愛すべき日常と呼べるような高校生活は十二月であっけなく幕を閉じてしまった。さみしさを実感するにはまだ少し季節が早い。一月の教室は、強いて言えばやるせないものだと思う。出なくてはならない授業はもうないけれど、それでもなんとなく、なんの約束もなく、クラスメイトたちがここにぽつりぽつりと集まってくるのは、さみしさ未満の感情に後ろ髪を引かれているからなのかもしれない。ほんとうにもう、こうして終わっていくだけなの。卒業式の日まで、ずるずると滑り落ちていくみたいに。そんなことすら受けとめられないまま、わたしは今日も、この教室に足を運んでいる。ただ教室の空気に触れるため、ただ友人たちとおしゃべりするため、ただ、そこに彼がいないかと、そんなよこしまな想いに駆り立てられて。

「ねー、及川。アンタ演劇部の卒演でるんだって?」

 センター試験が明けていつもより少し賑やかな昼休み、知らないふりをしていたってわたしの耳はその名前をどうしても拾いあげてしまう。それはもはや、この場所で三年間培ってしまったわたしの癖なのかもしれない。文庫本からつっと顔を上げて、声の出どころに目を向ける。数人のクラスメイトたちが話しているところに、別のクラスからひとり女の子がやって来たところだった。もちろん、その輪の中心には、彼がいる。

「ありゃ、情報はやいね相変わらず」
「卒演て二年生が中心になってやるやつだ」
「そうそう、部長さんに頼みこまれちゃってさー。文クラには何かと迷惑かけてきたから、お詫びもかねて」
「お前さん目立ちたいだけだべ」
「失礼な!」

 けらけらと、休み時間とはいえびっくりしてしまうような大きな声で、女の子たちが笑う。この場所で気兼ねなく感情をあらわすことを許されたひとたち。けっして視線を勘づかれたりしないように、すぐに目を伏せても、もうわたしの目は活字のひとつも読むことができなかった。そして代わりに、頭のなかには笑顔で話す彼の横顔が、鼓膜には楽しげな彼の話し声が、くっきりと痕になって残っていた。いつでも、何度でも、わたしはこんな些細な彼のかけらのために、わたしの内側にいくらでも余白を用意できてしまう。そんな自分にいつまで経っても飽きもせず、呆れもせず。もう、慣れっこだったのだ。わたしは、わたしの恋が、わたしだけの恋であり続けるということに。



 一年生の新緑のころ、それは突然わたしを縛りつけた。
 つややかな若葉のおもてを穿つように、五月雨の降りしきる重たい夕暮れどきだった。
 慣れない委員会の仕事に少し手間取って、中途半端な時間にひとり校門へと続く並木道を歩いていたときのこと。体育館の裏から乱暴に重い扉を閉める音がして、わたしは足を止めかけた。視界を遮るように手にしていた傘を少し、後ろに傾ける。体育館の裏手にある水飲み場に、及川くんが出てくるところだった。同じクラスになってたった一ヶ月半。入学初日の自己紹介のときから、女の子たちの好意に満ちたくすくす笑いの的だった彼を、わたしはどこか、一方的におそれている節があった。自己紹介でたった一言、彼はこう言い放ったのだ。
 ――バレー部で全国目指します、よろしく。
 いかにも軟派な顔立ちをした美男子の素っ気ない一言が、女の子たちには大層、うけた。わたしは怯んだ。このひと、自分を知っている。
 ためらうことなく体育館の軒先から踏みだして、及川くんは水飲み場の蛇口をひねるでもなく、ただ雨の只中に突っ立っていた。まるで雨なんかお構いなしに、雨になんて濡れていないかのごとく佇み、彼はひとり荒い呼吸を繰りかえしていた。及川くんの全身から、苛立ちが、湯気のようにたちのぼっている。雨が熱を溶かしているのだ。わたしの足は完全に止まった。そして彼がふと視線をさまよわせ、わたしに気づき、はたと目を合わせるまで、わたしは魂を抜かれたようにそこに立ち尽くしていた。
 あのとき全身を支配していた感覚が、それ自体が、わたしにとっての及川徹というひとそのものだった。耳の裏でごうごうと血が流れて、痺れを通り越し、痛みが走る。指一本も触れず、言葉も介さず、十数メートルの距離の向こうから、ひとはひとの内側で生々しい血のめぐりを加速させることができる。このときの鮮烈な感覚を後になって恋だと名づけるに至るまでには、むろん、それなりのためらいや葛藤があったのだけれど。

