氷の音を響かせながらその白い液体をマドラーで掻き回せば、たった数十秒で初恋の味が出来上がる。小さな頃からずっと使い続けているトムとジェリーの絵が描かれたグラスは、今やトムもジェリーも仲良く哀れに剥げかかっていて、わたしを少しだけ感傷的な気持ちにさせた。こんなに幼稚で古臭いコップを執拗に使い続けながら、おろしたての夏のセーラー服の下には過剰な期待と恐怖とがないまぜになったレースの下着を潜ませている、十五歳のわたし。子供でもないし、大人でもない。都合の良いこの年齢を上手く扱うことを学んで、目配せも耳打ちもせずにだらしなく戯れることにももう慣れた。君だってきっと、そうなんだ。

「甘すぎでしょ、これ」

 アンバランスなこころとからだは君の一声で解けてしまう危うさを常に孕んでいる。例えば下手な編み物みたいにするする、はらはら。初恋はレースつづりのはかなさです。わたしという人間は、君という人間への、全ての感情の寄せ集めです。何かのおまじないのように思いを込めて、ちゃちなコップに口をつける。喉を動かせば甘酸っぱい冷たさが、からだの芯をゆっくり落ちていく。今、ここから、遠く離れてしまわぬように。この感覚を、針にして。

「ほ、ほ、ほーたる、こい」
「は?」
「こっちのみーずは、あーまいぞー、って。昔からかわれてたよね、蛍」
「黙れ」
「なによう、甘いの好きじゃん」
「なんでは分量守らないかな」
「気分屋なの」
「……自分で言うなよ」

 面倒がってるだけだろ、と蛍は溜息をついて腰を上げた。つんけんしちゃってさ、けっきょく薄めるなら最初から自分で作ったらいいのにね。ひとのうちの冷蔵庫を堂々と開けて、蛍はミネラルウォーターを慣れた手つきでコップに注ぐ。いつの間にか大きくなった背中。細く長い、白いシャツから背骨のカーブが透けそうで、いじらしさなどとうに失くしたわたしは眉間に皺を寄せてじっとそれを睨んでみた。しばらくすると冷蔵庫がぱたんと閉じる音と一緒に、彼がすっと振り向く。思えば因数分解を覚えるよりもずっと先に、私は蛍を誘惑することを覚えたのかもしれない。二度寝して見る夢の中でぐずぐずしているときみたいに、ああすればこうなって、こうすればああなるって、手に取るように分かる、わたしの得意科目。今みたいに怪訝そうな顔をしている蛍から、“せいよく”を引き出すのは案外簡単だ。基本もんだい。君の些末な不機嫌を、わたしへの興味へと変えること。

「お前が見なきゃなんないのは、こっち」

 頭のてっぺんのうずに手のひらを押し付けられて、数学の参考書に視界が切り替わる。なになに、三人でじゃんけんして、ちょうど三回目で勝者が一人に決まる確率? そういえば蛍はじゃんけんすると、はじめにパーを出すことが多いなあ。なんか投げやりに、どーでもいいやって手のひらをひろげる、あの感じ。

「えー」
「現実を見ろ、現実を」

 現実を見ることって本当は、現実以上のものを見なきゃいけないってことだ。だって顔も分からぬAさんBさんCさんのじゃんけんの勝敗確率を真剣に求めるなんて、その先に何かがあるって思えなくちゃ一秒たりともやっていられないでしょう。みんな面倒くさいね、大学なんて行ってなんの意味があるんだろう、なんて言いながら、お腹の底で退屈を噛みつぶす術を身につけてる。どうしてわたし、そんな当たり前のことが出来ないのだろう。蛍、分からないよ。シャープペンシルの先で消しゴムのカスを突っついてみる。ほら、このサイコロのやつがじゃんけんに変わっただけだろ、って彼の細長い指がルーズリーフに伸びる。現実のその先どころか、目の前の現実にだって届かない。だってそんなものよりずっとずっと近くに、君の美しい指がある。

 夏の午後は長い。二人きりのリビングルームはとても静かだ。わたしの着ているセーラー服の紺色の襟と、蛍の着ている白のカッターシャツが擦れる音が、空調の音なんかに紛れずにはっきりと鼓膜にかぶさる。足を割るようにしてわたしは、ソファに座る彼の膝の上に飛び乗った。それでも彼はなあんにも言わない。ただコップを傾け、喉仏をこくりと動かしている。だめだ、それだけで、解けてしまいそう。わたしのこころとからだも、君の繰りだすもんだいも。

「ねーね、眼鏡外していい?」

 黒縁に指のはらを沿わせてなぞると、蛍の片眉がかすかに跳ねた。酷く呆れたように私を射抜く切れ長の瞳。解けぬように刺していて。そのままずっと、はかないレースをいっそずたずたに貫いてしまうまで。

「……集中力の欠けらもないねお前」

 溜息と共に押し出された低い声が私のまんなかを鋭く抉る。もう始まっているんだなあ、答えあわせが。蛍の口の中にひろがっているであろう少し薄い初恋の味が、わたしの舌の上に未だざらつくそれときれいに混ざり合う。現実よりもずっと透明で、明るくて、気持ち良くて。本当は、死ぬまでここに居たい。違う、生きたくない。行きたくない。ここから遠く離れてしまうくらいなら。

「蛍に集中してるんだもん、わたし」

 わたしの現実は初恋の味よりも真っ白な、延々と続く日常です。舌の上には何も残らず、喉を動かせど動かせど、味気なさは決して通り過ぎてはくれないのです。彼の唇に指を触れ、その奥にある鮮烈な味を強請るのは、そんなにいけないことだろうか。何か不都合な解が出てしまいそうな気がして、掻き消すように蛍の首に腕を回すと、彼は小さな子どもを咎めるみたいに「こぼれたらどうすんだよ」と言ってコップの底でわたしの頭を軽く小突いた。

(こんなにからっぽなのに、)(こぼれるはずないじゃん)(あふれるはずないじゃん、)

 見当違いな答えをひとりごちて、今日もわたしは蛍にうずまる。君とわたしのもんだいが、永遠に解けないなんもんだったら良かったのに。かみさま、どうしてあなたは男と女というものを、こんなにも単純につくりあげたのでしょう。









THE END

2012.12