※ 若干の性描写あり




 卒業アルバムの編集作業はまだひと段落とは言えないころあいだったけど、わたし以上に華やぐ友人たちに背中を押されるようにして、チャイムが鳴る直前の、静まり返った真冬の廊下に出た。三年生の教室では、今まさにセンター試験前の、冬期講習の追い込みの真っ最中だ。ひと足先に進路を決めてしまった推薦組には関わりのないことだけど、そのぶん、卒業に向けた行事の準備をあれこれと任されている。先週、ようやく正式に合格通知が届いて、東京で合宿中だった宮くんにメールを打ったら、彼はわざわざ電話で折り返してくれた。おめでと、かっこええな、俺もがんばる。短い通話時間のあいだに、そんな、優しい言葉をたくさんかけてくれた。
 合宿から帰ってきたかと思えば、また合宿で、明日から宮くんはグラウンド併設の合宿所に缶詰になってしまうそうだ。そのかわり、今日の練習は午前中まで。お昼を過ぎて、部室棟に着いたころちょうど校舎のほうでチャイムが鳴った。ピロティの外柱にもたれて立ち話をしていた男女のすがたに、一瞬、心臓が冷やりと跳ねる。だけど良くも悪くもわたしは、二人の宮くんを、今まで一度だって見間違えたことがないのだった。

「あー、侑のカノジョさんや」

 話したこともなければ名前も知らない女の子に、ひとりの男の子をつうじて存在を知られているということに、奇妙な緊張を覚えてしまう。だけどわたしも、彼女のことを、当の彼を通してほんの少しだけなら知っていた。あのときの。夏服の季節に、二人が並んで笑っているところを、わたしは見た。次の日の、彼の一生懸命な言い訳のことを思いだす。彼女は、彼らと同学年のバスケ部のマネージャーさんだ。
 ひとなつこい声に、釣られるように会釈をする。彼女のとなりに立っていた宮くんが、ちょっとなだめるように彼女の頭を軽く小突いた。運動部のおとなりさんだ。その仲の良さにも、彼女が当たり前のように口にしている気さくな呼び名にも、身勝手なわたしの心はまだ、人知れずかたくなになってしまう。

先輩な」
先輩、おつかれさまです」
「おつかれさまです……こちらこそ」

 暖かい空き教室でぬくぬくと写真を切り抜いていたわたしより、午前中の練習を終えたばかりの二人のほうがよほど疲れているだろう。侑ですか、と、ごく自然に宮くんに問われて、うなずくときの気恥ずかしさといったら。やっぱりもうちょっとゆっくり来るんだった。早く早くと急かした友人たちを、恨めしく思う。

「侑、なんや遅いやん。鍵当番?」
「いや。シャワー室から全然出てこおへんねん」
「あらら、なんでやろな」
「なんでやろなあ」

 くすくす笑いの端で、わたしははたと、彼女の物おじしない大きな瞳にとらえられた。きれいにふちどられた眼には迫力というか、凛とした生命力のようなものがみなぎっていて、思わず圧されてあとずさりしてしまいそうになる。彼女は愛想よく首をかしげながら、わたしの顔をまじまじと見つめた。

「先輩、そのリップきれいなええ色ですね。どこのですか?」

 まさか初めて会話する女の子に、そんなことを尋ねられるとは思わなかった。彼女が指さした、自分の唇にはっと爪先を添える。ついさっきまで一緒に教室に居た、同じ推薦組の、あるいは専門学校に進学する友人たちの手によって、今日のわたしはいつもと少しだけ違う色を差している。クリスマスが近いからと、ほんのり赤みのつよいリップグロス。きらきらとして確かにかわいいけど、自分ではきっと選べない、放課後の色だ。

「え……あ、これは、友だちがつけてくれたの。今日その……宮くんと会うって言うたら、色々してくれて、さっき」
「デートのおめかしや。かわいい。なあ? 治」

 女の子にブレザーの袖口を揺すられて、宮くんの眼が、じっとわたしの顔に焦点を合わせる。硬直したわたしを差し置いて、数秒先で、たわむ彼の瞳の奥。首に巻いていたフリース素材のスヌードを指先で少し剥いで、宮くんはうっすらと笑みを宿した唇をひらいた。

