※若干の性描写あり




 夕暮れの淡い翳りのなかに息づく彼の裸体を、一体なんと表現したらいいだろう。どこにも未熟さと無駄というものがない、まるで彫刻のように引き締まった腰や、芸術的に隆起した筋肉。それは、わたしにはもう男の子のからだというより、男のひとの完成された肉体のように映る。まわりの女の子は彼のことを「かっこいい」とか「かわいい」とか言って騒いでいるけど、わたしは断然こうだ。榛名くんはとても、美しい。ふとしたとき、何かおそろしさを感じてしまうほどに。
 なんの変哲もないわたしの小さな部屋に、彼の重たくて立派な体躯はなんとも不釣り合いだった。何度ここに榛名くんを招いても、彼の存在はこの部屋にうまく馴染もうとしない。だけど、ふたりがふたりで居られる場所はせいぜい、たまに迎えるゆるやかな放課後の、この窮屈な小部屋ぐらいのもので、どう足掻いてもそれ以上のくつろぎは許されていないのだ。物足りないだとか、つまらないだとか、味気ないだとか、感じている場合じゃない。わたしは、必死だった、いつも。彼を迎え入れること。彼の美しさに、押しつぶされないように。

「せんぱ、い、肩つかまって、ちゃんと」

 溜め息のような深い呼吸をまじえながら、榛名くんがわたしに命じる。二月の陽は短いようで長く、カーテンを閉め切っていてもまだ、彼の曲線がよくよく見えた。今、何時ごろだろう。もう長いこと同じかたちで規則的な動きを繰り返していた、彼の上体が、ゆっくり溶けだすようにうごめきはじめる。終わりが、近い。シロップ漬けになっていたようなはっきりとしない頭を、わたしはなんとかちからをこめて、動かした。

「っ、はな、はなれて」
「は、なん……」

 ゆるゆると首を横に振ると、彼はあからさまに気色ばんだ。わたしの半身を抱き寄せようとしたのか、伸びてきた榛名くんの左の手のひらに、同じように右手を伸ばしかえす。指先を絡め合った恋人つなぎがちょうどふたりを隔てる壁のようで、手の甲越しには、ぶあつく熱の堆積した彼の瞳が滲んで見えた。きゅんと胸がしぼむのと同時に、下腹部に溜まる甘い倦怠が、いよいよ弾けそうだった。

「榛名、くん……わたし、っ、もう……」

 手と手の奥で、彼の大きな両目が歪む。そのとき、ばかになりかけていたわたしの耳にも、榛名くんの舌を打つ音がはっきりと届いて、快感や痛みではないものでからだが大きく震えた。指先は乱暴に振りほどかれ、狭いベッドの上で、真新しくわたしを組敷こうとする彼の強引さに抗えるすべもない。ただ流木にすがりつく遭難者のように、なまぬるいクッションに爪を立て、ひたいを押しつけた。突然のこと、初めてのことに、強い抵抗感がせりあがってくる。

「や、だめ」

 自分でも何を懇願していたのか、わからない。ただ漠然とおそろしいまま、腰をつかまれた手から線形の鋭い刺戟が奔って、それはすぐたまらない非常な快さに反転していった。汗だくの今のふたりには、凍えるような真冬の寒さなんて無縁のはずが、こんな動物的なよろこびを注ぎこまれているせいで悪寒がとまらない。苦しいのとも、恥ずかしいのとも違う。それは、なんとも言えない幕切れだった。榛名くんとこういうことをするの、いつも通りちゃんと気持ちが良いのに、肝心の彼の鼓動とか温度とか、奥まったところに触れるほど遠のいていく。ふしぎな恋しさに襲われながら、わたしは、泣いた。
 榛名くんのことが大好きで、どうしようもなく、泣いていた。



