ex 淡水の箱庭

※ 天童の卒業をめぐる後日譚




 雑木林に沿って、ときおり白い泡を立て、底まで透明な水が流れている。木漏れ日が差したとき、水のおもてではないものが一瞬だけちらっとまたたいた。それは、無知なにとっては名前も分からない、群れなす淡水魚の銀色のうろこだった。

「せんぱい、いま、魚が泳いでた」

 窓の外を過ぎていく景色を指さしていちいちが目に映るすべてを報告してくるので、できることならただ道なりに目的地へ運ばれていきたいだけだった天童も、彼女に応えるため仕方なく何度も何度もその懐かしくもない風景に目を向けなくてはならなかった。わあ、きれい。見て、見て。あれ、なんだろう。の声が弾んでいる。きよらかな湧水のように、あとからあとから、とどまることなく溢れいでて。
 だいぶ険しくなってきた山道にはまだ、雪が深く積もっていた。三月も半ばとはいえ冬のなごりはまだしぶとくこのさみしい町のそこらじゅうにこびりついている。天童は、さんざん窓の結露をこすって赤くなってしまっているの指先をついに絡めとった。もうすぐ着くよ。そう告げると、やっとは窓から視線をはずして、天童を見上げた。こくんとがうなずく。そして、押していい、とことわってから彼女はバスの降車ボタンを押した。
 がらんどうの車内を抜け、さびれたバス停に降り立ってまず、天童はバス停の時刻表を確認した。バスは一時間に一本あるかないか。判読しづらい薄く剥げた数字の羅列に目を通しているうち、つないでいた右手はいつの間にかからっぽで、顔を上げたときにはもうは数メートル先を歩いていた。慣れない雪道を、ショートブーツで踏みしめながら。

「あ、こら。気をつけてよ、足もと」

 そんな天童の忠告むなしく、は雪かきをしたあとの薄い氷のじゅうたんのうえで盛大なしりもちをついた。慎重に歩けばどうってことないものを、どうも今日のは落ち着きがなかった。浮かれているのだ。この、初めての小旅行に。めぐる場所は別に、観光名所でもなんでもないのだけれど。

「あったた、」
「だーから、言わんこっちゃないって……」

 痛い目をみてもは懲りずに楽しそうで、笑いながら天童に向かって、ん、と両腕を伸ばした。は天童より二つ年下で、高校生の彼らにとってその歳の差はときに無視できないほど大きな溝でもあったけれど、こんな瞬間はその歳の差が二人を甘く心地良くふやけさせた。そういうものとして機能するなら大歓迎だ、と彼は思う。二つの歳の差が、そういうものとしてだけ、あるならば。

「起こして、せんぱい」

 ほら、甘い。せんぱい、の響きが。言い方が。そこに添えられている仕草や視線が、ぜんぶ。天童はわざわざ「しょうがいないな」と言うふうに溜め息をついて、チェスターコートのポケットから手のひらを取りだして彼女を引っぱり上げた。そして二人はまたかたく手をつないで、ふと同じタイミングで同じほうを向いた。
 天童は今、と二人、自分が三年間通った中学校の前に立っている。
 けっして天童ひとりでは足の向かない場所だった。用もなければ愛着なんてもっとない。それでも、がどうしても行きたいと言った。彼にせがんだ。先輩のふるさとで、先輩の育った家とか、先輩の通った小学校とか、中学校とか、遊んだ空地とか、通ったあぜ道とか、見てみたいの、と。そのときも彼女は甘くふやけたような声を出したものだ。それこそまるで、とびきりの口説き文句のように。

 好きだ、付き合おう、なんていう常套句の栞がどこにも挟まっていないから、二人の関係をいちから紐解こうにもどこをひらいてみたらいいか、本人たちにも分からない。天童の行為は強引だったし、の態度は曖昧だった。冬の入り口で二人が初めて抱き合って、ようやく互いを恋人であると名づけられるようになったとき、あたりはもう生暖かく春めいていた。四月だった。あれから一年が経とうとしている。けれど、二人がまた同じように四月を迎えることは二度とない。
 この三月、あと数日もすれば、天童はひとり異国へと飛び立つ旅客機に乗っている。



