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 八月が始まってしばらくが経った。夏がしだいに濃く、深く、堆積して、ラムネ瓶のような青く澄んだぶ厚い水底に潜っていくことを感じながら、は日々を過ごしていた。
 彼女は今、受験生のための夏期講習の真っ最中で、朝早く起きて、昼をまたぎ、自習室でその日の課題をこなしてから家に帰る毎日を送っている。今日もは厄介な参考書をひとつ片して、炎天の下、自宅へと続く坂道をひとりのぼっていた。の家は住宅街のいちばん小高い場所にあって、こんな日照りの午後は、のぼりくだりするだけでもけっこうな体力を吸い取られる。それでも運動不足の彼女にとってはこれが唯一に近い日々の運動だったので、車を出してもらうことなく、自分の足腰で毎日その坂道と格闘していた。

 ただいま、と誰に言うでもなく呟きながら重たい玄関のドアを開け、段差に腰をおろし、サンダルのストラップを右、左とはずす。立ち上がろうとしたとき、は玄関先に見慣れないスニーカーを発見した。青緑色の、さんざんに履きつぶしたハイカットスニーカー。男物のサイズだ。がふしぎに思っていると、ぱたぱたとスリッパの音が近づいてきて、彼女の母親が廊下の奥から現れた。

、おかえり。お友達が来てるわよ。客間にお通ししてるから」
「おともだち……?」
「天童くんって男の子。……あら、もしかして友達じゃなかった?」

 名前を出した途端、明らかに様子の一変した娘を見て、の母親はくすりと意味ありげに笑った。一気に沸点に達した感情がぶくぶくわめいて、つい反射で「友達だよ!」とむきになって返してしまう。もちろんそれは逆効果の否定でしかなかったのだけれど。
 は大急ぎで二階の自室に荷物を置き、汗だくのTシャツとデニムスカートを脱いで、スウェット地のノースリーブのワンピースを頭からかぶった。階下に降りると、はキッチンで冷たい緑茶と菓子の乗った盆をひとつ託された。このお菓子、天童くんが博多のお土産に持ってきてくれたの、と母親がほがらかに教えてくれる。お土産。そういえば、今年のインターハイは数日前に幕を閉じたのだ。

 が倒れてしまった終業式の日、天童はわざわざバスに乗り、ふらつくを家の前まで送り届けてくれた。彼のことだから、そのときこの家までの道のりを一度で覚えてしまったのだろう。あの日の、翌日の晩、はかろうじて知っていた天童のメールアドレスにメールを送った。電話番号は知らなかったから、はメールでありがとうと、ごめんと、好きです、を、改めて言葉のかたちにして伝えたのだ。返信はすぐだった。のそれより数段に簡潔なありがとうと、ごめん。そして、インターハイが終わるまで待ってほしいという、告白の保留。考えたら何も手につかなくなるから、はつとめてそのことを考えないようにしていた。でも、考えないようにすることは、考えていることと同じだ。は緊張を押しこめ、なんとか盆を水平に、慎重に運びながら廊下を突き進んだ。



 中庭に面してコの字型に曲がった回り廊下は、昼間はすべての雨戸がひらかれている。ガラスの向こうにはしっかりと手入れの行き届いた庭がぐるりと一望できるつくりで、和洋折衷の一軒家だったが、庭はいたってオーソドックスな日本庭園を思わせた。はそんな見飽きた庭には目もくれずに、廊下のいちばん突き当りにある客間にすり足で急いだ。息をととのえ、慎重に正座して盆を置く。すると障子の奥から何やら話し声が聞こえてきたので、は耳を疑った。

 ――うーむ、そうきたか。坊主、けっこうなやり手だな
 ――こういうの得意なんですよ。まあほぼ勘でやっちゃってますけど……

 ひとつは、そこに居るべき客人の声。だけどもうひとつは、この客間にとっては招かれざる人間の声だった。は慌てて障子戸をひらく。二人の声の主が同時に顔を上げる。彼らはひとつの将棋盤を挟んで、あぐらをかいて向かい合っていた。

