一人の兵士が気だるそうに壁に背をもたれて立っている。
 胸の前でゆるく腕を組んではいたけれど、それが調査兵団の兵士であるということは肩の紋章など見ずともすぐに分かった。老いも若きも調査兵という存在には、軽薄な非在の予感が絶えずつきまとっている。それはついこの間までこの街にはなかった、まったくの異物だ。彼らを靄のように覆っている悲壮感や緊張感は、のうのうと何の変哲もない日常を生きてきた者たちにとってはあまりにも不気味で近寄りがたい印象を抱かせる。不吉で、不穏で、店先になど立たれていたら客も寄りつかないような。もっとも彼自身が客だと言うのなら、姉さんたちなら「裸になった男に区別なんてあったものじゃない」と鼻で笑うのかもしれないが。

「うちに何か御用かしら」

 お使いを頼まれて仕立て屋から引き取ってきたドレスの包みを腕いっぱいに抱きかかえたまま、なんなら追い払えればいいというような尋ね方をした。兵士の伏せていた目が持ちあがる。ちらりとわたしを睨むと、すぐさま煙たそうに視線を逸らし、彼は小さく息を吐いた。その一連の仕草があまりにも怠惰で、やるせなく、わたしはその瞬間なぜか彼にうかつに声を掛けてしまった自分を恥じた。歳は同じか、少し年上くらいだろうか。無造作に後ろでひとつに束ねられた黒髪、あっさりとした一重まぶた、そばかすの散る浅黒い肌。あまりここらでは見かけない特徴的な容姿をしている。

「……上官の処理待ちしてるだけだ。構うな」

 盛りの野良猫が唸っているかのような声だった。思ったより高い音ではあったがひどく掠れていて、その一言で自分が威嚇されているのがよく分かる。軽く組んでいたロングブーツ履きの足先を解いて、彼は空を仰いだ。空といっても、薄汚い路地裏の上空は帯のように連なった背の高いアパートメントから出っ張る軒や物干し竿なんかに遮られ、やっと光が届く程度だ。真昼だというのにここはいつも仄暗い。露店や家々の明かりがともる宵のほうが、まだ賑やかな雰囲気があるというものだ。

「だったらあなたも遊んでいけばいいのに」

 トロストの街がこわれてしまってからというもの、カラネスのこのあたりには調査兵団の兵士たちがわんさと溢れるようになった。兵団本部の場所でも変わったのだろうか、詳しい事情はよく知らない。次の壁外調査はこの街の門を開けて行うらしいと駐屯兵団の兵士たちがぼやいていたのは、先日ちらりと耳にしたが。娼館の客はみんなお喋りだ。こんな小娘に何を漏らしたって垂れ流したって構いやしないと思っているのだろう。物心ついたころからわたしの生き場所はこの噂話の吹き溜まりだけで、親の顔も名前も知らぬまま、姉さんたちだけがわたしに生きる術を教えてくれた。ベッドの上であられもない声を出す姉さんたちの姿を覗き見て、幼心にわたしもいずれあんなふうに、男を騙してまんまを食べるようになるのだろうと思った。男をつかって、女を仕立てなくてはならない。そこらの道端には転がっていないような、わざとらしいほど自然な女に自分を作り上げるのだ。

「これでも仕事中なんでね」
「あら、上官のお守りってよほどのお仕事なのね」

 少し皮肉めいたことを口にした。兵士がこんな真っ昼間に仕事、なんて言っても説得力がまるでない。だって兵士ほど娼館に足繁く通っているものもないのだ。調査兵だろうときっと例外ではないだろう。現にこうしてこの名も知らぬ一兵卒は、勤務中だというにもかかわらずこんな場末の色街で待ちぼうけをくらっているじゃないか。
 捨て台詞のようにそれだけ言ってなかへと入ろうとしたら、目の前の影が揺らいでよろめくほどの力で手首を引っ張られた。びっくりして小さな悲鳴が漏れる。にやりと意地悪そうな笑みを湛えながら、その兵士は私の顔を、身体を、舐めるように眺めた。それはこんなところに暮していれば自ずと投げかけられる下卑た視線そのものだったけれども、女を懐柔する品のようなものをわずかに孕んでいるようにも思え、胸がざわりとそよいだ。