 ――明日、お祭りに行く前に、ちょっと大事な話がある。

 その一行のメールがのもとに届いたのは、まだ夏休みも終わりきらない、八月のお盆のころだった。
 混みあったコーヒーショップの片すみの席で、アイスカフェラテの氷をストローでしゃりしゃり言わせながら、は天童の話に耳を傾けた。ほんの少し、浴衣が着崩れしないようにと意識をつまらぬことに散らして。いずれ必ず聞くことになる、十八歳の彼の、少し先の未来の話。だって今まで、何も考えてこなかったわけではない。それでもどこかで漠然と、きっと大丈夫だと思っていた。天童自身のことではなく、いつも、二人のことを考えながら、輪郭もないような甘ったれた夢想を胸に抱き続けていた。

「俺はね、ちゃん。白鳥沢を卒業したら、一旦仙台を離れようと思ってる」

 だからだろうか。迷いのない天童の言葉を、はすぐには飲みこむことができなかった。大事な話、というメールの中の言葉がようやくの胸に落ちていく。顔を上げ、散漫になっていた注意力をゆっくりと天童に宛てがい集めて、はまじまじと彼の顔を見つめた。

「離れるって……県外の大学に行くってことですか」
「いや、大学には行かない。バレーも続けない」

 天童はのことをまっすぐ見つめ返して、はっきりとそう言い切った。
 白鳥沢学園は宮城ではいちばんの伝統あるバレーの名門校で、監督も地元の大学と強いつながりを持っていたから、もしも天童がバレーで大学を選びたいのなら進路はおのずと絞られる。天童自身が望むのならばチャンスをくれる大学が、このあたりにはきっと何校かあるだろう。現に天童と同じくバレー部に所属しているの兄は、スポーツ推薦の制度をつかって地元の大学に進む準備をすでに進めている。そんな兄の姿を近くで見ていたから、知らず知らず、天童の進路もきっと同じようなものだろうと、勝手に高をくくっていたのかもしれない。唐突に、まったく予想だにしていなかった進路の話を告げられ、は動揺した。頭のなかが、まっしろになった。
 天童が口にした、今まで誰にも言ってこなかったという具体的な異国の土地の名前、ひとの名前、パティスリーの長ったらしい店の名前が、の深層にはけっして届かずにいつまでも鼓膜のあたりで停滞し続けている。耳には入っても、頭でなぞることはできなかった。
 高校三年間の学校生活にしたって彼は自分のしたいことのために遠くからはるばる出向いてきたようなひとだ。だからこそ、彼の言葉には重みがあるのだと思う。真実味があるのだと思う。遠くへ行くことをいとわないどころか、進んでそうしようと思えるような性分のひと。たとえ、今居る場所に未練があったとしても。未練――。一瞬でも、自分を天童にとってそういうものとして位置づけようとしたことが、にはおそろしかった。他人のことは分からない。自分の漠然とした願望なんて、まるであてにならないというのに。
 ひととおり話をし終えると、ようやく天童は放ったらかしだったアイスコーヒーをひとくち口にした。クラッシュアイスが溶けだして、それはもうだいぶ薄くなっていた。

「……ここまで言っておいて、何も物にならなかったらダサいけどね」

 天童が話しだしてから初めて、二人のあいだに沈黙が横たわる。それは何か、からの反論を、疑問を、詰問を、待っているかのような沈黙だった。他人の人生を詰る権利なんて、そもそも誰も持たない。それなのに、そんな越権をかたちだけでも許そうとしてくれている天童の態度が、には気に食わなくもあった。何、それ。最初から、聞く耳なんてないくせに。それでいいのに。だけどそんなやさぐれた本音など、もちろん口にできない。ほのめかして見透かされるのもこわい。だから、はこの件に自分から深入りするつもりはなかった。

「……大丈夫ですよ、さとり先輩なら、きっと」
ちゃん」

 なんともタイミングよく、ほのぐらい感情をすくいとるように天童がの名前を呼んだ。傾きかけた西日も、天童の真剣なまなざしも熱くて、痛いぐらいで、浴衣のうちには人知れずいやな汗をかいた。

「今言ったのは、俺のことだから。でも、俺たちふたりのことは、ふたりで、これから一緒に考えようね」

 まあ、まだ当分先のはなしだから、また今度ゆっくり話そう。そう言って、天童がめずらしくなんのてらいもなく笑った。それはちょっと、びっくりするくらい大人っぽい表情だった。
 一緒に考えたところで、ゆっくり話したところで、何か変わるものか。あやすような口ぶりに胸を撫で下ろすのは一瞬で、はまた、身勝手な失望をその言葉に感じてしまう。この感情を見抜かれてしまうのもおそろしいけれど、たやすく秘密にできてしまうのも不安なのだ。そんなわがままが胸を衝いて、だけどそれ以上、天童がこの場でその話をひろげることはなかった。