「せやな、先輩はかわいいな」

 なんの照れもなく、たやすく、ふわりとした口調でそう言ってのけるものだから。みるみると頬が熱くなって、素直に恥ずかしい。こういうとき、彼らは双子の兄弟なのだなとあらためて思い知る。いつもはあまり似ていない、それぞれの個性にばかり目がいくのに、ふとした瞬間にあらわれる視線のつかいかたや仕草には、やっぱり独特のえにしが滲む。そっくりというわけじゃないけど、いやおうなく、ひとりのひとを思いださせる。それがどうにもこそばゆいのだ。
 うつむいて、ありがとうの一言を口にしようとしたとき、急に片腕を引っぱられてわたしは声を呑みこんだ。引力の先を見上げると、わたしの待ちびとが、わたしの頭を越えてきつく睨みを利かせて立っていた。

「だーれのカノジョに気安くかわいい言うとんねん、どあほ」

 わたしのからだを引き下がらせながら、一歩前に出て、宮くんが吠える。合宿を挟んでたった一週間ちょっと会わなかっただけなのに、彼の美しく整った横顔がどうしようもなくなつかしくて、胸にじわりと温もりがめぐる。この内側の感覚までは、たとえ同じ造形の顔をもつ男の子が居たとしても、けっしてうりふたつにはならないものだ。違う、たったひとつ。さすが身内と言うべきか、どんな不機嫌な形相を向けられても怯むことなどなく、むしろ挑発するように両手をポケットに突っ込んで、宮くんは宮くんに言葉を返した。

「おまえが見栄張ってもたもた身支度しとるから、口説いてたんや」
「死にさらせ。行きましょ先輩。待たせてごめんな?」
「う、ううん全然。あの、じゃあまた……」

 ぐいぐいと腕を引きずられて、結局、ありがとうは言えずじまいだった。短い挨拶をして、二人に別れを告げる。侑とラブラブデート楽しんでな~、と、あの子はそよ風のように手を振って、わたしを笑顔で見送ってくれた。嬉しいような、やっぱりどこか、複雑なような気がしてしまうのはわたしのわがまま。女の子たちが軽やかにその名前を呼ぶたびに、心臓が針山になってしまったみたいに、小さな刺し傷の束が胸をざわつかせた。



 駅前のモールに入っているファーストフード店を選んで、わたしたちは適当に昼食を済ませた。わたしが一度も頼んだことのない、二段重ねになっている大きなハンバーガーを、宮くんはぺろりときれいにたいらげてしまう。軽くわたしの倍以上は食べているのに、なぜかわたしよりはやく食べ終わって、彼はときおり窓の外の吹き抜けにそびえる、クリスマスツリーを横目にながめていた。夏にはみごとな笹の葉が揺れていた、モールのエントランス。はっきりと季節を刻みつける、過去と現在のふたつの飾りつけには、二人のあいだに流れた時間もまた、まざまざと刻印されているような気がした。
 宮くんを家に招くのは二度目のことになる。お母さんが居るからね、と何度も念を押したけど、宮くんは「全然ええよ」の一点張りだった。初めましての挨拶と少しの会話を交わしただけで、あれ以来お母さんはすっかり宮くんのファンだ。今日も東京土産のお菓子を抜け目なく用意して、彼はわたしの母親を十全によろこばせた。宮くんは八方美人ではないけど、いくらだってそういうふうにもふるまえる。それが彼のとなりに居て、わたしが多少なりとも学んだことだ。
 二階のわたしの部屋で、彼はめざとく机に出したままだった一冊のアルバムを見つけた。卒業アルバムをつくるので、つかえる写真はないかと探していたのだ。電気カーペットの上にとなりあって、二人でそれをめくる。彼は存外楽しそうに、わたしの思い出を一枚一枚、丁寧にながめた。

「一年ときの先輩、髪型ちゃうかったんや」
「あんま見ないで……野暮ったくて恥ずかしい」
「なんでえ、かわいいよ。こんなんも似合うねんな。俺はどんな先輩も好き」

 一年生のころの、杓子定規に校則を受けとり、まっさらな制服に着られている自分なんて目も当てられない幼さで、お世辞を言われるほどに情けなくなる。どう相づちを打ったらいいか分からなくて、沈黙をまぎらわすようにぬるくなった紅茶に口をつけた。

「同じ学年やったら、あと一年一緒におれたのになあ」

 他意はないのだろうけど、単純なもしもの話なのだろうけど、宮くんのなにげない言葉に不必要にどきりとさせられる。きっとあの入学式の日の、わたしの初めて出会った一年生の宮くんが、一年生のころのわたしとはかけ離れた、あか抜けた存在だったからだ。一年先を生きていても、となりを歩くのがやっとのことだと思うのに。同学年だったら、例えば、分け隔てなく誰にも優しく明るいあの子のように、わたしは軽口を叩いて彼のとなりに居られただろうか。それはなんだかひどく、背伸びした自分のように思えた。

