※春日部市立を男女併学という設定にしています.




 砂時計のなかに閉じこめられていたかのような窮屈な夏は、けっきょく砂が落ちきるよりも先に指の間をすり抜けていった。あんなに欲しかった夏休みが、いざたっぷりと与えられると、存外に身動きがとれないものだと言う。自由なはずの先輩たちが決めごとのようにグラウンドに集う姿は、それでもとても軽やかなものに映り、同時にその身軽さが自分にとってはまだ受け入れがたくもあった。太陽を睨みつけたときのような、白いまばゆさと鈍い痛み。あわてて目を逸らしても、瞼の裏にはっきりと光の傷跡が残ってる。

「みーなみちゃん」

 どこか気の抜けた柴先輩の呼びかけを背に受けて、自分の名前でもないものに彼女はちゃんと振り向いてみせる。バス停のベンチに座ってぶらつかせていた足をぴたりと止め、待ちくたびれた様子を少しも見せることなく。

「南ちゃんじゃありませんよーだ」

 そう口では言いながら、まんざらでもない、という顔でははにかむ。このやりとりを、もう何度はたから見てきたことだろう。双子で野球やってて、かわいい幼馴染がいて、お前らまんま漫画じゃねーか――いつだったか柴先輩が冗談めかしてそう呟いたのがはじまりだった。同じ顔が並んでいるというだけでも物珍しいのに、バッテリーなぞ組んでいればなおさら、話のタネにされないはずもないのだ。あしらい方は簡単で、双子の片割れならば「あいつのどこがかわいいンすか?」と口をへの字に曲げるだろう。自分の場合は決まってこうだ。――柴先輩、あの漫画ちゃんと読んだことあります? あれ、どっちもピッチャーだし、そもそも、片方死ぬんですよ。縁起でもない。……

 車道を走るワゴン車が熱風を運んでくる。バス停で柴先輩と別れ、俺たちは横断歩道を足早に横切った。ときたま訪れるふたりの帰り道を、いまさら疎ましがることも、ことさら避けることもできない。たとえ互いにどこかで息苦しさを感じていても、平気な顔をして、三人で歩いているときのようにふたりで歩いていく。沈黙のうちに十何年間の親しさではなく、この一時の気まずさをひた隠しにして。

「柴先輩って、わたしの名前覚えてないよね」
「ンなことねーよ。覚えまくりだっつの」
「えー、嘘だぁ」

 一度もまともに呼んでもらったことない気がする、とはおおげさなふくれっつらをしてみせた。彼女の歩幅に合わせて歩いていると、いつも少しだけ苛立ちともどかしさを覚える。当たり前のように隣にいたはずなのに、育んできた鼓動のリズムはいつの間にかずいぶんと違う音色を奏でていた。彼女の皮膚をなまぬるく滑ってゆく風が、セーラーの白い生地の皺にやわらかく夕陽を織り交ぜる。彼女の内側を流れているその音が隙間からこぼれないように陽射しが栓をしているみたいだ。目を閉じることはできても、耳を塞ぐことはそう簡単ではないから。

 水泳部に所属しているの髪はまだしっとりと濡れていて、彼女が歩くたびに濡れた黒髪の束がその胸もとで弾んでいた。冬服のセーラーは紺一色だけれど、夏のセーラーは白いブラウスに赤いスカーフがよく映える。近所といえども校舎が違えばほとんど別の学校みたいなものだ。もとが男子校だったせいで、今も女生徒の人数はとても少ない。この見慣れたセーラー服すら、女子と縁遠い部活中心の生活を送っていると、市高の制服だと言われてもいまいちピンとこないくらいだった。

「葵はまた居残り?」
「いや、今日は早引けして腕診てもらってる」
「そっか。……たくさん投げたもんね、今年も」

 街路樹のかなたに染まる夕暮れを眺めながら、の声が熱い空気と一緒にたなびいていく。「今年も」、その一言が、終わってしまった季節のことを深く胸に刻みつけた。

 ふたり揃って最後まで18.44mの距離を守ることができず、けっしてマウンドを譲りたがらない性分の葵を最後まで投げさせてやることもできず、アイツの捕手として迎えた夏が、またひとつ終わりを告げた。カレンダーを見遣れば八月はまだ始まったばかりで、遥か西の聖地では今まさに戦いが繰り広げられようとしている。それでもここにあるのは、ちょん切られたとかげのしっぽみたいな、あっけなく終わってしまった夏のなきがら。二度と変えられない終わりの、終わり。ゴールテープも切らないままに、俺たちはまた、スタートラインに立たされている。

 車道沿いに馴染みのコンビニエンスストアが見えて、はいつも通り「なかで涼んでいこうよ」と言ってにわかに駆けだそうとした。細い手首が祭り屋台の赤い金魚のように、するりと伸ばした腕の先へとすり抜けていく。掴まえることはかなわなくても、彼女を振り向かせ、立ち止まらせる方法なら知っていた。

「おい、エセ南」

 数歩先で、がぱっと身体ごと俺に向き直る。夕陽を背に受けたの長い長い影が、俺の足もとまでまっすぐに伸びている。野球部の連中はみな面白がって「南ちゃん」という呼び名をもてあそぶけれど、彼女はほんとうにときどき、誰もさわれない遠い静けさを湛えているときがある。口にすればすぐさま灼熱に溶けていってしまいそうで、自分にはその印象を語る言葉は見つからないけれど。絵、みたいだな、お前。そんなふうに言葉をかけたら、彼女は一体どんな反応をするんだろう。

「ちょっと、涼までからかう気?」
「聞いとけ」

 白球を交わすあの慣れ親しんだ距離よりも、とのこの距離はずっと近くて、そしてずっとよそよそしい。同じ痛みを共有したこともなければ、同じ悔しさに打ちひしがれたこともきっとない。埋めることのできないただの隔たりに名前をつけてやれるほど、ふたりが物語に依り添うこともないのだろうと思う。ページが擦りきれるほど読み返すことも、適当に読み飛ばすこともままならない、一度きりの夏。こうやって目と目を合わせていると、隣同士で並んで歩いているよりも、ずっとたくさんのことが分かるような気がした。の表情。持て余した緊張。ここにふたりでいることが、実はとても不自然なことだということ。

「お前は浅倉南じゃねーけど、甲子園には連れてってやっから安心しろ」

 独りよがりでとんちんかんな宣言を、疑問符ひとつ浮かんでいない澄んだ目をして、は黙って受け止めた。

 ガキのころ、よく葵と泣くじゃくって目が腫れるまでけんかをした。あのころの気概のようなものは、分別がつくにつれ、だんだんと焦りに変わっていった。隠れるところのないあの場所に立てば嫌でも思い知らされる。俺の投げこむボールが、葵が投げこむボールに遠く及ばないものだということを。だからこんなクサい台詞を吐けるのは、ほんとうは自分なんかじゃなくて、どんなときも自分よりずっと優れていた兄貴のほうなのかもしれない。それでも、これがけっして三人の約束なんかじゃないことを、はきっと分かっている。分かっているから、そんな穏やかな顔をしたまま、この奇妙なふたりきりをやり過ごしてくれているんだろう。

「ずっとそのつもりだよ」

 茶色のローファーのつま先をひょいと指さすように俺に向けて、がお得意のやわくほどけるような笑みをこぼした。結んでひらいた、ふたりの指切り。最後の夏のスタートラインで、はじまりの空砲が今、高々と空に鳴り響く。









THE END