外灯の薄明かりに照らされた葉桜の下を、指と指を固く絡めて二人で歩いていく。風の無い穏やかな深夜零時の空気は雨上がりの草と土の匂いを漂わせ、むっと籠った湿っぽい熱が肌に纏わりつくようだった。駅へと続くコンクリートの街路はとても静かで、まだ低い位置にある月影は弱く、彼女の声だけが闇に浮かんで見えるような気がした。汗ばむ繋いだ手のひらがなければ、闇にまみれて消えてしまったのはきっと俺のほうだろう。

 コンビニでアイスを調達する前に、黄色と青のネオンが頭上にきらめく自動ドアをくぐる。閉店間際のTSUTAYAは閑散としていた。一通り棚と棚の間を見て回ると、お笑いDVDのコーナーで真剣にアメトークのDVDを選抜している仕事帰りのOLサンらしき女のひとがひとり、韓流ドラマの棚でのろのろと返却作業をしている眼鏡でパーマのオタクっぽいオニイサンがひとり。ごっついヘッドホンから盛大な音漏れをかましていた小太りのオッサンは、俺たちの目の前でアダルトビデオコーナーの黒い幕の中へと消えていった。

「ホラーと血っぽいやつなしね」
「お前は純愛モノ禁止な」
「えぇー…」
「どんだけ観させる気だ。胸焼けするわ」

 胸に手を当て吐くような素振りをすると、もー、と言ってはすらっと伸びた生脚で俺のふくらはぎに弱い蹴りを入れた。はだいたい俺が家を抜け出して彼女のアパートに着く前に入浴を済ませているから、この時間はとにかく無防備な格好をしている。すっぴんだし、髪も下ろしてるし、思いっきり部屋着の被りパーカーとショートパンツだし、足元は素足にクロックスだ。できることならカノジョのこんな姿は誰にも見せずに一人占めしておきたいのだが、考えてみたら自分も上下スウェットにビーサンという出で立ちで、ひとのことをとやかく言えないだらしのなさだ。なんつーか、明らかにお泊まりしてます的な。カップルで深夜にDVDなんか借りに来やがってどうせ映画なんかそっちのけでヤりまくるんだろーが、などと俺たちの格好を見て周りの奴らは思うだろうか。通りすがりの貧弱な妄想の筋書きにすら抗えない、二人の至極ありきたりなストーリー。

「はじめってほんと情緒ってものが無いよねえ」

 やれやれといった感じでは肩をすくめると、邦画のコーナーに消えていった。俺も一番近くの通路にとりあえず引っ込んで、無数のタイトルの中に身を沈ませる。

 は大学生の兄貴と1LDKのアパートで二人暮らしをしている。二人暮らしと言っても兄貴のほうは建築学科で学んでいて研究室に泊まり込みで制作をすることが多いようだし、特に発表や講評が近付くと三、四日会えないこともざらにあるらしく、なんだかんだで一人暮らしのようなものだ。もともと彼女の実家は市外のずっと外れにあって、一年のときは毎朝五時起きでそこからバスを乗り継ぎ片道二時間かけて青葉城西に通っていたらしいが、二年に進学するときにとうとう市内の大学に合格した兄に着いてくるかたちで青葉区に越してきたのだと言う。兄の居ぬ間にカレシ連れ込んで悪い妹だねぇ、なんて他人事のように思うが、恩恵を被っている身なので何も言うまい。の兄さん、あざっす。おつかれっす。あ、今日も帰って来なくていいですよ。

 去年のクリスマス前に告白されて、あまり意識したこともなかったクラスメイトだったが、百戦錬磨の幼馴染に「とりあえず付き合ってみれば? 岩ちゃんそういう経験したほうがいいって。女の子ってかわいいよ~」などと言われて軽い気持ちで手を出した。あれから約半年。俺はものの見事に“そういう経験”に嵌ってしまい、今となってはあのときの幼馴染様の無責任な甘言が恨めしかったり有り難かったりするのだ。別に奴の所為にはしないにしても。

「はじめ、何か観たいのあった?」

 が通路からひょっこり顔を出して俺に問うた。彼女は既に何枚かのDVDを腕に抱えていた。なんとなく何の考えも無しに手に持っていたのは、少し前に話題になった3D映画のアクションもの。3D映画をDVDで観ることに果たして意味はあるんだろうか。

