※ 短編から派生した1話完結シリーズ




 宮くんは優しくって、少しこわい。
 吐いても吐いても温もりが剥がれていくだけの、浅い呼吸をくりかえす。ガラスのような、鉄の鋏のような指先。青白い爪の先。それを盗んで、彼は険しかった表情をさらにかたく結んでしまった。宮くんの乾いた手のなかには、わたしの内側からはとうてい捻りだせないくびきのような火種がさかっている。奪われてゆくものは、一分一秒、はかりしれず。喧騒の端っこを選んだはずが、ここはどう足掻いてもわたしの世界の中心だった。

「からだ、辛いんやろ。無理すなって」

 怒っていても、呆れていても、宮くんの声には角がない。とっかかりがない。まるくて、つぎはぎがなくて、嘘のように耳をすべる。彼の発した一音一音が、あっという間に体内を下降して、また昨日と同じようにあちこちにあてがわれていった。おまけに、まるで反応してしまったみたいなはしたないタイミングで、お腹の底がとろりと熱をこぼしたので、不安を押しこめていた眼にも情けない水が滲みそうになる。自分が、自分だけでは完成していないような、不安定な感覚。脚のあいだ。知ってしまった、まがまがしい恋しさ。
 校庭で砂嵐が渦を巻く、風の強い日だった。宮くんのつややかな前髪と、わたしのポニーテールの後れ毛が、一緒に揺れる。慣れないこそばゆい髪の毛。クラスカラーの派手なスニーカーソックスの色。例年通り体育祭の空気にあれこれ呑まれながら、心だけは彼のもとに置きっぱなしだった。昨日からずっと。今日、また、こんな人気のない水飲み場で思いがけず顔を合わせているけれど、まだまだ、彼はわたしにわたしを返してくれる気はないようで。そんなだから、高校生活最後の体育祭なんていう感傷、一ミリも浸ることなく、早くも一日の半分が湯気のようなはかなさで消えた。

「保健室、行きましょー。ね?」
「……いや」
「ちょっと横になるだけやって。別になんも聞かれへんよ」
「大丈夫やもん」
「もん、ってー。小学生の駄々やぁ」

 座りこんで折り曲げている生脚が、木枯らしにざあっと吹かれて冷えていく。みんなそうしているからと合わせるように膝下で丈を切り落としたジャージは、この季節になるともう剥きだしの脛が寒々しい。宮くんの声はいつも通り穏やかでも、慣れない意地を張っているわたしには手厳しかった。笑っているようで、薄皮の下は笑ってない。背中をまるめてうずくまっていたわたしに影を落として中腰になっていた宮くんが、隙間なく圧をかけて握りこんでいた数本の指を離し、かわりにわたしの二の腕を噛むようにつかんだ。痛くはないけど、拘束力は充分だ。

「立ってください、先輩。立たへんのやったら、俺が担いでいきます」

 彼の男の子にしては神経質で繊細でよく気のつくところと、声音や視線だけで他人をかきまわせる稀有な才能。生活の大半を占める男子バレーボール部のなかでも彼はこのふたつを見事につかいわけているようで、つわもの揃いのチームメイトたちを右へ左へ軽やかに扱う。物腰はやわらかいのに、彼は芯のところでとても気の強い性格。宮くんはちょっとした有名人だし、人当たりもいいから、女友だちはみんな彼のことを「宮くんは優しそうでええね」だとか「年下だけど頼れる感じ」だとか、一様に口を揃えて褒めそやすけれど(こういう内面に対する無責任な評価には、当然のことながら外見のアドバンテージがかなり効いている)、彼のふるう優しさは無添加のまじりけのない甘やかしというわけにはいかない。放っておいてくれたらいいのに、目ざとくわたしを追ってきて、なんというか、束縛しいなのだ。自分がそういう立場にあると思っている。もちろん、わたしの得体の知れない体調の混乱には、今日に限っては彼が深くかかわっているのだけれど。



