夏が恋しい、とがぽつりと呟いた。あんなに無駄に過ごしたのにわがままですよね、と少しさみしそうに鍵盤の上へ指を滑らせながら。その一言がすべてだった。きっぱりと終わってしまったものを、過ぎ去ってしまったものを、今さらひきあいに出すなんて。こんな下手な口実、あるだろうか。きっとなんでもよかった。ちょうどそのとき、二人のつま先がぴたりと同じ方角を向けばそれでよかった。ありふれた音色を奏でようとした指を、とっさに束ねるように包みこむ。正確無比なの指から不協和音が溢れだすのを、どこかで楽しんでいる昏い自分がいた。彼女の手をとるということは、自分にとってきっとそういうことなのだ。

 明日のことをあまり思いあぐねたりしないようにと、二人で詰めこんだ絵空事のような旅の計画は、どれもこれもばかみたいに陽気で考えなしにもほどがあった。どうがんばっても叶えられる予定のほうが少ないのは明らかなのに、お互いそんなことはこれっぽっちも口にしなかった。毎日のことを忘れるのは、実はとても難しい。毎日のことを考えて生きているつもりなんて、さらさらないというのに。

「寒いなら、まだ待合室入っとけよ」
「平気です。それに、もうすぐ到着の時間になるし」

 カーディガンの袖口をつまんで、が時刻を確かめる。その仕草も、華奢な腕時計も、制服を着ているときには気づけなかったけれどずいぶんと彼女を大人びて見せている。この期に及んでとなりにいることが不思議だとか、そんなことばかり頭にぽんぽんと浮かんでは弾けて、張りつめた胸の興奮だけが現実と同じスピードでつのっていくのを感じた。こうこうと明かりの照る夜のホームには人もまばらで、都会のど真ん中のくせしてさみしいくらいに閑散としている。誰も何も二人のことなんか気にしていない。ちょっと廊下で立ち話をしているだけで、教師にじろりと睨みつけられるような「二人」の不自然さのことを、ここでは誰も知らないのだ。どこにでもいる問題児と優等生、そんな使い古された二人のレッテルのことを。

「……あーあ、なんで俺なんか」

 気まずくなると髪をかきあげてしまうのは、自分の情けない癖。何の気なしに口走ってしまってからすぐに後悔をするけれど、となりでもつれた糸をほぐすようにがふっと笑ったのを垣間見て、少しだけ救われた気持ちになった。夜風が首もとをすり抜けていく。季節はあっという間に反転して、つい数週間前までの蒸し暑い夜が嘘みたいに、薄手のウィンドブレーカーじゃ心もとないくらいの冷たい風が吹きつける。着てくる服、失敗したかも。だけどもう、戻れない。誘ったのは彼女のほうかもしれないが、一緒に行こう、と口にしてしまったのはほかでもない自分なのだから。

「初めて会った日のこと、覚えてますか?」

 突然、にそう問いかけられて、思わず「え、」と間抜けな声があふれた。無邪気な瞳をして見上げられると、絡まった思考が姿勢を正してぴんと一本の線になる。その線を手繰り寄せれば、ありありと思いだされる。覚えている。くだらないことばかり、例えば、あのときの差しこむ光の具合とか、二人のカーディガンの色とか、目が合って声をかけるまでの妙な間のこととか。まるで一枚の写真を大事に仕舞いこんでいるかのように。

 初めて会った日のこと、なんて言うけれど、そんな大それたものじゃない。彼女が入学して間もない四月の、昼休みの音楽室。タイトルは知らないけれどどこか懐かしくもあるクラシックの旋律が、廊下にもゆるやかに漂ってきていた。ただ、忘れ物の携帯電話を取りにきただけ。ただ、暇つぶしにピアノを弾いていただけ。音楽室のドアを開けた瞬間、白いカーテンがふくれあがって対面の窓から強い風が吹きこみ、彼女の紡ぐメロディーが中途に止まった。譜面台にひろがっていた楽譜がばらばらと床に落ちて、俺はとっさにしゃがみこんでその何枚かを拾いあげていた。それだけの偶然のせいで、俺たちの「初めまして」は初めてのふりをした再会になったのだ。

「あなたもピアノ弾くの、なんて。木葉先輩の性格を知ってたら、絶対しない勘違い」
「教養のひとつもなくて悪かったな」

 くすくす笑っているの頭を軽く小突いてやる。髪から指のはらへと伝わる、そんなかすかな温さが、どんな厚着をするよりも確かに身体の震えを取り除いた。彼女はまだほんのりと笑みを浮かべた顔をしたまま、ふいに俺の手のひらを持ちあげてしまう。彼女がじっと見つめていたのは戸惑った俺の顔ではなくて、俺の右手のほうだった。

