あのひとに名前を呼ばれると、わたしの名前がわたしの名前ではないみたいに響く。どうしてだろう、おかしいな。わたしたちは意味ありげに目配せをしたり、机の下で小指をつないだりするような関係でもなんでもない。一度だってそんな素振りをみせた覚えはないのに、それなのに、いつの間にかふたりには小さな結び目のひみつが生まれてた。無理やり孕まされちゃったみたいに、わたし、赤い糸じゃないもので彼につなぎ合わされたのだ。

 何本か連続でクロールを泳ぎ続け、ようやく生温い水から顔を出して水中ゴーグルをはずしたときだった。名前を呼ばれ、視線を上げると、目の前の低いフェンスに腕を乗せてにやついていた高橋先輩とはたと目が合った。このひと、毎回どうやってここに忍びこむんだろう。男女別学の市高にとって、校舎の行き来ほどご法度なものはないのに。立派に生い茂った夏の緑が、うまい具合に彼のことを校舎側の視界から隠している。八月、静かな夏。短く刈り上げられていた彼の黒髪は、もうすでにちょっとずつ伸びはじめていた。それだけのことで雰囲気もほのかに変わる。存外に彼は大人っぽい風貌をしているようで、一年の歳の差をみょうにきっぱりと感じた。

「自主練ひとり?」

 肩までプールにつかったままのわたしに向かって、先輩はフェンス越しに問いかける。見れば分かるだろうに、しらじらしい。そもそもわたしが独りじゃなければ、彼はこんなところまではるばる油を売りにきたりなんかしないはずだ。

「そうですけど……」
「おー、上等」

 それだけ言うと高橋先輩はフェンスの上から鞄を投げ入れ、網目にスニーカーのつま先を器用に引っかけると、腕の力で軽々とフェンスを乗り越えてきてしまった。言葉以上のちょっかいを出されたのは初めてのことで、咎めるよりも先にその大胆さにしばしあっけにとられてしまう。大胆不敵。怖いもの知らず。このひとには最初から、守るべき規則なんて野球のルールぐらいしかないのかもしれない。

「……停学ものですよ、それ」
「バレねぇって。ほら、いいからさっさと練習しろよ」

 なんでこんなふうに不法侵入してきた無法者に命令されなきゃいけないんだか。言われなくても練習しますー、と口を尖らせて、わたしはまたゴーグルを嵌めて誰もいない50mプールの壁を蹴り飛ばした。さすがに疲労が身体に溜まっているようで、さっきよりも水の抵抗を強く感じる。わたしはまだ二年生で、学年のことを差し引いたとて、とても水泳部の主力であるとは言えない。部活の時間中はタイムの速いひとが優先的に泳いでいくので、わたしにはとうてい泳ぎ足りない日々だった。泳ぐのが好きだ。自分の全身を軽やかに扱って、みなもを切り裂いていくのが好きだ。この気持ちがたとえ競泳をするには、頼りないものであるにしても。

 一心不乱に一往復して、息切れを起こしながら顔を上げる。ゴーグルとキャップを同時にひっぺがすようにして脱ぐと、開放感があって気持ちが良かった。水に浸かったまま息をととのえていると、頭上にふと影がさして、見上げると高橋先輩が「けっこうタイムいいじゃん」と言ってスマートフォンのタイマーをわたしに見せつけてきた。勝手に計っていたんだ。気が利くような、余計なお世話のような。なんだか恥ずかしくて、うまく言葉を返すことができなかった。

 飛び込み台を背に、高橋先輩はプールサイドに腰掛け、ズボンの裾を捲った素足を水に浸した。ゆらり、ゆらり、と彼の足先がみなもに波をつくる。そのゆるやかな足の動きに油断していた自分が悪かったのかもしれない。唐突に彼の足の裏が水しぶきの花を咲かせて、わたしはほとんど真正面から顔に水を打ちかけられた。ははは、と乾いた笑い声が雲ひとつない青空に吸いこまれていく。なんて、いじわるな。

「何するんですか……もう、」

 突拍子もない彼のいたずらは続く。顔を拭うように手の甲をひたいに滑らせたら、その手を乱暴に引き寄せられた。少し、怯んでしまいそうになる強い力で。咄嗟に目と目が合ったとき、悟らせてはいけない緊張がわたしの瞳の奥には透けていたに違いなかった。

