ひとくちちょーだい、とねだられるためのリプトンの紙パックのレモンティー。あの続きどうなってんの、と訊かれるための月曜日の週刊少年誌。課題やってねーや、とぼやいていたらどんな科目のノートでもすみやかに差しだせるし、髪型だって化粧だって、放課後あけといてね、の一言を受けるためなら自分の好みなんてとうに捨てた。無理してない? みんな決まってそう言うけれど、こんなこと無理していたらとっくのとうに心が折れてる。だってわたし、それこそ無理だから。さとりのいない毎日なんて。

 午後一時、花咲く女友達の輪のなかに左手を差しだして、「ねえ見て。これ、さとりにもらったんだぁ」と報告をする。彼の話題限定の、うっとりした声で。すると彼女たちはいっせいに顔を引き攣らせて、あげく「やっぱあいつ頭おかしい」なんて失礼なことを口々に言い始めた。
 どうしてだろう。わたしが披露したのはいたってシンプルなデザインの平凡なペアリングだし、恋人同士で同じ指輪をしている子たちは他にもたくさんいるのだし、そもそも付き合って一年の記念日に彼氏から指輪を贈ってもらうなんて、ふつうなら羨ましがられてしかるべき話題ではなかろうか。昼休みの女の子たちのおしゃべりに踏みこんではいけない聖域なんてひとつもない。不満顔のわたしのことなどお構いなしに、彼女たちの品定めはパレードのように賑やかに続いた。

「天童ってなんかこわいじゃん」
「あー、ね。いきなりどうでもいいこと話しかけてくるし、真顔で」
「変な鼻歌うたってるし」
「悪かないけど顔もフツーだし」
「ちょっとキミたちひどいな、ひとの旦那に向かって」

 バレーボール部の関東遠征で公欠中の噂の当人がまさか居るわけがないのだけれど、それでも一応ぐるりと昼休みの騒がしい教室を見渡してしまう。公欠中だからってさんざんな言われようだよ、さとり。それも、なんだかわたしまで一緒に糾弾されているかのような構図になっている。呆れられているような、憐れまれているような視線を一身に受けて、戦況はわたしの防戦一方。彼みたいにうまくブロックなんて決められない。友人のひとりが足を組み替え、まるでお局様みたいな態度で「あのねえ」と口をひらいた。ごめんなさい。なんだかわけも分からず謝りたくなるくらいの迫力だった。

「ヨメにする態度かね、キミの旦那さんのあれは」

 彼女の一言に、友人たちは「そうだそうだ」の大合唱で、それから予鈴が鳴るまで延々とわたしは「目を覚ませ」だの「関係を改めろ」だのお説教されるはめになった。
 二人のかたちがひとさまのそれとは少し違うこと、わたしだって気づいていないわけじゃない。だけど、わたしたちにとってはこれがはじめから嘘いつわりなく、歪みのない、生まれたままのかたちなのだ。直すことも正すこともできない。何より、周りからどう思われていようとわたし自身がそうすることを毛頭望んでいなかった。



 一年前、ありったけの勇気をもってさとりに告白したとき、彼はあんまり、というか全く良い反応をしなかった。わたしはただのクラスメイトで、となりの席に座っているだけの女で、彼に好かれる理由なんて何もなかった。一方の彼はというと、抜群の運動神経で二年生のころから男子バレー部では大車輪の活躍、スポーツ推薦組のはずなのに要領よく成績は上々、モデルみたいにすらっと背が高くて、ばかみたいな周りの男子とは一切群れないミステリアスな雰囲気まであるときた。友人たちは悪しざまに言うけど、けっこうモテるんです、彼。だってわたしが告白したときも、さとりにはお付き合いしているひとがいたから。

 ――わたし、好きになってもらえるよう、がんばるよ。

 誰もいない放課後の空き教室で、懇願するように彼へ食い下がる。さっさと部活に行きたそうな彼が、退屈そうに視線を足もとに下げたときだった。わたしに与えられたのはむげな断りの言葉ではなく、彼の右足。靴ひものほどけた、履きつぶした彼の上履きだった。

 ――じゃあさー、これ、結び直してくれる? そしたら考えてあげてもいいよん。

 お安い御用だと思った自分の感覚がはなからずれていたのかもしれない。
 わたしは言われるがままに彼の足もとへ跪くと、その右足の靴ひもを丁寧に結び直した。さとりは笑っていた。わたしもなんだか、可笑しかった。好きになってもらえるよう、がんばるよ。この決意の第一歩が、まさか彼の靴ひもを結ぶことだなんて。



