※ 中学三年生




 彼女の踊る姿は、まるで、それはまるで。……
 屋上の片すみで見事なピルエットがきまる。重たい紺色のピーコートを着たまま、軽やかな足さばきでが淡々と踊り続けているのを、月島は屋上の扉に背をもたれて遠くに眺めていた。彼女の頭の中にはいま、階下のスピーカーから溢れる、平凡なチャイムの音など流れていないのではないか。優雅なクラシックの調べが、彼女のなめらかな身体の動きから、滲みでてくるような気さえする。その身ひとつで旋律をつむぐひと。彼女がそんな、おそらくはまだ小さじ一杯にも満たないような「特別」を、この窮屈な灰色の町でもてあましているということ、きっと誰も知らないだろう。打ち明けられた自分以外は。

。予鈴鳴ったの、気づいてる?」

 いっこうに彼女が屋上の出入り口へと目を向けないから、月島はついに痺れをきらして扉にくっつけていた背中を離した。コートのポケットに両手を突っこみ、給水塔のほうへと近づきながら声をかけてみると、は薄っぺらな上履きで踏んでいたステップをぴたりと止めた。寒いのか、それとも、ほんのりと熱いのか。頬紅を散らしたような顔をして、が振り向く。こんな季節にマフラーひとつ巻いてない首筋があまりにさみしくて、月島はすぐにでも自分の首もとを守るヘリンボーンをほぐして彼女に巻きつけたいという気持ちに駆られた。

「さすがに。でも、月島くんがいたのは気づかなかった」
「けっこう前からいたけどね」
「ほんと? 声かけてよ、恥ずかしいな」

 は少しはにかんで、乱れた髪を指先にすくいあげた。呼吸を整えるように、深く吸いこんで吐きだされる息はもちろんまっしろい。二月の終わりになっても新しい季節の気配などもってのほか。少しでも空がぐずればいつだって粉雪が落ちてくるような容赦のない寒さのなかで、それでもは頭のなかに流れる音楽を止めない。こうしているうちにもまた、の指先や足の爪先が、ついさっきまで奏でていたに違いないメロディーを反芻するように、かすかにふわりと動いていた。

「その封筒って、入学書類?」

 まるで歌でもうたうように。の指があまりにやわらかな曲線を描くので、そんな些細な動作すらひとつの振りつけみたいに感じられる。彼女が指さしたもの、それは、月島が左腕の脇にかかえていたA4サイズの少しぶあつめの封筒だった。ご名答。月島はちょっと腕をあげて、その白い封筒のおもてを一瞬だけに見せた。

「……ああ、今日だったんだよ。公立の」
「烏野だっけ、第一志望だよね」
「まあ一応」
「余裕あるね、おめでと」

 はあっさりとした口調で、実にシンプルな祝辞を述べた。おめでと。月島はかすかな眩暈すら覚える。誰よりもまず彼女にその一言をもらい受けたかったのだから。
 同じ白い封筒を持ってぞろぞろ帰ってきた同学年の一行はみな、教員室にまっすぐ向かって、いまごろは教室でクラスメイトたちからの祝福を受けているのかもしれない。そのうちの誰か、例えば小学校のころから付き合いのある山口あたりが、自分の不在に気づいて代わりに担任への合格報告くらいはしてくれているだろう。どうでもいいのだ、二の次だ、そんなこと。学校の門をくぐって、屋上にの影をちらりと見つけてしまった以上は。行かないでくれ、そこに居てくれ。そんな願いと期待をこめて、四階分の階段を一気にのぼってきた。そしては、ひとり、ここに居てくれた。だからいま、ふたり、ここに居る。望んでもそう容易く手に入れられない、久しぶりのふたりきりだった。

「あのさ」

(きみに、触れていい)

 言えない。言うつもりもない。それなのに口のなかでだけ、律儀に唱えている。触れたい。あと少し、距離をつめ。ほんの気持ち、腕を伸ばす。それだけであっけなく叶うことも、現実に還すことはかくも難しく。指ひとつ動きはしない。ここには、ひとり募る想いはあれど、ふたり紡ぐ糸だなんてあったためしもないのだから。

