曲がり角のコンビニで買ったホワイトサワー味のパピコを、木兎が真ん中でふたつに切り離す。ほら、と放るように手渡された片方の容器のわっかに人差し指を引っ掛けているうちに、その隣で木兎はプラスチックの先端を歯で引き千切るようにしてあっという間に飲み口を開けてしまっていた。そんなふうに開けたら、わっかのついてる意味ないよ。そう言うと、開け口のほうに残ったわずかなアイスを吸いだしながら、木兎はどこか得意げに笑ってみせた。また、それだけだった。コートの上ではあんなに雄弁な彼がこうして視線だけで会話しようとするとき、私の内でいやがおうにも暴れてしまうものがある。いつも微熱を持っていて、わがままで泣き虫。これはきっと、生きものだ。

「ストレートがさー、やっぱうまく打てねーんだよなあ」

 駅に向かって歩きだしながら、木兎はコンビニの中で言っていたのとそっくり同じぼやきをもう一度なぞった。一学期の終業式があった今日、部活は休みでも少し早い五時の下校時刻まで木兎はずっと体育館で自主練を重ねていた。インターハイが近いのだ。木兎はまだ二年生だけど、一年のときからずっと試合には出ずっぱりだし、今年もきっとそうなんだろう。体育館の隅に積まれたマットの上に腰掛けながら、生き生きとボールを打つ彼を何時間でも見ていられると思った。何せしなやかに背を反らした彼の跳躍ほど美しいものはないのだ。

 開けた容器に口をつけると爽やかな甘みが舌にひろがる。まだアイスはかたいから吸うのはちょっと大変だったけど、陽が暮れてもこの暑さならじきに溶けてしまうだろう。ちらりと木兎を見上げると、彼はぎゅっぎゅと慣れた手つきで容器を揉みながら、もう半分ほどアイスをたいらげてしまっていた。

「腕の角度がわりーのは分かってんだけど」
「分かってるなら直せばいいじゃん」

 簡単に言うよなあ、と私のぶしつけな提案もさして気にも留めていない様子で木兎はからから笑った。彼の右腕が、スパイクを打つときのモーションでゆるりと振り下ろされる。捲った制服の半袖シャツから覗く、見事に膨らんだ肩の筋肉。日に焼けてない二の腕の内側。夏の季節の陰影が、彼の肉体の色や質感を私の脳裏にゆっくりと刻みつけていく。

 夕暮れの帰り道は閑散としていた。都内といっても梟谷のあるあたりは住宅地と畑の多い郊外で、駅までの道のりにはのどかな車道沿いにさつまいも畑やビニールハウスが延々と続いていた。青々とした葉をめいっぱいにつけた夏の畑が好きだ。落ちる陽射しの真下で、無数の葉がざわめいている。そのさまを眺めていると、どこからともなくノスタルジックな切なさがこみあげてくるような気がした。

「分かるとできるは全然違うんだよ」

 鼻歌を口ずさむように、彼は決まってそう言う。私は、そっか、と珍しく素直に頷いてみせてまた一口アイスをすすった。溶けた氷の冷たさが喉を通りすぎ、車道から吹くぬるい風が頬を切る。アイスは一口目よりもいくぶんか柔らかく、味も溶けだして甘みが濃くなったように感じられた。

「あ、やべ、信号変わる」

 木兎の言葉にぱっと前方を見据えると、確かに数メートル先の十字路で青信号がぱちぱちと点滅しはじめていた。車道には乗用車とバイクが一台ずつ、信号が切り替わるのを待っている。走るぞ、と言って木兎はまだ三分の一ほど中身の残ったパピコを口に咥え、わざわざ水滴で濡れた手のひらで私の手を取った。消えかけの青いランプに向かって二人で走っていく。歩幅は違っても、同じ速度で。
 なんとか青が赤に替わると同時に短い横断歩道を渡り終え、木兎は私の手を離さずに咥えていたパピコをもう片方の手で持ち直した。噛み跡のしっかりついた飲み口。生温かく濡れた結び目。息をととのえながら、なんとなくほどけずじまいの手に少し無為な力をこめると、木兎は「なんだよ」とじゃれるような目線を私に寄こした。そのとき、こじ開けられてしまった気がした。胸に巣食う生きものの、のたうちまわる小さな檻を。

