――勝手に負けた気になってないでよ。

 誰もいない水飲み場で蛇口をひねり、頭から冷たい水を盛大にかぶりながら、つい数分前に主将から耳打ちされた辛辣な一言をひたすら暗黙に反芻し続ける。これ以上ないというほどに、嫌なことを言ってのける男がいたものだ。目を逸らしていたことを、自分自身のもっとも「嫌なところ」を、その一言が過不足なくすくいとって晒してしまった。反論も、弁解も、逆上する余地も、何もなかった。ただ、あらゆることに悔しさがつのった。あれっぽちの言葉で言いあてられてしまう些末な息苦しさ、その息苦しさを隠し通せなかったうかつさ、そのうかつさを決して見逃しはしないヤツの比類ない集中力と観察眼、そして何より、それら全てを悔しいという感情で片づけてしまう自分のどうしようもないもろさに。

 五月の新芽の匂いの風が汗だくの背中を掠めていく。部室棟と第三体育館に挟まれたこの水飲み場には西陽さえも満足に届かず、ぐっしょり濡れた練習着が風に吹かれるとまだ少し寒気のするくらいだ。どれくらいそうしていたかもはや分からないが、背筋によくない悪寒が走り、ようやく蛇口を閉めてタオルに手を伸ばす気になった。ずぶ濡れの髪をタオルで雑に拭きながら顔をあげる。すると、ちょうど部室棟から渡り廊下へと出てきたひとりの女生徒と目が合った。。反射的にその名前を、口走ってしまう。

「わっ、花巻。お疲れさま」

 なんとも間の抜けた声だったが、今はそれが何よりの気晴らしになる。オフホワイトの薄手のパーカーと学校指定の紺のジャージという馴染みのいでたちのは、腕いっぱいに作戦盤の一式が入った黒いメッシュ地のかばんを抱えていた。今日は全体練習の最後に紅白戦をやると昨日から言ってあったのに、おそらく入部して間もない不慣れな一年生部員が部室に置き去りにしていたものだろう。雑用を怠ってむやみにマネージャーの手を煩わせたとなればまた、目ざとい主将様はその態度に釘を刺すだろうか。あるいはそういった汚れ役ならば、適任は他にあてがあるかもしれないが。

「……なに堂々と大遅刻してんだよ」

 自分の声が思いのほか重たく、練習中の声出しのせいで枯れているというだけでもない気がして、また何かをあっさり見透かされはしないかと内心ほんの少しの焦りを覚えてしまう。練習を抜けだしてここにひとりで居ることや、過ごしやすい初夏の日に真夏の炎天下でそうするように頭をずぶ濡れにしていること。尋ねられることならいくらもあったが、はただ俺の言葉に困ったように首を傾ぐだけだった。

「ちょっと呼び出しくらってて、城戸先生に」
「城戸? 数Ⅱのテストでやらかしたか」
「うーん、というか四限が単元のテストで。保健室に行ってて受けられなかったから、今さっき受けてきたとこ」

 なんか熱っぽくて昼休み中もずっと寝てたんだよね、とはなんでもないふうにからりと笑った。その気丈さがむしろ頼りなくはかなげにも映って、気づけば俺は彼女の華奢な肩を引き寄せていた。確かめたいことはひとつ。前髪を無遠慮に指で持ちあげ、そこに自分のひたいをためらいもなく押しつけた。短い髪の毛先からなごりの水のしずくが一粒、二人の隙間に落っこちる。あわや彼女の頬が濡れてしまいそうな距離でひたいを触れあわせ、ほんの数秒だとしても、俺はの時間を止めてしまった。すぐそこの体育館の扉からいつ部員が顔を出すか知れないというのに、ということに気が回ってが作戦盤ごと腕を突っぱねて俺の胸を押しやったのは、あのよく通る声の号令が扉の向こうから響いてきたからだろう。

「熱はねーけど……顔は赤いな」

 彼女を心配に思う気持ちが、あらわになったときには彼女をからかう態度になっている。見たままを口にするとの頬はまたいちだんと熱く火照った。

「……ばかじゃないのほんと」

 目を伏せてぽつりと呟かれた、そんな咎めの言葉も赤い。赤くて、熱くて、そして愚かしい。

 俺とが誰に吹聴するでもなくひっそりと付き合いだしたのは新人戦が始まる直前の、真冬のころだった。一学年上の先輩が全員いなくなって、俺や、他の多くの同輩たちが初めて一桁の番号を与えられた日のことだ。憧れていた背中に追いついた者、追い越した者、手の届かなかった者。それでも大会ごとにベンチに入るメンバーは入れ替わり、それこそ、いつまでも負けた気になってなんかいられない。いられないのは分かっている。たとえ突きつけられたものを突きかえすことはできなくても。

