heart hacker




「悪癖やからなそれ」

 例えば、部室のホワイトボードを見て大嫌いな練習メニューが並んでいたとき。汗まみれのTシャツを洗濯機に放りこんでいるとき。たまの休日に庭の草むしりを命じられたとき。俺に、「今のコ、どう思った?」と尋ねられたとき。治は決まって「そういう」顔をする。辟易、というやつかもしらん。たしか入学式の日もそうだった。胸に留めつけられた純白のリボンを指のはらで確かめながら、役目を終え、小講堂を出ていく先輩の後ろ姿を目で追っていた。治の言う通り、これは俺の悪癖みたいなものだ。治は「いちいち女子の顔なんて見とらん」なんて言うむっつりやから話があんま噛みあわんけど、俺はなんといってもかわいい子が好きやし、あわよくばかわいい子に好かれたいと思う。そういう子に、俺のこと好きなんやろうな、と感じるそぶりや態度を見せられると、めっちゃ気持ちがいい。喧しいこともあるけど、女の子はたいてい、1を与えれば10を返してくれる従順な生きもの。そう思ってきたし、あのときも洩れなく、そう思っていた。俺はきっと、あの日からずっと、先輩に優しくされたいと願っていたんだろう。どれもこれも同じ形で、誰彼かまわずに配っていく大量生産の入学祝いのようにではなく、戸惑いながら左胸に触れ、俺だけのために背伸びして、手ずから縫いつけてくれた白い花のように。

 入学式から数ヵ月が経って、夏休みに入る直前、先輩とデートの約束をした。思いがけないことだった。そのころにはもう、俺は校内で先輩を見つけたら何かしら小さなちょっかいをかけにいくようななつっこい後輩として、先輩や、先輩の友人らにまで自分の存在を染みこませていたから、先輩たちの移り気なガールズトークに滑りこむのなんて簡単やった。昼休みの、食堂の一角で、誰かがタウン誌のようなものをひろげていた。京阪神の花火大会の特集号。忘れもしない、薄いピンクの付箋が貼られた33ページ。

「神戸の花火、ええですね。いつ? 俺も行こかなあ」
「せやったら宮くんにのこと、夕方から貸してあげようか」
「え?」
「えっ?」
「うん、ええやん。あたしたちとは向こうで別行動にしよ」
「宮くん、のことお願いねえ」

 予期せぬ夏の発熱が、均一な空調の涼しさを打ち消す。俺と、先輩と、戸惑いの大きさはきっと似たり寄ったりだった。その戸惑いにまつわる感情はまったく違ったのかもしれないが、とにかく。こういうとき強く拒んだりすることもできず、穏便にうやむやにする手管も持たないのが、先輩。そしてそんな先輩のだめなところを、知ってて、知らんふりして指切りをした俺。勝ち確やろとこのときばかりは浮かれたけれど、当日を迎えればさっぱり、先輩とのことは思い通りになどけっして運ばなかった。

 先輩と接していると、今までここそこに打ち捨ててきた関係のなかで、自分がどれだけ恵まれていて、甘やかされていて、何もしてこなかったのか、全てが暴きだされるような心地がする。俺の知っている女の子は、押せば押したぶんだけ、むしろそれ以上、何かしら好ましく押し返してくれるものやったけど、先輩はそうもいかんことが多い。むしろ、そんなことばかりで、変に胸がざわつく。これが「不安」なのだと、しばらくして気づいた。途端、口も、手も、縮こまる。それでもなんとか浴衣姿の先輩に差しだした、左手に、手ごたえのまるでない右手が触れたとき、ああもうこれ以上は無理かもしれへんと、初めて「押す」というふるまいに恐怖を覚えた。押してだめなら引いてみろって、そんなんできたら苦労はしない。引いたら引いたで、もう、先輩にとって自分が何もんでもなくなるのがこわい。押すも、引くも、うかつにはできない。生まれたての臆病を、宵闇に咲く大輪を見上げながら、ただ、こてんぱんに思い知らされた。

「はあ、しょおもな。二人でおって穫れ高ゼロて。いつの間に小学生に戻ってんお前」

 火薬の匂いの染みついたからだを引きずり、帰宅して、直行で部屋のベッドに倒れこみたかった気分は、風呂上がりの治と廊下で出くわしたことで、治にその日起こったあれこれをすべて吐きだしたいという気分になり変わった。治の「そういう」顔。日常。なんでお前の泣き言のサンドバッグせなあかんねんという顔。日常。無視して語りだす。これも日常。リビングの床でもくもくとストレッチをしながら、治はどこまでも辛辣だった。

