わずかにひらいていた襖の向こうで歓声があがる。実況の興奮まじりの早口がかなり耳障りで、だけどテレビのリモコンが手の届く範囲にあるわけではないから、静かな俺たちはソレを享受するしかない。 八月。炎天下の午後三時。ラジオ並みの説明口調の解説によれば、八回の裏ツーアウト二塁三塁、一打逆転のチャンスをみごとに劣勢のチームがものにしたらしい。そんなことよりも俺は、今の今まで、となりの部屋で垂れ流しにされているお約束の箱庭のドラマを、まったく気にも留めていなかった自分に驚いた。誰も見ていないのに、つけっぱなしのチャンネル。いかにも自堕落で、無頓着な。のそういうところに、俺はたまらなく傷つくし、たまらなく苛立つ。そしてたまらなく、欲情するのだ。もはや、数えきれないくらい。

「見なくていーの、準決勝」

 汗だくの自分から、汗だくの彼女をひっぺがして、めくりあがったキャミソールの裾をなおしてやる。はまったく心ここにあらずといった表情で、薄いタオルケットの下、細い脚と脚をもぞつかせた。反応がなさすぎる。俺は突き上げられるように身を起こし、座卓の上の麦茶の入ったグラスをつかんだ。皮膚が水分にまみれているぶん、内側は危険なぐらい水を欲していたのだ。
 畳。氷が溶けて薄まった麦茶。テレビの向こうの風物詩。幼いころからの夏の三点セットに、ひびが割って入る。夏が過ぎれば十八歳。となりの少女はまだ、十七の手前だ。

「楽しみにしてたろ。おまえ、前橋瑛徳すきじゃん」

 なんだっけ。エースの、たか……しま? たか……だ? お前と同いのさ。練習試合で声かけられたーとか言ってはしゃいでたやつ。
 やっぱり反応がつまらないので、自分の声もどこかむなしい。数ヵ月前のことが、今の日常とあまりにもうらはらで、おぞましくすらある。県外から練習試合の相手を呼んだ日、あのときは確か一試合目にあいつが投げて、同点のまま終わったのだ。俺は三の三だった。速球がばらつくタイプの本格派は得意中の得意だ。ものぐさなが珍しく練習試合を観に来てて、良いカッコしたかったってのもあるが。
 は横たわったまま、俺のはなしを聞いているのかいないのか、眺めるでもなく、窺うでもない視線で襖の向こうを一瞥してから、だらしない顔で俺を見上げた。の全身からたちのぼる横柄さは、八月の午後の陽射しにそっくりだ。まとわりついて離れない。そして知らない間に中てられてしまうような、独特のねばっこい時の流れを、孕んでいる。

「先輩とエッチするほうがすき」

 畳の上に放ってあったお気に入りのジンベエザメのクッションを胸に抱えこんで、は身も蓋もないことを言い放った。砂糖をまぶしたドーナツのような、彼女の不健康そうな声。そのクッションは去年の八月、俺が彼女に買ってやったものだった。二年生だった俺には聖地の土の手土産はありえなかったから、帰りしなに「ご褒美」として立ち寄った水族館で、さんざん部の連中にからかわれながらそれを購入したのだ。満足だった。あのころはこんなことでも必死で、こいつをつかまえたくて仕方なくて。つかまえたあとも、逃がさないように、どこかへ行かないように、俺はどんな些細な甘やかしの隙間も手放すまいと思っていた。
 クッションをまくらに、は身体を反転させる。すべらかな肉つきの背中。キャミソールのひもを肩にかけたついでに、背骨のラインを手のひらでさすっていると、は生温かい溜め息を吐きだした。熱が、ひとつ、ひとつ、くっついて、やがてかたまりになっていく。

