※ 若干の性描写あり




 幼いころの記憶のなかには、いつも兄の大きな背中があった。鼻を垂らしていたかは知らないがとにかく年端もいかないガキだった自分には、兄の存在は絶対だった。恐怖ではなく、憧憬のたぐいの。十も歳が離れていればそういうものなのかもしれない。兄が俺にもたらしたもの。クロールの泳ぎ方、お下がりのギアつき自転車と野球グローブ、拙いバレーボールのいろは、服や音楽の趣味、そして、というひとりの女。女、なんて言ったら本人は生臭い魚を鼻に突きつけられたみたいな顔をするに違いないけれど、女は女だ。俺にとって彼女は、人生で初めて出逢った異性だった。兄の恋人だったからこそ。

「あのさー、カヨ」
「なーにー」
「俺たちって、未来なくね?」

 そんな一言で二年付き合っていた彼女と別れたのは、卒業式の一週間前のこと。
 思い出のそれぞれが多少なりとも別れ話のブレーキになってくれたのはその言葉を発するまでで、うかつに転がってしまった言葉とひとつになって後ろめたさや心苦しさまでも一緒に吐きだされてしまったみたいだった。
 卒業式当日、体育館前のピロティーで部のやつらとじゃれあっていた俺のことを、彼女は渡り廊下の窓から、泣きはらした目をしてずっと痛いくらいに見つめていた。何かを話したがっているのか、話しかけられたがっているのか。済まないとは思うけれど、許してくれとは思わない。誰も、何もかも、ここに落として行きたかった。こんなことを願うのは傲慢かもしれないが、まっさらな、裸の自分であのひとに会いに行きたかったのだ。

「お前のカノジョすげー睨んでくんだけど」

 木兎が、ちらっと渡り廊下のほうを見遣ってそう言う。木兎のブレザーは袖口のボタンも含めてすっからかんで、ネクタイも、校章のピンバッジすらなかった。とはいえ女に渡したのは恋人にねだられたネクタイぐらいのもので、ほかの所持品を捌いたのはバレー部の連中だ。ご利益があるとかいって、エースのボタンを後輩たちが根こそぎとっていく。これが梟谷バレー部のしきたりのようなものだった。

「……あー、うん。ふった」
「マジ!?」
「木兎くーん、この男が遠距離とか無理に決まってんだろ」

 後ろから肩に腕をまわしてきた小見が失礼千万なことをのたまう。それを聞いて木兎はすぐさま呆れたようなつらを突っ返してきた。我を通して当たり前のように振る舞う人間に我を通したことを呆れられても痛くもかゆくもなかったけれど。

「はー…っとに、薄情だなあ、お前」
「別にそれが理由じゃねーけど……」

 とか言ったところで、もはや誰も聞いちゃいない。弁明するもなにも、二年間付き合っていた彼女よりかは、六年間ともにバレーをしてきた仲間のほうが少なからず俺を理解していると思うから、その必要もなかっただろう。俺は、薄情なやつだ。二年間培った関係を一方的に閉じてしまえる。そこには何も懸けるべきものが見つからなかったから。
 卒業式が終わったその日のうちに、俺はさっさと部屋を片づけ荷物を整理する作業に入った。そして三日後には準備万端、新天地へ赴く用意がすべてととのった。手持ちの荷物は小ぶりのキャリーケースひとつ。過保護な母親は三月もまだ中旬だというのに家を出ると言いだした俺に少し動揺していたが、そこらへんはお兄ちゃん譲りなのかもねえ、なんてわけのわからないことを言って終いには納得したようだ。
 春休みの暇を持て余していたバレー部の連中と夕方まで送別会だなんだと騒ぎ、そいつらに東京駅で見送られながら俺は西へと向かう新幹線に乗りこんだ。目的地までは二時間とちょっと。名古屋を過ぎたあたりで、陽の沈みかけた空からぱらぱらと雨が降りだした。折り畳み式のテーブルに出していたスマートフォンがぱっとメッセージを表示する。小さなアイコンの色だけで分かる。それが誰からの連絡かって。

 ――京都は春の嵐です。秋紀くんの髪、ぼさぼさになっちゃいそう。気をつけてね。新幹線、遅れてない?

