カーテンの割れた隙間からあふれる陽射しがベッドサイドに散乱する雑誌を照らし出している。私はその気だるい様を彼の寝顔の向こうに捉えながら、薄ぼんやりとした頭を動かしてさっきまで見ていた夢のことを思い出そうとしている。目覚めてしまった今となってはただ切ないようなもやもやした余韻しか残らず、浮かぶのは断片的な所作や脈絡のない言葉ばかり。物語の意図は見えてこない。それは初恋の夢だった。初恋の人の夢だった。どうしてあんな昔の人が出てきてしまうんだろう、と自分の深層心理におののきつつも、そういう経験は別段初めてでもない。むしろよくある。まるで自分の中の憶病な自分が、思い出を忘れることに怯えているかのように、混濁した記憶に束の間の鮮やかな色を塗りたくってしまうのだ。

 枕元の目覚まし時計は日曜日の午前九時を示していた。隣で小さな寝息を立てている雄二郎の存外に幼い顔は、休日の朝の安堵に満ち溢れている。ダークグレイの掛け布団からはみ出す白い肩も二の腕も、なんとも無防備な半開きの口も、なぜだか吸い込まれていきそうな仄かな色香を放っているように思えて仕方ない。だけどきっとそれは私がこの男のことを、誰よりもなお慈しんでいる証拠みたいなものなんだろう。

 たまの休みにたっぷりと眠ることの至上の喜びを知らない人は居ない。ましてや多忙な人だ。細心の注意を払いながら少しだけ布団から這い出し、雑誌の海のてっぺんに放ってあった明日発売のジャンプの見本本を手に取る。そしてまた布団を静かにかぶり直した。キャミソール一枚ではまだまだ肌寒いから。表紙は彼が担当している子の漫画だった。感化されやすい私はもうすっかりジャンプ読者の一人だ。むしろマガジンもサンデーも読んでいる。この部屋に来ればなんでもあった。漫画も、雑誌も、本も、CDも、DVDも、全部。彼の広域な趣味の中に埋まるのが、大好きだった。

「……お前どれがいちばん好き?」

 枕の上に目当ての漫画を開いていよいよ読もうとしたとき、掠れた低音が静かに呟いた。胸が高鳴る。慌てて隣に寝そべるその人を見遣ると、案の定、目を覚ました雄二郎が私のことをとろとろした表情で見上げていた。起こした? と問うと、小さく首を振られる。やわらかい茶色の髪をがしがしと掻きながら彼は小さく欠伸した。

「ラッコから読むんだ」

 眼をこすってにやり顔。そうして肩まで掛け布団の中にもぞもぞと潜ると、雄二郎は身体を起こさぬままゆっくりと近付き腰に腕を回してきた。右腕に彼の髪の毛が触れてくすぐったい。そっか、「そういう」雄二郎なのね。寝起きの人の重たさが身体中に伝染してゆく。きっともう少し覚醒しだしたら朝ごはんをねだられるんだろう。やれやれと思いつつまんざらでもない私は、昨晩見た彼の冷蔵庫の中身をふと頭の隅で思い浮かべた。

「だって面白いじゃん。単行本のオマケページも楽しいよ」
「ふうん」

 日曜日の淡い光の充満した部屋でほぼ裸の男女がベッドの中で語らう話題としてはちょっと相応しくない気もするけど、私たちはよくこうやって情緒も何もない漫画の話や二人の仕事の話をした。雄二郎の話は大体いい加減だし大げさで、でもだからこそ私には楽しくて、瑞々しいものだったのだ。その中でも担当している作家さんの話はやっぱり多くて、編集者として常時二、三十人くらいの新人を抱えているらしいんだけど、とにかく二十代も終わりに差し掛かると若い子とのコミュニケーションにはだいぶ苦労を要するとのこと。でも少年誌の編集なんだし少年の心は忘れちゃいけないよ。私の右腕を押しのけて鎖骨に頭を寄せてくる雄二郎は、悪い大人だしダメな男だ。目覚めてすぐにこれだもの。少年の心など一ミリも残していないように思える。彼に言わせれば「男なんて大人も子供もスケベなことし考えてねーよ」ってことなんだけどさ、その価値観が既にずれている気もするんだけどね。
 白い壁に囲まれた日当たりの良い部屋。CDラックに収まり切らない洋楽の新譜がパソコンデスクの端に積まれている。藍色のソファとテレビの前には幾種ものゲーム機、開けっぱなしのDVDケース。昨日観た良質の映画、それもまた彼の一部だ。