「ねえ、木兎」
「ん?」
「わたし、木兎の恋人になりたい」

 それはずっとずっと、人知れず用意していた言葉だった。その願いが一番星のようにひらめいたときから今まで、心の片隅に大切に書きつけておいた私だけの宝もの。そんな一言が今、両手をそっと差しだすようにして声になって溢れた。得体の知れない生きものが左胸で暴れ回るせいで、ととのえたはずの呼吸がもうままならない。木兎の円い瞳が、ひらいた薄い唇が、ぼやけて見えてしまうほど。

「それって、今までと何が違う?」

 なんとも予想外の言葉を言い放って、つないだままの手に今度は木兎が力をこめた。内側から内側へ温もりがじゅんぐり巡る。彼は喉仏を大きく動かして溶けたアイスを飲み干すと、その続きを促すようにじっと私に向き直った。何もかも豪快な彼らしい。手にさざめく力も、とんちんかんな応えも、その眼の温度も、全部。

「全然、違うよ」
「そーかー?」
「そうだよ。……そりゃ、やっぱり……」

 口ごもる。恋人になりたい。木兎が特別だと思ってくれる女の子になりたい。その先の願いを私はまだ、この胸に書きつけたことがなかった。おろおろとつないだ腕を揺らしながら、うんと木兎を見上げる。しっかりと吸いつき合った手と手は今や、その一点のせいでのぼせてしまいそうなくらい凶暴な熱を放っているように思えた。もう一方の手にアイスを持っているから余計にそう感じるのかもしれない。そうじゃないと、おかしい。

 何も言えなくなってしまった私を見て、木兎はふとあまく笑みをこぼした。つないだ手を連れ去るように引っ張られる。よろめき近づいた私の頭を、彼は片方の太い腕でがつりと抱えこむようにして胸に押さえつけてしまった。汗の匂い。額に触れるくたくたのシャツ。彼の左胸に息を吐きつけると、目頭に自然と涙が滲んだ。

「嘘だよ。分かってる」

 髪に口づけるように囁かれた彼の声が、真っ白になってしまった私の頭に「恋人」の願いの続きを書き殴る。今までと何もかも、違うこと。頭を押しつけられたと思ったら途端に剥がすように上を向かされて、絡まった手は腕ごと彼の腰に導かれる。ようやくべたついた手のうちに風が通り抜けたとき、私たちの結び目はもう手と手ではなかった。静かな帰り道の、街路樹の陰りの下。私たちは恋人の先へと、ゆっくり足を踏み入れた。



 思えばあのころから私の彼への愛しさには全く内容というものがなかったし、内容なんてそんなめまぐるしく変わるものはむしろ欠けていたほうがもっともらしく愛なのだとどこかで傲慢に直感していた。木兎の私へと向かう感情の中についぞ理解の努力というものを見いだせなかったことも、その無防備な感情の渦に呑まれることも、私にとってはじゅうぶん心地の良いものだったのだ。
 あの日の帰り道、木兎は私のことを「分かってる」と言ってくれた。それでも彼は私の離れがたさを、駅の前でさよならをして、バスのロータリーへと駆けてゆき、目当てのバスへと飛び乗るまでその大きな背中をじっと見つめ続けている私の視線を、一度だって掬ってくれたことはなかった。彼はいつも前を向いていた。後ろを振り返ることを知らなかった。それでも彼が好きだった。それが彼であるならば、間違いなく。