「……でも、それやったらわたし、宮くんと仲良うなれる自信あんまりないかも……」

 ぽつりと、思ったことがそのまま声になる。宮くんはアルバムの最後のページを閉じて、写真のなかのわたしではなく、弱音を吐いた目の前のわたしをのぞきこんで見つめた。顔が近い。きれいな顔を近づけるだけで、彼はたやすく女の子に金縛りをかける。指が顎にかかって、からだの帯びている体温がすべて頬に集まってゆくような心地がした。

「俺は自信しかないで。何回やり直しても、俺はきっと先輩のこと見つける」

 ああ、でも、タメやったら"先輩"やないか。ひとりごとのようにつぶやいてから、宮くんは顔を傾けて、わたしの唇に唇を重ねた。図ったみたいに滑らかなタイミングで、なんだか呆けることすら追いつけない。その励ますような言葉も、口づけも、頬を撫でている手も、こわいぐらいに優しくて、思いだすのは初めて彼の部屋に招かれたときのことだ。あの日もこうして、穏やかな彼の手つきにいざなわれ、迷路を迷路だと思うこともなく深く遠くまで、わたしは……。
 危うさの水位がたちまち上がり、思考が侵されかけたそのとき、階下の廊下に気配を感じて、わたしは宮くんから飛びのくように離れた。わたしを呼ぶ母親の声がして、ぎくりとしたのか、ほっとしたのか。ごまかすように慌てて立ち上がり、わたしは部屋のドアに身を寄せて、少しのすきまをひらいた。

「な、なに? どうしたの」
「お母さん忘れてたけど、歯医者の予約があったから、行ってくるね」

 それはまったく、予定外のことで。部屋のドアにひっついたまま、これ以上逃げ場などない行き止まりの予感に襲われ、わたしは後ろを振り返ることができなかった。身を寄せていたドア越しに、ほどなくして玄関の扉がひらいて、重たく閉じる音がする。そして、二人を二人きりにしてしまう錠の音がするやいなや、宮くんは立ちっぱなしのわたしを後ろからつよく抱きしめたのだ。ドアと、宮くんのからだに挟まれて身動きがとれない。腰に腕がまわり、彼の手がカーディガンの内側に入ってきて、またたくまに脚が、わたしの全身が震えだした。

「あ、やだ、宮くん、」
「先輩……今日、あかん?」
「あかんよ……心の準備が、」
「けど俺もうヤバイ、止まられへんかも……」
「そんなこと、言ったって」

 耳もとで、宮くんがわたしの名前をなぞる。鼓膜に触れる彼の声が、鼻を掠める石鹸の匂いが、からだじゅうの淡い痺れを誘ってちからがうまく入らない。いやだいやだとむずがりながら、すでにわたしが立っていられているのは、彼が背中を支えてくれているおかげだった。

「あのな。スカートの左のポケット、手入れてみて」

 彼の言葉の響きと、意味と、自分の感情と、どうにもならないからだと、色んなものがもつれあってうまく飲みこめないまま、わたしは彼の言うとおり、制服のポケットに手を忍ばせた。指先に何かが触れる。ポケットの底から、おそるおそるわたしの指が引き上げたもの。それは小さなリボンのモチーフがあしらわれた、華奢なシルバーリングだった。
 ――いつの間に、こんなの。まるで手品だ。手のうちにあるものを信じられないまま、その愛らしい輝きを、食い入るように見つめていた。

「これ……」
「東京で買うてきた。俺、あんま手持ちなくて、そんな大したもんちゃうけど……。でも、あんとき先輩がせっかく俺にメールくれて、電話で話してたら、もっとちゃんと先輩におめでとう言いたなって。色々考えたけど、結局こんなんしか思いつかんかった」

 べたやな、照れ隠しのように宮くんがこぼす。それから、わたしの左手をとって、彼はシルバーリングをするりとわたしの指に通した。リボンの結び目に埋め込まれた模造ダイヤが、きらきらと指のつけ根でひかり輝く。東京の街のどこかのアクセサリー売り場で、頭を悩ましながら真剣にこの指輪を選んでくれた彼が居ること。繊細で、だけどどこか緊張しているような手つきで、宮くんはわたしの薬指をおごそかに撫であげながら、ささやいた。

