ブラックコーヒーの苦みが舌に響かない。もうここでどれくらいこうしているだろう。頭ではたった数分だと分かっていてもトチ狂った感覚器官は信用し難い情報を俺に与え続けている。おのおの別々に昼飯を食って僅かな休息時間の残りをここで潰しているだけなのに、密会だなんて思ったら少々大げさか。大げさだな。止めよう。無駄に広い会議室をふと見渡してみるも殺風景な景色に変わりはない。仕方なく収穫のないまま手にしていた文庫本に視線を戻す、さっきからその繰り返しだ。活字など入ってこない。つまらない文章書きやがって。仕事柄読まねばならない膨大な量の書物・漫画・雑誌すべてが時折酷く疎ましかった。冷め続けるコーヒー、紙コップのふにゃりとした手触り、それだけでもうこの時間を想起してしまう自分が居る。たとえデスクに向かっている時でも。会議中でも。平丸の前でも。家でも。

「吉田さん見て」

 となりから腕を小突かれ、あれよと言う間に文庫本をも取り上げられて、そうして行き場のなくなった視線はもちろんに回収されてしまった。化粧っけのない小さな顔。零れる笑みは悪戯で、二十代半ばだというのに「あどけない」と称したくなる幼さを湛えている。

「ラッコ描いた」

 ベージュに塗られた丸い爪でそっと差し出されたのは手のひら大のメモ用紙だった。熱心にもくもくと何かしているなと思えばこんな落書きに一体何分費やしていたというのか。そこにちんまり描かれていたのは「ラッコ11号」の主人公のイラストだった。顔だけラッコであとは人間の、世にも奇妙な屁理屈ラッコ人間。顔に心血注ぎすぎたのか胴体が適当でまさに尻すぼみというような様相を呈している。

「……相変わらず下手だな」
「え? そうかなー」

 頑張ったのに、と口を尖らせる。だから頑張ったのが顔だけだから下手なんだって。そう言ってあしらえばじゃあ描いて見せてよ、とは大人げなくも少しの駄々をこねた。手渡されたペンには隣り合わせの温もりが残っていて、たったそれだけのことを心に留めてしまっている自分を腹立たしく思う。別に担当しているからって上手く描けるわけじゃなしに、平丸にしか本物は描けないだろ。まああいつだってそんなに上手いわけじゃないけど。とはいえ毎週毎週いやというほど見ているキャラクターはさすがにすらすらとペン先から溢れてきた。すると、その絵を覗き込むようにしてが顔を寄せてくる。奔放に関係性を崩そうとしてくるその距離にも今はもう慣れた。そうして見上げてくる瞳がいつの日か何かを試すように輝きだそうとも、日常の中に昇華した。

 眼が合っても、唇が合わさっても、今更恥ずかしいなどと思えるわけでもなかった。ロマンスの欠片もないし、ここに物語が生まれる要素はまるでない。無感情な表情は、単にしかるべき感情が見つからないから。空調の音がうるさく感じてしまうくらいに音らしい音もなく、心臓が高鳴ることも決してない。乾いた唇に不躾な親指を這わしてみる。半開きのその口は、ほんの少し触れただけで、その柔らかさを感じ取っただけで、なんとも意地の悪い笑みを零した。ああでも不思議と憎めない。子供なんだ、まだどこかで彼女は。子供という束縛のカードをは未だにしたたかに持っていて、罪の意識を俺の内在にちらつかせては遊んでいる。ほら、ババ引いた、って口角を釣り上げながら。

「……今の指は浮気だなあ」
「お前だって浮気だろ」

 本当に、嫌味な言い方を知っている女だ。その鋭い邪気が無邪気なナリをした唇から溢れると、背骨を指でなぞられているような危険なむずがゆさが走った。

 大学時代からの腐れ縁で、とあいつに紹介されたのは確かあいつが入社した年の新社員歓迎会の席か何かだったような気がする。少年漫画誌の編集部は勿論のこと野郎ばかりだ。二次会か三次会の席で誰かが女子を呼ぼう、とでも提案したのだろう。こういう下世話な流れは、よくあることなのだ。別に珍しいことじゃない。そしてこの女は深い時間に突然だったのにも関わらず軽快なフットワークでやって来た。あいつが呼び出したからなのかも知れない。きっとそうだろう。それはやがて簡単に確信へと変わっていった。特に美人なわけでもないし、愛嬌があるわけでもない。すぐに記憶の絶壁からぽろぽろと零れ谷底へ消えてなくなるような存在の筈が、今更になって吐き気のするくらい鮮やかな色彩を帯びてきている。それは誰のせいでも何のせいでもない。全てが自然で、自然の中に、何故かまたとない異常が生まれた。それが今日まで続いている。軌道修正は不可能。原因など無いから。二人が二人で居るということは、空間いっぱいを主観が埋めつくすことでもあったし、同時に凍てつくような冷たい客観に支配されることでもあった。表面を覆う熱が絶対に伝わらない芯の部分で、不必要なほど正確にこの状況を把握している。頭痛がした。知りすぎていることほど、痛ましいことはない。だから大人なんて、たいして誇れるものじゃない。なってしまった。全てそれだけのことだ。

「吉田さんもっとお洒落しなよ。せっかくスーツ着なくていい職種なんだから」

 彼女の両手が伸びてきて、羽織っていたシャツの襟を乱暴に摘まれる。その両腕に囲われた空間はぐっと小さくなって、だだっ広い会議室に居ることを忘れてしまう。もちろん忘れると同時に、そのことを確実に意識している自分も居る。何をしようとももう夢中にはなれない。「邪魔だ」と、呟くように言った。無理やりに合わされた眼の中に表情を忘れた自分が居る。は少しも怯む様子もなく、逆にもっと身体ごと近付いて、笑いを含んだ声で「邪魔してるの」と返してきた。心底生意気だ。一瞬言葉を失ってしまうほどに。ちょうど心臓のあたりに彼女の頭の重みと温もりがある。命を、同じ時を生きているということを、確かめるかのように、その熱は重たい。頬を擦り寄せて甘ったるく見返りをねだる仕草は、構ってもらいたい盛りの猫のようだ。誰でもいいのかよ。口を突きそうだったが声には出さなかった。それは意味のない問いだと思うから。細い肩を手のひらに抱き、そのまま背中を撫でると、シャツに埋まったままのは静かに生温かな息を吐いた。胸が熱い。触れたら止まらない。性の悩ましさが絶えず二人をつないでいるから。黒髪の隙間に覗く色白なうなじは、決して子供のものでは、なく。

「……ねぇ、結婚ってどんな感じ?」
「……すりゃあ分かるよ」
「してくれるかな」
「してくれるよ」

 あやすように手のひらをリズム良く上下させ、優しく背中を叩く。傷付いてもぐずってもいない人間を「あやす」だなんて変な話だな。もうすぐ短い休息が終わる。二人は素知らぬ顔をして別々の世界に戻ってゆく。だけれどその実は、仮初めの熱を欲し合う同士なのだ。まるで机の下で人知れず小指をつなぐかのように、世界中が二人から視線を逸らした刹那、孤独の中で密やかに見詰め合う。終わらない無為の遊びを、この一瞬を、二人は確かに欲している。
 大人なんてものは、子供の我侭には必ず負けるのだ。意味のない口約束みたいな、ただ時が過ぎたような。「大人」も「子供」も今この状況も。――なってしまった。全てそれだけのことだ。









THE END