 翌朝、講堂での全校集会が済んで教室に戻る途中、及川くんはわたしを呼び止めた。ほんの二言三言のやりとり。それが、彼と交わした初めての会話だった。

さん、昨日ごめんね。みっともないもの見せちゃって」

 一度も話したことのないクラスメイトの名前を、彼はちゃんと覚えていた。みっともないもの。彼がさらりと形容したその光景が胸中によみがえる。背の高い彼は少し首を傾ぐようにして、わたしの視線を絡めとった。

「……そんな、全然みっともなくなんか、」

 言葉に詰まりながら、そう答えるのがやっとだった。ぼそぼそとしたわたしのはっきりしない声を彼はしっかり聞き入れて、おまけに、少し照れくさそうに目を伏せて笑ってみせた。

「そ? 俺、さんのこと睨んじゃった気がして、こわがらせちゃったかなって思ってたから。なんともないならいいんだけど」

 ――みっともなくなんかない。でも、なんともなくない、わけじゃない、けっして。
 彼はそれだけ言うと、もう一度わたしの目をしっかり見て、ほんとにごめんね、と言って人波のなかへ去っていった。
 及川くんはとてもきれいな、女の子の好みそうな端正な顔立ちをしていたけれど、彼がいつだって女の子に好ましく思われているのは、何もその美しい顔のせいだけじゃないだろうと思う。彼にはふしぎと嫌味がなかった。男の子と接しているときの居心地のわるさ、上から勝手に見定められ、下からお節介にも匿われているような、そういう居心地のわるさを、彼はけっして感じさせないのだ。それは、ただクラスメイトとして彼に接していただけのわたしにもよく分かることだった。



 自習室になりかわった三年生の教室を抜けだして、図書室へと向かう。一年生と二年生の五時間目の授業が始まるころ、もちろん図書室はがらがらだった。目当ての本を手にとり、図書室の奥の、書庫の扉を開ける。図書委員の仕事をしていたときも、わたしはよくひとの居ない時間をみはからって、ここにこもった。椅子に腰かけ、しばらく手にしていた本を一心に読みふける。昼休みの教室で彼の名前とともに聞き留めてしまった、一篇の小説のタイトル。それは燃えさかる愛と憎しみの物語だった。
 現代文の授業で、音読のあたったときの及川くんの声をおぼろげに思いだしながら、ページをめくっていく。惹きこまれた。もう、わたしの脳内で彼はこの物語の住人だった。謎めいた魅力を放つ、嵐の夜のような一人の青年。ちょっとした出来心で、わたしは、主人公の女性がその青年への想いを吐露する台詞をなぞった。指でも、目でもなく、よそゆきの声で。

「――どうして愛しているかというと、ハンサムだからじゃなくてね、ネリー、あの子がわたし以上にわたしだからよ。人間の魂がなにで出来ていようと、ヒースクリフとわたしの魂はおなじもの……」

 一度でも声を出してしまえば、ためらいやこそばゆさは後回しになってしまう。どうせ一人きりだ。ページをまためくり、熱っぽく、惹かれあう運命について語りつづける彼女の長台詞を夢中で読み進めた。まるで役者気分で、自分でも驚くほど流暢に言葉を連ねながら。

「――生きていくなかでなにより大切に思っているのは、ずばりヒースクリフなのよ。ほかのなにもかもが消え失せても、あの子だけは残る。彼が残れば、わたしも存在し続ける。けど、ほかのすべてが残っても、あの子が消えてしまえば、宇宙は赤の他人になりはてるでしょうね。……」

 そして台詞の終わりまで読み終えてから深く息をつく。気がふれるほど愛しているということや、お互いのかたちを忘れるくらいに惹かれあうこと。わたしにはまだ絵空事なのかもしれないけれど、それでも胸を衝く力強さを感じずにはいられなかった。

「……すてき」

 思ったままの言葉がなんのひねりもなく洩れる。そのとき、図書室につながる扉の影から、ぱちぱちぱち、と乾いた拍手の音が上がった。ちゃんと閉めておいたと思った扉がかすかにひらいている。そしてそこから顔を出したのは、今の今までこの物語の住人として頭に思い描いていた、まさにそのひとだった。

