※ 原作176話の会話を踏まえて




 午前七時のコンビニエンスストアであの子と目が合った。
 どきっとして、正直な心臓にならってわたしは、その力強い大きな瞳に吸い寄せられていく。ペットボトルのお茶はおあずけにして、短い道中ほんの少しの寄り道。雑誌コーナーのラックの前で立ち止まり、目当ての一冊に手を伸ばす。近ごろとみに、見かけるあの子。週刊テレビ情報誌というやつだろうか、いつもなら特に縁のある雑誌ではなかったけれど、今は別だった。表紙の彼女にも、見出しの文字にも、胸が踊る。それは起伏のない日々に六等星の喜びをともす、ささやかな月曜日の魔法。

(やっぱり玲子ちゃん、黒髪も似合っててかわいいなあ……)

「あ、かわいいよね、その子」

 通りから差しこむ朝の光と向き合うように、背後に慣れない気配が立ち止まる。あまりにもタイミングのいい噛みあった一言に、自分の心の声が知らぬ間に洩れてしまっていたのかと思うほどだった。やめてほしい、そんな自然に。自分では見えない背中の自由を、自分の知りえない自分を、奪われているようで気が気じゃないから。振り返るというよりも、背を隠すようなやりかたで、うんと視線の角度を変えて声の主を見上げた。早起きは三文の得と言うけれど、早起きはどうやら三文以上の得と三文以上の動揺をもたらしてくれるものらしい。
 天童くんだ。

「おはっ、おはよう」
「はよー。ゴメン、その下のやつとりたいんだけど」
「あっ、ごめん! 邪魔だよね、」
さん早くない? 今日」

 手にしていたテレビ誌を持ったまま、一歩横にずれるようにして週刊誌が並ぶラックの一角を空ける。天童くんは大きな身をかがめて平積みのぶ厚い週刊少年誌を一冊手に取りながら、「いっつも本鈴ぎりぎりじゃん」と軽い口ぶりをわたしに向けた。本鈴じゃないよ、いちおう予鈴だよ。そんなくだらない誤差を訂正するなんてできないから、その場は愛想笑いで頷くしかない。朝はあんまり強くない。だけど普段の目覚ましのアラーム、やっぱりあと十分早めよう……。

「これから球技大会の朝練なの」
「なんだっけ」
「……お恥ずかしながらバレーです」
「お恥ずかしながら」

 あんまり耳なじみのない響きがおかしかったのか、天童くんがわたしの言葉を繰り返して小さく笑った。笑ってくれた。朝一番の天童くんは、いつもと少し印象が違う。教室にいるときよりもやわらかな雰囲気を纏っているのは、まだ整いきっていない髪の毛のせいかもしれない。それからちょっとだらしのないネクタイの結び方も、眠気のほんのり漂う目もとも。横顔を盗み見ていると、ぐるっと天童くんの目が予期せぬスピードで動いた。雑誌をラックに戻すついでに、視線をはずす。はずしたように見えてないと、いい。

「天童くんは、サッカーだったよね」
「あー、うん。インハイ前に手つかう球技はこわいからね~」

 ほら、突き指とかしたらビンタされちゃうでしょ、と、頷こうにも部外者にはなかなか頷けない際どいことを、手ぶりをまじえて天童くんはひょうひょうと言ってのける。白鳥沢は運動系の部活動ならなんでも強かったけれど、やっぱり花形は男子バレーボール部だ。毎日の練習も試合も忙しそうで、土曜日の授業にはそもそも出てない。となりの席が空っぽになるあの半日はとてもさみしい。それもきっと、いや間違いなく、近ごろのわたしが、月曜日を待ち遠しく感じてしまうワケのひとつなんだろう。
 天童、と彼を呼ぶ声が通路の奥から飛んできて、天童くんは「今行くー」と振り向きざまに応えた。向き直った天童くんと、もういちど視線が掠める。留まるためのまなざしではなく、別れ際の合図としての。