 夕方になってコーヒーショップを出ると、二人は長い影をとなりどうし並んでつくりながら祭りのうずのなかへと赴いた。打ち上げ花火があるわけでも、神輿が出るわけでもない。野暮ったい地元の夏祭りになんか二人ともすぐに飽きてしまったし、見知った顔に出くわして二人きりを邪魔されるのもうっとうしかった。陽がすっかり落ちて、天童が二本目のラムネを屋台の氷水いっぱいのクーラーボックスから引き上げたとき、そろそろ行こうか、と彼はに目配せをした。買ったばかりのあんず飴がもう、お腹にすとんと落ちなくなる。祭りのざわめきを遠ざけるように、宵闇のさみしい県道沿いを歩きながら、二人は手に持っていたラムネとあんず飴を互いにとりかえっこした。ラムネの優しい炭酸が、にとって緊張をほぐすのにはありがたかった。

 二人で何度か利用したことのあるその休憩用の安宿は、きっとラブホテルというよりも連れこみ宿といったほうがしっくりくるような外観をしているだろう。どうやらここの経営者は内側を改装するだけで力尽きてしまったらしく、今風の内装に比べ時代遅れの見た目をしているせいか、使い勝手がいいわりにあまり繁盛している様子がない。潰れたら困るなあ、と呑気に思いながら、天童はをベッドに横たわらせた。そしてようやく、つとめてさりげなく聞こえるように、の浴衣姿を彼女の耳もとで褒めてやった。浴衣、似合っててかわいいよ、すごく。ついでに、こうもつけ足した。せっかくかわいいのに、崩しちゃっていいの、と。
 浴衣の下を暴かれる前に、もうの胸はいっぱいになった。生まれて初めて、恋人に見てもらうため、かわいいよ、と言ってもらうために浴衣を着つけてきたのだ。もちろん、脱がしてもらうためにも、だけれど。そのすべてが叶ってしまった。欲しいものはすべて、今、彼女の手のなかにある。そういう状態を、ひとは幸福と呼ぶのではないか。帯をはらりとほどかれ、ゆるんだ襟口やはだけた裾の端からあちこち愛撫を受けながら、はずっと今ここにある幸せについて考えていた。こんなにも満たされているのに、どこかに穴があいていて、満たされたぶんだけ絶えずそこから幸福の粒子が流れ堕ちていってしまう。そんな気がしてしまう自分が、憎かった。わたしに穴を開けた張本人が、わたしの足りなさを埋めている。そう、思いながら、は天童を受け入れた。

「せんぱい、うしろ手伝ってほしい」

 情事のあとのだるい身体をシーツのなかからなんとか起こして、は皺のついた浴衣を拾いあげた。ひとりで着直せるように何度も練習したはずなのに、薄暗い、慣れないバスルームではなかなか思い通りにはいかなかった。観念して、はベッドのほうへ向かって遠慮げに声をかける。すると下着一枚の天童がそろそろ近づいてきて、の言うことも聞かず、そのまま彼女の背中にぴたりと身を寄せてしまった。乞いねだっているような仕草で、彼はのうなじに口づけを落とす。目の前の大きな鏡にその所作の一部始終が映っていて、は目を伏せるしかなかった。

「もーお、着ちゃうの?」

 浴衣にふたたび袖を通してからそんなことを言うのは、彼がもう一度、この夏の布地を剥ぎとる興奮を味わいたいからなのだろう。下腹部に、じわりと暗澹としたこそばゆさが滲む。これが彼女の性欲のしるしだった。お腹になにか、重たいものが、体積を増すような心地。浮かばれない心地。腰に回った腕に手を添えて、なんの牽制にもなりはしないが、は窮屈そうに身をよじった。

