あの生真面目な副主将が恋をしたという知らせは、またたくまに狭い部室のなかを駆け巡った。
 恋をしている人間の目は春の匂いがする。視線を辿ればそこに、彼だけの日なたがあるものだ。天童はうぶな恋の芽吹きにいちはやく気がついて、当然、みなに嬉々として言いふらした。ひとさじ、ふたさじ、話を盛りあげて。何せ恋をしたのはあの、添川だ。彼は几帳面で、ばか正直で、天童とは正反対に致命的に鈍感なところがあって、ひそかに女生徒から想われることはあったとしても、みずから恋だのなんだのがはびこる沼地に足を踏み入れられるような男ではなかった。恋は落ちるもの、とはよく言ったものだ。みずから伏線を手折るような男でも、気づいたら半身、沼に喰われているのだから。

 片思いに中てられ、半ばびしょぬれになってしまった彼には、もちろん、日当たりのいい両思いが必要だった。天童、わからないんだ、どうしたらいい。寮の部屋割りがとなりだった天童には、よくその手の悩みが無造作に飛んできた。悩みというか、のろけというか。最初はからかいがいのあった初々しい報告が、次第にわずらわしいものに変わっていったとき、天童の関心はもう恋に焦がれる友人ではなく、その恋の相手へとうつっていた。彼の日なた。彼だけの。もっとも天童には、そこに陽射しの溜まりをつくっているのは、ひとえに添川自身の熱っぽいまなざしのせいであるようにも思えた。だけど、そういうものなんだろう。恋はえてして、他人をつかった、ひとり遊びのようなふぜいがある。

 天童が、その女生徒と、と初めて言葉をかわしたのは、めずらしく部活動のない或る放課後のことだった。軽いミーティングを終えて部室棟を出たところで、昇降口をくだった階段下のベンチに彼女がひとり佇んでいるのを、彼は目にとめた。男の視線に匿われていない彼女を、天童は初めて目の当たりにしたけれど、彼女はひとりきりでいてもどことなく日なたくさい感じがした。香水でもつけているような、自然さとは程遠い、だけどもその匂いを自分を飾るものとして大切に扱っている。その、平和にぬかるんだ日溜まりの上に、天童は無遠慮に影を降らせた。文庫本に目を落としていた少女が、顔を上げる。涼しい春風が吹いて、薄い小説の数ページがぱたぱたと音を立てて捲れた。

「仁のこと待ってるの?」

 きゅっと閉じていた桜貝のようなくちびるが、ほんのりと驚きを含んでほどけていく。彼女は文庫本を閉じて、膝の上に両手を置いた。

「はい」
「いないよ。代表者会議行ってるから。連絡ない?」
「えっ……」

 ベンチに置いた、重たいものなど何も入っていなさそうなへこんだ鞄のポケットから、彼女があわててスマートフォンを取りだす。落ちてきた髪を耳にかけなおしながら、もう片方の手の指でロックをはずし、アプリケーションをタップしてひらくまでのなんてことない所作を、天童はしげしげと眺めていた。熱と神経の通ったきめ細やかな仕草と表情。自信ないんだよな、と一度、添川がそんなぼやきを洩らしていたことを思いだす。確かにこの、という少女には、男に目くらましの自信をつけさせるようないじらしい隙というものは見当たらなかった。

「通知、切っちゃってました」
「残念だったねー」
「いえ、ありがとうございます。気づかなくて、わたし」

 親切心から声をかけたわけではなかったから、そう言われるとどこかこそばゆい。二人のあいだに偶然の産物のようなちょっとした間が生まれて、天童は退くも進むもできない刹那を味わった。整ったまるい爪が、膝に置いた文庫本の小口をかすかにひっかいている。それは、思いがけず声をかけてきた異性に対して、彼女が淡い興味を抱いているあかしだった。

「あの、天童先輩ですよね」
「え、うん」
「天童先輩って、添川先輩のこと名前で呼ぶんですね」
「……は?」
「あっ、ごめんなさい。仲良いんだなって……」

 天童の反応が予想外に素っ気なかったせいなのか、自分の馴れ馴れしさを恥じたのか、さっと彼女の頬が赤らんで、声がみるみる小さくなっていく。その端で、何かを思いだしたように、やわらかく少女はほほえんだ。自分に対してではない、そこにはない何かに向かって彼女が笑うのを見たとき、天童は初めて彼女のことを年相応に愛らしいと感じた。