先輩、そんなガード固いん?」
「……ちゃう。むしろ、脆い。だから踏みこめん」
「へたれが」

 ならお前やってみーやと当たり散らしたくなったが、ほんとうにやってみられても困るので、ビーズクッションに顔を伏せてふがいない叫びを押しこんだ。ふがいない、それはもう、認めるしかなかった。手汗なんかよりもずっと不味いものが、前のめりな感情や下心が、つないだ手を伝って滲んでしまっていたかもしれない。あっという間にストレッチを終え、そそくさと退散しようとしていた治のハーフパンツを掴む。びーびー言うとってもなんも現状は変わらんけど、とりあえず目の前にある見飽きた浮き木に縋るような気持ちで。

「おさむ……おさむ、おさ」
「っさいなあ、もう……」
「なあ、俺より先に彼女つくらんとってえな?」
「はあ? 先ってお前、今までもなんっども彼女おったやろ」
「過去の俺はどうでもええねん。今の俺はお前に彼女おったら耐えられへんねん」
「知るか!」

 キレよった。振り落とすように俺のひつこい腕から逃れると、治はどすどすしい足音を鳴らして二階に上がっていってしまった。治の苛立ちが感染して、なぜか俺までしだいに腹が立ってきてしまう。自分にというより、先輩に対して。先輩が入学式の日にリボンなんか配ってへんかったらよかったのに。どうせあれだって、クラスの連中に押しつけられて断れなかったつまらない雑用だっただろうに。俺の誘いをけっして拒まないで、いつも、穏やかに笑ってくれているように……。好きや、俺と付き合ってほしい。俺以外の誰とも付き合わんでほしい。そう俺が暴走してわがままを言うたら、もしかしたら先輩はあいまいに頷いてしまうのかもしれない。試してみたいという悪魔めいた気持ちと、むなしいだけだとこうべを垂れる感情とがいりまじる。腹を立てても仕方がない。どっちつかずの追及は、結局は自分にはね返ってくるのだ。

 押すことも引くこともできない先輩とののらりくらりとした日々のなかで、何人か、俺に好意を伝えてくるようなコはおった。優しくて、きんきんと響く声を持っていて、えこひいきが大好きな、砂糖のダマみたいな感情を隠したりひけらかしたりするコたち。嫌いやないけれど、今はもう、単純に好きだと思えんくなってる自分がいた。いいことかあかんようなったか。矢印どうしは向き合わないと意味がない。不安、期待、ぬか喜び、焦り、興奮、たくらみ、誤解、ばか正直、次こそは今度こそはと膨らんではしぼんでいく。満月と新月の足らない、あいまいな満ち欠けの不連続。気づけば季節は一回転していた。四季はめぐるが、時間はすすむ。インハイの開催地に発つ前日、先輩に電話をした。大会終わったらまたあの花火誘うんで、誰からの誘いも断っとってくださいね、と。それもう誘ってるよね――そう言って、通話口ごしに先輩の笑みがたゆむ。

 そして「宮くんのこと待ってる」と、先輩は潤った声でささやいた。



 地元駅の改札前広場には、約束の時間の二十分も前に着いてしまった。三日前に終わったばかりの全国大会の疲労はもうほとんどからだを通り過ぎて、だるさは一切ない。きっと今日の予定に合わせてはやるからだが勝手に回復したのだ。治はまだ少しぐったりしとったけど、肉体的には休みすぎているぐらいやから、疲労と一緒に魂まで抜けてもうたんちゃうかなと思う。数日前まであんなとこにおったのに、すべてを捧げて戦っていたのに、今はこんなところにおる。先輩を待ってる。一年前の今日はどんな気持ちでひとり、先輩の待つ神戸まで新快速に揺られとったっけ。きっと胸の忙しさは似たようなものだ。
 だけど今年は、俺は恋人として、先輩のことを待っている。

「宮くん、」

 いよいよ約束の五分前になって、「今着いたよ」とメッセージを入れようとスマホに視線を落としたとき、待ち望んでいた声に背後からそっと名前を呼ばれた。振り返り、目に飛びこんできたのはいつもと違う手のこんだ髪型をした華奢な先輩の姿。学校にしてくるのとは違う色の差した化粧。ぼんぼりのようなオレンジイエローと濃紺の花が水玉を散らしたみたいに模様を描いている。その日初めて、相手をこの目に映したときの密やかなしびれを、使わんかったスマホと一緒にズボンのポケットへ押しこんだ。

