(Bad Kids) Room Share




 彼が堅苦しい手順を全てはぶいて軽やかに私を導いたその六畳一間は、雑然と物が置かれていてたいそう埃っぽく、だけどちゃっかりひととひととが抱きあうだけの余裕は確保されているような、そんな都合の良い古ぼけた部屋だった。

 ちゃかちゃかと片手で木葉が得意げに鍵を弄んでいる音を背中に聞きながら、見渡すほどもないその狭い部屋に敢えてたっぷり視線を投げてぐるりと眺めてみる。窓にはカーテンがかかり、電灯の紐は延ばされていて、かつてひとが住んでいたしるしは残っているけれど今ひとが住んでいる気配はない。暑いな、と独り言みたいに呟いて彼は突っ立っていた私を追い越し、カーテンを退けるようにして窓を開けた。隙間だらけの部屋なのか、ちょっと窓を開けただけでも薄汚れたカーテンは見事に膨れあがり、気持ちの良い夏の風が首筋を通り抜けていく。シャツの下をだらりと流れる汗は止まらないけれど、それもじきに気にならなくなるだろう。

「本当に木葉って誰とでもしちゃうんだね」

 思っていたことが素直に口から溢れた。だって、「従兄が女のところに転がりこんでる間は俺の部屋だから」と木葉は私をこのおんぼろアパートに連れてきたけど、この部屋に至るまでの彼の所作や誘い文句は実に手慣れたもので、まるではなからこの部屋のあるじは木葉なのではないかという錯覚を起こさせるくらいだったのだ。窓辺に立っていた木葉は私の言葉に振り返り、後ろ手に窓枠を掴みながら不敵に口角を上げた。彼のライトブラウンの髪が光と風を受けて揺れている。細くてやわらかくて、触れたらするっと指を抜けそうな。

「どんな噂立ってんのか知らないけど、俺だっていちおう好みくらいあるよ」

 木葉は肩にかけていたスクールバッグを雑に放ると、玄関先で突っ立ったままの私に向かって近づいてきた。ぐい、と強くも弱くもない力で遠慮なく手首を掴まれる。靴を脱ぎかけた足が不意にもつれ、私の頼りない曲線を支えるように彼の左腕がするりと腰に回った。全てを許されたひとの触れ方で。

「……でもま、身体の相性はしてみないと分からないけど」

 頭の上で囁かれる。木葉は意味ありげにすっと目を細めて、私の全身を、その生々しさを私自身に見せつけるみたいにじゅんぐり見据えた。今、初めて触れたのに。そんな真新しいぎこちなさを、彼の手つきや目つきから微塵も感じない。驚いた。私のさもしい妄想はいつからこんなにも正確に、この男の身体を描きだしていたのだろう。



 私の頭の中には木葉のきれいな身体を思い浮かべて置いておくためだけの小さな部屋がある。
 こんなこととてもひとには言えないけれど、自分に対してまでは誤魔化せない。掴みどころのない性格とはうらはらに、彼の身体はきっぱりと美しかった。無駄も、失敗も、卑屈も、一切ない。細く締まった腰まわり、膨らんだふくらはぎと細い足首のバランス、ほんのり日に焼けた筋ばった腕。無数の彼の断片を部屋に押しこみ、たまには取りだして、そして反芻する。それが私のひそかな楽しみだった。いけないこととは思わない。誰にもその部屋を見せるつもりはなかったからだ。

「ねーえ、木葉ってサッカーも得意だったんだ」

 体育の授業中、十分ほどのミニゲームを終えて体育館脇の水飲み場まで歩いてきた木葉に向かって、仲間うちの女の子の一人がするりと自然に声を掛けた。木曜三限の体育はここのところ女子が体育館でバスケットボール、男子が校庭でサッカーという内容だった。トーナメント形式のゲームにさっさと負けた不真面目な女の子たちは、授業中だろうとピロティーに出て目当ての男の子を眺めて応援したり、声を掛けたりと余念がない。隣に座っていた彼女が木葉に声を掛けたことで、私の胸は突然うるさく騒ぎだした。何しろ私はサッカーの試合中、ずっと彼のことしか見ていなかったのだ。

