女って、コワイ。
 そんなふうに至極情けない、愚かな言葉を呟けば、はきっと「私以外の女のことを知っているの?」とかなんとか言って一笑に付すだろう。嘘、嘘。ごめんなさい。知りません。それにきっと、本当はコワイわけじゃない。ワカラナイのだ。予測不可能なストーリー。アオリも、ヤマも、オチも、ヒキもない。漫画家の自分がこんなことを言ってよいものかと思うが、だいたい人間なんて一個の物語に回収できるような単純な生き物ではないのだ。誰だってそうだ。――にしても彼女の脈絡のなさは、少し度が過ぎると思うが。



 玄関の鍵が開けられる音がして、熱に浮かされかけていた頭が一気に冷や水の中へと叩き落とされた。慌てふためきベッドルームから這いだして、デリート寸前だった脳内理性をどうにか呼び戻し、間一髪のところでリビングのドアを、背中を押しつけるようにして封鎖する。ぺたぺたと近付く足音。気配。ドアノブが外側からの力を受けて深く沈みそうになるのを、後ろ手に強く握りしめてとにかく必死に抑え込んだ。なんという、間の悪さか。事前連絡もなくひょっこり訪れるお気楽な担当編集を、今日の日ほど恨めしく思ったことはない。

「……雄二郎さん」
「え? ちょ……新妻くん?」

 がちゃがちゃ。ドアノブを無理に押し下げようとする音と雄二郎さんの素っ頓狂な声が、背中の後ろ、ドア一枚隔てたところから聞こえてくる。僕の喉は痛むほど渇いていた。そうでなくとも状況が状況。ちゃんと、いつも通りの声色で話せているか自信がなかった。

「何、してんの。開けてよ」
「無理です」
「……無理?」
「今、取り込み中です」

 頭が熱い。割れそうだ。破裂しそうだ。なんなら今の僕のスペックを説明しようか。堅苦しくもややこしくもない。一瞬で終わる。上半身は裸、下半身は下着一枚、そしてその中には半勃ちした間抜けな性器。以上。ザッツオール。さあ、ここまで言えばもう誰だって分かるだろう。要するに僕はよろしくヤっている最中だったのだ。誰とかって? そんなの、決まりきっている。そもそも幼少時代から部屋に閉じこもって漫画ばかり描いていたような僕が関わりを持つことの出来る異性はとても限られているわけで、というより、いきなりひとの仕事場(兼住居とはいえ真っ昼間から!)に押し掛けてきて事に及ぼうとするような天上天下唯我独尊女なんて、僕の知る限り端から一人しか居ないのだから。

 ああ神様、どうしてあなたは僕の人生の中で僕とセックスをしてくれる唯一の女の子を、こんなにバイオレンスな女に仕立て上げたんですか? 従姉弟同士っていう関係も良くない。小さい頃から顔を合わせているから、たった二歳の年の差でも随分な姉貴面をされる。それから性格も悪い。都会育ちの彼女はことあるごとに僕を田舎者だって笑うし、理屈云々をすっ飛ばしていつだって持ち前の強引さで物事を解決しようとするし、だいたい今どき「良いこと教えてあげる♡」なんていう寒々しい誘い文句はなんだ!? 挙句、どんな悪行も我侭も三日経てばけろりと忘れてしまう始末。田舎育ちで引きこもり気味で今どきありえない安い誘惑にも引っ掛かってしまうような人間には、難易度レベルMAXすぎます、神様。人生のヒロインはキャンセル不可。そりゃあ恋愛漫画が描けなくなるというものだ。

「だって今日、締め切りだよ? 原稿できてないの?」
「原稿は……できてます、けど」

 今は渡せません。部屋の奥からかすかな物音がしてちらりとベッドルームのほうを見遣る。開け放たれた引き戸の向こうから、この状況を作りだした元凶がひょっこり顔を覗かせたところだった。あ、ダメ、、来ちゃダメ。目で訴えかけても却下。片手で追い払う仕草をしても無視。近付いてくる彼女の深い好奇心も、加虐心も、不敵な笑みも、どうにも止められそうにない。はそろそろと僕に忍び寄りながら、人差し指を唇の前に立ててにんまり口角を上げた。下手なことをして彼女が奇声をあげでもしたらそれこそ面倒なことになってしまう。そう思うと途端にもう何も出来なくなってしまった。酷い脅迫だ。横暴だ。僕は人生をかけてそれに振り回され続けてる。

 背中でごちゃごちゃ言って困惑している編集者の声は殆ど耳に入ってこなかった。音もなく僕の足もとに腰を下ろしたは、潤んだ熱い瞳で僕を見詰めた。僕と同じようにショーツ一枚きりしか身に着けていない彼女。形の良い乳房は白日の下で露わになっており、内側からぼんやり光を放っている。非日常的なその光景と、エロティックなアングルに、全身の血の気がさっと引くのを感じた。
 は舌を見せて危なく微笑んだ。そしてあろうことか、そのか細い手で、ボクサーパンツの上から僕の性器をやわく握りしめたのだ。