「すっごいね、さん。聞き惚れちゃった」

 ドアを後ろ手にしめなおして、及川くんがすたすたと近づいてくるあいだ、わたしはあまりに唐突なことにすっかり虚をつかれてしまい、しばらく恥ずかしさにさえ頭が追いつけなかった。当たり前のように、彼はわたしの隣の席に腰をおろしてしまう。こんな距離で彼の顔を見たのは、あの日以来かもしれない。あの、初めて言葉を交わした初夏の朝。

「俺ね、その本探しにきたんだけど、先越されちゃったかな」
「……あ、わ、わたし借りないから、どうぞ。ちょっと読んでただけで、」
「声に出して?」

 にやりと、いたずらっこの笑みをして、及川くんが頬杖をついた。ようやっと羞恥心がこみあげてきて、わたしはきっとあからさまに顔を赤らめてしまったに違いない。わたしの反応を見とめて、あはは、と及川くんが澄んだ笑い声をたてたから。

「ごめんごめん。でも、本当に上手だったから。稽古つけてほしいくらい」

 彼は存外、ひとなつこいひとなのだなと、そんなことを卒業間際の冬になって初めて知る。三年間同じ教室で、あんな狭い箱のなかに押しこめられていたのに、わたしたちはなんて無知なんだ。初めて話したときみたいに、耳が千切れそうなくらい熱くなっている。でもふしぎとこの熱は、緊張を誘うものでもなかった。

「……えっと、演劇部の卒演、出るんだよね。がんばって」
「ああ、昼休みの聞こえてた? うん、がんばるよ。みっともないとこ見せられないしね」

 あのときと同じだ。みっともないところなんて、あるわけないのに、彼はそう言う。いつの間にか、手にしていた文庫本は彼の手のうちにうつっていた。わたしの音読していた箇所をぱらぱらと眺めながら、及川くんはふと思いついたようにまた顔を上げた。

さんって、受験組?」
「えっ、ううん。わたし推薦とったから……今は委員会の手伝いでたまに」
「そうなんだ。俺も今、部活だけしに来てる感じ。もうとっくに新チーム始まってるんだけど、三月まで体育館使わせてもらえるから」

 及川くんは楽しそうに、自分の所属しているバレー部の話をした。彼は、卒業したら海外へ行く。もちろん本人から聞いたわけじゃないし、バレーボールのこともよく分からないけれど、彼がひとかどの選手で、バレーボールを続けるために新しい世界へ飛び立つのだということは、この学校の女生徒であればきっと誰でも知っていることだ。噂を耳にしたときは、少なからず衝撃だった。遠くから彼を見つめていたはずなのに、そうか、今のわたしはこんなにも彼の近くに居るのだと、この得難い距離に甘んじ続けていた自分に気づかされた。
 五時間目の終わりを告げる間延びしたチャイムが鳴って、及川くんが文庫本を閉じた。ぐるりと書庫を見渡し、満足げに一度小さく頷いて。

「決めた、明日から俺、ここで自主練することにしよ。ね、さんも気が向いたらまたここに来て。毎日ひとりで練習じゃつまんないよ」

 軽々と他人を巻きこむちから。圧倒的な引力。こんな言葉に、ただのクラスメイトでしかないわたしは、天井知らずに浮き足だってしまったのだ。

 それからわたしと及川くんは、昼休みが終わって部活動の時間が始まるまでの、三年生だけに許された自習時間を、時折この小さな書庫のなかで過ごすようになった。本番まで二ヶ月弱。台本を受けとって二週間もすれば、彼はだいたいの台詞を覚えてしまって、わたしに読みあわせの相手や台詞のチェックを頻繁に頼んでくるようになった。とてつもない集中力と、彼の努力の一端に触れて、わたしはどうしても、初めて彼に心奪われた日の光景のことを思わずにはいられなかった。――みっともないところは、見せられない。そうさらりと決意する彼は、きっといつもこうして人知れず身をけずっているのだ。あの日の体育館裏で、苛立ちを鎮めるようにひとり、冷たい水をかぶっていたように。