 指先をすべらせてものの数秒で返事を打つ。読み返し、送信ボタンを押すときの少しのこそばゆさ。こんなふうに、毎日何回も連絡をとりあう親密な間柄がすでにそこに横たわっているように、彼女と言葉を交わしていることがふしぎだった。ふしぎだけど、でもそれは、けっして不自然ではなかった。

 ――たぶん、時間通り。さん無理しなくていいよ、俺ひとりでソッチまで行くし。

 すぐに既読のしるしがついて、そんなことでも居ても立っても居られないような鳥肌が立つ。百何十キロかそこら向こうには彼女が待っていて、その距離が着々と狭まっているということ。そう考えると新幹線の速度すらもどかしいものになりかわった。

 ――さみしいこと言わないで。再会は駅のホームでするのがドラマチックでしょ?

 何やら気の抜けた動物のスタンプと一緒に着弾したそのメッセージに、OKの意味をこめたスタンプを適当に選んで送りかえした。ふう、とまるで一仕事終えたみたいな溜め息が自分から漏れる。ばかみたいに必死で、ばかみたいにあがってる。緊張という意味でも、興奮という意味でも。
 あと一時間もしないで俺は、一年半ぶりにと会うのだ。



 兄が初めてを家に連れてきたとき、俺はまだ小学生だった。おそらく十歳かそこらだったはずだ。
 大学のゼミで一緒になって家が近いからと、二人はグループワークの課題のようなものによく客間を陣取って取り組んでいた。俺は初めのころ、彼女が家にやってくるとすぐに機嫌が悪くなるようなガキだった。休日にはよく庭先でともに遊んでくれる兄が、がくると彼女との作業につきっきりになってしまったから。そんな俺を見兼ねたのか、夏休みのある日、二人は俺を海に連れていってくれた。兄がとりたての免許で海まで、レンタカーで俺たちを運んでいったのだ。俺はその遠出にすっかり浮かれて、そして、ふだんは自分をそっちのけにする二人が真っ先に俺を楽しませようとしてくれているのが嬉しくて、得意になって大いにはしゃいだ。そんな俺を、にこにこしながら見つめていた二人の善良な顔を、今も覚えている。
 俺たちが帰宅したとき家は空っぽだった。父親と母親は前日から子どもたちを置いて旅行に出ていたのだ。今思えば、あの日帰りの海へのドライブは俺のお守りを兼ねた二人のデートだったんだろう。庭先で兄が俺の足と、潮のにおいを連れ帰ってきたビーチサンダルを洗って、丁寧にタオルで拭いてくれた。すっかり疲れてだるかった俺は、兄にされるがままにされていた。

「秋紀、先にシャワー浴びておいで。汚れてんだから、ちゃんと洗ってこいよ。顔と髪もだぞ」

 素直にうなずいて、俺は二人を置いて一足早く家にあがった。そして、うとうとした足どりで自分の部屋まで着替えをとりにいったときだ。部屋の出窓からは、ちょうど階下の縁側がよく見える。冷やりと、胸がざわついた。薄闇のなかで、兄が、縁側に浅く腰かけたの足もとにひざまずいていた。自分にそうしたように彼女の足を洗っているのだろうと思ったが、水のしたたるホースを兄が放りだしたとき、子どもながらに二人のあいだに流れる空気が豹変したことに気がついた。兄のしなやかな腕がの脚をすべって、彼女のかかとを持ち上げたのだ。の足の指に口づけが降る。足の甲に、ふくらはぎに、膝に、そしてがスカートの裾を持ち上げて、兄のくちびるをその内側へと導いたとき、ようやく俺は二人から目を逸らすことができた。真昼の太陽の下ではあんなに健康的に笑っていたのに。生まれて初めて目撃した恋の所作には、不気味な夏の宵がよく似合っていた。

