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<火曜日 PM3:30>

、及川来てない?」

 家庭科室から借りてきた電気ケトルに水を入れて沸騰するのを待っていると、コンコン、いやドンドンと勢い良くドアをノックする音がして、どーぞー、と招く間もなく開いたドアから見知った顔がひょっこり現れた。そもそもこの部屋のドアをノックするような律儀な客人は一人しか居ない。そのひとは週一来訪の及川に合わせて、時折ここに足を運んだ。まるで彼の行動パターンを全て頭にインプットして熟知しているようで、一度及川が練習の時間になってもうだうだとベッドの上で買ったばかりだという雑誌を読みふけっていたとき、「隅から隅まで読んだところで“月バリ”にお前は載ってねーからなクソ及川!」とドアを開くなり怒号を飛ばしたのには驚きを通り越して笑ってしまった。

(岩泉、くん)

「さっきまで居たけど……面談があるって、」

 今は空っぽの彼の定位置を、ちらりと見遣ってから返事する。ニアミスかー、と岩泉くんは面倒くさそうに眉をひそめて頭を掻いた。彼は何やら書類の入った封筒のようなものを脇に抱えていた。

「すぐ戻って来るよな」
「うーん、たぶん。鞄置いてったし……待ってる?」
「悪いな、勉強中に」
「ううん、全然。ちょうどお手上げ中だったとこ」
「お手上げ中?」

 お手上げと言いつつ呑気にティーパックとポッキーを用意している私のちぐはぐな言動が面白かったのか、岩泉くんがふっと気の抜けたような笑みをこぼした。クソ及川どこ行きやがったあのやろーって絶えず神経を尖らせている(ように見える)岩泉くんのさりげない笑顔はとても新鮮だった。ああ、そんなふうに眉を下げるのか。岩泉くんは及川の隣に居ると、どうしても幼く見えるような気がする。完璧にセットされた艶やかな茶色い髪と並んだ無頓着な洗いざらしの黒髪を、自信を持って「そっちのほうが好き」と答えられる女生徒が一体どれくらい居るだろう。ひとり佇む自然なその雰囲気は決して悪くないのに、周りにとっていつも隣同士並んでいる二人を比べることが当たり前になりすぎている。もしかしたら、彼ら自身にとっても。

 私と岩泉くんの接点というと、及川の存在がなければ、一年生のとき同じクラスだったことと(とはいえ話したことはほんの数回しかなかったはずだ)、選択科目の物理の授業が現在同じクラスであることくらいしかない。そんなあれこれをふと思い返して、「これ解ける?」とにっちもさっちも動けないでいる問題集の一問を、手持無沙汰にドアの前で佇んでいた彼に投げかけてみた。そんなところで仁王立ちしてないで座りなよ、の合図。及川だったら了解なんて誰にもなんにも取らずに気ままにひとの懐に入っていってしまうだろうに……などと無意識に思ってしまう自分も、いつの間にか比べることを厭わない“周り”のうちの一人になってしまっているのだろうか。うわ物理やってんのか、と言いながら、岩泉くんは持っていた封筒を置いてようやく椅子を引いた。水色のその封筒のおもてには、なにやら長ったらしいバレーボール連盟の名前と、「宮城県選抜メンバー強化合宿の手引き」の文字が大きく刻まれていた。

「……選抜?」

 ティーパックの上からマグカップにお湯を注ぎながら、ひときわ存在感を放つその二文字を思わず声でなぞってしまった。疑問符を含んだ私の視線が、シャーペン借りるなー、と断って私のシャープペンシルを拾い上げた岩泉くんの瞳にぶつかる。彼の眼はとても強く、重たく、固い。安易に触れれば跳ね返されてしまいそうな、中途半端な介入を退ける揺るぎのなさを湛えている。こういう眼差しをするひとはたとえどんなに物腰柔らかな態度をとっていたとしても、滅多に心の芯を他人に掴ませようとはしないものだ。案外、似た者同士。よこしまな物差しなんかじゃきっと、測れない等しさだろうけど。

