようなものだったのだと思う。だけれど彼のその言葉は同時に、この場所に息づいていた日常を私に思い出させるのに充分だった。裁縫道具を手にしながら、遠い昔ののどかな気持ちを哀しみにすり替えて辿りかえす。私の願は縁起が悪いわよ、ジャン。絶対かけてなんかやらないんだから。

「なに、笑ってんですか」

 たわごとみたいに返事をしたくせに私の反応を気にかけていたのか、ジャンはこんなところで思わぬ目ざとさを発揮した。彼はもしかしたら私よりも私の纏う過去の影に敏感なのかもしれない。そうさせているのは私のほうなのだろうけれど。

「ううん、なんでもない。今も昔もこんなことしかできないな、って思っただけ」

 紋章の縁取りと同じ色の糸を選び取って針に通す。自分でも自分がどうして笑ってしまったのか分からなかったから、ジャンが不服に思うのも無理はない。悲しみは跡を残して続いていても、端的な意味で悲しむことはもう私には出来なくなっていた。三年も一人だったのだから当たり前だ。慣れるということはきっと、動いていたものが凝り固まって止まってしまうということなんだろう。

「私も一緒に戦えたら、よかったのかな」

 命を懸けて壁の外へ出て行くひとの前で軽々しく言ってはいけないことを口にした。そんな些細な遠慮と齟齬の積み重ねが、私とあのひとの間にもきっとたくさんあったはずだ。私は彼の生をどれだけ受け止められていただろうか。一緒に空を飛んでいたら、一緒に翼をひろげていたら、あるいはもっと彼のことを知ることができたのではないか。私は今でもそんな夢想を抱かずにはいられない。こんなとき自分のことを醜いと、心底そう思う。
 ジャンに何か答えを求めていたわけではないけれど、それきり彼は再び呪文のごとき陣形分担を唱えることもなく、ずっと押し黙ったままだった。針を進め、“自由の翼”をしっかりと彼の左胸に縫い合わせ、ソファに寝そべって資料に目を落としているジャンの背中に、できたよ、と言ってジャケットを被せる。久方ぶりに彼の瞳がうごめいて、私のことをがぶりと食べた。たじろぐことすらできなかった。退路のすべてを塞ぐようにして、重たく声がのしかかったから。

「……一緒に戦えても、一緒に死ねるわけじゃない」
「え?」
「どうせ死ぬときは誰でも一人だろ」

 彼のかたい眼なざしを見ればすぐに、言葉を噛み砕くよりも先に伝わってくるものがあった。こんな当たり前のことも誰かに促してもらえないと気づくことができないのならば、一人で生きるのはとても危うい、おそろしいことなのだろう。ジャンはおもむろに身体を起こすと、肩に被ったままのジャケットを引っ掴んで立ち上がった。怒られているのだと勝手に感じて萎れていた私の頭に、彼の手のひらがぽんと乗せられる。髪を乱されているのか頭を撫でられているのか分からない荒っぽい手つきで私に触れて、今日も晩飯ごちそうさまでした、とジャンは笑った。廊下を抜けて部屋を出て行く後ろ姿を眺めながら、いつの間にか私は呼吸するように泣いていた。



 大きな鐘の音が耳を貫いて、一気に飛び起きる。心臓がばくばくと激しい音を立てている。自分がどこにいるのか一瞬考えをめぐらし、すぐに辺りを見渡して血の気が引いた。まさかあのまま、寝てしまったなんて。調査兵団本部の鐘が一日に二度鳴った。一度目は遠征部隊の出発を告げるため、そして二度目は帰還を知らせるために。風が芝生と同じように私の心を煽いでいく。日はもう傾きかけていて、乗り合いの馬車を捕まえられる刻限が迫っていた。うまく働かない頭を抱えて丘を駆け下りていく。驚くべきことに身体は軽い。あんな非常識な場所で、どうやら私はとても安らかな昼寝をしてしまったようだ。あのひとの隣、ジャンのことを想っていた眠りのなか。ばかみたい。私はばかみたいに、贅沢ものだ。

 ようやく馬車が町に着いたころにはもう、美しい橙の色が空を染め上げている時分だった。いつも通りの街並みがひろがる、穏やかな夕暮れのなかを一人で歩く。市場を抜けるとき、行きつけの青果屋で声をかけられた。ちゃん、今晩のおかずにどうだい。気のいい店主が赤く熟れたトマトを差しだす。眩暈するほど真っ赤なトマトだ。またトマトソース、作ろうかな。茹でたじゃがいもを薄くスライスして、ソースをかけて食べよう。トマトの新鮮な匂いを嗅いでいるとどこからかちからが湧いてきた。なぜお墓に、供え物をするのか。それは食べることが、生きることだからなのだろう。
 トマトを詰めた大きな紙袋を抱えてなんとかアパートの階段をのぼりきったとき、さん、と名前を呼ばれた気がした。紙袋に視界を遮られあまり前を見ていなかった私は、どこから声がするのかすぐには分からなかった。紙袋をおろして、前を向く。部屋の扉の前にあらぬ人影があった。私はそのまま紙袋を床に落とした。ぼろ、ぼろ、とトマトがこぼれる。けれども二人とも、そんなものは全く見ていなかった。

