吉祥寺の駅を出て高架下を抜け、向かいの大通りのスクランブル交差点を渡れば、五分もせずそのマンションには辿り着ける。最初はこんな簡単な道でも間違えないかとびくびくしながら通っていたけど、今では反対の出口にある商店街で買い出しをしたあと桜並木に寄り道する余裕まで出てきた。月日が経つのって、本当に残酷なほど早い。吹き荒れる春風が桜を散らして夜道を彩る。世界は騒がしいのに、私には何も無い。その桜とじゃれるように、伸び散らかした髪は風に踊り、春宵の中へと溶け込んでゆく。
 夜桜に見惚れて立ち止まっていたらうっかり風邪を引きそうになって、可愛げのないくしゃみが三回続いたけどよくよく考えたら花粉の所為なのかも知れない。慌ててまた足を動かすと、手に提げたビニール袋ががさがさと音を立てた。この延々と続くコンクリートの道も、私にとっては物心着いたときから当たり前に在る当たり前の風景だけど、彼にとっては必ずしもそうじゃないんだろう。考えれば考えるほど深く傷付いてゆく溝に、いつぞや落ちていくとも分からない自分の不確かさを思った。

(今日もエイジはあの机に向かって呼吸をしている。)



 エレベーターのドアが開き、一歩踏み出すと地上よりももっと強い風がブレザーに吹きつけた。一瞬大きく膨らんだスカートを押さえようにも両手がふさがってしまっていて仕草はぎこちない。七階の角部屋からのオーディオの音漏れは今日も耳に煩かった。たまたま隣が空き部屋だったから良かったものの、日も落ちたしそろそろヘッドフォンに切り替えてもらいたいところだと思う。ドアはもしかしたら開いているかも知れないと思ったけど、それでもノブに手を掛けたりはしない。代わりに携帯を鳴らしてみるとすぐさまオーディオの音が消え、どたどたしい足音が突進してきた。来る、と思って一歩下がる。重たいドアが一気に開かれる。やっぱり鍵は閉まってなかった。

「お疲れ」

 独特の強い眼光に蹴落とされ、もう一歩下がりたくなる気持ちをなんとか踏み留める。久しぶりに見たエイジは別段変わった様子もなく、「お疲れ」とは社交辞令でさして疲れた様子でもなかった。何か口を開きかけた彼を遮って目の前に持ってきた袋を掲げて見せる。するとエイジの肩がぴくりと飛び上がって、首元に差し込んであった羽根ぼうきが二本ばらばらと床に落ちていった。

「食糧援助、と一週間分のプリント」

 彼の仕事に関してはずっと漫画誌の熱心な読者ではなかった私には分からないことも多かったのだけど、とりあえず連載というものが始まってからのエイジは常に忙しそうにしていた(エイジは「これでも僕はヨユーなほうです」と言う)。彼の生まれ持った性格では、その忙しさに加えてまともに学校に通学するなんてことは、ほとほと意味なきノルマに思えるのだろう。高三になって一週間、彼はまだ一度も制服を着ていない。

「こんなに!」

 羽根ぼうきが一本また彼の首筋から零れ落ちてゆく。左手で差し出したスーパーの袋と右手で差し出した紙袋を、彼は少し焦った様子で同時に受け取った。

「確かにカップ麺買いすぎちゃったけど……、あ、新学期はプリントも多いよね」
「お、お、重かったです?」
「重かったです」

 乗り移った口調が少し可笑しい。だけどなんだか全体的に笑う空気じゃなかった。どうしたってお互い緊張しているのだと思う。ずっと会わないと思ったら、いきなりこんな至近距離で話してる。ほら、物凄く空腹のときっていきなり食べてもお腹が痛くなるだけじゃん。私とエイジの場合ずっとそんな感じの関係で、いい加減身体には悪いと思うんだけどね。玄関先にしゃがみ込みスーパーの袋の中身をひっくり返し始めたエイジをちらりと見遣る。新製品のチョコレートを見つけて目を輝かし、一方でプリントの入った袋には興味ゼロと言ったところ。いつも通り大きめの黒のスウェット姿、いつも通り少しぼさぼさで、でも毛並みの良い猫のような柔らかな茶色い髪。これぞ東北育ちと言いたくなるきめ細やかな肌に、不健康そうななで肩。そして骨ばった長い指と大きな手のひら。無から有を生み出す手のひら。綺麗な形の爪が短く切りそろえられ、ちょこんと鎮座しているのがどことなく愛らしかった。でもきっとこの手のひらの価値は、そんな可愛いものじゃないんだ。

「来週修学旅行なんだけど、お土産八ツ橋と漬け物どっちがいいかな」

 落ちている羽根ぼうきを拾うついでに彼の隣へと腰を下ろしながら、当たり障りの無いどうでもいいことを尋ねてみた。エイジの眼球がぐるりと動いてただ私だけを目的に見詰め返してくる。その純真無垢な表情(少なくても私にはそう見える)を見ていると、言いたいことも言えないままでいる自分がとても狡い人間のように思えた。