「わたしも早くそう呼べるようになりたいです」

 率直なところ、天童は仲の良し悪しで他人のことを名前で呼ぶかどうか決めているわけではない。彼女はバレー部の人間ではないから、天童が部員ならたいてい誰でも下の名前で呼んでいることを知らないだけだ。めぼしい他者を名前で呼ぶことは、彼の処世術のようなものだった。下の名前というのはあなどれないもので、多少強引にでもその「器」を扱えば、中身も少なからずついてくる。恋の只中では、そうたやすいものでもないのかもしれないが。でもきっと、呼べないのではなくて、最も効果的な瞬間をはかっているのだ。下の名前ひとつが、こんなにも大ごとになる。果てしなく、もどかしい。彼らを通してつぶさに恋を観察してみると、それは自分にはとうていむりな関係だと、思わずにはいられなかった。恋はするものではなく落ちるものだと、納得したはずだったのに。ひとはみな気を抜くとすぐ、自分だけを例外へと落としこみたくなるようだ。

 それからひと月が経って、六月のインターハイ予選が終わったころ、天童はまたと口をきく機会を得た。自販機がずらりと並ぶ生徒休憩室の片隅の丸テーブルで、彼女は何かの問題集をのろのろと解いていた。あまり集中力があったとは言えない。天童が休憩室に入ったそのとき、つまらなそうなの瞳とばっちり目が合ったから。彼女は頬杖をついていた腕をさっとおろし、控えめな会釈をよこした。天童もつられて首を動かす。それから、いちばん近くの自販機にポケットのなかの小銭をすべり落とした。
 オンナノコというものは、天童が知るかぎりでは四六時中群れているものだったから、昼休みのほんのひと時であろうと彼女がひとりで居るということが天童にはものめずらしく映った。だけど同時に、彼女にはそういうこれみよがしな孤独がちょうどいいとも思った。男が用意した日なたで暖をとっている姿よりは、ずっと。

「ポカリ飲む?」

 あと五分で予鈴のチャイムが鳴る。休憩室にたむろしていた生徒たちがぽつぽつ引き上げていくなかでも、彼女はじっと問題集とにらめっこしているようだった。昼日中の光になずむ黒髪が小さな顔を隠して、その表情は読み取れない。なにげない問いかけと一緒に、天童は彼女の頬に当たらんばかりに腕を近づけ、手にしていたアルミ缶を差しだした。びく、とまるい背中が鼓動する。天童は構わず、のとなりに腰をおろした。

「……えっ、え、」
「あたり出た」
「そっ……あたるんですね、びっくり……」

 そう、当たってしまうのだ。こういうときに。天童はそういう星のめぐりを体内に飼っていた。「じゃあ、お言葉に甘えていただきます」と、彼女の素直な言葉を聞いて、天童はのかわりに冷たいプルタブを開けてやった。自分に対するささやかな気遣いを見て、少女はしなをつくる相手を見極める。ポカリスエットの青い缶を受けとったとき、彼女の表情は今までとは少し違っていた。天童は彼女の態度を磨き上げられた鏡のように眺めた。言い逃れできない正確さで、そこに自分が映りこんでいる。彼女の恋人の、友人としてではなく。

「名前で呼べるようになった? 仁のこと」

 ちょっと間を置いてから、となりで嬉しそうに彼女がこくりと頷くのを、視線をはずしながら天童は垣間見た。あれから一ヵ月。大事な大会を控えていて、放課後の休みなどほとんどあったものではなかったが、恋する二人のあいだにはそれなりの時間が流れたんだろう。そりゃ良かったネ、となんの感慨もない声で祝福し、天童は自分のぶんのアルミ缶をぺきっと開けた。喉に何かが突っかかっていた。ざらついた傷口のようで、冷たい清涼飲料水が消毒液かと思うほど喉の奥にしみた。なんだこれ。不味い。

「天童先輩は、下の名前、なんて言うんですか」
「さとり」
「さと、り……」
「覚えるって字、一文字でさとり」

 熱いスープか何かを飲みこむように、彼女はちょっとずつ冷たい水分で喉をうるおしていた。そんなんじゃ休み時間中にとても飲みきれまい。ゆるりと動く喉もとの白が。きっと「覚」の一文字を思い浮かべているであろう、気緩いまぶたの開閉が。透明なコーティングで反り返ったまつげが、向日葵のごとく午後一時の陽に延びている。という少女は、もともとこんなに美しいつくりをしていただろうか。美しいといえば美しかったが、それはもっと、どこまでも変わり映えのない田園風景のように素朴なものだったはずだ。こんな、危なっかしいほど繊細な美をふりまく景色は、初めて見る。