 榛名くんとは、去年の夏、友人の涼音を介して知り合った。すごい一年生が入ってきたんだよね、と春先に彼女が騒がしくはしゃいでいたから、「ハルナ」の存在はなんとなく前々から知っていたけれど、初めて姿を目に焼きつけたのは八月の新人戦でのことだ。ああなるほど、一目見て、涼音の過剰なはしゃぎっぷりも理解ができた。この誰にとっても特別な男の子が、わたしにとって特別なひとになったのは、いつだったろう。涼音が引退したとき、わたしもしんみりとした気持ちで、彼に「これからもがんばってね」なんて言いに行った。そしたら榛名くんはいたずらっぽく笑って「先輩は引退しないでしょ」と返したのだ。それが、何? 今になって思えば、ほんとうに、なんてことない言葉だ。だけどそのとき、その言葉を与えられたわたしにも、その言葉を与えた榛名くんにも、何か新しい可能性が芽生えた。そんな気がした。そうだわたし、引退しないんだ、って。友人や、部活や、試合を触媒にしないでも、わたしたち、あのとき初めて、ふたりだけでふたりになったのだ。

 一二年生の期末テストが終わって数日が経った二月の終わり、卒業式の予行練習を兼ねた三年生の登校日があった。久しぶりに冷たい灰色のブレザーに袖を通して、校門をくぐる。学期末の校内は解放感に満ちていて、もう味わうことのないこののどかな空気を、少しだけ切なく、懐かしく思った。
 今日は自主練だけの日だと、彼はそう言っていた。午後四時、トレーニング・ルームのある特別棟近くのベンチに腰掛けて、あらためてスマートフォンの画面をのぞく。朝の教室で涼音がうれしそうに教えてくれた高校野球の情報サイトは、知らないふりをして熱心に話を聞いたけれど、ずいぶん前からよく知っていたしよく見ていた。各地の大会情報、無名の公立から名門私立まであらゆる野球部や選手の寸評を載せているサイトで、そこに昨日、榛名くんのインタビューが掲載されたのだ。夏の県ベスト4という成績も、二年生にして140キロ後半のボールを投げる才能も、きっとわたしが思っている以上に注目を集める輝かしいものなのだろう。それに、彼にはなんというか、えもいわれぬ野球選手としての華があるのだ。まわりが放っておかない。指のはらで、擦るように彼の写真をなぞる。見慣れているはずの整った顔が、こうしてみるとまるで別人のようだった。

『中学のころから、投球はバランスを大事にしていました。姿勢を崩さないこと、体の軸をまっすぐに保つこと。基礎練習はランニングと自重系のトレーニングが主です。速い球を投げようという意識はなくて、無理のない安定したフォームで投げることを常に心がけています。からだに変な力みが入ると、故障の原因にもなるので。……』

「……中で待っててくださいって言ったっしょ。約束守ってくださいよ」

 首筋にやわらかな温もりがぱさりと降ってきて、わたしは慌ててスマートフォンをかばんの外ポケットにひっこめた。顔を上げて振り返る。ベンチの後ろに立っていたのは、写真のなかでよそゆきの笑顔をしているのとは違う、いつもの、自主練あがりの榛名くんだった。マスクをして、紺色のグランドコートを首までぴっちり閉め、そして、重たそうなエナメルバッグを右肩にだけ、かけている。

「ごめんね、でももうすぐ終わるかなって思ったから」

 榛名くんはとんでもなく小顔だからマスクをすると目の下までほとんどの表情が覆われてしまう。それでも、いま、彼の大粒の釣り目がやや不機嫌そうな光を溜めていることはよくわかった。マウンドでは強気なカオを崩すことなどめったにないのに、普段の彼はむしろいろいろなことが顔に出やすいタイプだ。憮然とした表情のままベンチの前に回りこみ、彼は腰をかがめてわたしの首にかけたマフラーをぐるりと一周巻きつけた。榛名くんの匂いがする。それだけでたちの悪い酩酊に襲われそうな、二月の午後。

「これ、だめだよ。榛名くんの」
「先輩寒そうなんで、あげます」
「寒くないよ。榛名くんが、風邪ひいちゃう」
「あんねえ……」

 もどかしそうな声で唸って、指先でマスクを剥ぎとりながら、榛名くんは大きな溜め息をついた。人一倍の目力をもっている彼にねめつけられると、いつも、返そうとしていた言葉を忘れてしまう。そういうやり方でよく、彼はわたしを黙らせた。本人はそんなつもり毛頭ないのかもしれないけれど。