 今にも雪に変わりそうな冷たい雨が降っている。最後の二月十四日は、そんなぐずついた天気の一日だった。
 きっと噎せかえるような温かな活気に溢れているだろう昼休みの教室にはなんとなく足が向かなくて、わたしは五時間目の授業が始まるころに学校に着くと、そのまま図書室を訪ねた。いつもの書庫の扉をひらくと、及川くんのかばんがぽつりと机に置いてある。だけれど、目に飛びこんできたのはかばんというより、むしろそのとなりの紙袋のほうだっただろう。ぎっしり詰まったチョコレートの山。毎年のこととはいえ、その嵩の大きさに、目の当たりにすればただ息を呑むしかなかった。
 一年生のときも、二年生のときも、わたしには彼にチョコレートを贈るという発想すらなくて、ただ休み時間のたびに廊下に呼びだされている彼の背中をちらちらと眺めているしかできなかった。告白する勇気なんてはなからないし、かといってクラスメイトや友達の距離で、さらっとチョコレートを手渡すような関係でもなかったから。だけど、今年は少し違う。当日に、せっかく二人で居られるのに、チョコレートを渡さないなんてばかだ。そう思って、用意はしてきたのだけれど、こんな山盛りの好意たちを見せつけられたら、なんだか急激に気持ちがしぼんでいくのを感じた。

「なーに、ひとの荷物じろじろ見て」

 後ろから声をかけられ、振り返る。コートも脱がず、かばんも置かず、わたしは彼の荷物の前に立ち尽くしたままだった。書庫の扉を閉める及川くんの手にはまたひとつ、きれいにラッピングされたチョコレートの箱がある。呼びだされたのだろうか。今まさに、告白を受けてきたのだろうか。……どんな返事をしたのだろうか。気になっても、知りたくても、けっして聞けないことばかりだった。

「ご、ごめんね。及川くん、さすがだなと思って……」
「あは、さすがって。まあ、毎年ありがたいけどね」

 紙袋のいちばん上に手にしていたチョコレートをぽんと重ねて、及川くんはあんまりありがたくなさそうな溜め息をついた。五時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。そのチャイムが鳴り終わるのを待って、及川くんは口をひらいた。

「けど、これだから言われてしまうのですよ。客寄せパンダとか、なんとか」

 それは、いつも飄々と気さくに振る舞う彼にはとても不釣り合いな、冷たくてけだるい響きのする言葉だった。この部屋を出て、この書庫ではない場所で、彼がどんな練習をどんなひとたちと積み重ねているのかわたしは知らないけれど、それがけっして楽しいだけのものではないことはその一言でなんとなく理解できた。当たり前かもしれないけれど、たくさんのひとたちが集まってひとつのことを成し遂げるのは、肉体的にも精神的にも大仕事なのだ。

「誰が、そんなこと」
「いーのいーの。ド素人なのはご覧のとおりだし。安請け合いしちゃったのも、ほんと。演技って難しいね」

 もしかして、彼は今、少し弱気になっているのだろうか。こんな弱音のようなものをこぼす及川くんを、わたしは初めて見るような気がした。たくさんのひとに期待をされることや、その期待の裏で僻まれること。彼はもうそんなプレッシャーには慣れきっているのかと思っていたけれど、そんなの、そう簡単に割り切れることでもないのかもしれない。誰だって、経験のないことはこわい。失敗はこわい。緊張だってする。それは及川くんだって、同じだ。

「……及川くん、とっても上手だよ。声もきれいだし、きっと舞台映えする……」

 わたしはただ、わたしの思っていた通りを口にしただけだった。舞台のいろははわたしには分からないけれど、彼の演技には癖がなくて、その身体にとても素直にひとつの役が乗っている気がする。それが、いいのに。そのままでこそ、いいのに。頬をかいて、及川くんが照れくさそうな目をした。ぎゅっと胸が塞がる。彼がわたしのしどろもどろを、ちゃんと本心として受け止めてくれたことが分かったからだ。

「ありがとう、……俺また、さんにみっともないところ見せちゃったね」

 ぶんぶんと勢いよく首を振ると、彼は大きな口をひらけて笑った。山盛りのチョコレートに押しつぶされるようにして絞りだされた彼の弱音を前に、かばんのなかのチョコレートを渡すなんてこと、どうしてできるだろう。わたしは、わたしが思っている以上におおばかものだった。臆病だった。そういうことなのかもしれない。それでも、わたしには彼とのこのなけなしの二人きりが、チョコレートを渡し、渡される距離だとは、とうてい思えなかったのだ。

 バレンタインデーが過ぎてしまうと書庫にこもっている時間もだんだんなくなっていって、ある日ふと、二人の自主練の日々は途切れた。演劇部のほうで合わせることがたくさんあるのだから、いつまでもこんなところで読みあわせをしているわけにもいかない。たった一ヶ月とちょっと、週に数回、一時間と少し。最後の練習の日、及川くんは、さんの好きなシーンをやろうよ、と言った。促すような目で見つめられ、わたしは、くたくたの台本のコピーに視線を落とした。何度も行ったり来たりをくりかえした険しい愛の物語が、今だけは、わたしのために用意されている。そう思うと、ページをめくる指が震えた。