 ついさっきの連携練習のことを思い返す。高々と逆方向へあがったトスに対して、セッターの指示は「打つつもりで跳べ」。忠実にその指示に従ったつもりだった。それがあだとなるとは夢にも思わずに。今さらになって気がつく。あの指示の真意はきっと、打つふりをしろということではなかったのだろうと。どんなときでも、どんな体勢でも、どんな状況でも、自分と逆方向にたとえ誰が跳んでいようとも。あの正確無比なトスをお前は迷いなく呼ぶことができるのか。試されていたのは、何よりもまずそこなのだ。

「行かなくていいの?」

 にTシャツの裾を遠慮げにつままれ、はっと今このときに引き戻されるようにして視線を持ちあげる。全体集合の号令がかかっていたことを思い出して、足の先は自然と体育館のほうへと向き直ったが、それでもまだどこかにためらいがあった。耳を塞ぐような素振りでえりあしから後頭部の髪をタオルで掻き撫ぜる。短く切りそろえた茶色の髪は、もうすでにゆっくりと乾きはじめているようだった。

「……知らね。頭冷やしてくればって言われてますんで」
「あ、それで拗ねてたんだ」
「拗ねてねーし」
「花巻って分かりやすいよね、案外」

 ――で、俺のそんなところがは好きなんですよね、案外。

 作戦盤で口元を隠すようにくすくすと笑うを見て、胸のうちで甘ったるい合いの手をひそかにいれる。すると今度こそ彼女は見えない内側を見透かしたように、そして何かをひらめいたようにふいに顔をあげた。何ごとかとやや身構えたこちらをよそに、が腕に抱えていた作戦盤入れのなかからとりだしたのは一本の水性ペン。そうして大きめの作戦盤を窮屈そうに脇に抱えなおし、ペン先のキャップを外すと、彼女はおもむろに俺の右手のひらを手首ごと包むようにしてひろいあげてしまったのだ。

「わたしじゃ本当の番号はあげられないけど」

 夏の全国を目ざせる最後の大会があと二週間後に迫っていた。おそらく来週の頭には監督からベンチ入りの十二人の名が伝えられることになるだろう。中学のとき当たり前のように背負っていた番号を、俺はまだこの場所で手にしたことがない。それを焦りと読み換えることもいつの間にかできなくなっていて、与えられたものをそのまま汲みつくすことが誰のためにも最良のやり方だと、勝手にそう思いこもうとしていたのだ。
 の操るペン先が、手のひらの上に道を描く。くすぐったいし、じれったいけれど、それでもその手の動きを止めようとはまったく思えない。今の俺にはけっして汲みつくすことのできないその番号。いつまでたっても辿り着けない、それでも揺らいではならない目的地。いくら重ね書きしたところで刻みこまれるわけではないのには一心に何度も何度もペンをすべらせた。まるで祈りやまじないのたぐいでもこめているかのように。

「これくらいのえこひいきなら、してあげてもいいよ」

 子どもじみた得意げな顔をして、は手にしていた水性ペンを唇の前に立てて「ひみつ」のかわいらしい仕草をした。そんなまっすぐな澄んだ眼で見上げられて、どうして何もよこしまなことを想わずにいられよう。彼女の純真が見事なまでに邪心を手ほどく。だけど、それだけじゃない。けっして、けっして、それだけではなかった。

 ――ばかは、どっちだ。

 先に行ってるね、と言って彼女は俺の手のひらからなごり惜しそうに手を離し、一足早く体育館の扉の向こうへ消えていった。しゃんと伸びた彼女の美しい背筋を眺めながら、深呼吸をひとつする。どこからともなく運ばれてくるハナミズキの香り。甘き初夏の風。涼やかな夕陽。あの扉の奥。追われている五センチの差。追ってゆかねばならないそれ以上の差。たったひとつの番号を見据えること。負け戦なんて、はなからない。
 きゅっと五本の指を結びなおす。コートの上に立って無心にボールを打ち返していればきっとすぐ汗に流れて消え去ってしまう、彼女のくれた手のひらのエースナンバーを固く握りしめて、俺は体育館へと駆けだした。









THE END

2015.5