「じゃーねさん、お互い朝バレーがんばろ」

 週刊少年誌を抱えているほうの腕をちょっとあげて、けだるげな声でそう言うと、天童くんはすーっとレジのほうへと歩いていった。よく見ると彼の手にはもうひとつ商品が握られていた。スティック状のケースに入った、食べきりサイズのチョコレート菓子。
 不自然にならないていどにその背中を見送って、わたしも雑誌コーナーから立ち去ろうとしたとき、あの子の眩しい笑顔とふとまた目が合った。彼が声をかけてくれた、第一声のことを思いだす。かわいいよね、その子。かわいい。かわいい……。こういう女の子を、彼はかわいいと思うのだ。その予期せぬ発見が、みずみずしい事実が、なんとも言えない弾力で小さな胸のうちを跳ねていた。
 ――かわいいあの子は、天童くんがかわいいと思う、女の子。



 三年二組の教室のなかで、天童くんはいちばん背の高い男の子だ。バレーボール部に所属していて、二年生のころからずっと、公式戦にも出ずっぱりらしい。きっとあの背の高さを活かしているんだろう。クラスで一緒に過ごしているのは、同じバレー部のひとがほとんど。女子のほうのバレー部の女の子ともたまに話していて、その光景を見るのは少し、苦しい。仲の良い友達にも言わないこと。今はまだ、ひみつを育てていたいから。
 わたしと、天童くんは。
 二年生のころから同じクラスで、このあいだの中間テスト後の席替えで、初めてとなりの席になった。なんだか大人っぽい男の子だな、とぼんやり思っていただけのクラスメイトが、あれから毎日少しずつ色をつけていく。彼のことを知る。すごくささいなこと。だけど色たちは混ざれば混ざるほど、見たことのない鮮やかさへ、わたしを連れ去っていく。

 天童くんの得意な教科、きっと退屈なんだろうなという教科。先生に当てられる直前までこっそり舟をこいでいたのに、数学の証明問題を黒板の前でぱぱっと片づけてしまったのには惚れ惚れとした。
 週刊少年誌の読み方。気になるものから順番に、ページをめくる速度のはやさといったら。あっという間に読み終えてしまう。何人かの友達と回し読みしているらしく、一日のあいだに一冊の雑誌がぐるぐる教室の内外を行ったり来たりしている。
 チョコレートのお菓子をよくかばんのなかに潜ませていること。甘いものが好きみたい。けどたまに同じバレー部のひとに怒られている。腹に溜まるもん食えなくなんぞ、と。そういえば天童くんは、背が高いぶんだけ線の細さも目立っている。
 毎朝バレーの練習があるのに、汗のにおいが全然しないこと。かわりに制汗剤のシトラスのにおいがする。こんな暑い日が続く季節でも、じめっとした梅雨どきも、天童くんはいつも涼しげだった。少しよれた制服の襟だけが、毎朝の彼の努力を垣間見せている。

 一日のはじまりのおはよう。一日の終わりのじゃあね。となりの席に座っていたら、そんなたわいない挨拶が自然にできる。それだけでも嬉しいことなのに、彼はたびたびそれ以上の会話をわたしに許してくれた。勇気をだして話しかけてみれば、彼はいつも意外なほど気さくに応えてくれる。がんばっているうち、天童くんからもちょっとずつ、会話を切りだしてくれるようになった。だけどときどき、彼がわたしに話しかけてくれるのは、わたしが天童くんと話をしたいと思っていることが、彼自身に見透かされているからなのかなと思うことがある。天童くんの視線はわたしを見ていない。なんでもない言葉をはしごのように垂らして、わたしの奥を覗いている。そう、感じることがある。

 都合のいい勘違いをして、恋の種のようなやわらかいものを、恋になる前に枯らしてダメにしてしまう。そういうつまらない記憶ぐらいならわたしにも覚えがあったから、あんまり、気にしたくはなかったけれど。



