※ 若干の性描写あり





 物音がして浅い眠りから目覚めた。肌に残る少しの不快感と気だるさは、なぜかとても贅沢な心地のするものだった。視線の先、ちょうど落っこちていたキャミソールを眺めて、自分が今、上半身に何も身につけていないのだということを思い出す。今、何時だろう。キャミソールに頭と腕を通しながら窓の横の掛け時計を見ようと擡げた視線は、午後三時半過ぎを示す時計の針を捉えるとほぼ同時に、窓の外にちらつく金色に囚われた。わずかに開いたカーテンの隙間を、銀杏の葉が雪のように舞い落ちていくのが見えたのだ。

「何見てんの」

 引き戸を開ける音と共に、背後から勇太郎の声がした。勇太郎は両手にマグカップを持って部屋に戻ってきたところで、寝起きの私を見て「やっと起きたんだな」と特になんの感慨もない声で独り言のように呟いた。手渡されたマグカップは手のひらを寄せるとじんわりと熱が伝わってくる。どうやら私がまどろんでいる間にミルクティーを作ってくれたようだ。柄にもないことを。そんな彼の慣れない、付け焼刃の「彼氏ぶり」がいじらしかった。

 中間テストの最終日は古文と公民の二時間しかなく、四限が終わる頃には最終下校の鐘が鳴った。バレー部も今日は軽いミーティングをしただけで解散になったらしい。勇太郎の家はお母さんがパートに出ていて昼間留守にしているから、彼の部活が休みの日はだいたい、私たちは彼の部屋にこもりっきりで時間が許す限りひたすら抱きあって過ごした。私にとっても勇太郎にとっても異性の身体を知るのは互いが初めてのことで、私は勇太郎を通して男の子というものを、勇太郎は私を通して女の子というものをそれぞれ学んだ。ここは学び舎だった。好奇心と、湿気に満ちた。

 勇太郎と同じクラスになって一ヶ月で私は彼のことを好きになった。クラスメイトの顔と名前をやっと覚えだして、大量生産のおにぎりみたいだった男の子たちがようやく人間のかたちに見えてきたころだった。勇太郎は、誰よりもはっきりと、人間だった。ただでさえクラスで一番背が高いのに、余計に背の高く見えるような髪を後ろへ逆立てた髪型をしていて、ピンと姿勢が良く、朝礼だろうと退屈な授業中だろうとつまらなそうにしていることはあっても眠たそうな目をすることは決してないひとだった。なんだか、澄んでいる。しんとした湖みたいで、あの子の湖にどうにかして波紋を作ってみたいなと、私はいつしか思うようになっていた。
 恋は、何か手に入れられないものを焦がれる気持ちだから、何かを手に入れようと行為するときには、あまり役に立たなかった。例えば連絡先を聞きだしてみたり、隣の席になれるようにくじ引きでずるしてみたり、わざと教科書を忘れて見せてもらったり、彼の出る練習試合を見に行って差し入れをしたり、そういうのってぜんぜん、恋じゃない。恋じゃないことをたくさんして、私は勇太郎を手に入れた。そうして初めて、勇太郎を手に入れるということは、彼に手に入れられるということと同じだったのだと気がつく。あの、「作用反作用」の法則みたいに。ほら、やっぱりここは学びの宝庫だ。

「そこの銀杏の葉が落ちてくのが見えたの」

 カーテンの隙間を指差しながら答えると、勇太郎はようやく窓の奥の風景の意味に気がつき、「ああ」と低い声で応えた。ワックスのすっかり取れた彼の髪は汗でしんなりとしていて、教室で見るそれとは全くの別ものだ。