「……あー…これとか……」
「見せて見せて」

 駆け寄ってくるとはDVDを持っていた俺の左腕にしがみつくように自分の腕を絡ませ、顔を近付けてケースの背面のあらすじを読もうとした。胸が、胸が当たってますけどお嬢さん。後ろ髪を左肩から前に流している彼女の真っ白なうなじが、この角度から見下げると惜しげも無くさらけ出されている。顔うずめてえ。そんなよこしまなことを考えながらその白を凝視していたら、がぱっと顔を上げて「どうしたの?」とでも言うように愛らしく首を傾げて完璧な上目遣いをしてきたから、なんかもう抑えが効かなくなって空いていたほうの手で彼女の顎を引っつかんで堪らず口付けた。
 強引な行為にまず硬直、少しのタイムラグのあと彼女はDVDを抱えていた腕を俺の腹に押し付けるようにしてまごまごと抵抗し、それでも構わず塞いでいるとしまいには喉の奥でまるで助けを求めるように切なく啼いた。こういうの、セーフク欲と言うのだろうか。すげー気持ち良い。

 唇を離して彼女を見遣るとその瞳はうっすらと潤んでいて、そんなものを見せられたら離れた端からまた触れたくなってしまう。絡んだままの腕を揺すると、ははっと我に返って俺の腕を払いのけた。

「なっ……ど、」
「……いやなんか、良い匂いすんなぁと思って」
「は……」

 耳元の髪の毛を手のひらで軽く掬い、鼻を近付けて息を吸い込む。馴染みある彼女のシャンプーの匂いが肺いっぱいに立ち込める。の肩がびくっと跳ねて、今度はさすがに成すがままというわけにはいかずにすぐさまその身体は逃れていき、あげく持っていたDVDケースで二の腕を殴られた。おい、借りものを武器にするな。

「バッ、バカじゃないの?! 猿! エロ猿! 場所考えてよ!」

 声をひそめながらもは顔を真っ赤にしてそう叫んだ。じゃあエロ猿とヤッてるお前も充分エロ猿じゃねーか。ぽろりとそんな身も蓋もない開き直り文句を口にしてしまうのが俺の輪を掛けて情緒の無いところで、はとうとう絶句してそっぽを向いてしまった。やべ、言いすぎた、と思ったときにはいつも遅い。堪え性の無い自分への後悔と、泣かれては困ると焦る気持ちと、耳まで赤く染めた彼女への性懲りも無い興奮とで、混乱して逆にこっちが泣きそうになってくる。一歩、彼女に近付き、俺は極力優しく平和的な声を発するように努めた。

「今のは悪かった。ごめん」
「……」
「お前のセレクトに付き合うから許せ、な?」
「……なんでも?」
「おお」
「……じゃあ、せかちゅー観たい」
「分かった分かった」

 内心お前セカチュー何度観る気だよとやっぱり突っ込んでしまったが、それで丸く収まるのならばもうこの際歓迎する。喜んで我慢しよう。どうせ俺は彼女の言い当てた通りのエロ猿で、映画とか本当は大して興味ねーし、二時間映画観て眠くなってうとうとしかけたを組敷くことばっか考えてるし、もうなんでも良い。下心に支配されているカレシを、セカチュー無限ループの刑に免じてどうか許してくれ。むしろそれくらいの、それ以上の罰がなければ割に合わないかもしれない。だって彼女の大好きな純愛ドラマは心と身体がまるで別のところにあるみたいに愛を語るのに、どれだけロマンチックな映画を観たとしても、何十万年、何百万年かけて偉大な進化をしてきたのだとしても、俺にはその二つの切り離し方がまるで分からなかったから。

 結局、はお気に入りのラブストーリーと新発売のキャラメルアイスクリームを手に入れて(俺がコンビニで買い与えた)あっさり機嫌を直してしまった。帰り道、俺たちはまた指と指の間を絡ませ、葉桜と三日月の下を歩いていく。じっとりと生温い無風の夜は不気味で、汗の滲む肌は決して快いものではなかった。それでもこの湿った手と手を絶対に離せないのは、俺が人間になろうとしているからだろうか、それとも彼女もまた猿だからだろうか?









THE END

2013.3