「だ……って、時間かかっちゃうかも、だし」
「だーいじょーぶだって、あと一回くらい。……ね」

 ひとは色んなところで、すきまを縫うように抱きあえる。そんなことを、学んだりする。洗面台に並んだ安っぽいアメニティをばらばら床にこぼして、はそこに抱き上げられた。鏡に向かって後ろから抱かれるよりはずっといいと思った。の内ももが、あっという間にまた濡れる。自分のなかにいともたやすく天童が入ってくるさまを、彼女はまざまざ見せつけられた。体勢も、かたい洗面台の即席ベッドも、つらくて、だけどその険しささえも今の二人にとってはひとつのアトラクションのようなものに過ぎない。のしかかる熱に、息もたえだえはすがりつく。どんなに優しく撫ぜられたって、奥まったその場所に彼が触れれば、それはいつも暴力だった。

「は、っわかる……? 、っ」

 ここがね、いちばん奥だよ。限界の近くで、天童が今さらの耳を食みながらそんなことをささやく。煮立った頭のなかにそんな言葉が放りこまれても、一瞬でどろりと跡形もなく溶けていくだけだった。

「ここにだすからね」

 が耐え切れない様子でこくこく頷くと、天童は満足そうにきれいな溜め息をついた。ここにだす、と言っても、実際は袋小路の薄い膜のなかに吐きだすだけなのに。彼はときおり、言葉だけそうやって興奮を煽るようなことを紡ぐのだ。行き止まりを執拗に擦り続ける動きに合わせて、無意味な吃音が絶え間なく溢れそうになるのをなんとか噛み殺して、は天童の首をひっしと抱きしめた。

「やっ、さと、り、せんぱっ、」

 うわごとのように、彼の名を呼ぶ。名を呼んだつもりだった。すると、つやっぽい声が返ってくる。、と。彼の呼び捨てる彼女の名前が、そのままへの応答だった。は、そのときふと、とびきりの恐怖を感じた。真っ黒な雲に背中から飲みこまれていくような、何もかもごっそり持っていかれてしまうような不安が募った。自分が? それとも、天童が? 二人が? 何かが遠ざかってしまう。何かが奪われてしまう。永遠に。醒めながらは、そんながけっぷちの夢を見た。この非常な一瞬のうちに。

「っいか、ないで……」

 どうしてそんな一言が溢れたのか、には分からなかった。分からなかったのに、天童は恍惚に濡れた表情の奥で、なんとも「訳知り」な顔をして彼女の懇願を受けとめた。は、いつも一を匂わせるだけで十を理解する天童の、こんなにも分からずやな顔を初めて見た気がした。うっすらひらいていた瞼を、閉じる。天童がの頭を胸に押しつけるように掻き抱いたからだ。

「わかってる、一緒に、いこうね」

 わかってない。わかってない。わかってない。あなたはなんにも、わかってない。心と心の果てしない断絶を味わいながら達するのは、だけどひどく気持ちが良かった。



 あれが、二ヶ月前のことだ。あの真夏のセックスが。
 天童は「二ヶ月」という単語を前にしてとっさにあの日のことを思い浮かべた。が、思い出に耽っている場合ではない。天童は今、思いがけない相手と二人きりなのだ。ひとりの女性と。の母親と。

 あなたがもしのことをほんとうに大事に思っているなら、大変な時期なのは分かるけれど、明日、部活の前に少し時間を作ってほしい。の母親はなんとも大胆なことに、彼の世話になっている学校の男子寮の番号へそんな用件をかけてよこした。大変な時期、というのは春高予選のことを指しているのだろう。あと十日もすれば、天童にとって最後の全国大会のチャンスを、その切符を争う予選大会が始まる。何より大事な試合だ。その試合のための練習に遅刻しろ、と彼女は天童に命じた。今この電話ではだめなのか。そう思ったが、口には出せなかった。そして翌日、命じられた通り天童はホームルームが終わるとすぐに学校近くの喫茶店で待っているの母親のもとへ飛んでいった。
 の母親と顔を合わせるのは、一度、夏休み前に彼女の家に招かれたとき以来のことだった。自己紹介と挨拶をして、二言三言あたりさわりのない質問をされた記憶しかない。二人の頼んだコーヒーが来るとすぐ、の母親は、うちのひと――の父親のことだろう――にはまだ言ってないんだけどね、と妙な前置きをして、話しはじめた。

「あの子、もう二ヶ月も生理がきてないみたいなの。それで、もともと身体も強いほうじゃないし、最近よく微熱も出てるから、一度病院で診てもらおうって言ってるんだけど……どうも、行きたくないらしくて、ずっと駄々こねてるのよ。それで、今日は学校も休ませてるんだけど――だって、吐いたのよあの子、今日の朝」