「おじいちゃん、ちょっと何して……!」
「あー、さん。ごめん勝手にお邪魔しちゃってる」
「それは、全然いいんだけど……おじいちゃん、だれかれ構わず勝負しかけないで!」
「じゃあ一時休戦ってことにしましょーか」
「おう。、この坊主、帰りに居間に連れてきてくれな。あっと驚く手を考えとくからよ」
「はい、はい、わかったから……!」

 顔から火が出るとはこのことだと思いながら、は盤上の駒をこぼさないように将棋盤を抱える祖父をとっとと客間から追いだした。のっけから嫌な汗をかいてしまったの背後で、元気なおじいちゃんだねえ、と天童は呑気に呟く。はっとして振り返り、は思いもよらないかたちで久しぶりに天童と顔を合わせた。

「ごめんね、ほんと……将棋となると熱くなっちゃうひとで、」
「ううん。久々の将棋、楽しかったし。うちのじーちゃんも将棋やるひとで、実家いたころよく相手してたから」

 は天童の私服らしい私服を初めて見た。別に物珍しい何かがあるわけではない。夏の装いなんてシンプルなものだ。黒白の太めのボーダー柄のTシャツに、くるぶしがのぞく丈の、ベージュの細身のパンツを合わせている。ただ、それだけのこと。それだけのことが、にはとても新鮮で、新しいきらめきが心のみなもを輝かせた。
 が座卓に盆を置くのと入れ替わりで、天童は立ち上がって障子の向こうにひろがる庭を見据えた。手もとに残っていた持ち駒を数個、手のひらでかちゃかちゃと転がしながら。

「にしても、すごいとは聞いてたけど、ほんと豪邸だね」
「聞いてたって……」
「英太くんとか。大げさに言ってんのかと思ってたけど、納得した。ほんとに庭に池あるし」

 天童が見渡す先には、数匹の鯉が泳ぐ丸池がある。いつ、どんな話題のなかで、この家の話なんて出てきたのだろう。瀬見がの家に訪れていたのは、まだ彼らが寮に入る前のころ、中等部のバレーボール部に所属していた時分のことだ。とはいえ、一度か二度の話だろう。思えばそういうつながりもあって、ひとり娘が居るというのに異性を家に上げることにこの家の者はあまり抵抗がないのかもしれない。
 たたみに座ってがぽうっと天童の背中を見つめていると、彼はひらいたままの障子を慎重に閉じてに向き直った。いちばん大切な感情を告げたあとのこの宙ぶらりんなひとときもにとっては初めてのことで、さっきから胸をくすぐられるようなこそばゆさが心臓の高鳴りに合わせて現れたり、ひっこんだりしていた。

「おととい、福岡から帰ってきたんだけど」
「う、うん。おかえり」
「ただいまー。で、ちょっとしたおみやげを」

 おどけた「ただいま」に紛れこませるように、天童はパンツの右ポケットから小さな包みを取りだした。腰を降ろしながら、天童は迷いなく彼女にその手土産を差し出す。の手のひらにもすっぽり収まるような、繊細な包装をうながされるままにひらいてみると、そこには旅先の工芸品か何かだろうか、泳ぐ金魚のシルエットをしたブローチがひとつ入っていた。つるっとした美しい陶器でできていて、朱色のふちどりのなかに、複雑に淡い釉薬で色づけがなされている。

「こんなの好き? 俺、よく分かんなくて、女の子が喜ぶおみやげとか」
「……天童くんが選んでくれたの?」
「え、そりゃまあ、いちおう」

 改めてそう問われると気恥ずかしさが勝るのか、天童は手持ち無沙汰な指先で頬をかいた。こんなの自分の柄じゃない、と思っているんだろう。は何度かその鮮やかで滑らかな表面を指のはらで撫でてから、薄い包装紙のなかに丁寧にブローチを包みなおした。