 宮くんと付き合うようになって三ヵ月。出会ってからは一年半。彼の、入学式の日だった。稲荷崎の入学式では毎年、新入生ひとりひとりに二年生が胸の花飾りをつけてあげるしきたりになっていて、わたしは十数人で務めるその係に割り当てられていたのだ。「つけてあげる」といっても、そんなのかたちだけで、実際はただ手当たり次第にリボンを配っていく流れ作業のようなもの。入学式の控室がわりになっている小講堂を歩き回って、腕に提げたかごから白い花を摘んでは、撒いていく。ようやく半分ほど渡し終えたとき、狭い通路ですれ違いざまに同じ係の女の子がわたしの肩を叩いた。声をひそめ、遠慮げに人差し指を伸ばして。

「見て、あの子たち双子ちゃう? そっくり」

 彼女のきれいな爪が指し示す先には、講堂の窓際に溜まっている五六人の男の子たちが居た。入学前から既に知り合いだった仲間か、はたまたあっという間に意気投合したのか、緊張ぎみに長椅子に座っている子たちとはだいぶ違う、親しげな雰囲気で彼らはにぎやかに談笑しているのだった。その中心にいたのが宮くんだ。同じ髪型の小さな顔がふたつ、周りの男の子たちの背並みから飛びぬけて際立っていた。ひとりは柔和に歯を見せて笑い、もうひとりは眠たそうな目で窓の外を眺めている。違う表情を宿していても、確かに彼らはとても他人同士には見えなかった。かといって、「そっくり」だとは、わたしにはそうも映らなかったけれど。

「ほんまやね。背ぇ高い……」
「顔もいけてる。わたし、リボン渡しに行ってこよっと。さん、この列よろしくなあ」

 彼女は調子よくぽんとわたしの肩を撫でると、狭い通路を器用に抜けていった。話はそれきりだった。わたしもすぐ、彼女の背中と彼らの輪から目を離してしまった。だから、おおかた仕事が片づいて壁際をうろうろ巡回していたとき、初めて宮くんに声をかけられ、ふたつの意味でほんとうにびっくりしたのだ。一瞬でも見つめてしまっていた男の子に向こうから話しかけられたことも、彼が、彼だけが、まだ花飾りを胸につけていなかったことも。

「先輩、俺にもリボンください」

 窓ガラスに背をくっつけたまま、彼は通りすがりのわたしの、ほとんどからっぽになっていた花かごを軽く指さした。誰にもぶつからないようにそろそろと歩いていた足が止まる。止められる。宮くんが品よく口角を上げているそのとなりで、もうひとりの宮くん(わたしは未だに彼をどう呼んだらいいか困ってしまう)が小さく溜め息をついて俯いたのを、今も鮮やかに思いだせる。だって、近くで見れば見るほど、彼らの機微は全然似ていなくて。

「……あ、れ、もう貰ったはずじゃ……」
「いや?」

 そう言って、彼はブレザーの胸もとを指先でちょっとつまんだ。まだ白い花の咲いていない、まっさらな左胸をアピールするように。ふしぎに思いながらも、わたしは言われたとおりにかごの底からリボンをひとつすくって彼に差しだした。「つけてあげる」なんて、かたちだけだから。それなのに、宮くんはその暗黙の「お約束」を分かってはくれなかった。彼はリボンを目の前に差しだしたわたしを見下ろして、ただにっこり笑うだけだったのだ。不安になって背の高い彼を見上げる。わたしたち、初めてまともに目と目を合わせたのは、きっとこのとき。

「屈みます? 先輩、背ちっさいし」
「えっ、あ、じゃあ……」

 揺らぎない瞳から目を離せず、屈んだ彼に流されるまま、わたしは張りのあるブレザーにおそるおそる指先を触れた。真っ白なサテンがつくる花びらが歪まないよう、安全ピンの針を胸ポケットの生地にふわりくぐらす。目を伏せて知らんふりしているとなりの彼とは対照的に、取り巻きのほか数人の男の子たちは幾度も意味ありげな視線や含み笑いを投げてきたので、少し気分が悪かった。
 あとから聞いたところによると、この奇妙なファースト・コンタクトは宮くんの仕組んだことだったらしい。薄々そうは思っていても、本人の口から聞くと妙な感心さえしてしまう。「俺ね、先輩から花貰うって決めとったんです。花配ってる先輩らのなかで、いちばんタイプの子につけてもらおー、って」――さて、女友だち諸君、こんなことをけろっと言ってのける男の子は、優しくて頼りがいのある好青年ではなく、むしろ女の子の厄介な敵ではないだろうか?