 最後のつけ足しのような一言を、の母親はいちばん強く言い切った。天童は、の母親が言葉を重ねるたび、自分の左胸が異常なほど大きく高鳴っていくのを感じた。激しい鼓動の音が、対面の彼女に届いてしまうのではないかと思うほどだった。の母親は一度コーヒーをすすり、カップをソーサーに置いてから、いよいよ天童に視線をぶつけた。

「立ち入ったことを聞くけど、天童くんは、と付き合っているのよね。それで、そういうことも、しているでしょうね?」

 もちろん、確信を孕んだ問い方だった。天童は彼女の語気に押しつぶされそうになりながら、それでもなんとか気丈に、そして神妙に頷いた。

「……はい」
「避妊具は」
「してます、必ず」
「誓って?」
「はい、誓って」
「けど、たとえそれでも、100%安全だとは言い切れない。それは分かってるわね?」

 たったそれだけの会話で、天童はこてんぱんにうちのめされた気分だった。自分たちが、いや自分たちだけじゃない、まわりの多くが、誰かと誰かがくっつけばこぞってする行為が、教室のなかでも当たり前のように話題になるその行為が、一体どういうものなのか。あなどっていたわけじゃない。それでも、二人がまるで自然に、そうしていたことも事実だ。好きだから。いとおしいから。そんな感情が理由になると思って、疑いもせず。反論も弁解もなかった。ただ、天童は膝に両手を乗せて深く頭を下げた。そしてたったひとつの願いを紡いだ。

と会わせてください。お願いします。ふたりで話したいんです」

 母親という生きものにはそれくらいの反応はお見通しだったらしい。伝票を手にして二人ぶんの支払いをさっさと済ませると、の母親は行きましょう、と天童に声をかけた。道中、二人はほとんど言葉を交わさなかった。天童のほうは少し気が動転したままだったし、の母親のほうはまだ言わねばならないと思っている言葉がたくさんあるようだったけど、じっと黙っていた。沈黙のうちで、天童は、夏休みが明けてからの自分との、二人のことについて、とめどなく考えを巡らせていた。正直、ろくに会えない日々が続いていた。部活は忙しくなるばかりで、そのうえ受験勉強のほうだってけっして余裕だとは言えない身だった。それに久々に時間がとれたとしても、二人はその時間を言葉を交わすことに費やそうとはあまり思わない二人だったから。最後に、の話を聞いたのはいつだろう。そんなことを考えていると、柄にもなく、天童は焦燥が腹の底からせりあがって目頭に溜まっていくのを感じた。

 の家に着いて、天童はの部屋まで彼女の母親に導かれた。ノックをしてもまるで返事がなかったが、彼女は構わずドアを開けた。は壁を向いてベッドにまるまっていた。じゃあ、と目配せしての母親が階下に降りていく。その足音がリビングルームに消えるのを待って、天童はドアを閉めながら彼女に声をかけた。

ちゃん」

 天童の一声にはすぐさま身をひるがえした。大慌てで毛布をしっかり上体に巻きつけ、片手で前髪を撫でつけながら彼女は身を起こす。天童は、何もうながされてはないが、勝手にベッドサイドのカーペットの上に跪くようにして腰をおろした。

「……せんぱい、なんで」
「ん、なんか体調崩してるって聞いたから、お見舞いにきた」
「お見舞いって……だって、部活」
「あー、大丈夫。最初の自主練ちょっと抜けてきただけだから」

 あまり上手くない嘘だった。こんな嘘をつくのは初めてだった。だけどのほうも混乱しているようで、下手な嘘を気に留めている余裕は互いにない。熱どれくらい、だとか、食欲あるの、だとか、しばらく続けたたわいのない会話の端で、さりげなく天童はの手の甲に手のひらを重ねた。驚いた。自分の手が震えていたのだ。ベッドの上にちょこんと座るを見上げ、天童は震えを抑えこむようにして、ぎゅっと彼女の手を握った。

ちゃん、こわいのは分かるけど、ちゃんとお医者さんに診てもらわなきゃだめだよ」

 こんな震えた手をした男に言われたって、まるで説得力がないような気がする。こわがっているのは、お前のほうじゃないか。自分の情けなさに追い打ちをかけられているみたいだ。は、天童のその言葉でようやく彼がここにいるわけを理解したらしい。お母さんですね。そう苦々しく呟いて、は天童の震える手を振り払った。拒絶されたのだと、天童はかつて味わったことのない絶望を感じた。がヘッドボードの小さな引きだしから取りだしたものを、見るまでは。
 が手にしていたものは、彼には最初、ちゃちな体温計のようなものにしか見えなかった。すぐさま違うと分かっても、彼にはそこに出ている反応を読みとることができず、余計に焦った。何より、彼女がそんなものを持っていて、使っているという時点で彼には充分すぎるほどショッキングなことだった。