「わたし、大人になりたくないな」
「あ? ……なんだ、いきなり」
「このままのかたちで、先輩と化石になっちゃいたい。それでずっと夏休みを繰り返すの」

 それはいつもの俺たちの、程度の低い日常会話をものさしにしてみれば、ずいぶんと大仰なフレーズだった。。いつまでも夢を見ている。俺たちはそんな摩訶不思議なSFの登場人物じゃねえんだよ。夏は一年に一度、必ずこの身に降りかかるけれど。高校最後の、今年の夏休みは――。今までのどんな夏にも似ていない八月が、一日一日と過ぎていくときには、永遠を粗雑に模したような退屈なよどみと化している。何をしていてもそうだ。飯を食っていても、勉強をしていても、風呂に入っていても、練習に顔を出していても、と抱き合っていたとしても。つまらない感傷を、内臓にも、脳みそにも、四肢にも、皮膚にもしみこませて、平気なふりして毒を分散させたつもりで、全身に膿を回してしまっていたら世話がない。心にすべてを閉じ込める勇気のない人間だけが、どんなときでもへらへら笑っていられるすべを身につける。

「俺にこの夏、繰り返せってか」

 は簡単にうんとも言わないし、地雷を踏んだと悟って、変に焦ったりもしない。ただのびやかに目を細めて、俺の腕にしがみついてくる。それは、俺にはほとんど、蔦に絡めとられているかのような不自由さをもたらす、圧倒的なしなやかさを備えた腕の使い方だった。は俺を腫れもの扱いしない。それが苦しいし、それに救われる。それが痛ましいし、それに焦がれる。寄り添えるものだけをしっかりと寄り添わせて、こんなに近くで、やっぱり俺の手は空を切ってしまうのだ。
 今、液晶の向こうから、神聖なサイレンの音が聞こえた。あいつ、勝ちやがった。決勝まで進みやがった。一度、練習試合で対戦しただけの、こてんぱんに打ってやった一つ年下の。ひとの女とも知らないで、気安く声かけやがったあの生意気なエースが。
 物言わぬの頬をからかうみたいにつねってやる。間抜けなあほづら。やっぱりは痛いとも痛くないとも言わないので、これが夢なのか夢じゃないのかも、俺たちは未だはっきりしないままだった。

「おまえはー、大人になりたくないんじゃなくて、学校行きたくねえだけだろ」
「……あ、ばれひゃ」
「バレバレだっつの、このなまけもの」

 頬を離して、離したその手で、逆毛立ったぐしゃぐしゃのの髪をさらにぐちゃりと撫ぜまわす。すると今にも降りだす寸前の、湿った熱風のうずまく空気のような、気持ち悪い性欲が突如たちのぼった。歯止めがきかなくなり、覆いかぶさるようにしての首筋や、わき腹に手を伸ばすと、きゃあ、と、幼い悲鳴をあげてが大笑いしてばたつくので参った。好きな子をくすぐる快感にはすべてを吐きだす終わりがないように思えて、このままどこまでもずぶずぶと、の呼吸が止まるまでこうしていられそうな気さえして、行為と愉悦のとめどなさがおそろしかった。

 終わらないものは。終われないものが。

 あっという間にはぁはぁ喘いで口で息して、白い肌が火照り、涙目になっている。少女の化身とでもいうような、幼くも完璧な痴態をさらしている彼女。もうこれはじゃない。はときおり、そういう不敵な縁遠さを感じさせる表情だとか、態度だとか、言動だとかをする。俺の腕を、握りつぶさんというぐらいに、強く握って、引っ張って、それで。

「先輩、もういちど。もういちど、しよう」

 「もういちど」がある不完全な世界。俺はこれ以上ないぐらいくだけた眼をして、優しくささやく。いちどで、いいんだ?
 エンドロールが流れ切る前に立ち上がってしまった映画を、ひとはちゃんと最後まで観たと言えるだろうか。たった一行でも読み飛ばしてしまった小説を、心に残る物語でしたと、平気な顔で言ってのけるやつは見栄っ張りの詐欺師だと俺は思う。
 完結をないがしろにするような物語ならば、はなから始まりなんて望まれていないということ。始まりさえ、ないことになる。だからなかったことにされてしまわないように、ひとは杭を打つのだ。ここから、ここまで、何かがあったのだと。

 汗のひかないうちにまた、不純なつがいは新しい汗に濡れていく。ここからも、ここまでも、今はまるで分からないふたり。きれいな化石になるには俺たちまだ、干からびるための度胸が足りていないのだ。









THE END

2016.8