「ありがとう、うれしい……」

 自分でもちょっと大げさだと思ってしまうぐらい感慨深げな声が洩れて、天童がその声に呆れてか、眉を下げて笑う。許された自由時間なんてほとんどなかっただろうに、四六時中バレーボールのことを考えていただろうに。考えていたかっただろうに。それでもここにひとつのかたちとして、遠い場所にいても自分の存在が彼の頭の片隅にあったのだと示されて、はすでに、幸福が身に溢れてもったいないぐらいだった。望まなくても与えられるということは、危険なことだ。甘く震える指の切っ先が、それを証明してしまっている。はなんとか幸せボケを振り払うように、コースターに乗せた緑茶のグラスを盆から取りだし、天童にそれをすすめた。

「えと、インターハイ、惜しかったね」
「んー……そうだね。でも、去年負けたとこに予選で勝てたのは気持ちよかったかな」
「気持ちいいの?」
「うん。とーっても」

 グラスに口をつけ、天童が緑茶をひとくち、ふたくち喉に通す。嬉しいとか、楽しいとかではなく、勝つと気持ちがいいという、ありそうでなかなか耳にしない言葉と言葉の組み合わせが、いかにも彼らしい表現のように感じられる。自分には何も分からない、想像もつかない、ときには目を覆いたくなるような何かがそこにある。は、バレー部の練習なら何度も見たことがあったが、試合はあまり見たことがなかった。勝つなら、いいのかもしれない。でも勝負はいつも、勝つか負けるか。負けと向き合うのが、未だにこわいのだ。負けと向き合う、彼らと向き合うことが。

「わたし、……ごめんなさい。勝負ごとってあんまり分からなくて。見ててもなんだか、こわいっていうか」
「ふーん。大好きな幼なじみをとられちゃうから?」

 思いもよらない相槌を打たれて、は言葉が詰まる。言葉が詰まればまた、あたかも図星をつかれたかのような会話の空白が生まれてしまう。はなんとか弁明しようとして、首を横に振った。天童の瞳が、さみしく弓のかたちにしなる。

「俺、若利くんのかわりはできないよ」

 冷たい意味をこめた、温かい響きの言葉だった。それが、インターハイが終わるまで待ってほしいと願いでた、彼の導きだした答えなのだろうか。天童の視線を伝ってくる感情のせいで、のなかでもさみしさの水位がどんどんせりあがっていく。ようやく口をひらけたときには、はどんなにがんばっても、ほとんど泣きそうな声しか発することができなかった。

「……なんで、そんなこと言うの」

 二人は気づけば、まひるの暗がりに身を賭していた。さっきまであんなに明るかった午後が、障子の向こうで雲に食い千切られて小さくしぼんでしまっている。木漏れ日のような、細切れの弱い陽。それを遮るように、首の裏、えりあし、頭のうしろに手のひらをあてがいながら、天童はの理不尽な傷から滴る不安なんかまったく拭ってくれない、強く、ただひたすら己れの欲望と価値観だけを貫いた言葉を、淡々と放り続けた。

「きっと、全部ほしくなるから。二番手で根気よく見守るとかたぶんできないし、一番だってちょっとでも目移りされたら我慢できない。だから、そういうつもりなら今、振ってほしい」

 どうして告白した相手のことを、何もないまま、数週間で振らないといけないんだろう。そんな言葉で八つ裂きにされているのは自分のたましいのほうだ。ここには居ない、二人にとってとても大切な、大事な何かを持ちあわせているひと。天童のその過剰なまでの防衛線は、彼への畏怖のあらわれなのかもしれない。そして同時に、の覚悟を振り落とそうと、叩き落とそうとしている。それが彼のほんとうのやり方なのだ。いつも、自分から回りこんで、先読みして、相手を踏みにじるように揺さぶる。だけどそれがいつも、正しかったり、的を射ているわけではない。彼もどこかでそれを分かっている。そして、とびきりの否定を欲するときだって、あるだろう。自分の読みを否定されることが、救いに変わる。そういう瞬間だって、きっと。