 学期末の球技大会が近かった。三年二組にはこういう行事ごとにはりきる子が多いみたいで、朝のホームルームの前とか、昼休みとか、本番まで毎日何かしらの練習予定が組まれていた。いくら自主参加とはいっても、足手まといが全てまるまる休むというわけにもいかない。なんとなく参加して、なんとなく汗を流す。わたしのバレーの腕はなかなか上達しなかった。レシーブしたボールがようやくコート上の誰かの頭上へあがるようになったけど、いまだにサーブはいちかばちかで、二回に一回はネットにかかってしまう。
 練習を切り上げてチャイムが鳴る前に急いで教室に戻ると、自分の机の上に赤いショップバッグの包みが置いてあった。なかには数冊のコミックスと一枚の付箋、いちごみるくの飴がひとつ。付箋には「続きよろしく」とハートマークつきの一言が添えられている。

「その漫画、さんの?」

 袋のなかからコミックスを一冊とりだして、付箋を剥がしていたとき、となりの席でもくもくと一限の英語の課題(と思われる何か)を片づけていた天童くんがふいに顔を上げた。わたしは慌てて、こくこくと頷く。朝の練習が明けて、天童くんの髪はばっちりいつも通りに決まってた。きっとバレーをしていて邪魔にならないよう、練習前に髪の毛を固めているんだろう。

「うん。一組の友達に貸してて、返ってきたみたい」
「ちょっと見ていい?」

 予想外の声がかかって、反射でまたこくこくと頷きながらも、急激に指先やら表情筋やらが緊張していくのが分かった。わたしの手から、天童くんの大きな手のなかへ。彼が物語の続きを待ち望むようなファンタジックな冒険譚とはほど遠い、日常のありふれた学校生活を紡ぐ少女漫画。天童くんは物珍しそうにページをめくり、淡いタッチで描かれたキャラクターたちを眼球に写しとるようにしげしげと眺めた。少女漫画も、好きなのかな。そうは見えないけど、自分の好きなものにたとえ気まぐれでも触れようと思ってくれたことが、嬉しかった。

「これ、今ね、ドラマになってるんだけど……あっ、この子の役、玲子ちゃんがやってて」

 コミックスの三巻の表紙を天童くんに見せながら、なんとか気が引けないものかと、自然とあの子の名前を口にしていた。薄いピンク色の表紙には、黒髪の女の子が、とびきりの笑顔をしてひとり佇んでいる。物語のヒロインではない。だけど、わたしは彼女の恋に憧れる。まっすぐで、ひたむきで、だけどひとさじの、生々しいずるさがあって。そのすべてが、たったひとつの感情を根にして、たったひとりのひとが与えてくれる水に生かされていることが、伝わってくるから。

「あー、分かる」
「でしょ? 性格もぴったりなの、元気で一途で、なんでもはっきり言うところとか、ほんと憧れちゃうし……」

 好きなものについて話しはじめると、緊張がふっとび、言葉は簡単に口をつく。だけどそれで調子づいていると、会話をしていたはずが、知らぬ間に相手を置いてけぼりにしてしまうものだ。天童くんの相槌がないことに気がついて、はっと口をつぐむ。視線をさまよわすと、どーぞお構いなく、とでも言うような顔で彼が薄く笑っていたから、その表情にもっと焦りをかきたてられた。

「ごめんね。興味ないよね……」
「ちゃんと冷やしたほうがいいよ」
「え?」
「内出血。しょうがないけどねー、素人さんは」

 天童くんがコミックスの一巻を閉じて、包みの上にぽんと返す。彼の言葉の矛先にあったのは、わたしの手首にひろがる赤く腫れあがったあざのことだった。別にさほど痛いわけでもないんだけれど、朝の練習でレシーブを繰り返していたら、あっという間にこのざまだ。半袖の夏服では隠すこともかなわない。へたくその証明でしかないその腕のこと、すっかり忘れて天童くんの前にわたしはそれを晒していたのだ。
 醜さを指摘されたことが恥ずかしくて、腕をひっこめようとしたときだった。
 引こうとした腕を、逆に引き寄せられる。天童くんの左手がわたしの右の手首をつかまえる。そんなに遠慮も、優しさもないちからで。それはささいな冗談のようなものだった。天童くんはもう片方の手で机の上のポカリスエットのペットボトルを、つかまえたわたしの手首に、手首を覆うむざんなあざに押しつけた。まるで氷嚢でもあてがうように。ひんやりと、冷たい。天童くんのいたずらっぽい眼が、わたしを覗きこんで、ゆっくりとまたたく。