「……風邪引いても知らないよ。も入試もうすぐだろ」

 声になるのは味気ない、月並みな気遣いの塵ばかり。そうだね、と素直にはうなずき返し、足もとのかばんを肩にかけると、なんのためらいもなく月島の横をすっとすり抜けていった。なにげない振る舞いのなかにも、の、はっきりとした努力があらわれる。努力。月島の、自分に対する好意。自分の、月島に対する好意。それらが大それたかたちになる前に、すかさず撹拌をくりかえす努力。何回も、何十回だってタイミングはあったはずなのに。彼女はそれを、いくどとなくはずし続けている。だけど月島は、いまさらそんなことを責めたりなんかしない。ふたり、どうにかなってしまうことを心の底でおそれているのは、自分もきっと同じだと思うから。



 女なんて大嫌いだった。おそろしいとさえ思っていた。彼女たちをけっして拒絶しきれない、むしろ彼女たちへと抗いがたく自分が方向づけられていることへの、我慢ならない居心地のわるさというものが、物心ついたころから月島のなかには渦巻いていた。恐怖心があるということは、無視できないということ。身近にあって泥のようにしみこみ、すぐには洗い流せない存在であるということ。ごくありきたりな感慨をもって言えば、疎ましい、親密さの内側へは引き入れられない生きもの。そうやって何かをひとくくりにする知識を手にした気になって、その枠内で息づき、てっとりばやく安心したがっていたのかもしれない。恋の得体の知れなさなんか、目もくれないで。

「わたしから月島くんをとらないで」

 十年来の幼なじみに生まれて初めての敵意を向けられたとき、は一体どんな表情をしていただろう。
 涙をこらえたくぐもった悲痛な声を、月島は、七月の暑い廊下に立ち止まって聞いた。するどいと思った。むしろその一言は、本人よりもずっと月島蛍という人間のことをよく分かっているように思えた。だからこそ、その言葉をひろったから繰りだされた予想外の訴えに、その不気味さに、彼はいっそう混乱したのだった。

「……わたしだって、とらないでほしかったよ」

(月島くんが、わたしから、あんたを奪ったのに)

 ばちんと頬を打たれたような衝撃だった。とっさに自分はここに居てはいけないという気持ちが募り、ちょうど鳴りだしたチャイムに足音を紛れさせ、彼はひとりで階段を降りていった。夏の息はすぐに熱を吐く。見てはいけなかった、聞くつもりもなかった、ふたりのいざこざは、お気に入りのぬいぐるみや好みの色の折り紙をとりあうような、そんな幼い喧嘩とはまったく次元の違う心の削りあいだった。誰も彼も、誰かから何かを奪った気なんて毛頭なかったはずなのに。それでもたしかに、三人は三人とも何かけっして取り返しようのないものをそれぞれに失ってしまったのだという気がした。だから女って、大嫌いだ。月島はなかば投げやりな気持ちで、ひとり誰もいない下駄箱から乱暴に己れの靴をとりだし、どうにも憎々しい気持ちでローファーを足もとに叩きつけた。靴底をおもてに、転がる靴。まじない通り、雨でも槍でも、降ってしまえ。

 に出会ったそのときから、月島はもう彼女に惹かれはじめていたけれど、同時に彼はと出会ったそのときから、彼女のことを手に入れる機会をあらかじめいっさい取りあげられていた。気づく前から手遅れだったのだ。それは、ふたりの出会いのあり方が証明してしまっているように。

 ふたりが初めて顔を合わせたのは二年生の秋のはじまりだった。そのころ月島は、ひとりの女生徒と付き合っているだのなんだのと、同学年の生徒たちのあいだで小さな噂を立てられていた。その女生徒とは委員会が同じで、家も近かったから、ふたり並んで下校することがままあったのだ。月島も彼女も何かと異性から注目を浴びてしまう類の垢抜けた顔立ちをした人間どうしだったから、そのことも噂に大げさな尾ひれをつけた。ただ学校から数百メートルの距離を一緒に歩くだけであることないこと囁かれる。そのこと自体が月島にとってはあまりにばかばかしくて、うっとうしいとは思いつつ、みずからすすんで内容を正す気にすらなれずにいた。