「これ……」
「うん。なんともないです。別に、たまにあるんです、止まること。……お母さんが、勝手に騒いでるだけで」

 ぼそぼそ早口でそう言って、はすぐにその検査薬の棒切れをひっこめた。母親が騒いでるだけ? なら、それは? その棒切れこそ、の抱いた恐怖のかたちじゃないのか。

「いや、けど実際に具合わるいんだし、心配かけたら……」
「わたしがこわいのは、」

 が、はりつめた、危険を孕んだ声を詰まらせる。わたしがこわいのは。ほんとうにこわいのは。一瞬で涙を溜めた瞳に天童は睨まれ、睨まれたと思ったら、彼はベッドから飛び降りたに勢いよくすがりつかれた。いきなりのことに彼女を支えきれず、天童はカーペットに押し倒されるような格好になってしまう。天童の身体の上で、はそれ以上何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。わんわん泣きじゃくっていたから。熱いの背中をさすりながら、言葉に頼らなくてももう、天童にはあらゆる誤解や思いすごしが一挙に解けた。

 ――あの棒切れはの不安のあらわれなんかじゃない。あれは、の願望なのだ。けっして、けっして、かなわない。……

 壊したくない。壊れたくない。そう思いが募ることで、壊れる寸前まで追いこまれてしまうものがある。天童は十八歳で、はまだ十六歳で、どんなにこの関係をまがいものではないと信じられても、抱きあうことにすら不自由が絶えずつきまとう。二人が二人として堂々と息づくことのできる世界はとても狭い。狭くて、潔癖で、逃げ場がない。だけどこの息苦しさを共有する日々に二人が出会ってしまったことを、天童はどうしても恨めなかった。は、もしかしたら恨んでいるかもしれない、けれど。自分の楽園のような三年間に、は必要だった。絶対に必要だった。それを恨むことなんて、どうしてできるだろう。

ちゃん、ごめん。……ごめん」

 誰のあやまちでもないものに対して、彼はあやまり続けた。ふしぎと充実した言葉だった。どうにもならないことの、どうにもならなさを受け入れるには、なくてはならない言葉だったのかもしれない。
 春高予選も終わり、年が明けたころ、遠い異国の地から一通のエアメールが届いて正式に天童の進路が決まった。エアメールの封筒に箔押しされた金色の文字列。真夏のコーヒーショップで彼がに告げたパティスリーの店名が、そこには輝かしく刻まれていた。



 春休み中の中学校には人影もなく、部活動もない日なのか門には鍵がかかっていて、部外者がなかに入ることはできなかった。二人は手をつないで校庭のフェンス沿いにぐるりと歩きながら、校舎や体育館を遠くから眺めた。この場所に通った三年間のことを、天童はもちろん何もかも忘れてしまったわけじゃない。あの水飲み場に、あの裏庭に、あの体育館の軒下に、十五歳の自分がたやすく浮かびあがる。いつも退屈していて、いつも傲慢で、いつも孤独な男の子が。

「何ひとつ、ここに浸れる思い出がないね」

 学校のまわりを一周してみて、天童はあらためてそう洩らした。その言い方が、なんだか逆に気取っているような、誇らしげな響きがあることに彼はすぐ気づいて、取り繕おうとしたが間に合わなかった。となりでが、あなたのことはお見通しよ、といった具合に得意げに笑っていたのだ。癪だけど、最大級のいつくしみがそこにはこもっていた。

「そうですか?」
「……まー…トモダチもいなかったし、部活も、いろいろあって面倒でさ」
「さとり先輩、中学生にはちょっと難易度高いかも」

 くすくすが笑う。それだけで、陰鬱なあの三年間がなんともあっけなく報われた気がしてしまうのが悔しかった。自分はその「難易度の高い男」と中学生のころから渡り合っていたくせに。いつも、どちらかといえば天童がをリードしているのが彼らの関係なのに、今は天童のほうが彼女に主導権を握られてしまっている。十五歳の自分のたましいが、いつまでもここにだらだら残っていたむなしさのかけらが、きっといくばくか今の自分に乗り移ってしまったのだ、と天童は思った。もしかしたら、これが狙いだったのかもしれない、彼女の。俺に、俺のかけらを拾わせる、あますことなく。これは儀式なのだ。彼女なりの、旅立ちの。

