※現パロ(ドイツ人大学生と日本人留学生)





 正直で浅はかな行為にかまけて、君を想い続ける練習を怠った。気がつけば秘めることを忘れていた。君に触れなければ、何も分かりあうことなんかできない。そんなもどかしさを盾にできると思いこんだ。

 降りはじめの雨のような足どりで砂利だらけの浜辺を踏みしめていく。バカンスシーズンのとっくに過ぎたオストゼーは寒々しく、見渡す限りひとの気配はなかった。もっとも、破けたボロの金網に取り囲まれたこの海岸はひょっとすると立ち入り禁止区だったのかもしれないが。こんな枝や石ころだらけの砂浜、裸足で歩けばきっと怪我をしてしまうだろう。薄っぺらなパンプスを履いた彼女の足元が気にかかる。痛くないか、と小声で囁いたら、はふわりと顔を上げて苦笑した。身体じゅう痛いところだらけよ、と。
 狭い車内でおそろしく長い夜をやり過ごす方法なんてひとつしかなかった。無為なカーステレオを切って、二人で毛布にくるまり、闇を埋め合わすように夾雑物の一切ない無音のセックスをした。は一言も言葉を発しなかったし、俺の動きに合わせてときおりか細く呻くだけだったから、きっと気持ち良くもなんともなかったのだと思う。それでも俺にとっては人生最高のセックスだった。生まれて初めて他人に受け入れられた気がした。なんて、安っぽくて女々しいことこの上ない。それでも紛れもなくこれが自分なのだと、自分自身もまた、初めてそんな自分を正面から受け入れられたのだ。

「……連れ出してごめんな」

 そう言うのがやっとだった。は風になびく黒髪を手でおさえながら、ゆっくりと首を横に振った。彼女の黒髪を見ていると、ときどき胸が締めつけられるような懐かしさがこみあげてくることがある。どこかで会ったことありませんか、と初めてに会ったときに俺はなんともとんちんかんなことを尋ねた。今でも酒の席なんかでたまにこのときのことを引き合いにだされ、新手のナンパかと思ったわ、と彼女にからかわれることがある。

「あやまらないで。わたしが教えてほしかったんだから」

 あまりに風が頻繁に吹くので、はとうとう髪をなびくにまかせ、かわりにその冷たい手で俺の人差し指と中指を握った。何をそう熱心にまなざしているのだろう。アウトバーンの青々とした平原風景も、いまここにひろがる曇天を映した水面も、彼女の凛とした横顔も、同じように単調でなぜだか不安を煽られる。まるで自分の輪郭が、ぼやけていくような不安を。

「あなたのこと。あなたの世界のこと。……あなたに溶けているすべてと、あなたの溶けだしたすべて」

 のドイツ語はまだ少したどたどしかったが、俺にとってはそのたどたどしさも慣れ親しんだ心地良さだった。は留学生だから、もうすぐ大学を卒業して母国に帰る。おぼつかない声のリズムだけをここに残して、向こうで許婚とやらと感動の再会を果たすのだ。許しがたく耐えがたいことだけれど、許すしかないし、耐えるしかない。地の果てまで彼女をさらうことなど俺にはとうていできないのだから。せいぜい中古のベンツに彼女を乗せて、ありがちなロードムービーの真似事をするくらいしか、俺には。

「俺がそんな大層な人間に見えるか」

 遠浅で水をかけあうように、俺たちはいつも意味のないじゃれあいみたいな会話ばかりしていた。だからいま、こんなふうに遥か沖のほうから必死に覚悟を集めてひとつひとつの言葉を発音していることが、とても危ういことのように感じられる。がようやく視線を上げて俺を見た。彼女の白目は少し赤みを帯びていて、いつも以上にはかなげな印象を胸にもたらした。単に寝不足なだけなのだろうと思うけれど、腫れぼったいその瞳の奥には確かに夜の残滓が揺らいでいた。

「それならジャンはわたしを女神か何かだと思っているの?」

 ――ヴィーナス。彼女の口がそう動いて、ドイツ語の正しい発音とは言いがたかったが、それだけははっきりと聞き取れた。何を突きつけられているのか理解する。結局、言葉はそう優秀な道具ではなかったのだと悟る。いつも言葉ではないものが言葉を伝えていた。言葉は絶えず遅れて訪れる。の疲労と熱に潤んだ瞳が、冷たく絡みつく指が、まごついた唇のモーションが、息が詰まるほどつぶさに彼女の思考そのものだった。

「……思ってるよ」

 空いていた行き場のない左手が奔放な黒髪に触れた。薄暗い午後の真下で、夜の名残を舐めあうように二人の唇が掠める。鼻先を擦らせながら覗きこむ彼女の目のなかに、俺はいなかった。きっと俺のなかにも彼女はもういないのだろう。この恋はとうの昔に、二人からまなざすことを奪っていたから。

「ばかなひと」

 心なし震えた声でそう言って、は一度だけすん、と鼻をすすった。俯く彼女のしおらしい仕草に、予感していたすべてが、予感などとうてい及ばないおごそかな感動と共に押し寄せてくる。ただ満ちていくだけで、どこにも引くあてなどなく。肺のなかを埋め尽くしていた潮の気配はまたたくまに彼女におかされて、世界の法則なんて簡単にくつがえされてしまう。
 の眼球をまあるく覆う水に、いま無遠慮にも舌を這わせれば、それはきっと甘く熱く、喉を焼き尽くす味をしているのだろう。









THE END

♪ スローバラード - RCサクセション