『あんた今日、ちゃんのことひとりで帰らせたんだって? 雨に降られてずぶ濡れで戻ってきたって……もう、何やってるのよ。しっかりしなさい』

 電話のひとつでも入れてくれたら、車でもなんでもだしてあげられたのに。ほんと、気が回らないわねえ。お父さんに似たのかしら……。
 母親お得意の小言はいつも、どこまでもどこまでも調子の変わらない一本の糸のようだ。若利にとってはその糸の色だとか、糸の強度だとか、その弛みだとか、そういうものはさして意識にものぼらない。ただ、いつも一方的にそれが千切れるまで糸の端っこを事務的につまんでいるような感じで、たいした相槌もせず、母親の声を聞いている。寮の自室で、風呂上がりのストレッチをしながら。この電話の向こう、ずるずると糸が延びて、彼女は若利にとってどんどん遠い存在になっていく。

『あんたねえ、もう少し、周りをよく見なさい。ひとつのことに打ちこむのもいいけど、それが他人を振り回していい理由にはならないんだからね』

 ちゃんと謝るのよ、とことさらに声を尖らせて、やはり今日も電話は向こうからぷちっと途絶えた。母親の叱責などなくとも、若利はもうすでにいちど、の携帯電話に着信をいれている。出てはくれなかったし、折り返しの連絡もないけれど。シルバーの塗装が落ちた携帯電話を彼は畳まずに、そのまま親指をさくさくと動かした。発信履歴から、もういちど、彼女の番号を呼び出す。結果は同じであった。時刻は十一時だ。はもう、寝てしまっただろうか?
 先に帰ります、という一行のなんの飾りもないメールから、の心情を押し広げるように慮る器量は若利にはない。ただ、その文面そのものの、らしさの欠落した冷たい感じというものは、経験からして彼にも理解できる。そして自分が約束を破ってしまったという事実も、胸にしかと鎮座している。けれどもやはり、「なぜ」を問う性分に彼は乏しいのだった。今まで同じようなことはいくらもあったが、今までこんなふうに沈黙されたことはなかったはずなのだ。
 とのあいだにも何か、糸のようなものがあればいいのに。たぐりよせれば必ず目当てに辿りつく、やじるしのようなもの。母親が自分に押しつけるような長ったらしいものじゃなくて、できるだけ短くて、勝手にちぎれることのない、やさしい糸があればいい。



 若利がと話すことができたのは、けっきょくそれから三日経ったのちだった。昼休みの教室で同じ部のチームメイトたちと一緒に、練習試合のスコアブックを確認しているとき、が廊下を通りすがったのを見かけて若利は反射的に声をかけた。彼の席は、三年三組の教室の、廊下側から数えて二列目のいちばん後ろに位置する。背の高いバレーボール部員の面々は、そういう席を割り当てられることが多いのだった。
 大きな声だった。少なくとも部員たちの頭の群れと、教室の後ろ半分にいたクラスメイトの数人は、彼を見、を見た。若利は机のなかに仕舞っていた紙袋をつかんで、立ち止まったに向かって数歩で近づいた。

「メール、まだ見ていないか。何度か送ったんだが」

 が迷子の子どものような顔をして、石のつぶてのような若利の眼から逃げた。薄いサマーベストのポケットに、おそるおそる手のひらをあてがいながら。伏せた目の先、水色のビーズでできたストラップがのぞいている。

「……ごめん、まだ返信、」
「見ているならそれでいい」

 口をつぐんだはそのまま、くちびるを噛んで顔を上げた。若利はほんの少し首の角度を変えてみせる。それでもいちど遮ってしまった言葉の先は、もう取り返すことはできなかった。
 若利との二人の仲は、二人以外の人間に言わせれば「幼なじみ」というものらしい。でもそれは、「幼なじみ」という言葉は、彼らの関係のはらわたを割って見せてくれるようなものではなかった。友人だとか、家族だとか、恋人だとか、そういう、砂鉄が磁石にくっついてくるように、ひとつの名前にひとつの実が成っている関係ではない。強いて言えば遠い親戚どうしのような感覚だった。こんなに近くにずっと居るというのに、だ。