「恋はしましたか」

 なにげなく、が問う。熱心に知りたいことなのか、昔話のついでなのか、真意のとりづらい訊き方だった。かまかけても何も出ないよ、と天童は軽く彼女をあしらったけれど、ほんとうはもう少し気の利いたことを言ってをいじめてみたかった。例えば、初恋は実らないって言うなら、この場所でひとつふたつ恋でもしとけばよかったな、とか。
 去年の十月、天童がの母親に呼びだされ、が天童の胸の上で泣きじゃくった日から、二人はただの一度も身体を重ねていなかった。さみしい気持ちはあったけれど、別に、忍耐強く我慢していたわけじゃない。あんなに頻繁に肌を擦りあわせていたのに、天童ももふしぎとなんの戸惑いもなく新しい二人のかたちを受け入れられた。かわりに、二人はよく話をするようになった。今までの言葉の足りなさを補うように、なんでも、どんなくだらないことでも、まじめなことでも、何時間だって語りあえた。さとり先輩の生まれた町に行ってみたい、なんておねだりも、言葉で埋め尽くされた数ヶ月がなければけっして実らなかった願いなのかもしれない。

 学校前の停留所に次のバスが来るまでかなり時間があったから、天童は昔の記憶を頼りに中学校を離れてひとつ先のバス停まで下っていくことにした。信号機のない横断歩道を渡ってゆるやかな坂道を降りていく。道なりに、ぽつりぽつりと覚えのある古びた商店が並んでいて、そのひとつ、薄汚れた小さな食堂からちょうど二人の男が表に出てきたとき、天童はすぐさま嫌な予感にとらわれた。その直感は往々にして正しい。彼らは天童の顔を見て、あっと目をみひらいた。

「あーっれ、もしかして天童?」

 顔と態度でおぼろげながら記憶から引っぱりだせるその男たちは、中学の三年間を同じ教室で過ごしたかつてのクラスメイトだった。薄情な天童は二人の名前をすっかり忘れてしまっていたけど、相手はどうもしぶとく天童のことを覚えていたらしい。道を塞がれ、立ち止まり、彼は無意識にの手を強く握りなおしていた。
 中学の三年間、天童は友人をつくる機会というものに恵まれなかったが、いかんせん他に埋もれない背の高さと化け物じみた身体能力を持っていたので、運動神経を発揮するイベントばかりの中学校という空間では目立つなというほうが無理があった。出る杭は打たれる。手を抜いたら抜いたで、ばかにしてやがると煙たがられる。この男たちは、まさにそういう奴らの筆頭だった。彼らのお気に入りの女生徒が、天童のとなりの席になり、防ぎようもなく色目をつかわれただけで、顔を貸せだの言ってくる。天童はすべてを黙殺してきた。にしても、この再会のタイミングは最悪だ。

「うわー、なつかしー。中学の卒業式ぶりじゃん」
「なに、いつ帰ってたん? え、そっちは? もしやカノジョ?」

 にたにたした笑いを貼りつけて、ふたつの視線がの全身をすうっと舐め回す。は無遠慮なまなざしにちょっと面食らって、かすかに後ずさりをした。その下卑た品定めの結果は彼らにとってあまり面白くないものだったらしい。彼らの次の言葉には、はっきりと、この美少女の前で天童に恥をかかせてやりたいという、即席の悪意がこもっていた。

「そういや、春高残念だったねー。せっかくバレーしに白鳥沢行ったのに、最後の最後に全国行けなくて。しかも、なんだっけ? 決勝、どっかの県立に負けたんだよね確か。俺、いとこが白鳥沢だからさ、よく試合のこと聞かされてたよ」

 ついさっき十五歳の自分の残がいを溜めこんでしまったせいか、はたまた単なる経験のなさがそうさせるのか、天童はこのストレートな悪意を前にして瞬間、頭が真っ白になった。らしくない。自分でも、そう思う。だけど、頭が思考を拒否していた。返す言葉もなく立ちすくんでいた天童を、が腕を揺らして目覚めさせる。彼女は様子を窺うように、押し黙ってしまった天童を見上げていた。

