夏の終わりの晴れた午後、田島くんが「一緒に行かね?」と言ってわたしに差しだしたのは、二枚のプロ野球のチケットだった。

 初めてのデートのお誘いは少々ぶしつけで、そして唐突だった。何せ当日になっていきなりわたしの家のインターホンを押してのことだったから。ふたつ返事で家を飛びだしてきたというのに、自分から誘っておいて彼はあまり試合観戦に乗り気ではないようだった。お父さんの仕事の関係先からもらったチケットが彼のもとにめぐってきてしまったらしい。無駄にしたらうるせーし……とぶつぶつ言う彼の態度はとても女の子の気を良くするものではなかったけれど、彼なりの照れ隠しだと思えばそう悪くない。夏の最後の思い出に、彼はわたしを選んでくれた。それだけでわたしの心はうわずって仕方がなかった。

「あんまプロ野球って興味ないんだよなー。やっぱ見るよりするほうが楽しいっつーか」

 球場に向かう電車のなかで、流れる景色を眺めながら田島くんはぼやいた。毎日、毎日、朝から晩まで練習しているのだから、興味がないというよりもテレビで野球中継を見ている暇なんてそうそうないのだろうと思う。わたしったらこの夏どこにも行かないで、一体どれだけの時間をクーラーの効いた部屋でテレビを見ながらやり過ごしただろう。いつだって全力疾走の彼が今わたしのとなりに居てくれることが、とてもふしぎな巡りあわせであるような気がした。

「未来の職場見学だと思えばいいよ」

 球場前の駅で、黄色の電車がかくんと揺れて止まる。わたしがなにげなく発したその言葉は存外に彼の気に入ったようで、田島くんはまるで鼻歌でもうたうように小気味よく「おお、いいなそれ」と相槌を打った。

 球場までの道のりも、試合が始まるまでも、始まってからも、わたしたちはふたり並んでずっとたわいのないお喋りをし続けた。彼は自分の身の回りのことを、上手にわたしに話してくれた。野球部のこと、新人戦のこと、家族のこと。短い夏休みの離れ離れが、言葉を交わすたびに少しずつ歩み寄っていく。むしろこんなに近くに彼のことを感じたのは初めてというくらいだった。

――あの子たち、中学生のカップルかな?
――ほんとーだ、初々しくてかわいい~。

 フードコートですれ違ったビジターユニフォームのお姉さんたちが、そんな会話をしていたことを思い出す。残念、わたしたちは中学生じゃないし、わたしは田島くんの恋人でもない。付き合っているわけではないけれど、好きだということは伝えてしまった。夏休みが始まる前のこと。今はの気持ちに答えらんないと言われたけれど、フラれてしまったのとは少し違うように思う。だって想いを伝えてからのほうが、ずっと彼との距離は縮まったのだ。女友達は「それ、キープされてるだけじゃない?」と口をそろえて言うけれど、それならそれでも構わない。わたしだって田島くんのこと、キープしてる。あとさきのことなんて考えずに、今このときのふたりを続けていたくって。

 その日の試合は序盤の同点を最後まで引きずるじりじりとした展開で、ゲームを決めたのはけっきょく八回裏ツーアウトからの一本のソロホームランだった。代打で打席に入った高卒ルーキーが、満点のフルスイングでスタンドをこの日いちばんの大歓声で湧かせた。歓喜の渦に蹴落とされそうになりながら、わたしたちは颯爽とダイヤモンドを一周するルーキーの姿にしばし釘付けになっていた。

「あのひと、田島くんとそんなに背丈かわらないね」

 思っていたことがそのまま声になった。田島くんはちらりと一瞬だけわたしを見て、また、総立ちのベンチに迎え入れられる彼のほうへと視線を映した。

「縦はな。横がちげーよやっぱ」
「横ならなんとかなる」
「テキトー言うなっての」

 口では邪険にして軽く笑いとばすけれど、心のなかはもう、さっきまでの消化不良なシーソーゲームではいられない。遥かなあこがれの染みついた、一等星の輝きを宿した彼の瞳を、わたしは何度もちらちらと真横から盗み見た。彼もこういう眼をするんだ。彼も誰かや何かを「遠い」と思うことがあるのだ。たった一球を、たった一振り。その一本が、一夜のヒーローを生む。そのきらびやかな瞬間を胸に刻みつけながら。

「ホームラン打ちたい?」

 小さな声で彼にそう問いかけた。聞こえなかったのかもしれないし、答えなかったのかもしれないし、答えられなかったのかもしれない。それきり、わたしは彼が話しかけてくれるまでじっと黙りこくっていた。

 九時過ぎに試合が終わって、先輩の抑え投手と一緒にお立ち台に上がるルーキーの姿を見届けてからドームの外に出ると、駅までの道のりは来たとき以上にひとでごった返していた。あちらこちらで興奮の尾を引いたファンのひとたちが楽しげに騒いでいる。駅に向かって少し歩いたところで、田島くんはおもむろにわたしに向かって腕を突きだした。いつもまっすぐひとの眼を見て話す田島くんが、めずらしく遠慮げに視線を逸らしていた。

「つかまっとけ、はぐれっから」

 田島くんの手のひらは熱くて、豆だらけで、そして少しだけ汗ばんでいた。大好きな男の子と手を繋いで、誰かのざわめきのなかを、静けさを身にまとってふたりで歩く。緊張なのか恥ずかしさなのか、右半身がぴりぴりと痺れるように痛い。言葉がなくなれば、言葉ではないものがかわりに嵩を増して、わたしたちのことを遠慮げに結びつけた。

「今日、あんがとな。付き合ってくれて」

 わたしのほうこそ、と即座に返すと、また会話がぷつんと途切れた。なんだか、行きの道では簡単にできていたことが、今は少しだけむずがゆくてやりにくくなっている。この数時間のうちにもふたりはいつも通りのふたりを続けているようでいて、こっそり、違うふたりになってしまったのかもしれない。田島くんの歩くスピードは次第にかすかに速くなっているようで、わたしのいつもの歩幅では少しだけ無理をしなくてはならなかった。

「さっきの話の続きだけど」
「……さっき?」
「俺がもしホームラン打ったらさー、」

 あ、と思う。あのとき、やっぱり声は届いていたのだと。田島くんはわたしを振り向き、にやっと口もとを緩めた。ホームラン。田島くんの口からその単語が飛びだして、妙に自分がどぎまぎしていることに気がついた。

にお祝いしてもらおっかな。どう?」

 もしも彼がホームランを放ったら、誰もが彼を祝福するだろう。そんなものなくったって、いつでも彼はチームの中心にいるほんとうのヒーローなのだ。四方八方から飛び交う「おめでとう」をくぐり抜けて、わたしはそのとき彼に何を届けることができるだろう。今はまだ分からない。ただ、そんな日がくるとして、それがいつの日だったとしても、わたしはまた今日の日のように彼のとなりに居たい。恋人じゃなくても、分かちあうものは何もなくても。夏の最後の思い出に彼がわたしを選んでくれたように。

「いいよ。もちろん」
「よっしゃ。なんかねだろ」
「なんかってなによお」
「それは当日のお楽しみっつーことで」

 いつかの日のための約束を交わして、ときおり言葉をふちどる切ない気配に、わたしは何度も見て見ぬふりを繰り返す。
 夜風はすでに秋の匂いだった。わたしたちはいつの間にか夏の終わりではなく秋のはじまりに立っていた。新しい季節の風が吹いている。涼しさをさみしさにすり替えて、ふたりはどちらからともなく結んだ手のひらに力をこめた。









THE END

2016.8