 この思い出は自分にとってあまりにも脳内で再生しすぎた記憶だったし、そのたび勝手に自分が目を逸らしたそのあとのことを脚色したり、自分が兄の視点になっていたりと、ころころ微妙に内容が変わっていったから、もしかするとあの日ほんとうに俺が見たものは俺の記憶とはまったく違う光景だったかもしれない。中学に上がったとき、のスカートのなかで兄が何を見たのか想像しながら射精してしまって以来、事実と空想のさかいめが自分でもよく分からなくなっていた。分かることはただひとつ、自分には現実のがいつも足りていなかったということ。足りないから、埋めあわせようとする。どうして足りないのかなんて言わずもがな。は、兄のものだった。そして俺は兄のものだったが好きだった。我ながら、不毛な恋を引き受けてしまったものだと思う。

 不毛な恋は、だけど、恋というにはあまりに気楽な感情で、あらかじめ与えられた諦めの繭にくるまっていれば、変に動揺することも傷つけられることもなかった。中学、高校と進めばクラスメイトと彼氏彼女のままごとくらい、昼休みにサッカーやバスケをして時間を潰すのと同じような感覚でこなしたし、どちらにしても生々しい愛憎なんてものは俺にとって遠い国の出来事だった。それなのに、だ。ある日突然、が、本人が、俺の繭をたった一撃でまっぷたつに切り裂いてしまった。諦めを、たやすく諦めさせてしまう力。俺はけっきょくあの幼い夏の日から、一歩だって動けていやしなかったのだ。

「わたしたち、だめになっちゃうかもしれない」

 その一言を俺は、彼女の足指にマニキュアを塗ってやっているさなかに告げられた。十六歳の夏、蒸し暑い宵闇の縁側で。

「……え、なん、」
「あ、これまだお義母さんたちには内緒だよ」

 淡々とは言葉を続け、おまけに、人差し指をくちびるの前に立てた。
 兄とが同じ大学を卒業してから、俺にとっては兄よりのほうがよほど身近な存在になっていた。身近というのは、単純に物理的な距離として、ということだけど。兄はもうずっと、海外にいた。一から学びたいことがあると言って、勝手に留学を決めてしまった。一方は、どこかの中小企業を数年で辞めてしまったらしい。兄の婚約者として、はそのころ、もう半分この家の住人みたいなものだった。どうせ兄が就職したら、日本に帰ってきて、と結婚する。この家ではそれが当たり前の未来で、果たされるべき約束だった。だけど、どうやら当事者のあいだでは全くそういうことではなかったらしい。

「そしたら秋紀くんとも会えなくなっちゃうね」

 あっさりそう言って、塗り替えられていく爪先に視線を移す。年長者特有のわがままを通して、はよく俺にマニキュアを塗ってとねだった。秋紀くん、器用だから。そう言って、誰に見せるでもないのに、爪をきれいに整えたがった。まんざらでもない、そんなことだけで。けっきょく二人のつながりなんか、兄のおこぼれでしかなかったのに。

「……さんって、ほんとずるいよな」

 マニキュアの細い刷毛を持つ指が震えて、まともに作業を続けられない。俺の器用な指は、別にあんたのためにあるわけじゃない。それをまるで道具のように捧げていること。好意じゃなくて、なんなんだ。

「ずるいって?」
「なんの下心もなく、俺がこういうことするって思ってる」

 挑発するようなことを言っておいて、その実こわくて目が上げられず、かといって指先の作業に視線を逃がすことも今や不自然で。俺はただ中途半端に塗られた赤い爪が闇のなかでどくどくしい色を放っているのを見つめることしかできなかった。

「じゃあ、秋紀くんはどんな見返りがほしいの」

 そう問いかけられて、俺は急に自分の幼稚さがいたたまれなくなった。俺のほしい見返り。それは、ペディキュアを塗ることの対価としてはあまりに大それたものだったはずだ。ずるいのは俺だ。何もできないくせに。何もできないことに甘んじていたくせに。
 マニキュア液の小瓶を置いて、俺は指先に漂う震えを追い払い、の足のかかとを持ち上げた。あの夏、この縁側で兄がそうしていたように。渇いているのかどうか、赤く塗った親指の爪先に、ヤケクソみたいにくちびるをあてがう。一瞬の沈黙。漂うシンナー臭。が、くすぐったい、と小さく笑いながらささやいた。