「今日、お前に渡そうと思っていた。お前のお祖父さん、将棋が好きだろう。気に入ってもらえればいいが」

 机からとりだしたつつみの中身は、昨日の練習帰りに本屋に寄って選んだ一冊の詰将棋の本だった。おじいちゃんの誕生日、今年も一緒にプレゼント贈ろうよ、という約束を交わしたのは二週間前のこと。ああ、と頷いたのは別に生返事ではなかったけれど、あちこち動く予定をどうにかすることも若利にはできなかったしする気もなかった。がぽかんと口を開けて、その本を見つめている。若利とは、同じ風景を見ていても、ピントを合わせる場所がまるで違う。そういう二人だったから、若利なりの誠意をくっきりと目に映すまで、はいつも時間がかかるのだった。

「……もう、買っちゃったの?」
「約束を守れなかった埋め合わせだ。お前のほうから当日渡しておいてくれないか。時間ができたら、また、必ず顔を出しに行く」

 慎重にの腕が伸びて、いまだぼんやりと何かを考えているような顔をして、彼女は本のつつみを受けとった。顔を上げたの頬にはうっすらと笑みのようなものが浮きあがっていて、若利にはそれでなんとか、充分だというほっとした気持ちになった。それにしても今日は陽射しのきつい一日だ。少し廊下に出ているだけでも、クーラーの冷風が染みきった肌に、じくじくと熱の波が押し寄せてくる。

「そんな、むりに“必ず”とか、言わなくていいよ」

 熱の波を、の打ち水のような声が跳ね返す。控えめなしぶきが飛んできて、若利の胸のうちにはわけもわからないまま涼しい風が吹き抜けた。スカートの裾を揺らして、が速歩で廊下を去っていく。上履きが、ぱしゃん、ぱしゃん、と水跳ねの音のように廊下の床を鳴らしていた。
 自分はあまり、いい選択をできなかった。それは分かった。でも、それだけだ。
 教室に戻り、部員たちの囲っている自分の席に座り直す。そういえばなんのことわりもなく、いきなり会話を中座してのもとに駆けてしまった。すまない。そう、詫びを入れるより先に、通路を挟んだとなりの席に座っていた天童が、廊下のほうをちらっと覗きこみながら口をひらいた。

「若利くんさあ、さんと話すとき、もうちょっと声小さくしてあげたら」

 意外な忠告というか、助言のようなものだった。その言葉ひとつで、今までの廊下の際での二人の会話が、彼らに筒抜けだったことに気づかされる。今や、スコアブックに目を通している人間はひとりもいなかった。昼休みの集中力などそんなものだ。

「うるさかったか」
「というか、おんなじだね。俺たちと話すときと。さんの声が小さいから、若利くんが一方的に喋ってるみたく聞こえる」

 お前がそれ言うか、と呆れた顔で口を挟んだのは、通路のあいだに机に寄りかかるようにして腰掛けていた瀬見だった。確かに瀬見が揶揄するように、天童と若利の会話ははたから見ていると天童だけが一方的に話しかけているようにも見える。けれど若利本人はいつも、何も差し挟む余地もなく天童に言葉を浴びせられているとは毛頭思っていない。二人のそれは少なくとも二人にとってはまともな会話だったのだ。

はいつもああだろ、誰にでも。びくついてるっつうか、無口っつーか」
「せーみ」
「あ、わり」
「お前、そんなんだからさんに嫌われてんだぞ」
「え、俺って嫌われてんの!?」

 大平と山形、かわるがわる瀬見の放言を宥めるような、咎めるような声が飛ぶ。瀬見はどんなにやわらかなものにも、まるいものにも、透明なものにも、自分のものさしで線を引くことができる性格だから、のようにやわらかくてまるくて透明なものをずっと遠慮げに持て余しているような人間を、うまく分かってやれないのだ。