「合格おめでとう、先輩。大学で浮気せえへんとってな?」

 浮気なんて、するわけないのに。むしろわたしのほうが、それを心配したいくらいなのに。でもそんないじけたことを言ったら、きっと彼はまたきれいに笑って、わたしを励ますような愛の言葉をいくえにも重ねてくれるんだろう。だから、言えない。彼の甘やかな束縛をただただ受けとるしかできない。だってこれ以上は、とてもかかえきれないから。
 ずるい。こんなふうに不意打ちの贈りものをされてしまったら、彼から逃れるすべなんて、わたしにはもうひとつも思い浮かばなかった。



 今朝、もっとかわいい下着を、宮くんのことを想いながらじっくり選べばよかった。新しい下着を、ちゃんと用意しておくんだった。宮くんはシャワーを浴びてきてるのに、自分だけそうできなかったのも恥ずかしい。深い口づけを何度もかわして、きっとよそゆきのグロスなどもう跡形もない。自分のもとあった姿が崩れて、散る花のように落ちて、彼の腕のなかへふらふらと不時着する。まだ、指折り数えられるほどしか重ねていない、二人にとってたくさんの戸惑いを含んだ行為。真新しい指輪を嵌めた手をもうろうと宮くんに伸ばすと、指のあいだを割るようにして、彼はきつくその手を握りしめてくれた。

「せんぱい……、……なあ、俺の名前呼んで?」

 たったそれだけのことを一生に一度のお願いみたいに切実に乞われると、お腹の底が切なくて、情けなくて、自然と涙があふれる。侑くん。うながされてようやく、おずおずと彼の名前を差しだしたわたしの声は、ひどく掠れてか細いものだった。あいている手でわたしの涙をぬぐいながら、自分の名前を口にするだけでめそめそと泣く恋人のことを、宮くんはいったいどんなふうに思っているだろう。自分でもとても、不実なことだと思う。

「なんで、あんまり呼んでくれへんの」
「だって……他の子も、そう呼ぶから。今さら真似するの、悔しいんやもん」

 あらためて口にすると、それは恥ずかしくて消えてしまいたくなるような、意固地なためらいだった。同じ苗字をもつ兄弟がいつでもすぐとなりに居るのだから、仕方ないことなのに、他の女の子たちが簡単にその名前を紡ぐことに、わたしはどこかでわだかまりをかかえている。どうしようもないずるい臆病で、一方的に彼を焦らしている。宮くんは、涙をぬぐった指先でわたしの頬をさすりながら、甘く目を細めた。行為にともなう生々しい肉体の律動のせいで、彼はほんのり息を上げて汗ばんでいたけど、それでも彼の表情はどことなく余裕があって、わたしのことをいつも安心させた。

「ほんまにかわいいことばっか言うな」

 近づいてきた唇がささやく。唐突にからだの向きを変えられると、重ねた奥底の具合もはっきりと変化して、いま、目に見えないはるか深くまで彼に暴かれてしまっているのだと思い知らされる。胸と背中をくっつけるようにして、宮くんはわたしのからだをつつんだ。泣かないで、。耳の裏に触れた宮くんのやわらかい声が、まるで涙腺にじかに作用したかのように、わたしの感情を飛び越えて涙をとめる。彼の言葉はときどき、呪文みたいだと思う。たったひとり、彼だけがわたしにつかえる優しい魔術が、二人のあいだに漂っている。

「誰の真似でもないよ。は俺の特別な子やから、に名前呼ばれたら、俺にとってそれはめっちゃ特別なもんになる。そんなん、決まってるやん」

 だから、呼んで。もっかい言うてみて、俺の名前。乞うようにではない、さながら注射をこわがって駄々をこねている子どもの気をそらすように、わたしを勇気づけようとする彼の声が、いくじのないからだの芯を奮い立たせる。女の子たちが彼を呼ぶたび、無数の針が刺さったように弱々しく疼いた心臓が、今はもう痛くない。こわくもない。振り返り、わたしを待っている彼の瞳を見つめる。つまらない傷などすべて塞いで、彼はたちまちわたしの胸を癒やしてしまった。

「侑くん」

 ――侑くん、だいすき。その告白を紡げたかどうか、ちゃんと想いを彼に伝えられたかどうか。すぐさま彼の獰猛な唇に襲われてしまって、荒れ狂う恋しさに飲まれ、わたしにはよく分からなかった。せっかちなひと。だけど、焦ることはない。いとしいひとを希うまたとないこの瞬間も、いつか二人の日常になじんでゆく。今日はその一歩目に過ぎない。このさき何百歩、何万歩、彼と一緒に歩くための。
 一度きりの美しい光景を刻みつけるように、これからわたしは何度でも、彼の名前を口ずさむ。









THE END

2020.5