八月十五日のたった一日だけの盆休みは海にぽつんと浮かぶ無人島のようだ。誰にも邪魔されずに好きなだけ眠って、目を開けたときにはもう貴重な一日は半分以上失われていた。横になってからだを休める以上に有効な休日のつかい方も知らないから、別にそれも悪くはないのだけれど。もちろん、向かいのベッドはもぬけの殻だ。涼の机の上にあいつの通学かばんがない。今ごろ図書館で宿題でも潰しているんだろうか。真面目でもないくせに、そういうの、抜け目なくキチンと片づけないと気が済まないやつ。同じ顔してても、野球という最大の共通項を引き算すれば、俺たちはこんなにも違う。むしろ、その最大の共通項のせいで、俺たちは全然違う人間だ。
 双児なのだと思う瞬間の何倍も、日々、違う人間だと思い知らされている。

 二階のトイレに寄ってから階段を降りていくと、リビングからはテレビの音が漏れ聞こえていた。とびら越しに何を言っているのかは分からなくても、何を見ているのかぐらいはすぐ分かる。ぎらぎらと光輝く八月の真昼間。その歓声は、踏みしめたことのない熱い土の上で、今日も誰かが戦っているあかしだ。

「かーさん、飯まだある……」

 リビングのとびらをひらくと、クーラーに冷やされた爽やかな空気が汗でべたつく肌を撫でた。ソファに座っていた人影が振り向く。彼女とぶつかるように目が合って、そのまま大股でキッチンに直行しようと思っていた足に急ブレーキがかかった。誰だってそういう反応をする。リビングに居るのが家族のひとりではなく、近所の幼馴染だったならば。

「あっ、葵。やっと起きた」

 もう、おはようじゃないねえ。ソファの背もたれに肘をついて、は午後二時に起き抜けの姿をさらしている俺を笑った。細い腕。俺たちほどではないけれど、長年水泳をやってる彼女の肌は夏を染めたような色をしている。中学生のころまで彼女は仲の良いクラスメイトたちから「ごぼう」って呼ばれていた。それが今や「南ちゃん」なんだから、大した出世だなと思う。泥だらけのひょろ長い野菜から一転、野球部の正統派ヒロインだ。その呼び名が彼女のことを正しく呼びつけ、言い当てているかどうかはさておき。

「なんでいんだよ……」
「おばさん、お買い物行っちゃったよ。冷蔵庫に冷やし中華はいってるって」
「なん、」
「わたしも麦茶もらおうかな。喉かわいちゃった」

 そう言って立ち上がったはなぜか見るからに真新しいハリのある浴衣を着ていた。彼女はその見慣れない柄の浴衣姿で俺より先にキッチンに入っていくと、麦茶のポットと冷やし中華の入ったガラス皿と、チューブの練りからしを、一緒にテーブルに並べた。ふたつのコップに麦茶がなみなみと注がれる音の涼しさ。手渡された深緑色の箸も、まさしく俺のものだ。けっきょく俺が何もしないでも、定位置に座っているだけで遅すぎる昼食の用意はすっかり済んでしまった。

「今日うち、お母さんいなくて。おばさんに浴衣着るの手伝ってもらってたの。あとで髪の毛もやってもらうんだ」

 まっさらな黒髪の調子を確かめるように、は指のはらで毛先をつまみあげた。太陽の下、水の中にいつも長時間いるくせに、彼女の髪はあまり傷んでいる様子がない。とくべつ気にしたこともなかったけど、そういう髪質なのかもしれないと思う。妙に気恥ずかしくて、彼女の指先が泳ぐ黒い川から視線を逸らし、無言で和がらしを手にとる。それはもうほとんど中身が残っていなくて、力まかせにチューブを握りしめたら逆に大量のからしのうずを作ってしまった。箸をつけずとも、溶けたからしの色に、胸がひりつくぐらいに。

「……浴衣とか、何年ぶりに着てんだ」
「久しぶりに新しいの買ったの。見て、この大きめの花柄がかわいくて」
「あーそ」
「もう。見てないし」

 薄い薄い水色に、花火のような赤い花が咲いている。浴衣の柄なんて説明されてもどれが良いとか悪いとか分かりもしないし、早々に話を切りあげて箸で伸びきった麺をほぐしてすくう。ただ、興味のない服の話に見切りをつけただけなのに、それが自分自身にとっては違う苛立ちの出どころを持った態度のようにも思えて、そんな自分がしょうもなくて腹立たしかった。おもしろくない、と思っている。はっきりと、そう。先を越されたという感覚がある。誰に、何を。そんなことはさして、問題じゃなかった。

(でー、南ちゃんはどっちと付き合ってるわけ?)