「いまのが下心?」
「ほんの氷山の一角だけど」
「こわいなあ」

 それだけ言うと、はさっと足を引っこめてしまった。あぐらをかいて、戸惑うばかりの俺をのぞきこむ。さみしさばかりが匂い立つ、涙のない泣き顔をして。

「……秋紀くんが居てくれてよかった」

 そんな言葉ひとつで後戻りできないほど人質にとられてしまった俺の恋はほんとうにばかで、ばかで、ばかばかしくて、舞い上がっているうちに彼女は婚約破棄だとか色々と面倒なことをひととおり済ませて、秋口には何がなんだか知らないが京都に行くことが決まっていた。

「京都で大学時代の友達が、工務店やってるの。そこでお世話になることにしたんだ」

 最後にと会ったとき、家の近くのファミレスで、彼女は心なし弾んだ声でそう教えてくれた。その声を聞いて、彼女がずいぶんと長いこと塞ぎこんでいたのだと俺は初めて気がついた。そりゃ、そうだ。当たり前だ。そんな当たり前のことすら思いやれずに、自分は何を舞い上がっていたのだろう。

「いつか、遊びにおいでね。そのときには観光案内くらいできるようにしておくから」
「……さんとこ泊めてくれんの」
「そこまでは言ってないけど」
「下心のかたまりだから、俺」

 明るく澄んだ笑い声をたてて、が笑った。あんなにすっきりしたの笑顔は久しぶりだった。
 それから一年の月日が経って、真面目にバレーボールにいそしんでいた自分には、バレーのおかげでそれなりに進路の選択肢が与えられた。そのなかに京都の大学があったとき、ひどく単純な俺は、神様がに会いに行けと言っているのだと思った。バレーの神様、さすが気が利く。俺は別に、自分の人生を安く考えていたわけじゃない。俺の人生のためにこそ、の人生に関わるチャンスが、もう一度だけ欲しかったのだ。けっして、兄のおこぼれではなく。ひとりとひとりで向き合うために。



「おかえり」

 京都駅のホームに降り立つと、俺よりも先にのほうが俺のことを見つけて、小さく手を振りながら歩み寄ってきた。

「……おかえりって変くね?」
「あはは、ごめん。なんだか、秋紀くんがわたしのところに帰ってきてくれたような気がして」
「いいけど。……んじゃ、ただいま」

 わけも分からずしぶしぶ、といった調子で「ただいま」と返した俺に、はえらく満足げな顔をしてうなずいた。けっきょくドラマチックでもなんでもない、一年半ぶりとは思えないようなすんなりとした再会。少し髪を伸ばしたくらいで、は特に変わったふうでもなかった。ああでも、女のひとと久しぶりに会ったときは、変わったね、って言ってやるのが正解らしいってどこかで聞いたような。そんな手練手管は何も使えないガキのままの俺をよそに、のほうは「秋紀くん、変わったねえ。格好良くなった」となんのてらいもなく言ってしまうのだから、かなわない。
 の言っていた通り京都は春の嵐で、外をぶらぶらするのは少しはばかられる天気だったから、俺たちは駅ビルのなかで適当に食事を済ませてタクシーに乗りこんだ。行き先はの棲むマンション。俺は、なんと大学の寮が開くまでの一週間、ここに転がりこむ。もちろん親には言ってない。嘘をついてきた。と一緒にいるためなら、どんな嘘をついたって平気だった。そして俺は見事に、誰にも勘づかれないでここまでこぎつけたと思う。

「ほんとに泊めてくれると思わなかった」

 オートロックのエントランスをくぐり抜け、エレベーターのボタンをが押した。がく、と機械の動く音がする。そこは背の低いこぢんまりとした一人暮らし向けのマンションだった。

「あれ、秋紀くんも覚えてたんだ」
「忘れるわけない」
「そっか……うーん、でもね、これはわたしの下心だよ」

 が少し恥ずかしげに笑って、きらきらした目で俺を見上げる。長い長い情けない片想いの末に、意中のそのひとにこんなに難なく、こんなにいじらしい誘い文句を投げかけられて、その場で叫びだしたり泣き崩れたりしなかっただけでも自分を褒めたい。ただ、誰も居ないのをいいことに、俺はエレベーターに乗りこんだ途端、たまらずを抱き寄せ彼女の口を塞いでしまっていたんだけれど。こうなることをまったく予期してなかったわけじゃないのに、どうしたらこうなれるかなんて、考え及びもしていなかった。けっきょく、なるようにしかならない。試合の読みではないのだから考えたって仕方ない。三階でエレベーターが止まる。1LDKのシンプルな部屋。これから一週間、俺たちだけの密室。玄関にキャリーケースを放りだし、彼女を抱きかかえ、彼女に導かれながら、俺は初めてのベッドルームに入った。