「ああこれ、及川の」

 何でもないというふうにその名前が出てくる。及川の。及川のもの。依然疑問符の消えない私に向かって、ノートの上で手を動かしながら岩泉くんは言葉を続けた。

「次の大会、県で一チーム作って出ンだけど、その代表チームにあいつは選ばれてんだよ。……ってのに、いつまでもふらっふらしやがって」

 片肘を机に突き、岩泉くんは苦虫を噛み潰したような表情で盛大な溜息を吐いた。そう言えば始業式の部活動報告で女の子たちのひときわ華やかな声が上がった瞬間があったような、なかったような。立ったままほぼ居眠り同然の態度で俯いていた私には何が起こっていたのかいまいち分からなかったけど、もしかしてそういうことだったのかもしれない。思えば及川がバレー部の主将に選ばれたという話も、クラスの女の子たちからの又聞きだった。彼の口から聞いたわけではない。ただ歩いているだけでも誰もが一目見遣るほど注目されている人間なのに、だからこそ彼の情報は勝手に巡り、実際彼の一挙手一投足を彼から直接知ることが出来るひとは少ないのだろう。

「……及川はあんまり、そういう話をしないなあ」

 ティーパックを沈めたままのマグカップに口をつけ、岩泉くんの言葉を飲み込むように、気持ちを整理するように熱い紅茶を啜る。ただじりじりと苦いだけの、風味もくそもない安い茶葉の味がした。

「そういう話ねぇ」
「バレーの話……というか、自分のこと全般。自慢になりそうなこといっぱいあるのに」
「部内ではめちゃくちゃしてるけどな」
「それは信頼してるからだよ」

 妙に熱のこもってしまったその言葉に、岩泉くんがちらっと目を上げて優しい微笑みを返した。どきりとする。だってそれはあまりにも慈愛に満ちた笑顔だったから。

「そう言や、聞こえは良いけどなぁ。実際甘えてるって感じでほんとだらしねえし、そのくせ外面だけは良いから余計腹立つし……お、できた」

 ほらこうじゃん、そう言って岩泉くんが身を乗り出すようにしてノートを返してくれたとき、彼の背の向こうで突然ドアが開かれた。待ち人来りて、無論ノックなどするはずもない。彼なりに急いで帰ってきたのだろうか、その息は少し弾んでいるようで、夏が終わってほんのり抑えめの色になったダークブラウンの髪も、風に吹かれて微妙に雰囲気を変えていた。

「――岩ちゃん?」

 ドアノブをやわく握り締めたまま、息を整える暇もなく、及川の口からその名が漏れた。どこか間の抜けたような気の抜けたような、素っ頓狂な口振りだった。

「おー、来たか」
「何してんの? どうしたの?」

 岩泉くんが立ち上がる。あの封筒を手に持ってドアのほうへと近付くと、ぺしんと軽くその封筒で及川の頭をはたいた。及川のことをぞんざいに扱えるのって、同じ学年で同じ部活のひとたちだけの特権だと思うし、役目だとも思う。クラスメイトだったり女の子だったりには絶対に許されない距離がそこには横たわっていて、そのどこにでもある部活仲間としてのありふれた距離が、独りではどこか近寄りがたい鮮やかさを携える及川を良い意味でこの灰色の世界に馴染ませくすませている。彼らは及川のことを引き立てているのではない。むしろ沈ませているのだと思う、何処かへ行ってしまわぬように。

「どうしたの、じゃねーよ。合宿の書類、お前取りに行ってねーだろ」
「え? ……あ、忘れてた!」
「ったく……」

 あとは延々、“よくある光景”というやつだ。選抜に選んでもらえてる身で書類忘れてんじゃねーよグズ川、さっさと荷物まとめて部室来い、今日練習前にミーティングするってさんざん言っただろーが、だいたいお前はいっつもなぁ……。何も知らないひとから見れば一方的に酷い言いようだと思うだろうが、この二人にとってはこれが日常茶飯事なのだから今さら何を感じるでもない。まるで保護者か何かのような岩泉くんの急き立てで、及川はぶつくさ言いながら鞄を背負う。ああ、今日は殆ど二人で居られなかったなあ。どうせ一緒に居たところで何もないのに、心の底は相も変わらず野暮な気持ちを掃き溜める。

「じゃあな、それ間違ってたらごめんな」
「じゃあねーちゃん、また来週」
「毎週迷惑かけてんじゃねぇ! クソ及川!」

 岩泉くんが眉を吊り上げて及川の肩を乱暴に小突く。私には触れられない、触れてはいけないような気がする彼の肩を。並んでこの部屋を出ていく二人の背中に、「部活がんばってね」などと軽々しく声を掛けられない自分が居るということが、愛おしくもあり、息苦しくもある。離れてゆく足音に耳を澄ませながら、手に持ったままだったマグカップに、思い出したように口をつけた。一口だけ飲んで放ったらかしにしていた紅茶は、涼しい空調に吹かれもうぬるくなり始めていた。









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