「じゃあ」

 からからの喉が、消え入るような声で場面を告げる。ゆっくり顔を近づけてわたしの声を聞き届けた及川くんは、小さく頷いて、すぐさま芝居調子の表情をつくりあげた。物語のなかのように、彼の腕が、わたしを抱きしめてくれることはもちろんなかったけれど。

「ああ、キャシー。俺の命。こんなこと、どうして耐えられるだろう?」

 愛するひとの命が消えかけている、二人の、最後の逢瀬。台本の上に書かれた文字を彼はいまいちどその声で辿りなおした。わたしは、彼の演技に釘づけだった。ここは特等席。同じ物語をなぞったとしても、わたしはいつも、彼の客席に座っている。そんな心持ちがした。

「……あなたを抱きしめていられたら。おたがいが死ぬまで……」

 十八年分の勇気をつかっておいてすぐさま後悔に襲われるこの魂を、なんとかなだめるようにして。転がり始めた物語は止まらない。彼がそうあるように、わたしももう、台本なんて見ていなかった。

「わたしが土に帰ったら、あなたはわたしを忘れてしまう?」
「おまえを忘れるくらいなら、俺は自分が生きてることすら忘れてしまうよ。そうだろう?」

 及川くんの甘い声が、知ってか知らずか、わたしの密やかな恋心をいたわるように撫でているみたいで。
 台本を抱きしめ、その場で、泣いてしまいそうだった。ほとんど、泣いているに等しかった。及川くんは、何も言えずに目もとを抑えているわたしからぱっと目を逸らしてくれた。俺もこのシーン大好きだな、とまるで独り言みたいな清々しい声で呟きながら。



 卒業式を三日後に控えた舞台本番の日は、それまでの積み重ねの日々を笑いとばすように、あっという間に過ぎてしまった。

「あ、さーん。こっち、こっち」

 控室にしている教室のひとつから顔を出して、及川くんが廊下でうろうろしていたわたしを手招く。開演前に時間があったらおいでよ、と言われてやって来たはいいものの、彼に声をかけられるまでの気まずさといったらなかった。演劇部のひとたちが忙しなく準備をしているなかで、及川くんだけが時間の流れが違うみたいに、のんびりとした物腰をしている。衣装に身をつつんで、ヘアメイクをととのえて。もしかして「役に入る」というのは、こういう佇まいのことをいうのだろうか。

「……及川くん、ほんものの俳優さんみたい」
「それはさすがに、お世辞が過ぎるね」

 軽く笑って、及川くんは近くの姿見をちらっと見やった。ひとつひとつの所作が意味をもつたびに、星の粉でもふりまいているみたいに、ひかりが散っていく。向き合ってもいつも以上になかなか目が合わせられなかったのは、きっとそのせいだ。

さん」
「は、はい」
「たくさんお世話になりました」

 突然、彼が頭を下げるので、わたしはすっかり冷や汗にとらわれてしまった。足がすくむと、口のなかで舌までちぢこまる。あっけにとられているうち、及川くんがふたたび顔を上げた。そしてまじめな表情を崩さずに、それでもちゃんと笑みとわかる笑みをこぼした。

「今日は最高のヒースクリフを見せるから。あとで舞台の感想、教えてね」

 見られること、注目を浴びること、あらゆる感情のこもった視線のなかで生きてきたひと。やっぱり彼は大した役者だ。その身ひとつの美しさで客席を魅了してしまう。
 それはまばたきするのも惜しいくらい、夢のようなひとときだった。癖のない台詞回し、流れるような所作、立ち居振る舞い、何よりも、舞台に上がる理由なんてそれだけで事足りてしまうような、彼にしかない華やかな存在感。ほんとうは、舞台が終わってまっさきに、彼に想いを伝えに行きたかった。胸にたくさんの言葉が渦巻いていて、今なら、その莫大なちからを借りて彼に好きだとさえ言えるような気がした。それなのに、わたしはけっきょく、ただの一言も舞台を降りた彼に声をかけることはできなかった。友人たちにくしゃくしゃと髪を撫ぜられ、後輩たちや、女の子たち、色とりどりの花束や賞賛に囲われて、終演後の彼はいつもの、三年間ずっとそうだったような、近くて遠いひとになっていたのだ。愚かないくじなし。そして何も言えないまま、あっという間に時が過ぎて、卒業式の朝がやってきた。

