この部屋には急須というものがないから、電気ケトルで沸かした熱湯を、そのまま茶葉のパックを落としたマグカップに注いでお茶を淹れる。マグカップはグッズなのかなんなのか、彼の連載する漫画「CROW」のロゴとキャラクターが描かれていてやけにポップで賑やかだ。湯呑みもないんじゃ、せっかくの京都土産も格好がつかないなあ。箱の中に黄色と緑の皮を交互にして美しく並べられた生八つ橋は、みるみるうちに彼の胃の中に収まっていく。豪快な食べっぷりはいつも変わらない。漫画を描くというのは、それほどの大仕事だということだろうか。
 鼻の奥にシナモンのきつい匂いが巡り、舌の上にはお湯と大差ない安っぽいお茶の味が廻る。京都では大方もうしだれ桜くらいしか残っていなかったけど、帰ってきたら東京の桜も随分と葉をつけていて、たった数日間の時の流れをとても残酷だと感じた。それにしても今年の桜は往生際が悪いようで、やたらにだらだらと長生きだ。散るのが怖いのかもしれない。新しい季節の為に、犠牲になるのが。

 彼がいつも食事を取るこの部屋は、本来打ち合わせ用の別室みたいなものらしい。正方形の低いテーブルを囲む皮張りの豪華なソファ、壁際には積み重なった紙類、開けたまま放置されたリンゴの箱。なんでもかんでも荷物の詰め込みすぎで、床の面積は本来の二分の一くらいになっているような気がする。たまに帰りしなにリンゴを持って行ってほしいと頼まれるけど、段ボールの底のほうのリンゴは大抵腐らせてしまっているようだった。エイジは見ての通りの雑食で、食べ物であれば好き嫌いもなくなんでもよく食べたけど、リンゴだけが例外だった。「見たくもないです」とさえ言ったこともあったのだ。そういうものかなあ。

(どうして敬語で喋るの)(訛るからです)(訛る?)(そうです。訛りです。分かってもらえないの、悲しいですから)

 上京したての彼はそれでもなお窮屈そうで、そしてその窮屈さを紛らわすように口早に言葉を紡いでいるようにも見えた。堅苦しいブレザーはなで肩の彼には似合わない。真四角の教室も、学校も、本当は私だってその構成要素のひとつに過ぎないのだから。きっときっと釣り合わない。釣り合うはずもない。そう心の隅っこで思いながらも、私は彼の言う「悲しい」という気持ちがなんとなく分かるような気がして傍に居た。たったそれだけのことを打ち明けてくれたということが、とてつもなく大きな秘密を共有しているような高揚感を私にもたらしたのだ。まるでヒヨコみたいだなあと思う。初めて認識したものを母だと思い込むような純朴で愚かな勘違い。もう離れられないような気がするって、そう思ってしまうから余計に躍起になる。失いたくないのは彼自身なのか、自分自身なのか、その間にはからずも生まれてしまった新たな“卵”そのものなのか。それを知ることはもう出来ないのだけれど。

「京都の大仏、大きかったです?」

 学校行事のことなんてさして興味もないくせに、沈黙を嫌うようにエイジは問いかける。目を伏せたままの早口。彼の喋り方。ほんの少し人付き合いが苦手なだけで、ほんの少し人混みが嫌いなだけで、どうしてこんなに世界は歪んでしまうのだろうね。みんな違ってみんな良い、なんて言うけれど、結局は誰しもおどおどと足並みを揃えようとしてる。制服も、宿題も、進路も、修学旅行もくだらないと思いながら。だけど私の孤独には、あなたのような鮮やかさはなくて。

「……大仏は奈良だよ」

 マグカップに口をつけて、怠惰な熱を取り込んで。八つ橋の味も大仏の居場所も知らない男の子が、あんな壮大な物語を作ってしまえる。たくさんのキャラクターを動かして、胸を動かす言葉を紡げる。才能ってこわいもの。どこからともなくやって来て、ひとの運命を束縛するもの。だけど私はそれが欲しかったのかもしれない。縛られてしまいたかったのかもしれない。持てる者の苦しみなんて、持たざる者には贅沢な悩みにしか思えない。そんな邪悪で身勝手な気持ちがまだ、心の奥底にはこびりついていて。

「ねぇ、エイジ」

 テーブルの端には一冊のスケッチブックと数本の鉛筆が乱雑に置かれたままだった。連載の次の話でも考えていたのか、それともただの落書きか。スケッチブックの一枚目に描かれていた奇想天外なモンスターたちは、午後五時のオレンジの陽射しに照らされて、今にも動き出しそうな躍動感に満ちていた。止まっているのに動いているみたい。私とはまるで、正反対だ。

「私のこと描いてみて」

 八ツ橋を食べ続けていた手が止まった。ようやくほんの少し視線が交わるけど、それすら火のようで痛い。おそろしく静かな夕暮れ。時計の秒針の音だけの世界。たったこれだけのことで胸も肺も潰れそうになるのに、当たり前のように今、二人きりで居るなんて。シナモンにまみれたエイジの半開きの唇は、だらしないのに思慮深い。精緻なひとつひとつの動作が私に向けられている。漫画じゃなくて、たった一人の私に。喜べばいいのか悲しめばいいのか分からない。あるいは、これは私の今まで知らなかった感情なのかもしれない。テーブルの上のエイジの右手がぐっと小さく拳を作った。彼の内側の「ぐしゃぐしゃ」が、伝わってくるような気がした。そこにも、知らなかった感情が流れていますか。嵐のように、台風のように、またたく鮮烈なスピードで。

「……を描くのはもったいないです。本物が一番です」

 雑巾を固く絞るみたいに声を生んで、自分で自分の言葉に深く心臓を抉られているみたいに彼は話した。あのときの腕の力をまた思い出す。私と漫画を引き離し、交わることの無いように遠ざける力を。

「一番なに、よ」

 ふっとエイジは顔を上げて、狼狽した表情のまま私の手を引っ張った。唇と同じようにシナモンにまみれたその手のひらが、私の制服の袖口を汚す。誰一人として彼の机には近付けないのだとして、誰一人として彼の心を撫ぜることは出来ないのだとして。そしてエイジ自身がそれを望んでいるのだとして。それでももし彼が寂しさに負けたときに、私をほんのちょっとでも必要としているのなら。そんな些細なことで満たされてしまいそうになる一瞬に、私はきっと抗う術を知らないだろう。男の子の腕力でぐいと引き寄せて、女の子のか弱さでその我侭に甘んじて、紙一重の茶番にだって“恋”の一文字を与えてしまう私たち。でも、それでいいじゃないか。二人で水底に沈んでいるよりか、ずっと、ずっと。

「一番、」

 柔らかく手と手をつないだまま、私はゆっくりとエイジの腕の中へ引きこまれた。シナモンの匂いが思考に絡まっていく。頑なな心に沁み込んでいく。そうしておずおずと耳朶にふれた彼の声は、確かにスケッチブックには収まりきらない営みを乗せているようだった。

「一番、好きです」

(どんなに悪あがきをしていたって、今年の桜もじきに散るだろう。終わらないものはないんだ。大人気の彼の漫画にだって、いつか必ず終わりがやってくる。終わるために始まるのか。終わることは悲しいことなの? それは始めた者の特権なのに……。)

 粉まみれの幼い唇で紡がれた、これ以上ないシンプルな愛の告白は、決して涙を誘うものでも頬を火照らすものでも無かった。間抜けでたどたどしくて、美しくもはかなくもない。
 でも、だからこそこの春は貴いのだと思うことにしよう。始まりはいつも、終わりよりもあっけないものなのだから。









THE END