「あ、また悪口書いてる」

 密着してくる雄二郎の体温から逃れるように左手で巻末ページを捲った。今週も平丸先生のコメントは鬱々しく、どこか殺気立っているなあ、作風と同じだなあなんて思いながら。たった数十文字にも人間性がほんのり滲んで面白い。今や完全にダルさはあれど眠気はなくなっているはずなのに、雄二郎は寝惚けた人間の特権とばかりに私の抵抗を軽々と無視しまくっていた。こっちの言ったことなんて聞いちゃいない。寝癖というより起き癖が悪いのかしら。いやいや違う、これは意図的な悪ふざけだもの。必死に平静を装ってもすぐに理性の船は転覆し、耳朶を甘く噛まれ無理やりに舌先を耳の中に突っ込まれれば、思わず不必要な息が漏れた。うーん、不覚。それにしたってやりすぎよ。

「ねー吉田さんってどんな人?」

 言い終わるか終らないかのうちにジャンプを強制的に閉じられてしまった。後で読めばいいじゃん、ってことか。横暴というか大人げないよ。ジャンプ漫画の主人公には絶対なれない性格だと思う。そういえば私、こういうタイプの人を好きになったのって初めてかも知れない。さっき夢に出てきた初恋の人だって、前に付き合っていた人だって、どちらかと言うと甘えさせてくれる人だったような気がする。やっぱり大好きな人には、甘えたいじゃん。

「だーめ、教えない」
「えー、ケチ」
「なあちゃんと構って、ちゃん」

 他の男の名前なんて出すなよ。図ったみたいに耳元で生温かな息を吐いて。裸の肩がぶつかり合って全身に張る糸が一気に弛緩する。形勢逆転、仰向けに寝かされ、雄二郎の指は簡単にキャミソールの裾をたくし上げてしまった。こういう時だけ取ってつけたような「ちゃん」付けをするなんて気味が悪いし調子が良すぎる。それなのに、それなのに。汗ばんだ肌のしっとりとした感触が、雄二郎の匂いが、気配が。私の下着を少しずつ濡らしてしまう。「つもり」なんて全くないのに!こんな朝っぱらから、なんか、涙出そう。だって分かっちゃうし。大好きな人には甘えたいんだよ。私たち、同じなの。波長が合う。リンクする。ダメなところも弱いところも狡いところも見えちゃって、見せてくれて、そんな些細なことが泣けてしまうくらいに嬉しくて。これも拙いながら年を重ねたということなのか、数年前の私には受け止められなかっただろう大きさの「面倒ごと」や「わがまま」が朝露のように新鮮で、すっと胸を潤して滑っていく。沁み込んでいく。

 圧し掛かる幸福は、緩慢に私の唇を呑み込んで、長い睫毛を可愛らしく伏せた。こうなってしまったらもう拒むことなど出来ない、私にとって中毒みたいな人だから。初恋なんてほんとうは今更どうでもよかったんだ。ヤケクソに塗りたくったペンキが剥げ落ちる。この思い出と引き換えに今があるなら、それが薔薇色の人生。この痩せ我慢を神妙な事実に変えてみせてよ。もしもあなたが私の、最後の人だと言うのなら。

「愛してるよ」

 その真昼の彼の囁きは、真夜中に私が息も絶え絶え発した、「死んじゃう」なんていうつまんない嬌声ととても良く似ていると思った。同じ一直線の上、愛も死も大それた覚悟を軽口叩き、撫でて、探って、抉じ開ける。ひととおりの戯れを終えたら、遅い今日を始めよう。砂糖衣のコーンフレークを真白のミルクに浸して、甘くふやけたブランチを。









THE END