「きれいな名前ですね」
「そー……かな。まあ、うちの監督にしか呼ばれてないけどね」
「ふうん。なんだか、もったいない」
「もったいない、って」

 名前を呼ばれないでいるのがもったいない。言われたことも聞いたこともない、妙な言いぐさだった。天童は息を吐いて笑ったが、は笑ってなどいなかった。彼女は自分を、今まで馴染んできたそれとはまったく別の、麗しいルールが敷かれた場所へと連れ去ろうとしている。気がついたところでどうにもならないし、気がついていないふりをしとおすには、自分のためだけに彼女が今ここで放っている妖しさに、天童はすでに魅かれすぎていた。

 だったらさんが呼んでよ、と。天童はそのとき言ったとか、言わなかったとか。

 指一本も触れあわず、目と目で口づけをかわすのは存外に楽しい。通じ合うものは何もないが、充たされるものはそれなりにある。男と女がひっつくためには恋という溶炉を経由するよりほかないのだと、天童は人並みにそう思っていたのだけれど、どうやらそれは狭量な思いこみであったらしい。下の名前ひとつであれこれ日がな一日思い悩むようなまどろっこしい役得はまったく要らないのだ。それこそ特殊な関係のたまもので、どうやってその足場を築き上げればいいのか天童には依然として分からない。それぐらい、二人のはざまには今なんの負荷も努力もかかっていないように、彼には思えた。人間でもない。獣でもない。上から下へと落ちていく石ころを、一体誰が咎められるだろう。
 防音設備のととのった音楽準備室の鍵を閉めてしまう。天童はを、準備室の奥に押し込められていた、音の出が悪くなったティンパニの上に座らせた。ほこりじみた空気に彼女は小さな咳を何度かしたが、それは、不快さをあらわすものではなかった。つるっとしたプラスティック製の膜の表面に、の薄っぺらな太ももがこすれる。こんな短い制服のスカートすら邪魔だなと思う。眺めとしては、悪くはないけれど。

「こんなところ乗ったら、壊れちゃいますよ」
「だいじょーぶだって。もとからぼろいし」
「そういう問題じゃ……」

 口先ではためらいながらも、表情はけろっとしている。天童はそれだけで好い気になって、をますます狭苦しい場所へと追い立てたくなった。でもここが行き止まりだ。天童はがまんならず、少しめくれたスカートの裾を越えて、のくもりない内ももの皮膚に触れた。ひやっとして、弾力があって、やわらかい。初めてまともに触れあおうとしているのに、そんな場所を行為のスタート地点に選んだことがおかしかったのか、はくすぐったいという合図とはまた違ったおもむきの笑みをこぼした。不作法をからかっているようにも、嬉しがっているようにも見える。彼女がこんなふうに笑えるって知ったら、きっとあいつは卒倒してしまうだろうな。それを思うと気の毒だけれど、この日陰での役得は譲れそうもない。

さんさ」
「……うん」
「そういう顔、仁の前でもするの? やめたほうがいいよ」
「どんな顔?」
「男知ってます、って顔」

 肯定も否定もおあずけにして、時限爆弾の時計音のようなのくすくす笑いは止まらない。室温を一定に保つための、無機質な自動空調の風音と混じって、気が狂いそうになってくる。洩れ続ける声を塞ごうと躍起になったが、経験の乏しいあれこれは、夢のなかのようにはうまく進まなかった。唾液に濡れたくちびるを細い首すじにあてがおうとしたとき、耳もとで湿った息がたちまち意味を成した。「さとり先輩、だめ」と。拒絶というよりは命令だった。に託した己れの「きれいな名前」が、よもやこんなふうに扱われようとは。

「ねえ、もっと見えないところを汚して」

 古いティンパニがみちみちと軋む。こんな手狭な一角で、自分は、どうやったら彼女の満足ゆく穢れを分け与えられるだろう。のため、このわがままな少女のため、必死に頭をつかうとき、彼はやはり石ころでも獣でもなく、ひとりの人間としてここに居る。









THE END

2016.11