「あ、!」

 その日も、委員会の仕事をさっさと切りあげて、月島は噂の女生徒とグラウンドの横を並んで歩いていた。といっても、その日、月島にはバレー部の練習があったから、一緒に歩くのはせいぜい校門脇の体育館までという短い道のりだったけれど。その短い道のりのなかで、月島はと出会った。彼女は朝礼台にひとり腰かけて、グラウンドを走る陸上部の練習をぼうっと眺めていた。今思えば、あれはわざとらしい待ち伏せだったのだと思う。月島のとなりを歩く、自分にとってたったひとりの、心を許せる友人と鉢合わせるため。

「今日はバレエの練習ないの?」

 弾んだ声で紡がれた「バレエ」という単語を、月島はそのとき自分になじみ深い「バレー」と取り違えて耳にいれてしまった。そのせいで不意に視線をとりあげられて、普段の彼ならさっさとふたりを置いて歩いていっただろうに、自然とその場で足が止まってしまった。

「ん、あるけど、ちょっと遅め」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろう? ね、」
「わたしはいいけど……ふたりの邪魔じゃないなら」

 の視線がふわっとさりげなく上向いて月島を捉えた。貼りつくでもなく、縛りつけるでもない。ただ一点の鋲のようなまなざしで、彼はそのとき、一抹の不自由を感じた。

「やだ、まであの噂、本気にしてるの?」

 言葉とはうらはらにまんざらでもない様子でとなりの彼女が笑う。別に、週に何回か一緒に本棚や返却図書の整理をしているだけなのに、それでもあまり周りと群れない月島にとっては、彼女がほんのわずかでも彼の「特別」な存在にあずかっているのはたしかだ。友達でもない、一緒にいて楽しいわけでもない。ただ、男と女がふたりで居るだけで、周りはああだこうだ騒ぐし、当人も浮足立つものなのだ。

「あのね、この子、幼稚園のころからずっと一緒の幼なじみで……カッコいいでしょ、背が高くて」

 が軽く会釈したのを、月島はさらにかすかな会釈で受け止めた。眉毛だって前髪だって、くちびるの色だって、は何もかも生まれたままといった感じだった。それなのに彼女には天性の気高さのようなものが漂っていて、けっして野暮たいところのない少女だった。

「……ふうん。まあ、僕のほうが高いけど」

 どうしてそんなことを口走ってしまったのか、月島本人にもよく分からなかった。嫉妬? 苛立ち? 張り合い? だとすれば、誰に、何を、どういう料簡で。がぱちぱちと濃いまつげを上下させる。そのとなりで、彼女の幼なじみがしごく当然といった口ぶりで放った言葉が、秋めく北風に乗って今もきっと、月島との、ふたりの境目に吹きすさんでいるだろう。

「だって月島くんは男の子だもん」

 その年の暮れ、月島は生まれて初めて「告白」というものを受けた。これではでたらめだらけの噂のほうを、当人たちが後追いしているみたいではないかと思った。部活もあるし、受験も控えているし、自分はそういうことをまめにはできない、と言ったら、彼女はそれでもいいのと涙をためた目をして笑った。毅然とした恋の瞳。どうしたらいいか分からなかった。どんなことにもすっぱりと見切りをつけられる己れの性格も、こんなときばかりは使いものにならない。けっきょく月島はあいまいな態度しかとれなかった。だから彼女は、「特別」なふりをすることを許されて、今も彼のとなりにいる。



 あの小さな会釈ひとつで済んでしまった出会いの日が遠くに過ぎ去って、年度が替わり、三年生のクラス替えを経て月島はふたたびと顔を合わせた。今度は、あっさりした会釈だけでは済まされない出会いだった。同じクラス、となりの席。月島はそこで初めて彼女のフルネームと字面を知った。彼女の名は、

「これから皆さんには、他己紹介をしてもらいます。となり同士ペアになって、原稿をつくりましょう」

 三年生になっても一学期の始まりといったら毎年恒例のこのイベントなのだ。まだ自己紹介のほうが手っ取り早くてマシだ、と思いながら、月島はノートの切れ端に適当なプロフィールを走り書きして、のそれと交換した。そしてのまるっこい文字列にさっと目を通したとき、そこに踊っていた単語のひとつが月島の脳裏にひっかかった。出会いとも呼べないような、擦れ違うように知り合ったあの日、聞き間違えたその単語が彼の視線を奪ったように。