「浴衣、去年とちゃう」
「えっ、うん。よう覚えとるね……」
「覚えてるよ。今年のも似合っとってきれいです」

 ありがとう、と先輩がしっとりとうつむきながら言う。照れているというより、遠慮しているような控えめな仕草だった。なんやろ、はずしたかな。去年のこと覚えとるってあかんかったかな。第一声がそれって、がっついとったかな。口にしてから何を思うても仕方ないのに、あとからあとから、時間差の気がかりは絶えない。
 やや混みあった電車に乗りこみ、神戸までの短い旅路のなかで、インターハイのことや部活のこと、受験のことや家族、友人のこと、最近見たテレビのことなんかを、俺たちはシーソーに乗っているみたいにかわるがわる交互に話した。ひとと話すのは得意なほうやけど、先輩と話すときはいつもつかわない神経をつかっているような気がする。嫌われたくないとか、好かれたいとか、そういう料簡もなくはないけど、てか大いにあるんやけど、それ以上に今は先輩のことをちゃんと知りたいとか、俺のことをもっと知ってほしいとか、そんな集中の仕方をするようになった。欲どしさは加速をつけていく。一体この電車はどこまでいったら止まるんやろう。

「歩くの速かったら言うてな? 先輩、下駄たいへんやと思うし」

 たいそうな人ごみのなかで、去年は「はぐれるから」と理由をつけて握ってしまった手を、今年はそんな過保護な言い訳をしなくとも指を絡めて重ねられるということ。去年の、ソファに突っ伏して打ちひしがれとった自分に伝えてやりたい。横顔を盗み見ようとして、ふわりと顔を上げた先輩と目と目が触れあって、予想外の一秒間で体内に得体の知れない渦が巻く。試合のときには感じないたぐいの緊張が駆ける。好きな子を左手に連れ立って歩いてるなんてのは、考えてみなくても値千金の一大事だ。

 駅から目当ての場所までの平坦な道のりは、電車のなかのように会話の弾むにこやかな道中とはいかんかった。海の匂いが近づくにつれて、どちらからともなく口数が減ってゆき、どうすることもできず、必然のような穏やかさで沈黙を分けあっていた。周りのにぎやかさが遠のいていく。どんなに明々と騒がしくても、どんだけ人がおっても、ここに二人で居るのだという感覚の鋭さが何より勝っていた。

「この公園な、ちょっと遠いけどよう見えて穴場やねんて。足もと暗いから、気ぃつけてな先輩」

 神戸湾に面して細長く延びている海上公園には大勢のひとが集まってはいたけど、色々としくじった去年のように屋台広場ですし詰めになるような心配はとりあえずなさそうだった。先輩の歩幅に合わせてゆっくり芝生の傾斜をくだり、遊歩道に降り立つ。足もとと同じ高さのなめらかな海面は、もう夕陽の残りかすではなく神戸の街あかりでちらちらと照らされていた。それもきっともうすぐ打ち上がる幾千幾万もの火の玉には、敵わないだろう。
 屋台の少ないほうへ少ないほうへと歩いていくと、運よく二人掛けのベンチがひとつ空いていて、ようやく先輩のことを座らせることができた。腕に触れていた先輩の手が離れ、ほっとしたような、もったいないような気になる。きれい、とひとりごとのように先輩はつぶやいた。まっすぐ、かすかな光を織りなす海の色を見つめて。地元ではけっして拝むことのできない都会の夜景は、確かに、花火がなくとも見ごたえがあった。

「そうや先輩、喉とか渇いてへん? 俺なんかあっちで買うて……」

 もう少し遊歩道を行ったところにキッチンカーの出店が止まっていて、ジュースやかき氷を売っているようだった。それを見つけ、せっかく腰かけたベンチから数秒でふたたび立ち上がろうとしたとき、俺の声に重ねるように先輩が空気を含んだ笑みをこぼした。浜辺の砂みたいにまるく小さく、貝殻のかけらみたいにはかなく薄く、先輩が笑う。きれい。これは俺の、無言のひとりごと。

「え、いま楽しいことあった?」
「うん。今日の宮くん、ええかっこしいで楽しい」

 俺は先輩のこと、先輩って呼ぶけど(ほんとうは下の名前で呼んでみたいんやけど)、彼女が俺よりひとつ年上の女の子やって意識したことは正直あんまりない。自分がひとつ年下の男で、彼女にとって後輩なんやってことを、二人の距離を測ったり保ったりするために意識していたことはあったけれど。今日のこと、今日の予定、段取り、どうやって先輩をここへ導くか。またへまして、気まずうならんようにって、頭のどこかでずうっとそんなん考えてた。潮の匂いのする夜風が先輩の前髪をなぶっている。いま初めて、年上の恋人と見つめあっているような気がする。顔が熱い。薄い闇に包まれていることが有り難かった。