 上向きの蛇口からどばどばと水を出したまま、汗だくの木葉がこちらに視線を投げる。自分に向けられた関心をむげにするような男ではない。たとえどんなに興味がなくとも、笑う。運動神経、容姿、天性の要領の良さ。周りよりほんの少し秀でた部分が、彼の全体をほんの少し傲慢にしている。その傲慢さが、私にはひどく性的な魅力に思えた。

「あ、見てた? 見惚れてた?」
「ばーか、誰が」

 周りの女の子も数人が二人の会話に巻きこまれてきゃらきゃらと笑う。私は最初に声を掛けた彼女のすぐ隣にいたくせに、ぼうっとしていてその笑い声の波にすぐさま乗ることができなかった。代わりにふたつみっつ、咳をする。咳のせいでうまく笑えなかったふりをする。すると一瞬、木葉の鋭い瞳が私に向かって閃いた気がした。

「でもサッカー部組まで一度抜かれてたし、アンタ球技なら何でもできんだね」
「まあ、腐っても梟谷バレー部なんでそこは」
「腐るな腐るなー」

 体育館の中で試合終了のホイッスルが鳴り響く。それと同時に、若い体育教師が集合の号令をかけた。みんなが一斉にのろのろ立ち上がって体育館に入っていく中、私は体育館履きの靴紐がほどけていたのを良いことにわざともたついていた。会話を切りあげて木葉がようやくごくりごくりと豪快に水を飲む。喉仏の動き、口元からこぼれていく水、そして無心で喉の渇きを潤している整った横顔。きゅ、と蛇口を閉めて顔を上げたとき、彼はまだピロティーの段差にしゃがみこんだままでいる私を見つけた。濡れた唇を手の甲で拭いながら、たった一人の私のためだけにも、彼はいつもの笑顔を作り直した。まるで条件反射でそうできちゃうみたいに。

「なーんだよ、マジで見惚れちゃった?」

 校庭にも体育館にもクラスメイトが大勢いるのに、このときの私たちは確かに二人きりだった。それなのに彼はさっきとまるで変わらない軽口を叩いている。そんな彼のお決まりの態度を少しだけでも崩してみたくなってしまった。今なら、私でも。そんなふうに思わせる無防備な隙が、そのときの彼には潜んでいた。

「うん」
「え?」
「わたし、木葉に見惚れてたかも」

 かも、なんてこの期に及んで恥じらっている自分が許せなくて頭が一気に沸騰した。かも、じゃない。私は確かに見惚れていた。耐えきれなくなって目を逸らす。まるでその一言が言いたくてここに残っていたかのような、そんな仕草の数々が彼の目にはもしかしたら多少いじらしく見えてしまったのかもしれない。ばかみたい。でも、たとえばかみたいな勘違いをしたとしても木葉は決して痛い目をみるようなヤワじゃなかった。むしろこうやって女のことを容易く勘違いできたり、勘違いしたふりをできたりする木葉には、やっぱり性的な魅力が滲んでいるのだった。それはもう隠しようもなく、私の胸の奥の小さな部屋になんてとうてい入りきらないくらいに。



 木葉は誰とでも寝ちゃうやつだから、と女の子たちは常日頃からまことしやかに噂している。その噂の真偽など私には確かめようもなかったけれど、あの日を境に私と木葉は互いになんとなく教室で目配せをする遊びを編みだして、そして一週間も経たないうちに「今日の放課後空けといてよ」なんて廊下ですれ違いざまに囁かれてしまえば、なるほど噂が立つのも仕方がないと思うしかなかった。もちろん落胆ではなく、期待をこめてだけれど。

「で?」

 畳に背を預けるといぐさの匂いが鼻孔に届いて、小さいころによく遊んだおばあちゃんの家の客間と縁側、そしてそこから見える夏の青と緑のコントラストのことを思い出した。こんな埃臭い部屋で、付き合ってもいない男に仰向けに寝かされながら、実に呑気なまぼろしを見ている。今、見なくてはならないのはそんな大昔の心象風景なんかじゃないのに。私の見るべきものは、紛れもなくここにあるもの。私をやんわりと畳に押しつける木葉の、獣めいた眼光そのものだった。