「お前のこと、ちゃんと分かってるよ」

 そしてまた、夏は思っていたよりも確かな足どりで訪れる。ちょうど一年前の夕暮れの帰り道と同じように、彼は飄々とそう言い放った。確信をこめて。

 夏休みを前に、バレー部は土日を使っていつも練習試合をしている馴染みの学校と合同合宿をしていた。日曜日の午後五時。自習室で勉強した帰りにポカリを差し入れてそそくさと体育館を出た私を、彼はわざわざ呼びとめ、体育館裏に連れだした。雑草の匂いがたちこめる暑い草むらで二人、話すことなんてひとつしかなかった。話すことがある、私たちにとってはそのこと自体が異常なのだ。私は曖昧に笑って、体育館の壁に背をもたれた。壁の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。手持ち花火が、赤い火の粉を散らすみたいに。

「木兎に女の子のことなんか分かるのかなあ」

 なんだそれ、と木兎はちょっと不服そうに口をへの字に曲げた。タオルを体育館の中に忘れてきた木兎はどうやらTシャツを代用するしか手立てがないようで、割れた腹筋を堂々とさらして顔の汗をぬぐっていた。Tシャツだっていい加減、汗でぐっしょりのはずなのに。

「俺はー、お前のことが分かる、って言ってんの」
「わたし、女の子だよ」

 一年前の夏の日から。違う、もっとずっと前から。あなたを私の中で、大切な男の子にしてしまった日から、私は私自身のことを守るように縛っていたのだ。
 私の言葉に木兎はほんのり驚いたように目を丸くしたけれど、結局はおう、と頷いて穏やかにほほ笑むだけだった。彼は決定的な思い違いをしている。私を女の子にしたのは、他ならぬ自分なのだと。

「分かってるよ」

 話す言葉にはもとより意味なんてなかった。それでも私たちはそれなりにうまくやって来たと思う。もどかしい二人の境目をなくすには多少の勘違いはむしろ隠し味のスパイスみたいなもので、通じ合えた、つながり合えたと感じられる恍惚にはいつも、言葉ではなく触れた皮膚の沈黙が横たわっていた。私はずっと、あなたはそうやって私を愛するひとなのだと思っていた。私はあなたをどこかで侮っていた。だけどあなたは私以上に、ほんとうは真剣に「恋人」の先を考えてくれていた。分かってなかったのは、私のほうだ。

 彼の影が私に近づく。最後くらいはちゃんと向き合おうだなんて無益な誠実を演じるつもりはないけれど、私の顔はなにかに束縛されなくともきちんと上を向いて、彼の切なく改まった表情を見据えることができた。

「でももう、俺はの思う通りにはしてやれない。……ごめん」

 ――進路を変えようと思ってる。大学には行けない。

 一週間前の夜、電話で彼は私にそう伝えた。今年もインターハイ出場が決まって、木兎には名門の実業団チームからじきじきに声がかかったのだ。夏が終わったら都内の私大に押しこんでもらうつもりだとずっと彼は言っていたから、私も彼と同じところに行くつもりで受験勉強を始めていた。もう、同じ大学に通うことはできない。チームの所在地を調べて、思いがけず遠い場所へ彼は行ってしまうのだと、すぐに悟った。こんなの大した問題じゃない、深刻に考えたらいけない、祝福すべきことなのに。頭では分かっていても、すぐには飲みこめない未来の話だった。「俺と一緒とか、そういうので全部決めるの、もうやめろ」と、彼は電話口で涙をこらえる私をなだめるふりをして私を責めた。互いの未来に二人の姿がないことを、あのとき私たちははっきりと悟ってしまったのだと思う。長い、長い夢だった。たとえ目覚めたとしても、しぶとく残って消えないものだってあったけれど。

 もう一度あの日に戻れたら、私はあの願いを秘め通し、今も自分自身を彼に縛りつけていたかもしれない。そう考えれば、一年前の二人があのようでしかなかったことが、悟ってしまった未来なんかよりもずっと眩しく感じられて、目覚めの残り香のような彼への想いも、私にはもう足枷ではないのだと真っ直ぐに思えるのだった。

 手をつないで同じ道を歩き、ふと立ち止まっては触れあい、おぼつかない足と足を絡め、そして再び前を向く。
 億光年の距離を埋めようともがいた十七歳の一年を、私はきっと生涯忘れないだろう。









THE END

2014.7 - Re : 2020.1
title by 約30の嘘