「やつはしって食べ物です? 食べたこと無いですそれ食べてみたいです」
「ん。りょーかい」

 拾った三本の羽根ぼうきをじっと見て、それからエイジに向き直ると彼は少しきょとんとしていた。一本だけだらしなく彼の襟口に残っている羽根ぼうきの横に、そっと落ちた羽根ぼうきを元あったように差し込んでみる。エイジの丸い眼がますます丸くなった。一本、また一本。指先に彼の髪と皮膚の感触がほんの僅かに伝わる。それがすごく気持ち良い。修学旅行なんて行ったら確実に惚れた腫れたの話になる。そしたら私なんて言えばいいんだろう。くだらない悩みだとは分かっていても、私みたいに居場所が学校しかないような普通の高校生はこういうことで悩むしかないのよ。ねえ、「私たち付き合ってるの?」――そうやって聞くことだけがどうしても出来ない。だって縛ったり掴んだりしたら、実体がないことを証明してしまいそうだった。真実なんて怖いに決まってる。
 最後の一本を首筋に戻そうとしたとき、その手をエイジはそっと遮った。私の手のひらを、彼の神聖な手のひらが包み込むようにする。男の子の手。私とは違う手。熱いものが込み上げるのを無理やりに抑えたらどうしてだか笑顔になれるような気がして、私たちはようやく二人でにこやかに笑うことが出来た。小さくしゃがみ込んだまま、花冷えする玄関で。

「……今日、福田さんも中井さんも来ません」
「そう」
「あがって行くですか」

 エイジの手が羽根を奪って離れてく。普通の男の子みたいな誘い文句を彼が口にするのはどことなく窮屈で、不似合いなのが逆にどきりとした。

「んーん、遠慮しとく。この前みたいにいきなり襲われたら嫌だし」

 肩をすくめて茶化して言ったつもりだったけど、彼を上目にちらりと盗み見るとその頬は微かなピンク色を帯びていた。散りたての桜の花びらみたいに上品にはかなく。だけど眉は寂しげに下がった。口は真一文字に結ばれてしまった。私はこれ以上掛ける言葉を見つけられない。

 あの時だっていつも通り洗い物を片付けていつも通り床の掃除をしていただけだったのに、彼がトイレに席を立っている間に私は何故か一度も興味を持つことがなかった(もしかしたら無意識に持たないようにしていた)彼の仕事机に吸い寄せられるように近付いてしまった。その日も今日みたいにアシスタントさんも担当さんも来ない夜だった。そこには何本もの羽根ぼうきは勿論、名前の分からぬ幾種類もの奇妙なペンが空き缶の中に無造作に立てられ、インクの染みた紙屑に縁取られるように描き途中であろう原稿が置かれていた。

 私は決して原稿に手を触れようと思ったわけじゃなかった。ただ掃除のついでに机上に溜まった消しゴムカスを払おうと、ペン立てにささっていた黒い羽根ぼうきに手を伸ばそうとしただけだった。けどそれは出来なかった。彼の指が、彼の手が、後ろから伸びてきて。私を突き飛ばした。いや、突き飛ばそうとしたわけじゃない。私が勝手に倒れたのだ。その突然の強い力に抗えなかった。床にしりもちをついたまま見上げたエイジの瞳は、私よりもずっと動揺しているように見えた。自分が何をしたのか分からない。咄嗟のことに自分を制御する術が分からない。その震える瞳の色を捉えながら、私は絶対に踏み入ることの出来ない、否、踏み入るべきではない彼の領域というものを悟った。そのまま彼は足早に近寄ってきて私の傍にしゃがみ込んだ。その間ずっと無表情だった。彼の右手は、私の頬を静かにさすった。そしてどうしてだか全く分からないけど、エイジは一言も言わずに何の前触れも無く、私の唇にキスを落としたのだ。……

、僕のこと嫌いになったですか」

 きっと同じことを思い出していた沈黙を破り、エイジの声が響いた。私が寂しいようにエイジも寂しいってこと。私が不安なようにエイジも不安だってこと。二人してブルーの底で息が詰まる。こんなものなのかな。これでいいのかな。唇に触れた初めての感触よりも、物凄い勢いで私をあの机から引き離した彼の手のひらの斥力が心を奪う。それでもいいのかな。何もかも未だ、頷けない。

「そうなれたら楽なんだけどね」

 立ち上がってスカートをはたくとどこからともなく花弁が一枚落ちてきた。それはなぜだか満開の夜桜よりも美しく、切実に胸を刺した。あなたの頬の正直な色を乗せて、あなたの存在の清新な輝きが零れる。季節は何も言わずに教えてくれる。沈んでばかりもいられないと。さあ、何が悲しくても、恥ずかしくても、今日は帰りにコンビニでジャンプを買わなきゃ。それでアンケートの三つの番号欄に全てエイジの番号を埋めて送ってやるんだ。今の私に出来ることは、きっと大したことじゃないのだけれど。春宵の中に溶け込んだまま消えてしまわぬよう、自分自身の存在を示すために。









THE END