「入学おめでとう。えっと……みや、くん」
「うん。みや、みやあつむ」

 なんとか真っすぐリボンをつけ終わって、なにげなく彼のブレザーの胸もとの刺繍にある苗字を声でなぞったとき、彼は自分のフルネームを堂々と口にしてみせた。自分の名前を他人に伝えるのは誰でも少しこそばゆいものだと思うけれど、そんなためらいはまったく垣間見せずに。かすかに首を傾げると、宮くんがとなりの宮くんの肩を勢いよく、強引に腕で引き寄せたので驚いた。呆気にとられ、小さく唇がひらく。そしてわたしは、彼がどうして自分の下の名前を言い慣れているのか、なんとなく理解した。

「あ、ちなみにこっちはおさむな。みやおさむ」
「ちょお、ええて俺は」
「あほ。お前かて“みやくん”やろ。挨拶せえ」
「……よう言うわ」

 我れ関せずを貫いていた宮くんが心底迷惑そうに、いきなり会話に引きずりこんできた宮くんの腕を振り払う。「あつむ」と「おさむ」という名前、一体どういう字を書くのだろう。思考がやや逸れて、ほんのちょっと目の前の彼に許した気の緩み。迫力のある彫りの深い二重が、不気味にお行儀よく細められる。

「先輩は? 教えてください名前」

 宮くんは根気強いひとだと思う。あれが軽い気持ちのナンパみたいなものだったとして、ふつうならあれからいくらでも、わたしという異性に興味を失うタイミングはあったはずなのだ。それぐらい、わたしの子どもじみた意固地な態度といったらひどくて、たぶん彼はわたしがするりするりと煮え切らない態度をとっているうちにも、二三の女の子に手をつけていたはずだと思うけれど(本人にはこわくて聞けるはずもない)、それにしても彼はけっきょく一年以上かけてわたしを絆してしまったのだから、おそるべき一途さだと感服する。わたしだったら、そんなどっちつかずの片思い、耐えきれるだろうか。少しでも自分を疎まれたら。宮くんに、要らないってされたら? わたしの反応が鈍かったのは、結局のところ、この恐怖のせいなのだ。



 唯一の出番だった障害物競走を終えて、目下進行中の体育祭をよそに、わたしと宮くんは静かな校舎の下駄箱を通り抜けた。運動神経の良い、人気者の彼ならば、たぶん午後も出番がいくつかある。午前中だって花形の騎馬戦と、徒競走と、ふたつ出ていた。たぶんわたしを保健室に送り届けたら、すぐに戻ってしまうんだろう。階段を過ぎたところで、宮くんが斜め後ろのわたしをかえりみる。足の遅いわたしを待ってくれている、と思ったら、彼の右手はわたしの左手を待っていたみたいだ。

「……そーいや、言い忘れとったけど」

 腕を引かれるようにしてふたたび歩きだしたとき、彼にしてはめずらしい言い澱みを含んだ声がぽっと浮かんだ。なあに、と応じる。彼がちょっと振り返って、空いていた左手で耳をさわった。

「俺も、初めてでしたよ。昨日」
「へ、……嘘や。手際よすぎて凹んだのに」

 なんやそれ、と宮くんが吹きだして笑う。照れ隠しの笑い声だ。わたしは、考えもなしに失礼なことを言ってしまった気がして、でもどうやって取り繕えばいいか分からなくて、そのまま口ごもった。昨日のこと。昨日の宮くん。彼の部屋のなか、何もかもわたしのものではなく、彼のものだった。そして次第に、わたし自身も、彼の手のゆきとどく場所まで引き寄せられて、わたしじゃなくなったのだ。押し黙ったわたしを斜め背後に感じとり、ごまかし笑いの裾野で宮くんがすっと切ない横顔をした。さまになる。さみしさがさまになる男の子って、いい。