さん細すぎ、腕」

 頭が、もう、使いものにならないくらいに、煮えて、のぼせて。
 何も言えなかった。何も言えないうちに、朝のホームルームの始まりを告げる本鈴のチャイムが鳴って、ぱっと天童くんの手のひらは何事もなかったかのようにわたしから離れていった。肌に触れていた冷たさなんて、てんでお話にならない。肌にまとわりついた熱のほうが、よっぽど濃く、痕になって皮膚に残っているから。
 大切な感情の足もとに、また彼がはしごを垂らしたのだ。わたしの内側のどこに何があるのか、そこに何があるのか、なんの見当もつかないひとに、こんな適確な芸当ができるものだろうか。考えれば考えるほど身体じゅうが熱を持つ。彼がとなりに座っている、わたしの左半身は、しばらく使いものになりそうもなかった。



 その日の夜、わたしは天童くんの言いつけ通りに腕を冷やしながら、あのドラマを観ていた。
 大好きな原作漫画。一週間、楽しみにしていた放送。それなのに、ほとんど頭に内容が入ってこなくって、一時間がとても長く感じられた。保冷剤を放りだし、クッションを腕に抱えてソファにまるくなって横たわる。ストーリーは抜け落ちて、わたしの目には憧れのあの子だけが、生き生きと映っていた。かわいいあの子。黒い髪が、夏の風にはずむ。まるでこの日のドラマはわたしにとって、彼女のプロモーションビデオだった。

 バレーの練習がない翌朝、今までより十分だけ早く設定した目覚まし時計に起こされるよりも先に、わたしはぜんまいが切れたようにぴたりと目を覚ました。醒めない興奮に急かされながら、制服に着替え、洗面台の前に立つ。ちょうど今のわたしの髪は、長さと色だけ見れば、あの子のそれと同じようなもので。昨日の抜け殻みたいなドラマのことを思い出しながら、念入りにブラシをいれて、念入りにドライヤーをかけた。いつもなら味気ない茶色のゴムでしばってしまう髪の毛を、風になびくあの子の髪のように、自然におろしておくために。
 まとめていない髪の毛をまとめておくのに手間取ってしまい、早起きもむなしく、いつもと変わらない時間にわたしは家を飛び出た。髪型を変えるだけで、学校の門をくぐり、三年二組の教室が近づくにつれ、心臓がばくばくと音を立てて仕方なかった。ホームルーム前の教室は思い思いに騒がしい。後ろのドアから入ってみると、まだ天童くんの席は空っぽだった。

「おはよ、

 自分の教室だというのにこそこそとドア付近に立ち止まっていたわたしを追いこすように、なんでもない朝の挨拶が降り注ぐ。サッカー部の男の子が、汗だくで、バスケットボールを手に持って入ってきたところだった。あんた暑苦しいよー、と廊下側の席の女の子たちが、きゃっきゃと騒ぐ。誰にでも分け隔てなく明るくて、人気者で、つまりはそういう、男の子。

「あ、おはようー」
「どした今日、髪の毛かわいいじゃん」
「ほんと? ありがと」

 きらっと笑って、彼は囃したてていた女の子たちをあやすようにかきわけ、自分の席についた。お世辞でも、調子のいい適当でも、やっぱりその一言にははなはだ大きなちからがあって。頬が少し熱くなる。嬉しいし、なんだかほっとする。手の甲を頬にあてがい、わたしも席につこうと、ようやく足を踏み出した。そのとき、踏み出した足もとに、影が差したのだ。わたしを覆う、大きな、大きな影。制汗剤のにおいが、鼻先を掠める。