「あっ、こ、ら」

 ドアノブを抑えていないほうの手のひらで彼女の髪を握って引き離そうとするが、はちょっとやそっとの乱暴では行為の手を緩めたりしない。僕の手を強引に払いのけ、こちらを見上げながら、今度は唇で食むように性器を刺激してくる。なんだ、なんなんだこれは。現実なのか。逃げ場などないのに逃げようとして引いた腰を思いきりドアに打ち付け、その鈍い音がかろうじて口から洩れ出る溜息をかき消した。

「ちょっと……新妻くん、何、どうなってんの?」
「いえ、あの、……あの、とにかく、今は帰ってもらえません、か!」

 荒くなった息を隠すように、僕は大きな声を上げた。勘の良い編集者ならそろそろ事態を把握するころではないか? 担当が哲さんのほうの「服部」じゃなくて心底良かった。いや、むしろ気が付いてくれたほうが空気を読んですぐに帰ってくれたかも知れない。その次に顔を合わせたときに変な空気になったらそれはそれで居た堪れないが……。だいたい僕が仕事場でこういうことをしているかも知れないという発想が雄二郎さんには皆無なのだ。彼の中で僕の精神年齢は出会ったときの十五歳のまま止まってるんだから。
 お父さん、お母さん、雄二郎さん。仕事場でこんなことしててごめんなさい。それもこれも僕のヒロインにを割り当てた神様が悪いのです。アーメン。

「大丈夫、です、から」

 彼女の口が下着ごと僕のあそこに吸いついて離れない。最初は引っぺがそうとして彼女の髪を掴んでいたのに、今や、なんということだろう。僕の手は彼女の頭を後ろからがっちり押さえつけているではないか! 一体、いつの間に。第三者アングルから二人を見たらまさに「取り込み中」だ。

「……そう? じゃあ、また夜、取りに来るから……」

 雄二郎さんが渋々といった感じで呟くと、ドアノブが急に軽くなり、ようやくドアを隔てた攻防戦から解放された。遠ざかっていく足音。玄関のドアが開けられる音。閉まる音。全てを聞き終え、その場にへたり込みたくなる衝動をなけなしのプライドでなんとか鎮めながら、を掴んでいた手を離した。だけど彼女はなかなか引き下がってはくれなかった。

「大丈夫です、だってぇ。嘘ばっかりね、新妻先生」

 は楽しそうにくすくす笑って、布越しに先端を舌で圧迫した。仰々しく「新妻先生」なんて呼ぶ、彼女独特の鼻にかかるようなハイトーン・ヴォイス。乱れた髪から漂うシャンプーの香り。南向きのリビングを満たす午後の陽射しが、彼女の肩をも濡らしていた。

「……、退いて」
「ほらぁ、全然、大丈夫じゃない」

 にわかに彼女は両手で僕のボクサーパンツをずり下ろそうとした。
 その瞬間、現実を噛み砕くための冷静さやまともな思考回路は一切失われ、代わりに、不自由な自分と身勝手な彼女への苛立ちが隙間なく胸を埋め尽くした。これ以上お前の好きにさせてたまるか。僕は気が付くと官能的な曲線で縁取られた彼女の腹部を、めいいっぱいの力を込めて蹴り飛ばしていた。は悲鳴を上げた。そうして咄嗟に両腕でお腹を抱きしめ、その場に身体を丸めてうなだれた。ふり乱した髪の隙間から、うなじ。真っ白。今の僕の頭の中みたい。

「いい加減にしろ」

 恋人の腹を蹴って得られるものは何も無かった。ただただ空しかった。だけど今はまだ、後悔する気も謝罪する気も起きなかった。なんでいつも僕が、なんでいつもに。そんな言葉が衛星のように頭をぐるぐるぐるぐる回っていた。は数度咳をすると、お腹を抱えたままゆっくりと顔を上げた。きつく睨むような眼光。は泣いてなどいなかった。乾いたその瞳で、表情で、はやにわに怒鳴った。
 エイジが悪いんじゃん、と。
 さらに怒鳴った。
 ずっと、連絡してくれない。ずっと、会ってくれない。構ってくれない。バカじゃないの。漫画バカ。ガキ。早漏。死ね。死んじゃえ。エイジなんて死んじゃえ。

 涙の一滴も零すことなく、一度も言葉に詰まることなく淀みなく、は僕を罵倒しきった。それはそれは見事なものだった。僕がブガイシャだったらきっと拍手でもしてたんじゃないか。拍手喝采。スタンディングオベーション。だけど残念なことに僕は今、紛れもなくトウジシャだ。罵られた張本人だ。半分パンツをずり下ろされて、中途半端に勃起したものをもてあまし、立ちすくんでいる正真正銘の大バカもの。僕が蹴った腹の中から、こんなにもたくさんの邪悪なものが溢れてきた。そしてそれは全て自分に向けられている邪悪さなのだった。こういうとき、普通だったら、怒ったり悲しんだり傷付いたりするものだろうか。持つべき感情をその中に見つけられない。かといって喜んでいるわけでもない。嬉しいわけでもない。じゃあ、なんだ?なんなんだ。この、自分の腹部までも強い一撃で抉り取られてしまったかのような、感覚は。

「私だって、全然、大丈夫じゃないんだから」

 君は僕の人生の中で僕とセックスしてくれる唯一の女の子。君は僕の人生の中で僕を愛してくれる唯一の女の子。
 人生のヒロインはキャンセル不可。目に見える赤い糸などありはしない。腹部の痛みだけが、その証だ。









THE END