「……バレエ」
「え?」
「……いや、なんでもない」
「あ、……月島くんもバレーだ、ばれーと、ばれえ」

 はっきりとした発音でふたつの単語が並ぶ。ふふ、とは笑って、月島の書いた薄い文字を人差し指の爪先でなぞった。他己紹介が始まるまでのわずかな数分間、教室は真新しいざわめきではなやいでいる。けっして口数の多いほうではないふたりはその喧騒にしばらく埋もれていたけれど、こんなささいな会話だけで、お互いにこのはにかんだ空気のなかにしっかり居場所を持てたような気がした。

「そうだ、」

 が何かをひらめいたのか、突然、かばんのなかを漁りはじめた。彼女の手にしたファイルのなかから、長方形の紙切れがあらわれる。それは何かのチケットのようだった。

「あの……もしバレエに興味あるなら月島くんこれもらってくれる」
「え、待って。興味あるとは一言も言ってない」
「全然チケットさばけなくって……ほんともらってくれるだけでいいから」
「なんで僕……、それこそあいつに頼みなよ」

 あいつ。の幼なじみ。そして月島とをはからずも引き合わせ、今このときをふたりの「再会」にしてくれた彼女。

「頼めてたらとっくに頼んでますー、この日は親戚の結婚式なんだって」

 タダだから! と言ってが月島にほとんど押しつけるようにして手渡したのは、彼女が通っているバレエスタジオの定期発表会のチケットだった。日づけは今週の日曜日で、この近くの区民会館で行われるらしい。正直、困惑した。こんなふうにいきなり距離感を無視して誘いを受けたら、誰だって一歩引いてしまう。ふだんの月島だったら、一歩どころか、十歩くらい心の距離は遠ざかっていたに違いない。それでも彼は、どうしてもその一枚の紙切れをむげにすることができなかった。だって、もう、すでに興味があったのだ。バレエにはなんの興味もなかったけれど、バレエをするに。教室の外で、彼女がどんな顔をしているのか、ということに。

 日曜日、午前中にバレー部の試合が入っていた月島は、けっきょくその発表会を半分も観ることができなかった。終わりかけのころに最後列にしのびこんだとき、ちょうど舞台の上では中学生の演目がフィナーレを迎えようとしていた。優雅にヴァリエーションを踊りこなすひとりの少女。それがだと気づくまで、少しの時間がかかった。遠かったのもあるし、あまりにふだんのとは雰囲気が違っていたせいでもある。髪をひっつめてひとつに結いあげ、濃い化粧をした、凛々しい彼女。――カッコいいでしょ。月島の胸中に自然とその一言がよみがえる。カッコいい。たしかにその形容詞は、にぴたりと嵌まっていた。
 演目が終わり、休憩時間中にさっさと帰ろうと思ったら、区民会館のロビーのところで後ろから名前を呼ばれた。月島くん、と。振り返ると、出番を終えたばかりのが、舞台衣装のチュチュの上に学校指定のジャージをまとったへんてこな姿で、そこに立っていた。

「ほんとうに来てくれるなんて思わなかった」

 はぁ、と息を吐きながらが間の抜けたことを言う。おつかれ、とか、すごいね、とか。色々と、あたりさわりない挨拶は浮かんだけれど、声にすることはできなかった。

「……強引に誘っておいて」
「ごめん、ごめん。だって、月島くんだけだよ、来てくれたの」

 ありがとう、とが邪気のない笑顔をつくる。火照った頬。やりきったような、すがすがしい表情。なんだ、誘われていたのは自分だけではないのか。少し考えてみれば当たり前のことに今さら頭が回って、彼は軽率にのこのことここまでやって来てしまったことを今さら後悔した。こんなの、同じクラスになってたった一週間の間柄で、近すぎる。
 だれだれちゃんと、なになにさんと、知らない名前が彼女の口から溢れてくる。去年、同じクラスだった数人に彼女が渡したチケットは、けっきょくただの紙切れになったのだ。