 肩を跳ね上げて、振り返る。そこに、天童くんがいた。

「お、おはよう天童くん」
「おはよ」

 今日も朝練終わりの天童くんが教室に着いて、それだけ言ってわたしの横を通り過ぎていく。ほっとしたのも束の間のことで、わたしの心臓はまたしてもうるさく、どうしようもなく喚きだした。彼を追うようにしてわたしも慌てて彼のとなりの席に腰をおろしたけれど、ちらっと投げかけた視線は伏し目に隔たれて届くことはなかった。こんなの、別に、いつも通りだけれど。いつも通り、なんだけど。
 ――わたし、いつもと少し、違うの。
 そんなこと自分から、言いだせないし。自分が自分じゃないみたいで鏡の前ではしゃいでいたけど、他人からしてみれば髪型がちょっと変わっただけ。別に顔が取って代わったわけじゃない。そう考えたら急に、あの子の魔法が解けてしまったみたいで、いつもと違う髪型をして浮かれている自分が、ばからしいようなむなしいような気がしてならなかった。

 机の下で、手首につけていた茶色のゴムを、爪先で何度かはじく。行ったり、来たり、その仕草にためらいを込めるようにして。ちゃんと冷やしていたはずなのに帰宅してからでは遅かったのか、手首には青黒く色を変えた斑点のようなあざがまだかすかに残っていた。痛くはないけど、どうしようもなく、醜い。
 けっきょく、早起きして丁寧におろした髪は、四時間目の移動教室の前にトイレに駆けこんで、いつも通りひとつに結んでしまった。



「はいじゃあ、チャイム鳴ったから。各自片づけ、教室帰る前にプリント提出忘れずになー」

 先生が手を叩くのを合図に、静かな図書室の一角が羽根をひろげるようににわかにざわつく。火曜日の四限は週に一度の図書室授業だった。二年生までは調べ学習の課題があって、数人でグループワークをすることもあったけれど、三年生の今はほとんど自習時間のようなものだ。みんなが受験勉強にいそしむなか、わたしは図書室から数冊の本をみつくろって流し読みしていた。退屈な五十分。なんとなく何もやる気が起きなくて、本から顔を上げては、窓ガラスに映る自分の顔とにらめっこばかりしてその時間をやり過ごした。
 先に行ってて、と友達にことわり、プリントを提出してから本をまとめ、ひとり通路にひっこむ。一冊、また一冊、内容も把握しないままもとあった場所に本を戻していく。最後の一冊は、少し背伸びが必要だった。むりして手にとったので、返すときも多少のむりがいる。くっと背を伸ばしたとき、後ろによろめきそうになり、半歩ほど引いた身体が誰かにぶつかった。ごめんなさい、と言う前に、背後を見遣ると同時に、本を右手から奪われてしまう。涼しい図書室で、真冬のような鳥肌が、わたしを一瞬で支配した。

「俺、届くよ。返したげる」

 天童くんは少しも背伸びすることなく、本と本の隙間にわたしの借りていた本をたやすく差しこんだ。びっくりして身を引こうにも、本棚と天童くんに挟まれていては、どうやって動こうとも脱出するのは難しい。あっさり本を返してしまった天童くんの腕が、するすると棚伝いに降りて、わたしの頭のあたりで肘をついている。ありがとう、って言わなくちゃいけないのに、言いたいのに、声が出ない。

さん、髪結んじゃったの?」

 まじまじと高みから首をかしげ、天童くんの声がつむじにかかる。やっぱり、気づいてくれていたんだ。よかった。それに、やっと話をしてくれた。今日は朝の「おはよう」以外で、言葉をかわすタイミングがなかったから。もうそれだけで、充分な気がした。「かわいい」なんて、そんな大それた一言を、身の丈を超えて望まなくったって。

「うん。やっぱり、邪魔で」
「そ?」
「このあとバレーの練習もあるし……」
「せっかく、褒めてもらってたのに。喜んでたじゃん」

 どこか素っ気ない彼の声が耳に沈んで、無垢な高鳴りを呼び起されるように顔を上げる。ぞろぞろと図書室をあとにするクラスメイトたちの声が、階下へと遠ざかっていくのが分かる。狭い通路で、また少し、天童くんとの距離が詰まった気がした。