「お前さー、どっちと付き合ってんの。マジで」

 高橋先輩にこの質問をされるのは三回目だった。一度目は野球部のひとたちが大勢いるときに冗談めかして。二度目は葵たちをバス停で待っていたとき、通りすがりに声をかけられて。そういえばあの日初めて、わたしは彼に名前を呼び捨てられたのだ。少しぎょっとしたけど、悪い気はしなかった。だから黙っていた。だって「南ちゃん」なんて漫画の中の女の子の名で呼ばれるよりは、ずっとしっくりくる呼びつけ方だったから。
 どっち、と雑に名指される幼馴染ふたりの顔が脳裏によぎる。何度聞かれてもわたしの答えはひとつしかなかった。高橋先輩から目を逸らさずに、わたしは三度目の代わり映えのない返答をした。

「だから、付き合ってないですってば」
「じゃ、どっちが好きなん?」
「そういうんじゃないです」
「だったら俺と付き合ってみん?」
「は、」
「は、じゃねえよ。分かってんだろ」

 最後の一言だけ、まるで怒っているかのような強い語気で言い捨てられる。分かってんだろ。何をでもなく、何か、何をするでもなく生まれてしまったふたりの結実を。高橋先輩の顔は、もうぜんぜん笑ってなどいなかった。真剣なその表情には、お腹の下を疼かせるような翳りがにじんでいる。ずるいひと。用意周到なひと。こんなときだけ真面目くさって、彼はてっとりばやく誠実な素振りをする仕方を心得ているのだ。

の夏、俺に預からせて」

 へんてこな告白が、ととのえたばかりの血のめぐりをもう一度ざわめかせる。まるで示しあわせてこうなったみたいな言い方を彼はするけど、こんなのきっとレンアイの王道なんかじゃない。彼が三度も念を押したことは別になにも的外れではなくて、そうやって問いかけられればわたしだって無理やりに答えを絞りださないといけなくなる。最初はあしらうように、二度目は姿勢を正して、三度目はもはや、既成事実を口にするように。先輩、これがあなたのレンアイの作法なんだね。言葉を与えれば、おのずと感情が言葉のかたちに膨らむ。嘘っぱちだなんて誰にも証明できないほど、ぴったりと言葉に寄り添って。

 あの最後の試合。最後の打席。初球ストレート。彼は生涯最高のホームランを放った。みごとな弾道を描いて一直線に外野の柵外へ飛びこんでいく白球。茹だるような暑さのアルプススタンドで、なぜだかわたしは涙を止めることができなかった。彼にあの涙を見られていたら、きっと「同点で泣いてんじゃねーよ」とからかわれていただろう。

「高橋先輩は、わたしと一緒に泳いでくれますか」

 へんてこな告白に、へんてこな返事をする。いや、返事というよりもひとつの願いのようなものを。あなたはわたしにぴたりと寄り添ってくれますか。わたしを誠実にだましてくれますか。親愛とは遠く離れた、愛の痛みを営みにして。

「溺れてやるよ。道連れだ」

 一瞬のことだった。

 高橋先輩はつないだ手をふりほどき、後ろ手に軽く勢いをつけると、そのままプールサイドからわたしめがけて水のなかへと飛びこんできたのだ。
 足がもつれ、手のひらからゴーグルとキャップが零れていく。おろした髪が水中でみだりに散らばる。ぼやけた視界のなかで、みなもから射しこむ夏の光が、水色の箱一面に美しいひびわれを描いている。
 制服のまま飛びこんだ向こう見ずな彼にきつく肩を抱きしめられながら、わたしは仰向けに浅いプールの底へと沈んでいった。もがくこともできず、ただ、ゆっくりと。
 ああ、このままじゃあわたしたち、ほんとうに溺れてしまうかもしれない。息が苦しくて、胸が苦しくて、鼻の奥のツンとした痛みが涙を誘発する。だけど不思議と、何もこわくはない。このじゃれあいが情けなくて、ばかばかしくあればあるほど、きっとそれは恋愛と呼ぶにふさわしいものなのだ。









THE END