「お前は、こうやって誰にでもホイホイ着いてきちゃうの?」
「まさか」

 木葉だってもちろん「まさか」があると思ってそう言っているわけじゃないだろう。仰向けになって真上に捉える彼の顔には、普段とはまた違った妖しい趣がある。その薄い唇でどこもかしこも触れられたなら、私はどうなってしまうんだろう。ずっと、本当は願っていた。触れたい。彼は私にとって決して単なる被写体ではないと。関わるために、あるのだと。

「木葉の身体、そそるの」

 正直にそう言うと、木葉はちょっと意表をつかれたように目を見開いてから苦笑した。呆れているのか照れているのか、あいまいで判別がつかない。その表情も良い。子宮の奥にずんと響いてしまったことを、はやく彼に暴かれたいと思った。はやく、はやく、と、どんどん気持ちにアクセルがかかっていく。止まらない。今すぐにでも、暴走させてほしい。私には捌ききれない大量のエンジンを詰めこんで。

「そりゃどうも」
「あ、告白でもされるかと思った?」
「さあ、どうかな」

 前髪を手のひらで掻き上げながら、木葉は目を逸らして短い溜息を吐いた。その溜息には、本当に自分でも何を期待していたのか分からないというふうな戸惑いが滲んでいるようにも見えた。獣に近づいていた瞳の色が霧散するようにして生温く穏やかに濁っていく。人間の眼になる。彼が女の子を組み敷いたこんな土壇場で眼の色を変えるひとだったなんて、存外に幼いところもあるのかもしれないと少しだけ温かい気持ちになってしまった。

「好きとか言われると緊張すんだよな。俺、こう見えて純情だからさ、下手なことできなくなんじゃん」

 いつも通りの軽い声の抑揚だというのに、不思議とすんなり言葉がしみていく。彼が今、獣になりきれない人間の眼をしているからなのかもしれない。窓の向こうにぼんやり目を遣っている彼の、細い髪が光に透けて宝石のようだった。彼はそれなりに自分の身体にまつわる美しさを操ることに長けていると思うけれど、それでもまだ全てを完璧に使いこなせているとは言えないだろう。だからこそ、その賢さと愚かさのないまぜになった肉体に惹かれてしまうのだ。
 少しだけ身を起こして、木葉の首に腕を絡める。視線がぶれて、そしてぶつかる。ひらいた唇が震えている。緊張のせいではない、極度の興奮のせいだ。

「じゃあ、好きなんて言う子には絶対できないようなこと、全部してくれていいよ」

 下手なことでも、酷いことでも、あなたのしたいことならなんでもいい。して。その一言で、彼の真ん中に欲望の暗雲がたちこめたのが分かった。彼の最後のためらいが黒々とした雲の彼方へと掻き消されていく。

 息の擦れる距離で言葉を紡いだ唇に、待ち望んでいたあの唇が乱暴に重なった。髪を引っ張るようにして頭を押さえつけられ、咥内では舌の根を強く吸いあげられる。身体を支配していたあらゆる力が、脳を支配していたはずのなけなしの意志までも、ごっそりと全てが抜け落ちていくようだった。もう、空っぽだ。だからはやく、彼自身を入れてもらわなければいけない。シャツの裾を捲りあげ、木葉の手のひらがあっさり胸に届いた。慣れた手つきで下着の金具を外し、たくしあげ、直に触れられ、目が回るような滑らかな速度で快感が全身をつんざく。ようやく唇が離れると同時に、木葉は私の背をきつく抱きしめた。敏感になった胸の先が布越しに彼の胸に触れて、それだけで甘い呻き声が漏れてしまう。苦しい。ぴたりと嵌る身体と身体が、こんなに苦しいものだなんて。

「……窓開いてんだから、声出すなよ」

 唾液まみれの唇がどだい無理な命令をよこす。たった一点の絶頂を迎えるために、呪いのように耳元で囁く。こんなに容易く抉じ開けられてしまうなら、あの部屋の扉に彼の手が届くのなんてもうすぐだ。私のいちばん奥底にある扉をひらいて、自分自身の断片が、その膨大な欠けらが堰を切って溢れだしたら、木葉は一体どんな顔をするだろう。誰にも見せないつもりでいたのに、あの部屋には最初から鍵なんてかかっていなかったのだ。









THE END

2014.8