 結婚の約束までしたかつての恋人の弟に、そもそも十も年下の男に抱かれるというのは、どういう気持ちがするものだろう。大人の女のひとの裸体はすみずみまで整備が行き届いていて、こちらがフライング気味に衣服を剥ぎとってもまったく備え万端といった感じだった。見透かされていたようで、おそろしい。は、俺の未熟な手つき、彼女にしてみれば青臭いに違いないやり口のひとつひとつに次第に乱されていくことを、少し戸惑いながらもちゃんと愉しんでくれた。そんな態度もまた、とろりと二人をないまぜにするための潤滑油になりうる。上手いとか下手とか相性とか感度とか、そんな野暮なことは置き去りにして何もかもがなめらかに運ばれていく、一筋の亀裂もない珠のような、そんな美しい夜だった。

「きつねにばかされたみたい」

 狭いベッドのなかで向かいあい、が俺の髪を梳かすように指をすべらす。なんの癖もつかない味気ないほどの直毛。彼女に触れられても、その指の動きを絡めとることなんてけっしてできない。

「きつね……って俺?」
「きみの家系はきつね顔だもんねえ」
「ひど」
「違くて、……夢みたいだから、こうしていることが」

 ずっと夢見ていたそのひとに夢みたいだと言われるのはふしぎだった。こうしていることが夢みたい、なんてそのものずばり俺の使う言葉だ。俺の髪をもてあそぶの手をとり、胸のなかへと引き寄せる。暗がりのなかでもこれほど近づいてしまえばの表情がちゃんと見えた。

「好きだった、ずっと」
「うん、知ってる」
「知らない。あんた何も知らねえよ。俺のことなんか……」

 これは夢じゃないと、思い知らせてやりたい。彼女にも、自分にも。何度だって、何回だって、何遍だってそうしたい。まさかこんな癇癪を起こしたような口のきき方をしてしまうなんて、思いがけず自分で自分の言葉に深く傷つけられてしまう。それなのに、のほうはどうだろう。戸惑う様子などみじんも見せずに、彼女は俺の背中をぽんぽんと慰めるように叩いた。ちょっと待ってて。に耳もとでそう吹きこまれ、彼女の温もりがにわかに離れていく。ベッドサイドのランプの明かりを小さくつけて、がさごそとどこかで何かを探り当てる音がする。するりと抜け殻のような布団のなかへが戻ってきたとき、彼女の手には一通の手紙のようなものが握られていた。

「読んでみる? きみのお兄さんがくれた最後の贈りもの」

 冗談めかした様子でそう言って、が俺に差しだしたエアメールの封筒。それは、兄がに宛てた一通の手紙だった。

 ――きみとの未来が、俺にはもう想像できなくなってしまった。日本に帰るつもりもない。済まない、許してほしい。

 消印は二年前の夏。みみずみたいな兄の筆跡。たった便箋一枚、たった一行の別れの言葉。この愛しいひとを「要らない」と思える人間がいるのだということに、あらためて感じ入るものがあって、その素っ気ない文字の連なりを俺はしばらく何を読み取るでもないうつろな目で見つめていた。未来が想像できない。血は争えないというやつなのかと思うとゾッとするけれど、卒業式の前に、自分も似たような言葉でひとつの関係に無理やりケリをつけたことを思いだしてしまう。許してほしいとは、俺は思わなかったけれど。彼女の今を構成している過去の哀しみや痛み。知ったふりをして、知らない。俺だって何も知らない。己れの傷を見せつけることでは俺の駄々をすぐさまいなしてしまった。涙腺が壊れてしまったみたいに、締まりなくはらはらと涙がこぼれていく。言葉なんてあるはずもないから、俺に許された感情表現はもうこれしかなかったのだ。

