――わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリント2:4-18)

 てっぺんの十字架が朝の光を受けて青白く輝いている。そのまぶしさに目を細めながら、石畳の道を踊るように歩いてゆく。中等部と高等部が一緒くたになっている広い敷地内は、淡いピンクのまだらに染まり、まだ少し肌寒い風が前髪をするりとなびかせた。落ち着きなく散っていく花びらに紛れて、プリーツスカートも揺れる。なんて良い天気なのだろう。足どりは羽根のように軽く、春の上昇気流にのって、そのままつま先が浮いてしまいそうだ。温室みたいなこの空間に一生守られていたいなあ。唐突に浮かぶざれごとも、すべてわたしの心が導き出したほんとう。ここから一歩も外に出ないまま、大好きなひとのとなりで、くだらないことに笑いながら、何もかもが始まりと終わりを繰り返せばいいと思う。そんなこと、夢物語だと分かっているのに、心はいつもわがままだ。
 春の黄色い陽ざしをきらきらと反射しているステンドグラスを見上げて、一呼吸を置いたあと、ずっしりと重たいチャペルのドアを両手でひらいた。そこはまるで光を閉じ込めた小さな箱のような世界だった。白く、内側から光を放っている。校舎の南側、敷地内にある小さなチャペル。右列、前から三番目。神さまの近く。ここはあなたの特等席だ。

「りーおっ」
「……うるせえの来た」

 長椅子の背からおどかすようにのぞきこむ。椅子をベッド代わりにすっかり居眠りの体勢に入っていた利央は、わたしが声をかけると眉をひそめ、眠気に吐きだされた声を洩らした。高等部への進学に際して彼のブレザーも新調されたはずなのに、はやくもそれは、ちょうどいい掛け布団と化している。第二ボタンまでだらしなく開けられたシャツ。首筋には銀のロザリオのチェーンが流れているのがちらりと見える。それを色っぽいな、と感じてしまうわたしも、だいぶふまじめな人間なのかもしれない。

「入学式の日ぐらいちゃんと制服着たらいいのに」

 上までボタン閉めなよ、と言うと、彼はめんどくせーとぶっきらぼうに吐き捨てて寝返りをうった。色素の薄い髪の毛が彼のひたいの上をさわさわと揺れる。きれいだ。

「起きろっ」
「……イッ」

 頭にグーをひとつ落とす。かわいた音と一緒に彼の呻き声があがる。彼は頭をさすって「しんじらんねぇ……」なんて呟きながら、しぶしぶをからだを起こした。いつもならあまり荒い手をつかってまで起こそうとはしないのだけれど、今日は特別だ。わたしたち新一年生を迎える入学式の開始時間は刻々と迫りつつある。ここでまた新たな「始まり」が生まれるのだ。そんな特別な日にいつもと同じように眠っている彼が、わたしにはとても無神経にも映る。でも、少し考えてみる。彼にとって中学とか、高校とか、その枠組みの違いは一体何だろうかと。だって、彼はいつだって白球を追いかけているだけなのだから。それだけが、この場所にある、彼にとってのほんとうのことだ。

「春休みに、ここで結婚式があったの知ってる?」

 ぶらぶらと脚を揺らしながら、利央に向かって首をかしぐ。彼はわたしと目を合わそうとしない。大きなあくびをしながら、掛け布団にしていたブレザーのポケットを探っていた。

「あー? 知らね」
「うそ。毎日、野球で学校来てたじゃん」
「そんなん、いちいち見てねーし……」
「わたし見たよ、図書館行った帰りに。二人とも卒業生なのかな、そういうのいいよね」

 薄い雲が流れる、春の嵐のなか、華やかなステンドグラスの高さまで晴れ晴れとブーケが舞い上がる。わたしにはまだ、そこにこめられている幸福というものがぴんとこない。そういうのいいよね、なんて口だけで、ほんとうは羨ましいとさえ思わなかった。いつか、わたしの内側にもあの清潔な儀式のような望みが湧きいでて、誰かのとなりでウェディングドレスを着たいと思うのだろうか。なんだか、笑ってしまう。少なくともその「誰か」は、目の前にいるこの魅力的な男の子ではないはずだ。
 わたしと利央には、かたちがない。
 忙しい彼に「付き合ってほしい」なんて、そんな大それたことは言えなかった。付き合っている二人どうしならこれをしないといけないとか、ああなるべきだとか、そういうかたちに囚われるのも嫌だった。そんなふうになったら利央はきっとわたしのことを傷つけるしかなくなってしまうだろう。あいまいな関係に甘んじていると言われれば否定はできないのかもしれない。かたちのない現状が、彼にとって都合のいい、軽いものだということも知っている。だとしても、それがわたしの望みでもあるならば、まったくもって仕方がない。どうしようもないことだ。

「……つうか、なに良い子ぶってんだよお、それ」
「だって入学早々、目つけられたくないじゃん」

 ルールなんて、そんなものだ。きっちりといちばん上までボタンを閉め、ネクタイを結んでブレザーを着こんでいるわたしを、利央は眠たそうな目を擦ってじろりと見据えた。わたしはわたしで、やわらかい髪の毛をくるくるともてあそぶ人差し指を観察していた。なんだか悪い催眠術にかかってしまいそうな、そんな緩慢な指の動きだった。

「なあ、ネクタイ曲がってる」
「え、うそ」
「貸せ」

 その指で、ちょいちょい、と利央がわたしを招く。貸せ? 身を乗りだすと、彼はいきなり、わたしのネクタイに手をかけた。その強引な力に少し、前のめりによろめきそうになって、椅子に手をつく。まだぼんやりとした表情のままでいる利央は、まるでわたしとは別世界で生きて、呼吸しているみたいに見える。突然のことに何も言えず、かたまっているうちに、しゅるり、と首もとで衣擦れの音がした。うつむくと、利央の指がわたしのネクタイの結び目に触れていた。