「女の子の付き合いはめんどくさいよ。仲良しグループとかよく分かんないし。男の子に生まれたかったなって、ときどき思う」

 ロビーのすみのベンチに腰かけて、が高い天井をあおぐ。月島も彼女のとなりの席に重たいエナメルバッグを置いて、かばんを隔ててベンチに腰をおろした。

「……そんなフリルだらけの衣装着て、よく言うよ」
「男の子になりたいわけじゃないもん」

 奇妙なことを言って、は足もとに視線を落とした。足の指先だけがかすかになごりのステップを踏んでいる。素っ気ないふうでいて、少し近づいてみれば、存外に気さくな一面もある。もしもが男だったら、自分とは良い友人どうしになれたかもしれない。そんな気持ちが不意にわき溢れて、それならどうして、が女だったら自分の友人にはけっしてなりえないのだろうかと考えた。行き着く先にあるものには、まだ手を触れたくなかったけれど。

「今度さ、わたしも見に行こうかな。月島くんのバレーの試合」
「はあ、いいよ。別に」
「義理じゃないよ。ほんとうに見たいの」
「いいって。だいたいバレーのルール知ってるわけ、きみ」
「そっ……お、覚えてく」
「そういうの気が散るから、野次馬とか」

 月島が少し過剰なくらい冷たくあしらうと、は腑に落ちないといった顔で首を傾げてみせたが、彼はその仕草を見逃したふりをした。
 ――きみのバレエみたいに、僕のバレーはカッコよくない。
 好きではじめたはずのことが、いつの間にか惰性のようになっていて。やりがいも特に感じないけれど、なけなしの意思でしがみつくこともやめられない。こんな姿、みっともなくて、とても誰かの見せものになったものじゃない。家族にだって来ないように言っている。自分は、自分が、恥ずかしい。それなのにどうしたら変われるかなんて考えもしていない。変わることが、こわい。今の自分は恥ずかしいけど、今の自分は守られている。この安寧をみずから飛びだす力が、どこにもなかったから。
 の踊る姿はとても美しかった。それでも彼女は「こんな腕前じゃ、とうていバレリーナなんてなれないけど」となんでもないふうに笑って、月島の心を少しだけほっとさせたのだった。そんな自分がまた、恥ずかしくて、みにくいと思う。という少しの「特別」が、いつまでも手もとにあったらいいのに。そう安直に願いながら、月島は自分でも気づかないうちに、あまりにに惹かれすぎてしまった。そんな心の傾きを彼に否応なく教えたのが、あの真夏、盗み聞いてしまった悲痛な言葉だったのだ。

(わたしから月島くんをとらないで)

 彼はほとんど、その言葉を聞くまで、あやふやな態度をとって「特別」を許してしまった女生徒が自分のとなりにいるということを、すっかり忘れていたくらいだった。一度か二度、ふたりで一緒に出掛けもしたし、ふたりきりの図書室や、帰り道で、手をつないだことも、キスをしたこともある。それなのに、まったく意識の埒外に、それらのできごとは追いやられていた。恋人、という真っ白な塗り絵を考えもなしに色づけていく、味気ない共同作業。そんなふうにしか自分が、彼女を思いやれていなかったということ。その裏で、まったく違う想いを募らせていたということ。恋は、果たしてほんとうに盲目だった。誰にとってもおろかで、凶暴で、どこまでもままならないものだった。
 あんなひどい修羅場を目撃してしまったから、夏休みが明けて、神妙なおももちのが全寮制の歌劇学校のパンフレットを差しだしたときも、月島にはもはやあのときほどの衝撃は走らなかった。むしろ、やっぱり、と思ったくらいだった。ここではない何処かへ行きたいという願望は、きっと彼女にはもともと備わっていた。それが彼女の気高さだった。その透明な脱出願望が、ついに羽根をはやしてしまっただけなのだ。あの、恋の痛みに触発されて。

「夏休み中、ずっと考えてたの。わたし、なるべく早く、この町を出たい。ほんとうは、ここを離れられるなら、なんだっていいのかもしれない。そんなんじゃ、考えが甘いかもしれないけれど……」