「泣かないで。わたしにも教えて、秋紀くんのこと。秋紀くんの十八年のこと。なんでもいいよ、楽しいことも、悲しいことも。ぜんぶ知りたい」

 の声が夜泣きする赤ん坊を寝かしつけているようで、俺の耳には決められた旋律のうえを決められた速度で滑っていく子守唄のようにも響いた。何度も根気よく涙を拭われ、どこまでも、いつまでも背中をさすり続けてくれる手のひらの安寧に依りかかり、俺はまぶたを閉じた。そして再びまぶたを開けたときには、もうとっくに夜は明けて、拡散する朝の光がベッドルームの闇をすっかり洗い流してしまっていた。



 となりにがいない、そう思ってぞわりと脳裏を駆けた焦りを振り払うように身を起こすと、リビングルームのほうから足音が近づいてきて擦りガラスの引き戸がゆっくりとひらいた。ほっとすると同時に、彼女と顔を合わせた途端、昨晩のあれこれが幸福なむずがゆさでもって俺に襲いかかってくる。だって俺はけっきょく「教えて」と言われたことをひとつも伝えられないまま、の温もりに抱かれ、自分ひとりすっかり安堵して眠りこけてしまったのだから。

「お互いよく寝たね、おはよう」
「……はよざいます」
「お風呂、沸いてるよ。シャワー浴びてすっきりしてきたら」

 は部屋に入ってくるとベッドのふちに片膝をつき、布団にもぐったままの俺の脚をまたぐようにして寝室のカーテンをひらいた。四角く切り取られた空の青。昨日の嵐が嘘みたいなのどかな朝。だけど、そんなことより。カーテンを開けるまでの彼女の鷹揚な身のこなしに、なぜだか朝っぱらからいたずらに胸が騒ぐ。の注意を引くためだけに生白い腕をつかむと、彼女は「なあに」とでも言いたげな顔で俺に向き直り、なんのためらいもなく掛け布団の上から俺の膝にぺたりと座りこんだ。十も生まれ年が違うなんて、とても思えない。化粧もせず、風呂上がりなのか、生乾きの髪を肩に垂らした。無邪気に俺の膝の上にまたがる。子どもにはないあどけなさが彼女を魅惑的に彩っている。

「ねえ、今日どうしようか。嵐もすっかり過ぎたし、散歩がてら少し京都観光でもしてみる」
「え、一日中ここにいたい……」
「スポーツマンがそんなぐうたらな春休みを過ごしちゃだめでしょ」

 からから笑って、は俺の頬をこするように撫でた。まくらのあと、ついちゃってる。こんな何気ない一言で情けない夜のすべてが笑い話になっていく。
 今日の予定についてあれこれ押し引きしあいながら、けっきょく俺たちは、風のやんだ穏やかな街へ繰りだす前にもういちど時間をかけて抱きあった。朝のまぶしさが繊細な模様のように織りこまれたシーツの上で、の曲線がたゆんだり、ときおり跳ねたりする。俺が、彼女をそうしている。朝陽が乾かしてくれたはずのこの部屋が、二人の息づかいでまた、みるみるうちに水をふくんでふやけていった。

「っあ、……あきのり、くん」

 腰を慎重に沈めようとするの動きがもどかしくて、助けようとしたはずがつい手つきが荒っぽくなってしまった。両脇から彼女の腰をつかんで膝の上におろしてやると、は喉をひきつらせて短く喘ぎ、浅い呼吸に乱されながら俺の名前をきれぎれ呟いた。

「あ、わり……どっか痛かった?」

 無意識にがっついていたことをとりつくろうように、いまさらそんな気遣いを見せたところでもう遅い。十代の性欲ってばかになったゼンマイ人形みたい、だとか、ほんとうのところ既に呆れられているのかもしれない。の顔をこわごわ見上げてみると、彼女はなんとか息をととのえてから、首を横に振ってくれた。張りついた前髪の奥で、くたっと笑いながら。