「言っときますけど、おりゃ、あんたの数倍頑丈にできてます」

 仁王立ちのまま、きっぱりと言い放つ。思わず、えっ、と聞き返してしまいそうになったのは、それが唐突な宣言でもあり、わたしにとって痛い図星でもあったからだ。頑丈だなんて言うけれど、普段の彼の神経質なそぶりを見ていたら、とてもそんなふうには考えられない。何より、互いに触れあえば、まざまざと思い知らされる。付き合う前には思いもよらなかった、彼のまとう肉体の緻密さを。

「誰の入れ知恵か知りませんけど、……気ィつかわれてんのわかるし、そういうのうざってえし……つかあんたに肩つかまれるぐらい、マジでなんともないんですよ」

 なんでこんな当たり前のことを言わないといけないんだ、というような怠そうな態度で髪をかきむしり、彼はそう吐き捨てた。はっとする。マフラーを貸す、貸さないの話をしていたはずが、彼の苛立ちは思わぬところに根を張っていたみたいだ。
 数日前、テスト期間の最終日に彼としたことを思いだす。あのとき自分でもとっさにどんな推量をしたのか、あからさまに彼にしがみつくことを忌避したかったわけではないけれど、確かにあれはそう思われてもしかたがないような土壇場の拒絶だったのかもしれない。
 エナメルバッグを置いて、わたしのとなりに榛名くんがどかりと腰をおろす。俯きかけの榛名くんになんて声をかけたらいいか考えて、考えながら、鼻筋の通った彼の横顔がやっぱりとても美しいとぼんやり思った。

「怒ってるの? こないだのこと……」
「はあ、怒ンのはそっちだろ。俺、あんとき頭とんでて……酷いことしたし」

 声が小さく、まごつくのは、彼なりの罪悪感のあらわれなのだと思う。何も言わずに急にわたしをうつぶせにして、押さえつけ、なんの遠慮もないちからで行為をやり遂げたこと。こわくなかったと言えば、嘘になる。だけどそれは榛名くんの余裕のなさや、豹変した態度に対してではなく、したことのない体位や、どこまでもしつこく打ち寄せる刺激に対する恐怖だったはずだ。わたしのからだだって、きっと彼が思うほどやわにできてはいない。それにもしもわたしに触れる彼の手に、少しも慈しみがなかったのなら、わたしは迷わず彼を軽蔑していたに違いない。どんなに取り乱していても、彼は彼だったし、彼はわたしをわたしで居させてくれた。お互い、いらない遠慮をしあっていたから、ちょっとの掛け違えであんなことになってしまっただけなのだ。

「酷くない。榛名くん上手だから、気持ちよかったもん」
「……なんなんすかほんとあんた」

 こそこそ話でもするみたいに彼の耳にそう吹きこむと、榛名くんはのっそりと顔を上げ、怪訝そうな瞳をこちらに寄越してみせた。その表情はなんだかげんなりとしていて「呆れた」とでも言いたげな様子だったけれど、息を触れたかたちのいい耳のはしが赤く色づいていることに、わたしは目ざとく気づいてしまう。
 恵まれた容姿と、才能を、すくすくと育てているのに、彼はまだ異性に甘やかされるという経験に乏しいみたいだ。でもね、あなたの人生にはこれから、あなたをちやほやしたいだけの女がたくさん現れるよ。わたしはきっとその末席にいて、いつか、いやおうなく彼の過去になる。とても盲目になんてなれない。だけど、いま、ひたむきに見つめることはできる。願わくはそれを、そんな経験を、恋と呼んでみたい。

 ふてくされてしまった年下の恋人の機嫌を直すには、まだ少し、時間がかかるみたいだった。ポーズでもなんでも、お互いの目の届くところで感情を消化するのはふたりに必要なことなんだろう。それにもう、かたくなな彼の不機嫌を溶かすすべなら、心得ている。わたしはちょっとだけ迷って、それから、うなだれている彼の左肩をそっと撫でてみた。ごめんねと言うかわりに、ありったけの静けさと愛をこめた、この手のひらで。









THE END

2017.8