「いや、ほんとに。せやから……たぶん無理させたし、ごめんなさい。あんまり、分かってへんかった。知識としてはあったんやけど、」

 彼のアーモンド型の瞳が見つめる向こうにも、きっと昨日の午後五時のあれこれが浮かんでいるのだろう。匿名の異性のからだではなく、自分にとってたったひとりの相手が、どんなトクベツな脆さを携えているのか。こればっかりは実践あるのみ、ということだ。わたしも今、あたらしい、宮くんの生々しい脆さに触れられたような気がする。そして同時に、この日しかないと二人で決めた昨日、まるで使命にかられるようにして触れてしまったからだの焦りを、少しだけ勿体なく思った。何も知らずに、こんなことも確かめあわずに、ああしてしまったから。ああすれば、何かが分かると漠然と思いこんでいたけど、女の子のからだも、男の子のからだも、けっして心の混乱をほどいてくれるほど万能ではなかった。わたしたちは相変わらず「宮くん」「先輩」とどこかよそよそしく呼び合い、気まずさと巡り合わないよう、視線を繊細につかっている。
 でも、後悔はしていない。

「宮くんて、心配性なんやね」
「うーん? どうやろ」
「ちょっとお腹痛いだけやのに、大げさやと思う」
「はは、うん」

 宮くんの聞き分けのいい「うん」が気にくわない。だってそれは、はいはい、そういうことにしといてあげる、という感じのなまぬるい譲歩だったから。生意気な、ひとつ年下の恋人。でも、わたしと同じ白線の上で、もがいていた男の子。
 宮くんのはじめて。わたしも、宮くんが、はじめて。
 女の子のからだも、男の子のからだも、万能じゃない。だけど、彼がくれた本音をなぞれば、「はじめて」というその一言は上等な回復の呪文のようにも思えた。

 ようやく保健室の表札プレートが小さく見えてきて、もうすぐ手を離さないといけないのだと、ちょっとの名残り惜しさから手のひらが強張ってしまったとき、なんの前触れもなく宮くんがふっと笑った。今度は照れ隠しではなく、つい溢れてしまったような不意打ちの笑みだった。

「どうしたの?」
「んー、いや、昨日の先輩のこと思いだしたら」

 左手の手のひらで宮くんがゆるんだ口もとを覆う。にやついているのを抑えるみたいに。昨日のわたし。同じ記憶を持っているはずなのに、同じ思い出を共有できている気がまるでしなかった。頭の芯が、ざわめく。

「先輩、あれ、エロすぎたわ。中で出さへんで、って喚いてたの」
「そっ……」

 いきなり、なんてこと言うのだろう。唖然として言葉が詰まると、「あんなんどこで覚えてくるんです」と茶化すように彼に畳みかけられる。覚えてきたあれこれを披露する余裕なんて、あるわけない。ちゃんと、してるから。大丈夫だから。頭で分かっていても、いくらそうやって宥められても、だめだった。二人でつくった記憶なのに、二人の別々の脳内で、まったく違う瞬間を擦り減らしている。自分で自分が何を呻いているのかも分かっていなかったのだから。彼はそれを律儀に再生していた。何度も、何度も。今すぐ、その一言を、彼からむしりとってしまいたい。

「だって、だって、あれは……」
「気持ちよくなりそうでこわかった?」

 白い歯がかすかにのぞく。やっぱり、彼は、優しくない。優しいけれど、すこぶる意地悪だ。分かっていて、素直にうなずくよりも強い肯定と降伏を、わたしから引きだそうとする。
 保健室の前まで辿りつくと、じゃあ俺はここまで、と言って宮くんの手があっさりと離れた。あんなに冷たかったはずが、いつの間にかぽかぽかになっている手のひらを胸にしまいこみ、見上げる。睨むような強い視線を向けたのに、彼はそんな不機嫌にはとりあってもくれなかった。鬼ごっこは、今日は、彼の勝ち。取り逃がした彼のいたずらが、耳にじかに滴っていく。もうここは昨日よりももっと深い、彼の部屋だ。やっぱりわたし、彼のもとに、たくさんの忘れ物をしてきてしまった。

「お腹痛いの治ったらまたしよな、

 わたしの下の名前を、どんな甘い囁きよりも強力な殺し文句にしてしまうひと。強引な約束をとりつけて、わたしを呼び捨てた年下の男の子が誰も居ない廊下を駆けていく。初めて彼と言葉をかわした春の日。あの日、彼が自分の名前をわたしに教えてくれたときのように。わたしもいつかその名前を、あんなふうに堂々と、滑らかに口にすることができるかな。恋をするということは、誰よりも美しく、いとしいひとの名前を呼ぶこと。









THE END

2016.8 - Re : 2017.7