 なんだっていいなんて、には言ってほしくなかった。だけど同時に、なんだっていいと言えるくらいに、彼女はなんだってできてしまう、そういう人間なのではないかとも思った。十五歳。あるいはその漠然とした若さが、ふたりの気を大きくさせていたのかもしれない。手渡されたパンフレットを捲ってみたところで、何が分かるわけでもない。飛びこむ勇気がないのなら、未知を暴くことなんてできない。誰も、分からないまま踏みだすのだ。その世界のことも、自分のことさえも。

「いいけど……なんで僕に、このはなしを?」

 パンフレットを返して、に目を向ける。最後の夏服、赤いセーラーのリボンをいじりながら、彼女が目を伏せる。屋上の給水塔の壁に寄りかかり、ふたりはよくたわいのないはなしをした。彼が、にうながそうとした言葉。期待していたもの。はみごとにそれをかわした。そして、そのうえで、彼のことをまた新たな鋲で突き刺してみせたのだ。深く、いっそ貫くように。

「月島くんは、わたしを見てくれたから」

 あの子には、絶対、絶対、内緒にしてくれる? 念を押すようにそう言って、彼女は歌劇学校のパンフレットをその胸に抱きしめた。もう、頷くしかできなかった。認めるしかなかった。行かないでほしいとか、そばに居てほしいとか、そのわけすら口にできない人間には、これくらいがちょうどお似合いの言葉だったのだ。



 卒業式の日、まだ進路が決まっていない卒業生はたったひとりだった。
 式の始まりは十時。朝のさわやかな冷たい風を浴びて、月島は屋上に立っていた。別に大した付き合いをしてきたわけでもないのに、誰も彼もが、今日ばかりは慣れ慣れしく別れを惜しむ。そういう馴れ合いが大嫌いだったから、ひとり、ホームルーム前の教室から逃げてきた。そして、を待っていた。自分がに合格を報告したときのように、ここに居れば彼女もまたそうしてくれるのではないか。そんな、みょうに確信めいた直感が、月島の足をこの場所に向かわせたのだ。

 やがて背中で、壊れた鍵がひらかれる。
 錆びついた扉が、どうしようもなく不快な音を立てて、蝶番とこすれる。
 が、そこに現れたは、泣いていた。震える右手に、ハガキを一枚、握りしめて。

「わたし、……わたし、合格した」

 そろそろと腕をもちあげて、月島に突きつけるように彼女はハガキをかざした。確かめるまでもなく、それは彼女のもぎとった合格通知だった。どこかで分かっていた最後通牒。ああ、これでお別れなのだ。もっと痛烈な悲しみが湧くものだと思っていたのに、彼はむしろこれ以上ないほど晴れやかな、自由な気持ちに包まれていた。足早に、に駆け寄る。差しだされたハガキごと、何も言わずにを抱きしめると、そのまま、ためらいなく彼女の薄いくちびるを塞いでいた。が、息を凝らす。ほんの数秒の口づけ。ゆっくり顔を離しながら、月島は彼女の表情を覗きこんだ。はまるで雰囲気もなく、ただ目をまんまるく見ひらいて、ぽかんと口を開けているばかりだった。

「……な、んでキスしてんの」
「え、ごめん、無意識」

 無意識でキスってできるものなの? 目じりを濡らすしずくを指で拭いながら、ようやくが、きらきらっとわらう。好きだ。彼女が好きだ。月島ははっきりと、その気持ちをなぞった。そして、彼は夢のように彼女の温もりに触れながら、自分はいま、未来と現在の境界線に立っているのだという、そんなふしぎな想いに囚われた。ここを一歩でも動けば、そこには別々の未来が待っている。ふたりが、ふたりでいられる一点。それが、今なのだと。

「ひとつだけ、わがまま言ってもいい?」

 月島の腕のなかで、は大切にハガキをポケットのなかへしまいこむと、空いた手のひらを彼の学ランにそろそろと這わせた。心地良いうねりがとまったのは、彼の胸もとの銀ボタンの上だった。