「うーん」

 首をあいまいに傾げて、天童はいまだ廊下へと視線をはずしている。彼は、が立ちすくんでいた跡にまばゆい錦糸のとぐろでも溜まっているかのように、光に負けた、ほんのり悩ましい目の細め方をした。見慣れない表情というわけではない。だけど、天童がそういう顔をするのはいつも、どういう刹那だったろうか。思いだせない。

「まあ、誰が悪いわけでもないんだけどさ」
 
 ――誰が悪いわけでもないの、誰も悪くなんかないのよ。
 
 十年前、若利が八歳のとき、両親が離婚した。
 若利の誕生日が過ぎて間もないお盆のころで、部屋のなかは乾いた冷たい空気で満たされていたけれど、庭に続く閉ざされた窓の奥にはべったりと夏の午後の陽射しがはりつき、またたきひとつせずカッと三人を睨んでいた。
 出口がない。なら、入り口はどこだったのだろう。家族というものは。
 大事な話があるから遊びにいっちゃだめよ、と言われて居間のたたみで待たされていたとき、若利はめずらしくずっと家に居てくれている父親とはやくバレーボールをしたくて、うずうずとしながら座布団のふさをむしっていた。上の空だった。それでも、長い長い言葉のトンネルの真下で、「もう、お父さんはここには帰ってこられないんだ」と大好きな父親に見据えられたとき、ボール恋しさに落ち着きのなかった若利の指先はぴたりと止まった。母親は泣いていた。父親も泣きそうだった。誰も悪くない、と言いながら、二人とも、自分が悪いのだという顔をしていた。

 若利はチームメイトの一言に、思いがけず幼い記憶を呼びだされた。そしてあのときの気持ちと、の心もとない笑顔に出くわしてしまったときの気持ちが、同じような円を描いて胸のみなもを乱していることに気がついた。涼しい風が全身に伝染する。けっして心や、頭だけでは、解体することのできないもの。



 八月十五日の宵は、午前中の雨をまぼろしみたいに追いやってしまって、土の表面のぬかるみだけがかろうじて真昼のなごりを伝えていた。大人たちの酒盛りのうるささから逃れて、縁側に出る。線香の残り香と、きゅうりとナスの精霊馬。ぬるま湯にも似た風が、皮膚のおもてを舐めていく。息が詰まる感覚が、なぜか、心地いい。

「雨、やんでよかった。これなら、おばあちゃんもきっと、迷わず空から降りてこられたよね」

 数分後、あとを追うように縁側に出てきたのはだった。蚊取り線香を取り替えにきたのか、彼女は若利のとなりには座らずに、線香立ての近くで膝を折った。慣れた手つきで、缶のなかの二枚組の線香のうずまきをとりはずして、ライターで火をつける。若利は睡魔のせいで閉じかけていた目をはっきり開けて、の所作を眺めていた。無地の青いワンピースの胸もとに、見慣れない小さなブローチが光っている。が動くたび、水中をうごめいているみたいに、色とりどりの鱗をもった金魚がスカートの皺とたわむれていた。
 この時期、せわしない日々を送っている男子バレーボール部の部員たちも三日間の貴重な休暇の最中だった。学生寮をあけて実家に帰っている部員も少なくない。若利も高等部に入学してからはバス通学の時間を惜しんで、徒歩圏内の学生寮に入っていたので、久々の帰宅だった。こうやっての家にくるのも、今では年に二回あるかないかのこと。ここは、若利の家よりも、もっとずっと大きくて、きれいだ。だからふたつの家の人間が集まるときは自然とこちらに若利の家族ごと呼ばれることが多い。十年前からは、特に。

「インターハイおつかれさま」
「ああ」
「大活躍だったみだいだね。準決勝、ネットニュースになってたの、見た?」
「いや、見ていない」
「きのう出た雑誌も読んだよ。すごいねあれ、白鳥沢のみんなで座談会みたいなやつ……」