「……でも、すごく、きれいな指をしてた」

 彼女の細い指が絡むように、指の輪郭をするりと撫でられる。あの日の俺の指先を思い出すように、指で指をふちどりながら、彼女はうっそりと目を細めた。あれから何が変わってしまったのか。何も変わらないままなのか。こんなふうに手と手を触れあっていることも、二人にとっては日常のできごとなのか非日常の秘めごとなのか、未だに考えあぐねている。ピアノをする指と、バレーをする指は、似ているね。はにっこり笑って、細さも長さも似ても似つかない二人のそれをより一層きつくつなぎ合わせた。
 電光掲示板のオレンジ色の文字列が点滅して、俺たちは同時にふと顔を上げた。待ちに待っていたような、永遠に訪れなくてもいいような、到着の合図が頭上でぱちぱちと光っていた。

 ――間もなく列車が参ります。危ないですから白線の内側にお下がりください。間もなく列車が……

 結んだ手のひらの意味を切りさくように、無機質な自動放送がプラットホームに流れていく。何百回、何千回と聞いたことを、今日も繰り返し、同じように注意する。危ないから、白線の内側に下がれと。
 の横顔はこわいくらいに落ち着き払っていて、それは盗み見ているこちらのほうが逆に焦燥を覚えるような表情だった。数人の待合客がホームに集まりだすのを見遣りながら、彼女はとうとうと言葉を夜に刺していった。

「好きになれると思ってたんです、コウちゃんのこと。好きなんだとも思ってた。けど、違った。だめだった。だって、ここにはもう先客がいたんだもの。あの日からずっと……」

 とん、と左胸に手のひらを置いては感情を振り払うように何度かまばたきをした。プラットホームを吹き抜ける九月の風が、彼女の前髪を静かに乱していた。彼女しか使わない特別な呼び名を聞くたびに、真夏のアスファルトのように胸がじりじりと焼きつく。今も。ああ、なんだ、こんなところにまだ夏があったのか。ほっとする気持ちと、むなしい気持ちとが、同時にせりあがってくる。夏を恋しがる彼女にはきっと、こんな焼けつくような想いはないのだろうから。

「わたし、いつの間にこんな悪い子になったんだろう」

 しゅんと萎れた彼女の声は、ほんとうに哀しそうな響きを持て余していた。さっきまであんなに真っ直ぐ前を見ていたのに、今はもういたずらをして親に叱られてしまった子どもみたいだ。なんと返したらいいか分からないまま、ようやくゆっくりとホームに列車が入ってくる。車体の揺れる音、滑車とレールが擦れる音。沈黙の隙間を埋めていく、旅立ちの音。

「……俺だって似たようなもんだよ」

 そう言って、つないだ指先に力をこめるのが精一杯だった。ピアノをする指と、バレーをする指。俺たちが似ているのはきっとそんなところじゃない。迷っているくせに、決めこんだふりをする。俺たちはとても嘘つきで、心の底では真っ直ぐな態度に憧れている。そうじゃなかったらどうしてこんなところで、二人してあいつのことを思い出しているだろう。

 ――木葉って、のこと好きだったりする?
 ――……な、んだよいきなり。
 ――だーって、そんなら、勝ち目ねーんだもん。お前モテるしさ。

 なんのてらいもなく、無頓着に、そんなことを大声で言い放って笑われる。だけど、あれがもし、彼なりのシグナルのようなものだったとしたら。あいつにそんな脳みそがあるはずない、なんて、どうして他人が決めこめるだろう。ひとは思いもよらない感情を隠し持っているものだと思う。今ここに二人でいることが、何より証明してしまっているように。
 線路の上をいくら移動したところで、決められたところにしか行き着かない。列車はただ機械的に俺たちのことを運んでくれているに過ぎない。だから、ほんとうに何処かへ行くということは、きっとこの一歩目だけを指している。内側に下がれと言われたその線を、超えていくのか、いかないのか。たったこれっぽちの一歩のために、俺たちはたくさん嘘をついて、たくさんのことを思い悩んだ。
 列車のドアが開く。財布には小遣い程度のはした金。携帯電話の充電は切れたら終わり。何処にも行けないからって、何処にも行かないわけじゃない。悪者気取りの似たものどうしは、二人で旅立つ夢を見る。









THE END

2015.9