「そんなに気張らんでええよ。気ぃつかってもらってうれしいけど……でも、わたしもっと、宮くんの素直なところ見せてほしい」

 知りたいし、知ってほしい。それは俺も先輩も同じなんやって気づく。だから二人きりで一緒に居ることを選んだんやって思う。先輩の言う俺の素直なところがどういうところなのかはだいたい察しがついた。自分からすれば二度と蒸し返されたくないぐらい酷いありさまやったと思うけど、生徒休憩室の片隅で「好きや」と告げてしまった日の光景が、いやでもいやでも脳裏にひろがっていく。夜景を遠く見わたすような眼で、俺のこと、こんな間近で覗きこまんでほしい。きれい、やないから。きたないから。俺の素直さ、そんなふうに探そうとするなら、見紛うて、はき違えてもらっては困る。

「……せやけど、先輩に見せへんとこにはそれなりにワケがあるんですよ」
「そうなの? ますます気になる」
「ほんまに?」
「うん、ほんまに」
「……先輩……俺な、」

 会話はそこで、不格好にも途切れた。公園に集っていたひとたちの高揚した歓声が湧きあがる。そして、ひそめた俺の声は、火薬の弾ける音の連なりにたやすく吸いこまれた。
 心もとなく薄暗かった海の上にまばゆい絨毯がひろがる。なだらかに見えたみなもが、実は細かく、無数にさざなみたっていたこと。しぼむように一瞬、光の紗は溶けかけ、息を呑んでいるうちにまた新たな光が打ち上がり、美しい模様を放物線状に蹴散らしながら火花になる。大きな円はいくつもの小さな円にわかれ、次々にうるさく破裂して、きらめき、先輩はあっさりと俺から視線をはずして夜空を見上げた。みごとなオープニング。たたみかけるような光の輪と、曲線と、束の競演。煙たい空を花火が染めあげるたび、先輩の横顔がさえざえとひらめいて、まもなく彼女の両目の海にも華やかな光がめいっぱいに敷き詰められた。

「わあ、すごい……」

 細い指先と指先を口もとで交差させながら、先輩がうっとりとつぶやく。誰だってきっと、きれいなものが好きで。俺だって好きだし、先輩は初めて逢ったときからずうっときれいやし。
 それやのに俺は。
 俺は花火にあっけなく先輩をうばわれ、それだけでぶすくれそうになっとる。おうおう、ほんまに、ちょっと雰囲気だして神妙な声つくったのに、空気の読めへん花火やな。どうやら俺の目的は、はなっから先輩と二人並んで見上げる大花火だけではなかったらしい。見せてほしい、ゆうたのは先輩のほう。気になる、ゆうたのは先輩のほう。火のついた導火線は地に足着いたここにもある。あんなふうにきれいな光の輪はつくれへんけど、たとえ不格好ないびつなかたちだって、俺は先輩にちゃんと見届けてほしい。
 俺の火を。俺の、ここに燃えているものを。

「先輩、花火やなくて俺のこと、見て」

 身を乗りだした俺の影の濃さに気がついて、先輩が顎を引く。今度こそ花火の轟音にうやむやにされないように、甘ったるい語尾はじかに先輩の耳たぶに置いてくる。先輩の震えたところに手をあてがうと、あまりのか細さにほんの一瞬、決めこんだ心がひよった。だけど、先輩は目をまるくしながら、それでも思っていたよりもずっとなめらかに、当然のことのように、俺のことを中へ招いてくれたから。そうや、忘れていた。なんといっても、俺に火をつけたのは先輩だったのだ。ここまで俺の火を絶やさず、破裂寸前の危うい火の玉につくりかえたのは、まぎれもなく先輩だったのだ。

 押したら押したぶんだけ、ぎこちなく押し返される。矢印は正しく向かい合い、俺と先輩と、ほかに指し示すべき世界はなんにもない。先輩との初めてのキスは、いじらしい反発があって、ふやけた温もりが触れて、俺は先輩が大好きで、先輩も俺のことがだいぶ好きで、心臓の芯のところを奪われるような最高のキスだった。

 やば、ふつうに勃った。









THE END

2017.6