「さとり、学校来てたんだね。遠征おつかれさま」

 公欠が明けて、一週間ぶりにさとりと顔を合わせる。午後から授業に出るとは聞いていたけど、彼は四時間目が終わるころにわたしをメールで呼びだした。昼休みが始まるまでの五分間が途端にまどろっこしく感じられる。チャイムと同時に教室を抜けて、一目散に向かったのはあの告白をした空き教室。あの日からこの場所は二人にとって不道徳をいたすためのちょうどいい密室になっていて、彼は休み時間になると好んでわたしをここに引きずりこんだ。
 さとりは窓際のいちばん前の机の上に座って、足を椅子に預けていた。教卓の上には彼のエナメルバッグが置いてあって、今しがた学校にやって来たのだろうということがうかがえた。手招きをされ、黙ってわたしは彼に近づく。すると、手招きをしたその手のひらを上にしてさとりは開口一番こんな命令をした。

。はい、お手」

 彼に脈略といったものがおよそ欠如しているのは今に始まったことではないけど、それはちょうど一年前に靴ひもを結んでといきなり要求してきた彼の突飛さを思い出す一言で、私は面食らうと同時に少しだけ懐かしい気持ちになった。あのときと同じように従順に、彼の大きな右手のひらの上へ、わたしはおずおずと自分の小さな左手を重ねる。薬指のシルバーリングが彼ごしの正午の陽を受けて安っぽくかがやいていた。

「ぶはっ、本気にするかふつう」

 さとりは吹きだすようにして無邪気に笑うと、わたしの左手を指ごと束ねてぎゅうと掴んだ。彼の親指のはらが、わたしに与えた指輪をたしかめるように撫であげる。それだけのことでわたしの頭は沸騰寸前のやかんみたいになってしまって、脳内で今にも叫びだしそうな興奮に囚われている自分を、なんとかぎりぎりのところでなだめないといけなかった。

はかわいいね、ホント」

 よしよし、なんて言ってほんとうに犬の毛並みを揃えるみたいに彼はもう一方の手でわたしの髪にさわる。ナイスキー、さとり。ナイス、キル。わたしもう、しんじゃいそう。混線したどうしようもない感情の屑が、降り積もっては理性をたやすく埋め尽くしていく。
 それからしばらく、わたしたちは昼休みの喧騒を遠くに聞きながら、無言でもつれあった。わたしは突っ立った状態で机に座る彼に腰を支えられ、指先をずっと拘束されたまま、息継ぎのすきまを何度も何度も奪われた。ようやく言葉らしい言葉を紡げたのは、腰をさすっていた彼の左手がゆっくり移動して、わたしの制服のリボンを捉えたとき。器用にリボンを緩めるその手つきをぼーっと眺めていたら、その指先にはあるはずのものがないことに気づいた。

「あ……れ、さとりはしてないの、リング」

 唾液に濡れたくちびるで、彼の名前を発するのが好きだった。このうえなく、彼のもの。そんな自分が好きだった。するり、とリボンがほこりっぽい床へと落ちていく。さとりは自分の左手をちらっと見て、それから、その指で今度はシャツのボタンをひとつ弾いた。

「あー、あれ。バレーすんのにいちいち外すのめんどくさいじゃん」
「そっか……、そうだよね」

 こたえ終えるか終えないか、前触れなく彼の手のひらがわたしの胸のあたりを強く押したので、わたしはバランスを崩して背後の机に手をついてしまった。彼はわたしにその流麗な仕草を見せつけるようにして、オフホワイトのブレザーをうっとうしそうに脱ぎ捨てた。わたし、物わかりのいいふりをして、ほんとうはさとりの言っていることの半分も理解できてない。彼もきっとわたしの調子っぱぐれなところを、分かりもしないものに縋ろうとするそのずるさを、見抜いている。だからほんとうに、わたしは犬なのだ。彼がわたしをそう扱うとか、扱わないとかいう、以前に。

「それにさ、飼い主まで首輪はめるのはおかしいよね」

 何もつけてないまっさらな左手で、彼はわたしの薬指に鍵をかけた。きっと、それだけ。
 彼の手のうちに手綱はない。だってさとりは種も仕掛けもない空っぽの手のひらで、わたしを思うままに操ることができるんだから。









THE END

2015.10