「教室にいないと思ったら、やっぱりここだ」

 朝の図書室は底冷えしている。あの書庫の内側でスチールの本棚に並んだ本のタイトルを泳ぐように眺めながら、棚と棚のあいだを何度か意味もなく行き来していたら、ちょうど奥の棚まで行き着いたところで扉のほうから彼の声が聞こえた。あわててきびすを返し、本棚の影から飛びだす。かっちりと最後の日のブレザーを着こんだ及川くんが、もう腕を伸ばせば届く距離に立っていて、喉を締めつけられるようだった。

「はい、さんに、花マルつけてもらいにきた」

 ブレザーのポケットに手を入れて彼が取りだしたのは、わたしの胸もとにもある、卒業生で揃いのリボン徽章だった。

「……花、まる?」
「卒演のあと、話せずじまいだったから。感想教えてって言ったのにー。俺、けっこうがんばったでしょ? 即席ヒースクリフ」

 けっこうなんて、もんじゃない。即席だなんて、大嘘だ。あっさりと自分の果たした大役のことを口にして、彼はやっぱりなんでもないように笑うけれど。差しだされた白いリボンを促されるままに受けとると、彼は背の低いわたしのために少しだけ身をかがめた。こうなってしまえばできることはひとつ。曲がってしまわないように気をつけて、かじかんでいるかのようになかなか思う通りに動かない指で、彼の左胸に白い花を留めつける。たったこれだけの作業が、わたしのはなむけ。ならばせめて、最大級の祝福をこめてこの言葉を届けたい。

「たいへんよくできました」

 小学生の男の子におもちゃの勲章でも与えているみたいに、ひらがなの褒め言葉が声になる。及川くんがどうしてこんな、目のまわるような特別をわたしに許してくれるのか、あるいはこんなの、彼にとってはごく日常的な他人との距離なのか、わたしはけっきょく分からなかった。確かめようともしなかった。もしかしたら今がその、最後のチャンスなのかもしれない。見上げた先で晴れやかに笑う彼の瞳。偶然に導かれたあの初夏の日のように、今度は偶然ではなく揺るがぬ意思で、わたしは彼のことをまっすぐ見つめた。

「向こうでも、元気でね」
「うん。さんも、元気で」
「……わたし、」

 筋書きに匿われていない生の言葉が、台詞のようにするすると口にのぼった。用意していたわけでもないのに、わたしはわたしの言葉にずっと昔から納得しているようだった。

「わたしずっと、及川くんのファンだと思う」

 君の人生がひとつの舞台だったとして。君の物語に、わたしがもう二度と、関わることがないのだとしても。ふしぎなことに、及川くんはわたしの言葉にちっとも驚きはしなかった。穏やかな表情にわたしの淡い告白が吸いこまれていく。三年間、身動きすらまともにとれなかったわたしの恋を、まるごと肯定するように。

さん、ファンだなんて言わないで。誰だってみんな、舞台の上だ。違う?」

 お気に入りの台詞を、つくりものの愛の世界を、わたしと一緒になぞってくれたときと同じように。そして今度は、借りものの言葉ではなく、彼自身の内側からの言葉で。わたしにとっては、どんな情熱的な恋が成就する瞬間よりもドラマチックなラストシーンだ。エンドロールの直前でわたしは彼の、彼はわたしの、紛れもない共演者だったのだと気づかされる。

 わたしは、何も報われなかったのかもしれない。こんなの、他人が聞いたって、哀れに思うだけの情けない片恋の物語なのかもしれない。
 それでもきっと、この場所で、彼へと向かった三年間の想いが、十年先、二十年先も、わたしのことを励ましてくれる。わたしを照らしてくれる。永遠に胸の奥に留まる一言を、一瞬を、彼はわたしに刻みこんだ。刻みこまれてしまった。確かにそんな、気がしたのだ。
 思い出が遠ざかり、記憶が薄れても、たとえこれからわたしの人生にどんなどしゃ降りの雨が吹き荒んだって、ここに生まれて、ここに息づいていた、輝かしい想いを降り残していく。

 君はいつまでも、わたしのスター。









THE END

2016.1 - Re : 2021.1
引用:E・ブロンテ『嵐が丘』、鴻巣友季子訳、新潮文庫