「あの、天童くん……」
「そうだ昨日、あれちょっと見れたよ。言ってたドラマ……なんてったっけ。寮の食堂のテレビでやってたから」

 天童くんの独特の会話のリズムに追いつけずに、わたしは立ち止まったまま右往左往して、頷くことも自由にできない。こんなに近くで、こんなにじかに、天童くんの声がする。彼の声が空気を震わせているのがこの目に見えるようだ。ちょっとでも動いたら天童くんに触れてしまいそうで、呼吸するたびかすかに上下する肩にさえ、今のわたしは無意識ではいられなかった。

「なんか似てたな、あの子の髪。今日のさんと」

 気づいてほしいと思っていたのに、実際にそうやってとぼけた言い方をされると、恥ずかしくてたまらなかった。現実は少し、いやいつも大幅に、頭のなかの都合のいい世界とは離れている。知っていたくせに。分かっていたくせに。彼のおそろしいほどの勘の鋭さ。わたしだって、いつまでもとぼけているわけにはいかない。勘違いするのはこわいけれど、自分に嘘をつきとおすほうが、きっともっとこわいことだ。

「そ、うなの。真似してみた……身の程知らずだけど」

 奥まった通路とはいえ、昼休みに入った図書室に、いつ誰が通りすがるかも分からない。他人から眺めたら、今の二人の距離はどう映ってしまうだろう。ただ会話するだけなら、こうはなりえない、ただならぬ近さで息をしている。苦しい。やっとの思いで、わたしは、からからの喉を動かした。

「……天童くんが、かわいいって言ってた、から」

 それこそ身の程知らずもほどがある、というような言い分だった。天童くんがかわいいと言ったのは、髪型のことじゃない。あの子のことを、かわいいと言ったのに。分かっている。分かっていて、こんな物分かりの悪い駄々をこねてしまっているのだ。わたしの内側に勇気があって、その道を選びとったというよりも、この道しかない場所に、思いがけず追いこまれた気分だった。何ものでもない関係のなかで、少女漫画のような夢を見ている。たとえ百人にかわいいと言われても、夢を叶えてくれるのは、ひとりだけだ。

さん、さ」

 背の高い彼からわたしのもとに降りてきたのは、低い声だけではなかった。本棚に肘をついていた彼の右腕が動いて、反射的に目を伏せる。ふたたび瞼をひらいたとき、耳たぶの裏にくすぐったい指の感覚が駆けた。あ、と思う。思うだけでなく、声に出してしまったかもしれない。だってそのまま彼の指が、手が、わたしの首をすり抜けていったから。
 えりあしでゆるく髪をくくっていた茶色のゴムに、天童くんの指がかかる。なんの飾りもない、留め具の端で中のゴムが切れかかっているぼろぼろのヘアゴムは、ちょっと引っ張ればするりと簡単にすべり落ちてしまった。束ねていた髪がほどければ、天童くんの口もとも満足げにゆるむ。わたしは、わたしで、泣いてしまいそうだったのに。

「俺に見せたいなら、俺の前でだけそうしてて」

 そして彼は、昨日と同じように、もう片方の甘い手でわたしの右の手首を締めあげる。つかまえた。鬼の手が、惑う子どもを笑顔で拘束するみたいに。治りかけの青いあざを、下手なバレーを言われるがままにこなした代償を、天童くんの親指のはらがつぶさに撫でている。手首の内側の、浮きあがった動脈の上。まるで命を、握られているよう。
 その日、昼休みのバレーの練習に、わたしは見事に遅刻してしまった。
 休んじゃえばいいのにまじめだね。天童くんは呆れたように笑いながら、どこか夢うつつのわたしのかわりに、その器用な指でもとどおり髪を結びなおしてくれた。
 いけないことをするってどきどきする。誰かとひみつを分け合うって、痛みが走るほど、気持ちがいい。まじめなわけじゃなくて、耐えきれなかっただけ。少しずつじゃないと、だめになっちゃいそうだから。わたしと、天童くん。今はたった五分間の、時限つきラブストーリー。









THE END

2016.8