 野球部の先輩たちにを紹介したのは一年前の夏だった。父母会と野球部で年に一度集まり食事の席があって、はそこに紛れこんでいたのだ(どうせ、じいちゃんが気を利かせたつもりで連れてきたんだろう)。ものめずらしい彼女の存在に、みんながそれなりに興味を示した。誰が初めにあいつのことを「南ちゃん」と呼んだんだっけ。航先輩はのとなりに座っていた俺を押しのけるようにイスを動かして、割りこんで、の紙コップにソーダ水を注いだ。はっきりと俺に背を向けてだけを見ていた航先輩の、その背中越しに、幼馴染を見る。戸惑いにみひらかれたの瞳は、弾ける炭酸のようにまたたくたび光の泡を先輩に注ぎ返していた。

(付き、合ってないです)
(えーつまんね。漫画みたいに奪りあいされたくない? わたしのために争わないで! みたいな)
(そんな……あの、そんなんじゃ……)

 あのときのは初めてまともに接する「異性の先輩」というものにあきらかに怯えていた。本人にしてみればどうってことない会話でも、俺だってオンナだったら航先輩みたいなオトコはきっと怖い。怖いっつうか、なんか、姿の見えない何かと絶えず比べられてる感じがすると思う。航先輩の遣う含みのある表情、目つき、唇の動き、あのひとの見せるカオはあのひとがくぐり抜けてきた道々の砂埃や険しさをちゃんと吸いこんでいて、きれいなだけじゃない。歳なんかたった一年しか違わないけど、きっとあと一年経っても、俺にはあのひとのような芸当は何も身につかないだろう。俺は航先輩のような特大ホームランは打てないし、航先輩も俺と同じボールは投げられない。双子ですら違う人間なんだから、年齢ひとつで追いつけたり、追い抜いたりできるものなんて、はなから何もないのだろう。

 まだノーアウトかあ、と独り言のようなの声が聞こえて、顔を上げた。は麦茶を飲みながらからだの向きを変えてリビングのテレビをぼんやり眺めていた。遠くを見つめるように。今年もまた、にこんな目をさせている。それが悔しい。あの場所に立ち続けることができなければ、俺に与えられるのは横顔ばかりだ。

「航先輩、お前じゃ無理だよ」

 俺のどうしようもない駄々のような一言が、どうしようもなく彼女を振り向かせる。そこにひらめいた一瞬の悲劇。薄い膜のような笑顔が重なって、それはすぐさまかき消されてしまったけれど。

「それでもいいよ」

 細切りのきゅうりが奥歯でしゃきしゃきと鳴る。庭でとれたプチトマトは少し酸っぱい。口の中にひろがる夏の味。耳にざわつく夏の音。ひとつもアウトをとれないエース。試合はまだ、終わらない。

「わたし、あのひとに傷ついてみたい。わたしを知りたいの。わたしひとりじゃ、知れないような……」

 の意外な言葉が淡々と、どこまでも目的地を変えられない線路のように続く。その言葉は彼女自身をどこか遠いところへ連れて行ってしまいそうで、息苦しさがつのった。の見据えているものが哀しくて、だけど、輝かしくて。
 冷やし中華のタレに溶けきらなかったからしのせいで、鼻の奥がむしょうに痛む。だけどそれが、美味いような気もする。俺たちはみな、違う人間だ。そして俺たちはまだ、自分のことを何も知らない人間どうしだ。甘酸っぱいタレに漬かったカニカマをひと口に頬張って、俺は、鼻につく辛味のなごりを喉に流しこんだ。









THE END