「わたしは、天童くんが好き、ってちゃんと言ったよ」

 にはとにかくそれ以上の言葉がなかったから、信じてもらえないのならそれで二人は終わりだった。はもう、おろおろと涙声で話すのはやめにして、睨みつけていると思われても構わないという強さで、その底意地の悪さの決壊をもくろむように天童を見つめ続けた。何が伝わるのかは分からないが、何かが伝わればいいと思った。自分のなかの何かが、彼のなかに移しかえられればいいと。は幼いころに見たテレビ番組の、嘘みたいなほんとうの話を今、どうしてだか思いだしていた。
 人間の細胞は日々生まれ変わっている。昨日の自分と、今日の自分は、まるで違うものでつくられている。昨日のわたしをつくっていた細胞が、今日のあなたをつくっているかもしれない。昨日のわたしは、今日のあなた。そんなことを、魔法の箱がぺちゃくちゃ喋っていた。だけどわたしは、彼は、平和でちっちゃな細胞の世界で生きているわけではないのだから、そんな嘘みたいな話より、今この場で、わたしの言葉が、視線が、彼の心、記憶や思い出に刻まれるほうが、そんな当たり前の可能性を考えるほうが、ずっとずっと、ロマンチックだ。ここにあって、細胞にないもの。心ってどうやって、つくられるのだろう?

 やがて、根負けしたのは天童のほうだった。視線を逸らして、汗をかいたコップをコースターに置く。小さくでもなく、大きくでもなく、中くらいの息を吐いて、彼はお留守になっていたの手の甲に自分の手を被せるように重ねて、口をひらいた。彼の手は冷たくて、少し濡れていた。

「俺けっこうメンドーなやつだよ?」
「……自分で、言うの」
「あとから幻滅されたらヤじゃん。……俺そんな優しくないし、ほんとは」

 ここまでくるとなんだかかわいらしいような気がして、はふっと息を吹きだして笑ってしまった。優しくないのならなおさら、あなたがあなたではないように接してくれたわずかな日々が、その角砂糖のような脆い特別が、ためらいもなく嬉しいと、は思う。自分の手をすっかり飲みこんでいる天童の手をは振り払い、の手では彼の手を覆いつくすことはできないけれど、今度は両手で天童の右手を包みこんだ。手と手を合わせると、天童の手のひらはかたくて、豆がつぶれていて、兵どもの夢の跡が、くっきりとそこに写しとられているような気がした。
 ここは夏草の原っぱではなくて、涼しい、水の底のような、二人の密室だったけれど。

「幻滅なんかしない。だから、優しくない天童くんも、ぜんぶ見せて」

 細胞分裂なんかより、ずっと大事な、ずっと美しい、目に見えることをたくさんしよう。
 心がないとできないことが、わたしたちには飽きるほど思い浮かぶだろうから。



 客間の掛け時計の、うるさい針の音が消えている。は、あちこち皮膚呼吸をくりかえしているうちに、とうとう自分の聴覚器官がおかしくなってしまったのだと思ったけれど、そんなに簡単に人は人の機能を失うはずがなくて、ただもっと大きな音が時計の音を浸食してしまっただけのことだった。障子の向こう、紗がかかったような、深夜の砂嵐のような、きっとこれは、雨の音だ。
 二人はすっかり水浸しで、どこからともなく熱を奪おうとしてくる不気味な水からどうにかして互いを守ろうと、骨のかたちが分かるくらいにきつく熱を擦りあわせた。とはいっても、肌と肌の、危ないくらいの発熱作用を二人はまだうまく扱えない。二人には知らないことが山ほどあったから、そこに辿りつくまでには、まだたくさんの箱という箱を手当たり次第にひらいてみる必要があるのだった。

「天童、くん……、家族いる、から」

 ひりひりする咥内をなんとか扱って、は正しい発音で彼を呼んだ。スウェットのワンピースの裾がみじめなことになっている。そのみじめさが今の二人には誇らしいにしても。天童は思いのほか冷静にの汗ばんだ髪に口づけた。ここが浅瀬の際だった。あとは深く、潜るだけの。最後のまともな息継ぎが、荒い呼吸が、雨の音をも巻きこんでいく。

「うん。でもごめん、もう少しだけ。優しくなくていいんでしょ?」

 余裕を見失った天童がとてもきれいな目をして、優しさの浮き輪を脱ぎ捨てる。そして彼らは潜っていく。どこまでも、互いをけっしてほどけない錘にして。
 二人は同じ水に溺れているのだ。









THE END

2016.7