「なに、す……」

 一瞬、ネクタイの歪みを直してくれているのかと思った。だけど、彼の手つきを見てその考えはすぐに撤回された。利央は器用にネクタイを緩めていたのだ。そして、あろうことかシャツの第一ボタンを外そうとしているのだった。わたしはとっさに利央の手を掴んだけれど、大きな目で見上げられ「直してやってんだよ」なんて真剣に言われたら、それだけで返す言葉を失ってしまう。利央の髪の毛の匂いがぐらりとよこしまな気持ちを揺さぶる。彼の指はけっして器用なわけではないのに、今はなぜか繊細にやわらかく、わたしの首もとを踊っている。されるがまま、上からボタンをひとつはずされ、ふたつはずされ、みっつめをはずされてしまったとき、足もとにほどけたネクタイがするりと落ちていった。蛇の舌みたいに、ネクタイの冷たい表面が、太腿を舐めてすべっていく。わたしはやっと、目が覚めたように彼の手を払った。息が上手く吸えなかった。曲がっていたの、直してくれるんだと思ったのに。嘘つきな手のひら。鎖骨のあたりにひとりでは生めない、彼に与えられた熱がじくじくと染みついていくのが分かった。もうすぐ入学式が始まるというのに、こんなとき、こんなところで。視線を落とすと、はだけだシャツの隙間から下着の色がのぞいていた。

「り、お?」
「……やべ、スイッチ入った」
「! 間、わっ、わる……!」

 と叫んで、肩を押しのけようとしてみても、もはやわたしの非力は意味をなさない。長椅子のかたい座面が背中に触れる。そうやってからだが投げだされるだけで、わたしは自分がとても無防備で、脆い存在なのだと思い知らされる。両脚を椅子に乗せておくにはここは窮屈で、わたしは右脚をおろさないといけなかった。ふにゃりとしたローファーのかかとの感触はきっと、真新しいネクタイを踏んづけたせいだろう。お行儀わるくひらいた脚。めくれあがるスカート。利央が、わたしを見下ろしてふっと意味ありげに笑った。――ああ、もう。

「なあ、お前もさ、結婚したらここで式挙げたらいいんじゃん」

 結婚。利央の邪悪な唇から聞くと、あらためて、わたしたち二人にはまったくふさわしくない言葉だと思える。この身に押し寄せる重みをはねのけながらも受け入れ、わたしは利央の鎖骨に手をすべりこませた。彼の心臓にいちばん近いところに仕舞ってある、金色のロザリオ。彼はいつもわたしに触れる前に、この十字架に口づけ、チェーンを首からはずす。格好つけているわけじゃない、それが、彼の日常であり、彼の信じるまじないなのだ。わたしは彼のいつもの仕草を真似するように、十字架のかどっこにキスを落とした。信仰心も何もないのに。

「そしたら利央がお婿さん?」
「ばーか。でも、式には出てやってもいいぜ」

 利央の不敵な唇がぐっと近づいてきて、わたしの耳たぶにわざとらしく息が触れた。きっと天国にも届かない、小さな彼の悪事。利央の真下にいるときだけ、わたしは神さまよりも彼にかんして全能だと思える。

「で、お前の花婿に吹きこんでやるから。アンタの結婚相手と、俺は高校ンときここでヤリまくってたってさ」

 結婚も、式も、花婿も、どれをとっても非現実的な、手の届かない既製品の幸せでしかないというのに、どうして彼は手垢のついたその言葉たちをこんなにも生々しくつなぎ合わせることができるのだろう。ばーか、の一言で一蹴されてしまった笑えるくらい退屈な、将来の夢を訊かれて「お嫁さん」と答えるぐらいつまらない、わたしの思い浮かべた未来なんかより、ずっとずっと、彼の挑発は的を射ている。それに、彼がわたしにささやいたのは、遠い日の甘い嫌がらせの予告だけではない。もっと近くにある、手の届く未来のはなし。わたしたち、今日から高校一年生なのだ。

「いいね、それ」

 すごくいい。まばたきをしながら、うっとりとつぶやく。のっぺらぼうの、わたしの未来のお婿さんのことなんかよりも、目の前の大好きな男の子のことのほうが、わたしをずっと気持ちよく、夢見心地にしてくれる。彼に腕を回して、わたしは上目づかいで首をかしげた。それがとてもずるい仕草であると、したたかに知りながら。

「じゃあ、今日からたくさんいけないこと、しようね」

 二人、高校生活の始まりの一日。こんなにも胸に焼きついて離れないひとつひとつも、いつか無関心にも似た淡泊さで平等に遠ざかっていくのだろうか。そのとき、わたしは彼のことを、どんな存在として切なく思いだすのだろう。彼はわたしのことを、どんな存在として、胸にとどめ、忘れていくだろう。
 あの清らかな白球と、金属バットが奏でる音。土の匂い、汗のしたたり。「ありがとう」を分かちあえる、泣き笑いする仲間たち。願わくはそういったものたちとはまったく違う場所に、わたしを匿ってくれたらいい。青春の日なたではなく日影に。永遠なんて、贅沢は言わないから。
 利央の人差し指が、彼にしかさわれない或るところに触れている。吐息が洩れる、それだけで良い。やましさを帳消しにする金色のロザリオをあなたがかなぐり捨てたとき、二人の「いけないこと」が、静かに始まる。









THE END