「さとり先輩、行こう」
「あれ、カノジョさん怒らせちゃった」

 天童を引っぱるようにして立ち去ろうとしたが、くるりとその不躾な声に向かって振り返る。軽蔑をこめたの表情にはかつてない迫力があった。絶対零度のまなざしで彼女は彼らをねめつけていた。

「死んでよ、クズ」

 ざくざくと固くなった雪道を切りさくように歩いていく。背中で彼らがまだ何かを言い捨てていたが、そんなことは気にならなかった。呆けた気持ちで、天童はしばらくに腕を引かれていた。彼女は急いでいるつもりなのだろうが、こんな雪の舗道の上では早足にも限度があって、何より一歩一歩がとても小さかった。

ちゃん」
「……はい」
「かっこよかったよ。惚れ直した」
「……いまごろ惚れ直しても遅いです」

 ようやく、二人して笑みが溢れる。商店がちらほら並ぶ通りを抜けると、そこは行きにバスの車内から眺めた、雑木林を纏う川べりの道だった。昼下がりの陽射しが降り注いで、雪の縁どりが光っている。ほっとしたら、空腹がどっと押し寄せてきた。夕方になったら祖父母の家に彼女を連れていこうと思っていたが、今から行ったら昼飯にありつけるかもしれない。ちゃん、とひとつの提案をするために天童はちょっと立ち止まって彼女を呼んだ。
 は天童の呼びかけに反応して顔を上げたのか、それとも彼女が顔を上げるちょうどのタイミングで、天童がその名前を呼んだのか。はしがみついている天童の腕を支えにして、少しの背伸びをした。願いを引き継ぐ真似はしない。ただ少し天童が背を屈めてやると、はどうやら思い通りに彼の口を塞ぐことができたようだ。過剰に充たされもしないし、なごり惜しくもならない、軽いキスだった。すぐにくちびるを離し、は唐突に恋人へ口づけてしまったことを少し恥じらうような顔をして、それから、「そんなに悪くないなって、思えてきました」と小声で、ただし無視できないはっきりした発音で呟いた。

「……何が?」
「んーと……だからね、いちど離れてみて、それでだめになっちゃうかもしれないけど……でも、さとり先輩がよぼよぼのおじいちゃんになったとき、今の、十六歳のわたしをふっと思い出してくれるなら、それもいいなって。先輩の思い出のなかで、ずっと今のわたしのままでいられるもん」

 まったくの不意打ちだった。ぱちぱちと爆ぜる真昼の星たちをその瞳いっぱいに溜めて、一体いきなり何を言うやら。一生ものの呪いをかけられたような気がしてしまうくらい、なんとも大それた遠い未来の話だった。だけど天童は、けっして呆れたりなんかしない。どうせ先のことは分からないのだし、何を思い描いたって自由だとも思う。さみしかったり、切なかったり、苦かったり、甘かったり。限られた囲いのなかで、いつだって不自由がつきまとう二人でも、むしろ彼らを縛りつけるひとつひとつが、二人に多様な夢を抱かせた。

(そう思いたかったら、そう思っていたらいいよ)

 悪いけど、俺の思い描く未来は、もう少し違った夢に揺られている。じじいになってそんな追憶の甘い旅をする性分でもないだろうし、十六歳で彼女の時が止まるなんて絶対にごめんだ。でも、口にはしたくない。それは、たったひとつ、自分ひとりだけの心の自由だから。

 誰もいない川べりの道をかたく手をつなぎながら歩いていく。透きとおった湧水が豊かな命の音を湛えてどくどくと流れている。
 二人は今、雪解けの水に運ばれる淡水魚のつがいのようだ。海には出られないちっぽけな泉のなかで、されど千差万別、色とりどりの進化を遂げて、きよらかな真水とたわむれ尽くす淡水魚たち。春が来て、天童はより一足も二足も先に、銀のうろこを脱ぎ捨てる。そうしなくちゃならない。だけど、さよならなんて、窮屈だ。この川の流れは、思っているよりもずっとはやく、ずっとなめらかに、眩しい海に成っていくのだから。
 雪解けの水がいずれ避けがたく海へと流れでていくことを、天童はひとつのお守りのように胸に秘め。もうすぐ二人は、離れ離れの春を迎える。









THE END

2016.1 - Re : 2021.5