「アンタが相手してくれるんなら、入ってもいいが」

 手首を握りしめられた驚きをうまく呑み込めないでいるうちに、もう片方の腕で腰を抱き寄せられる。つい一分前にはとうてい思い及ぶことのなかった体勢に陥って、土埃の匂いと彼の体臭がつんと鼻を刺した。どうやらしらふの調査兵は泥酔の駐屯兵なんかの数倍タチが悪いみたいだ。こんなにもこの刹那の支配から、逃げることがかなわない。

「どうだ?」

 近づいてくる顔から遠ざかろうにも腰を引くこともできず、咄嗟に手に持っていた包みを兵服の胸に押しつけるようにして腕を突っぱねた。途端、渇いた嘲笑が浴びせられる。細い路地にからからと掠れた声がさみしく響き、彼の背を一人の老婆がのろのろと通り過ぎていった。なんの注意も払われないのは、こんな男女の絡みあいなどこの街では日常茶飯のことだからだ。

「おいおい、娼館の女が生娘みたいな反応してりゃ世話ねぇな」

 その細い躯体のどこにこんな強引な力が隠されているのだろう。あざが残ってしまうことを覚悟で渾身の力を腕にこめてその邪悪な手のひらを振り落とすと、ひゅう、とからかうように口笛を吹かれて頬がまたたくまに熱を帯びた。

「……お生憎様。わたしはまだ売りものじゃないわ」

 生娘みたい、じゃない。あと一週間、十七歳になるまで、わたしは正真正銘わたしだけのものだ。選ぶことも選ばれることもない。目の前の不躾な若兵士はようやく少しだけ瞼をもたげ、不意をつかれたような表情をした。それでもすぐにそんな動揺はうやむやに散って、腰に添えられた腕がまた一段と強くわたしを引き寄せた。冷たい三白眼から目を逸らせない。わたしが腕に大荷物を抱え込んでいなければ、とっくのとうに二人の鼻先は擦れ合っていただろう。

「男の匂いも嗅ぎ分けられねえ奴が、娼婦見習いか? 随分と平和なこった」

 何を言われたのかにわかには理解できなかった。匂いも何もない。屈強な筋肉でかためられた無駄などどこにもない引き締まった兵士の身体が、軽々とわたしを手籠めにする粗野な行為のひとつひとつが、異性の刻印ではなくして一体なんだというのだろうか。胸騒ぎがうるさく全身を支配する。それとも調査兵というものはどんな性を生まれ持っていようとも、たったひとつの型にはめられ、たったひとつの殺戮という目的のため、たったひとつのかたちに向かって仕立て上げられてしまうものなのだろうか?

「……それ、どういう、」
「どういう意味だろうな」

 ――ユミル、何をしているんだ。

 背後から野太い声が飛んできて、腰に回されていた腕が唐突にすっとほどかれた。身体の芯がぐらついている。つい数分前まで自分の足でまっすぐ歩いていたのに、こうして無理やりにでも自分のものではない腕に抱きとめられてしまえば、わたしはもうわたしの足の支えだけでは不安定な生きものになってしまうのだ。こうやって容易く作り変えられていく。女を仕立て上げるのに必要なのは男なぞではないのだと知る。あなたがどこの誰であろうと、あなたと交わしたたったこれっぽっちのことで、わたしはもうわたしのかたちを忘れかけているのだから。
 ユミル、と呼ばれたそのひとは、上官と思しき兵士を汚いものでも見るような眼で一瞥すると素早くわたしの耳元に唇を寄せた。今しがた館から出てきた男の胸元には見慣れた薔薇の紋章が縫い付けられている。手伝いにでも借り出されていたのだろうか。ユミル。それがあなたの名前なの。ユミル。声にならない声で反芻した。希薄なあなたの存在を、少しでも確かなものにするために。

「……生き延びて帰ってきたら教えてやるよ。それまで誰にも手ェつけさせるんじゃねえぞ」

 急転直下、左耳から左胸へとするりと落ちていく。ユミルの、彼女のなまめかしい声の波。どこまでがほんとうで、どこまでがまやかしなのか。わけもわからずに、それでもわたしは愚鈍にも息を詰まらせて、彼女をかりそめに喜ばせてしまう。ばかな生娘。内側をかきむしられることもなく、遠ざかる背中を見つめるだけであなたのかたちを覚えていく。









THE END