「おかえりなさい」

 真剣な表情で何を物申すかと思えば、そんなこと。張りつめた空気がふわりとほどける。
 そこに立っていたのはジャンだった。
 彼はいつにも増して土埃だらけだったが、至って落ち着いた様子だった。生きるか死ぬかの戦いの直後とはとても思えない。何か成果があったのかもしれないと思うほど、むしろ晴れやかな表情を彼は宿していた。

「……それ、君が言う?」

 ジャンは少しきょとんと首を傾げてから、ああ、と言って目を見開いた。安堵を掠めた笑みがわずかにこぼれて、それからすっと、姿勢を正して。気取った様子で彼は改めて口をひらいた。

「ただいま、さん」

 一歩、彼が近づく。立ち尽くしたまま動けないでいる私に向かって歩いてくる。ジャンは誇らしげに、敬礼するように左胸に拳を当てた。そこには私が縫いつけた “自由の翼”が羽ばたいていた。

「俺、生きて帰ってきましたよ。……さんの願かけのおかげですね、きっと」

 違う、本当は願をかけなかったおかげだよ。うつらうつらと思い出していたあの日のことを、彼もまた忘れずに思い返していたことに奇妙な気恥ずかしさがこみあげた。同じ記憶を共有している。それだけのことで繋がれている。二人で生きるということに、果たして特別な決意や覚悟が必要なんだろうか。生きてしまっている。避けがたく生きてしまっている。それが全てなんじゃないだろうか。そんな確信がどこからか降りてくるように胸に宿った。
 転がったトマトを拾おうとしゃがみこんだら、予想外に足に力が入らなくなってそのまま膝から崩れ落ちた。ジャンはにわかに焦って跪き、大丈夫ですか、と言って私の両肩を掴んだ。あんな喧嘩別れみたいなことをしたのに、どうして彼はまたここに来たのだろう。何を考え、何を信じ、何を望んで、私に会いに来たの。分からない。俯いたままでいると、頭をやわく胸に押しつけられた。埃っぽさに咳きこみそうになる。咳きこみそうになれば、泣きそうになる。それでも必死にはくはくと乾いた口を動かしたら、泣いているよりももっとひどい息切れのような声が漏れた。

「一回帰ってきたくらいで、何よ」

 あのひとは何度も何度も帰ってきた。だけど最後は、挨拶もなしに遠くへ行ってしまったんだ。ジャンの腕が背中いっぱいに回る。背骨のあたりをゆるゆると上下にさすりながら、ジャンは私の耳元で不平を言う子どものような声を漏らした。

「……充分だろ、とりあえず。贅沢言わないでくださいよ」
「どうせ先にいなくなるくせに」
「それが俺の選んだ仕事ですから」
「……じゃあ、またあんな哀しい想いをしろって言うの、私に」
さん美人だから、またすぐ新しいひと見つかりますって」
「意味分かんない」

 ジャンの気休めにもならない、もっと言ってしまえば不謹慎でぶっきらぼうな屁理屈がしみていく。昼間に決めたことが、こんな乱暴な慰めのせいで日没とともにあっけなく溶けてしまった。所詮こんなものなのだろう、一人きりの束縛なんて。切り傷のついたジャンの頬に手を触れる。伝えたいことがある。どうしても伝えたいことがある。そんなとき言葉は自然と口をついて、川の流れのように切れ目なく遥かな場所へ行き着くものだった。

「……おかえりなさい。おかえりなさい、ジャン」

 頬にさす赤い色や手に伝わる温もりが、彼がここにいることを私に教えてくれる。彼は今日初めて、私のもとに帰ってきた。だから今日初めて私も、この言葉で彼を迎え入れることができる。私たちがようやくがんじがらめの過去だとか、哀しみだとか、ためらいだとかをひとまず振りほどいて、二人で動きだすために。
 ジャンは頬に添えられた私の手にじゃれつくように、目をちょっと細めてから唇をひらいた。無防備に緩んだ顔をして、出逢った日のように優しく眉を下げて。そうして彼はせっかく今しがた死線をくぐり抜けて生きながらえてきたばかりだというのに、なんともおかしなことを口にしたのだ。
 ただ一言。俺、腹が減って死にそうです、と。









THE END

2013.10