「じきに地面が一面金色になるね」
「あー…そっか、面倒だな」
「めんどう?」
「うちの校庭にも並んでるだろ。落ち葉掃きがあるからさ」

 あれ運動部で持ち回りらしいんだよなー、と勇太郎はぼやいた。なるほど、そういうことか。バレーボールは校庭なんて殆ど使わない部活動だというのに、それはさぞかし面倒な作業だろう。ふてぶてしいその回答に納得して、彼の淹れてくれたミルクティーを一口啜った。お砂糖がたっぷり入っていて甘い。彼は上下のスウェットを着ていたが、私は未だにキャミソールしか身につけていないままだった。ブランケットを身体に巻き付けたまま、ベッドを這い出て、窓に近寄る。窓際には外気の冷たさがほのかに伝わってきていた。こんな恰好だけどお隣の窓が見えるわけでもないし、と、少しだけカーテンを開けてみる。彼の家の垣根を越えて銀杏並木が鮮やかに続いていた。その金色に見惚れているうちふいに背後に気配を感じて、振り返るより先に私は後ろから勇太郎に抱きすくめられていた。

「風邪引くなよ」
「うん、ありがとう」
「あったまるためにもう一回やっとくか?」

 彼はちょっと笑い含みで、古臭い冗談のような物言いをした。なんだか、野暮ったい。おしゃれでも、ロマンチックでもない。でもそんな、ばかばかしくて陳腐な言葉が案外、結ばれた身体を何より効果的にほぐしてくれるものなのだ。

「んー…きりがないと思うよ、それ」

 きりなんかなくていいじゃん。耳元で彼の掠れた声がして、腰がぴりっと痺れた。こうなってしまうともう止まらない。彼は、男の子だから。そうだ確かに、私が女の子であることも彼が男の子であることもきりがないのだ。どこまでいっても、そうなのだ。二人がそれを選んだから。
 勇太郎は私の手からマグカップを奪って机に置くと、カーテンも引かずにそのまま後ろから私のことを抱いた。いやだと抵抗してみてももちろん彼は聞く耳など持たず、私はせりあがる快感に耐えながら、したことのない体位が恥ずかしくて月並みな女の子らしく泣きじゃくった。、ごめん、ごめんな、でもすげー、いい。彼のとろんとした声が、しゃくりあげる私の声と擦れ違う。なんてさみしい、分かりあえなさだろう。涙が目に溜まると、窓ガラス越しで吹雪いていた銀杏もじわりと滲んで見えた。強烈なさみしさの紗にかかったそのちっぽけな風景は、目を閉じても閉じても延々と続いた。今は盛りと穂波のように、瞼の奥で揺れていた。



 果たして翌日、校庭の銀杏並木の下は鮮やかな金色の絨毯だった。昼休みになるとすぐ部活仲間と連れ立って教室を出て行った勇太郎の背中を見送り、教室のベランダに出る。そこからは校庭がよく見渡せた。しばらくするとバレー部員たちがピロティーのほうから箒やらをゴミ袋やらを持って出てきた。そこにはちゃんと、昨日の言葉通り「面倒臭そうに」箒を持つ勇太郎の姿もあった。

「及川さーん、頑張ってくださあい」

 隣のクラスのベランダに出ていた数人の女の子たちが、せーので一斉に叫ぶ。「及川さん」がそれに応えて手を振りかえしたとき、女の子たちの華やいだ黄色い声が響く中、なにげなく顔を上げた勇太郎と目が合った。隣の彼女たちのように大胆に名前なんて呼べないけれど、ちょっと彼をからかってみたくなってカーディガンの袖口に引っこんでいた手をこっそり振ってみると、勇太郎はぎょっと目を丸くして何ともあからさまに恥ずかしそうに視線を逸らしてしまった。昨日、あんなに恥ずかしいことを率先してしたくせに。

 そのときふと私は、妙な想いに囚われた。昨日、あのとき、絶頂を迎えながら見たあの金色の世界が、ひょっとすると私の恋しさそのものだったのではないかと。だって私、あの金色とひきかえに、もう二度と見られなくなってしまった勇太郎の果てるときの表情に、どうしようもなく焦がれている。あれはきっと、彼を手に入れようともがいていたとき何の役にも立たなかった感情だった。私の指の間をすり抜けた勇太郎の、あの男の子らしいいじわるな態度が、初めて私に恋を刻みこんだのだ。









THE END

2014.4