 の声が、今日はさらさらと流れる小川のように明るい。これが本来の昔からのなのだ、と思うその裏側で、川の流れに逆らうような小石の尖りをわずかに感じた。インターハイ準決勝は、白鳥沢が敗退した試合だった。宮城県内ではほとんど負けたことのない白鳥沢でも、宮城を出ればこっぴどく負けることも、ままある。それこそバレーボールは風雲急なスポーツで、拮抗した展開が長く続くぶんだけ、相手に渡った流れに水をさすのはとても難しいのだ。はあまりバレーの話を聞きたがらないし、まして、負け試合なんていつも無かったかのように接してくる。それが彼女なりのバレーボールとの付き合い方で、そこにはなんの不満もないのだけれど、それなら今日はどうして。笑顔で、負けた試合のことを話しかけてくる、そういう彼女を若利は初めて見た気がした。

 バレーボールを追いかけて、あのコートに立つことを選んでいれば、それだけで通じあえるものを持ったカワリモノたちが白鳥沢にはうじゃうじゃといる。言葉が二の次になる関係というのは、ある。それが若利の十八年の成果だった。強いチームに入るといい、そう教えてくれた父親は、だけど彼にもうひとつ大事なことを教えてくれた。あの泣きそうな顔。大人って、泣くんだ。子どもの前で、泣くのだ。あの日、あの時、長い言葉のトンネルの真下にあった、無言の教えを、自分は守れているんだろうかと。まっすぐ、まっすぐ、を見る。糸は与えられるものではなく、自分で紡ぐものだ。

「お前はいつも、そういうふうに話せばいいんだ。俺と二人でいるときみたいに」

 あんまり誠実な言い方ではなかったけれど、正直な気持ちだった。そういうふうに話してくれ、なんてとても言えないのだから。は、昔っからは、澄んだ声でなみなみと喋る。そのことを、彼らは知らない。だから、声を小さくしてあげたら、なんて気遣う。無口でびくついている、なんてぼやく。そうじゃない。ここに居るのことを、知っているのは、分かっているのは、自分だけなのだ。
 は、ぽわんと浮力で漂っているような顔で、若利を見つめ返していた。下まつげのふちが水ではないものできらきらしている。少しの距離と暗がりのせいで、もっとよくよく彼女の顔を見たい、などと愚直に思った。腰を浮かせて近づこうとした矢先、思いがけず、背後を足音が穿つ。おじいちゃん、と呟いて、けっきょく腰を上げたのはのほうだった。

「おお、若、居た居た。ひさしぶりに一局どうだ。お前がくれた本で、また腕が上がったぞ」

 ふらふらと陽気な足どりで縁側にあらわれたの祖父は、の腕に寄り添われてゆっくり若利のとなりに腰をおろした。二言目どころか、一言目から、このひとはいつも将棋の話ばかりだ。幼いころは退屈で、いつの日か無理やり将棋を教えこまれていたけれど、若利は本来の将棋よりも将棋崩しのほうがシンプルで好きだった。定石のない一手、一手。若利は根っからのスパイカーだったから、あらかじめ練った戦略をぶつけあうよりも、臨機応変に、その場の最善を尽くすスリルのほうが性に合っているのかもしれない。

「おじいちゃん、お酒くさい……」
「いいですけど、俺ではまるで相手にならないと、正月に言われましたよ」
「そうだっけか?」

 豪快な笑い声が日本酒のにおいと一緒にたちのぼる。懐かしさにからめとられて、眠気はあいかわらずだけれど長い夜になりそうだ。そう腹をくくった、そのとき。

「そういや、こないだ来たあの坊主は強かったな。またあいつ呼んできれくれや、。名前なんつったか、ほら赤い髪の……」

 針を錘にして射抜くように糸が落ちてくる。傷つくでもないし、血が滲むでもない、浅い抵抗が胸にうねる。この糸、触れてもいいものか。そんな戸惑いにかられて、若利はに視線をやった。横顔にしか出会うことはなかったけれど。
 しゃがれた声が波をつくって、ゆらりゆらりと二人の渚のかたちを凹ませたり、膨らませたりする。左胸の金魚のブローチを、ぎゅっと撫でつけている指先。宵闇のなかで、の白い頬が夜明けのように染まっていく。まるで金魚をふちどる朱の色。あの、派手な髪の色。









THE END

2016.9