「明るいって、こわい、ね」

 そして、こんな素朴な感慨をささやく。少女じみた恥じらいがときおりから垣間見えるのは、彼女がもうけっして少女ではないからなんだろうと思う。かわいいとか、きれいとか、いくら振りまいてもにはあんまり響かないと、一夜で学んだ。こんなにかわいいのに、こんなにきれいなのに、こわいことなんてあるはずがない。それを自分が彼女に気づかせることができたらどんなに素晴らしいだろう。自分が、にとって奇妙な存在だからこそ、彼女を疑り深くさせてしまっているかもしれないというのに。信じて、俺を信じて。そんな情けない懇願のような、それでもこれ以上ない祈りをこめて、彼女の半身を揺さぶり続けた。午前の陽ざしにそびえた彼女の裸体は、俺にとってこのうえなく美しいオブジェだった。

 それから俺たちはめいめいシャワーを浴び、のつくったホットドッグを二人でブランチがわりに食べてから、ようやく休日の街へと一歩踏みだした。
 コートなんていらないくらい春めいた土曜日。生ぬるい外気を全身にまといながら、俺はとうとう幼い夏の日の記憶のことを、今まで誰にも言ったことのなかったあの性の目覚めの瞬間のことを、に話した。昨晩、一言も話すことのできなかった自分のこと。楽しいこと、悲しいこと、それよりも何よりも、彼女が俺に打ち明けてくれたあの手紙のことを考えたら、この秘め続けた思い出を話さずにはいられなかった。あのとき、兄に対する憧憬の根っこから、得体の知れない芽がでたのだ。今もまだ俺はあの芽を育てているのだろうか、大切に。それともここにはもう、あのときの自分が知るよしもなかった新たな想いが芽生えはじめていて。

「あれが、俺の十八年の人生のなかでいちばん悩ましい記憶」

 は俺の話を、その日のことを覚えているのかいないのか、どちらともとれるような相槌を打ちながら聞いていた。兄がいたから、手に入らなかったひと。兄がいたから、出逢えたひと。だけどそんな「たられば」に縛られていただけなら、俺はいま、京都の路地をこのひとと二人で歩いてなんかいないだろう。

「悩ましい」
「まあ、エッチなって意味で」
「エッチかあ。じゃあもう更新したんじゃない? いちばん」

 朝っぱらからあんなことしちゃったもんね。がちょっと背伸びして、そんな言葉を俺の耳に吹きこむ。
 さらさらと今、あの日からずっと頑丈に守られてきた砂の城が南風にさらわれて崩れていく。の耳に俺の鬱屈した思い出が触れたはしから、今なお鮮やかだったあの日のワンシーンがみるみるうちに色褪せていった。きっと俺にはもう、ここにいるがいるから。簡単なこと。単純なこと。ただと二人で居るだけで、いつまでもあの夏をこねくりまわすしかない日々は、別れの挨拶も待たずにあっけなく過ぎ去ってしまったのだ。

 昨日の夜はタクシーに乗せてもらったから気づかなかったけれど、のマンションを出て路地を抜けると、見事な桜並木のトンネルが最寄り駅までまっすぐ続いている大通りがあった。今年の桜は早い。まだまだ三分咲きくらいだね、と言いながらがささやかな桜の芽吹きを仰いだ。彼女が立ち止まると、俺も立ち止まる。俺たちはいつの間にかかたく手をつないでいた。

「あんな風吹いてたのに、少しも散ってないのな」
「桜は満開になるまでとっても強いの」

 雨にも負けず、風にも負けず。それなのに咲きそろったら最後、桜の花びらたちは嘘のように弱くなってしまう。一瞬の美しさを誇るでもなく、いさぎよく風の模様になって散っていくのだ。

「一週間経ったら、どうなっているかな」

 桜が? それとも、俺たちが?
 今年の桜も、この恋も、永遠に満開になんかならなければいいのに。そしたらきっと弱さも知らず、いつまでも俺たちは強くいられるだろうに。なんて、そんな陳腐なセリフはとても言えない。
 芽吹いたものはいつか必ず腐っていく。でもそれはきっと、哀しいことばかりじゃないと思う。苦い経験も、甘い過去も、すべてが腐り、土になって、そしてその生温かい土のなかからまた新たな芽が顔をだす。そうやって生きていく。永遠よりも尊いこと。過ぎ去るということ。移ろうということ。さん、あなたがそれを俺に教えてくれました。









THE END

2016.2