「これ、ちょうだい」

 指のはらで、が、自分の第二ボタンを楽しそうに転がしている。驚くべき光景だった。なんだろう、ほんとうに、夢なんじゃないだろうか。舞い上がった混乱をなんとか呑みこんで、視線を合わす。の大きな目の中に、自分が居た。自分だけが佇んでいた。

「……よく意味が、わからないんだけど」
「いいでしょ、餞別」
「……あのさ、僕がどれだけ、」
「そっちからキスしておいて、いまさら何言ってるの?」

 ああもう、めちゃくちゃだ。何も返す言葉が見つからなくて、というよりも、言葉にすれば自分の秘めようもなかった恋心と、彼女の奥に潜んでいたかもしれないそれとが、きっとまったく別物なんだろうと気づかされてしまう気がして、とにかくもう一度、言葉のいらない所作でとの距離を埋めた。

 今、この場かぎりで、それ以上にも以下にもひろがらない、ふたり。
 それでも今、確かにここにあって、けっしてないのではない、ふたり。

 彼女のなめらかな、美しいおうとつを、己れに刻印するように。彼は、骨がうずくほどに彼女を抱き締めた。腕の力を緩めたときには、胸もとのあのボタンはもう、彼女の一部だった。彼女のものだった。奪っちゃった。そう言ってめかした彼女の目じりには、さっきとは違う涙がとめどなく、溢れていた。



 あれから一年が経って、また肌寒い三月がめぐってきて。
 月島は、あの卒業式の朝のことを、あらためて思いだしていた。同じ部の三年生の先輩が、女生徒に第二ボタンをねだられて、それを部員みなで囃し立てているところを、ひとり身を引いて眺めていたときのことだ。

 はけっきょく、彼の第二ボタンをさらっていったが、彼そのものをさらっていく気はなかったし、それは不可能なことだった。「とらないで」と訴えられたあの願いを、彼女は確かに守りぬいたのだ。そして守りぬくためにこそ、はここを離れないといけなかった。その切実な想いは、今の月島にならば少し、理解できる。彼も、友人という存在の得がたさを、この一年でだいぶ学んだから。
 が何にかえても守ろうとした、彼女の幼なじみの初恋を、もちろん月島だって容易くふいにするつもりはなかった。それでも、そんな義理がたさだけで長続きするほど恋は甘いものではなかった。恋は厳しかった。生半可な気持ちでどうにかなるものじゃない。分かっていたことを、身をもって思い知らされた。
 十六歳の月島のとなりには、もう、誰もいない。
 正月に、から月島のもとへ年賀状がわりの手紙が届いた。こっちの文化祭にきてくれたの、という一言とともに同封されていた写真には、幼なじみふたりの弾けるような笑顔があった。まったく、ひとりの男を挟んであんな殺伐とした言い合いをしていたというのに、平和なものだ。これだから、女は嫌いだ。女は、勝手だ。でももう、この気持ちには、居心地のわるさも、恐怖もない。月島は手紙を勉強机の引き出しの奥に、その写真を、自室の写真立てに裏向きにしまいこんだ。表には部活仲間と一緒に撮られた記念写真。春高予選、決勝戦後のものだった。

 彼女をこの町から追い出したのは、僕なのかもしれない。
 そんな詮無いことを、ひとりの晩の、眠りの際で、月島はたまに考えて。考えて、考えて、誰が答えてくれるわけでもなくて。そのたび、彼女の気高さを思いだそうともがいた。透明な脱出願望。誰にでもあるかもしれない羽根を誰よりも早くはばたかせて、彼女は、月島の前から消えてしまった。会えないこともないのだけれど、二度と会わないだろうということも、彼はもうとっくに気づいている。だけど、それでもときおり、こう思ってしまうのだ。
 ――僕のバレーを、今なら彼女に、見てほしいと願える。
 あのせっかちなバレリーナにはだいぶ遅れをとってしまったけれど、ようやく自分の心もおだやかに雪を溶かし、新しい季節を迎えようとしている。あんなふうに凛々しく、あんなふうにカッコよく。目をつむり、薄れかけた記憶をつないで何度でも再生するのは、の華麗なピルエット。
 彼女の踊る姿、それはまるで、冬を追い越していく盛りの春のようだった。









THE END

2016.2