※ 高校二年生




「させときゃいいだろ、そんなの」

 変な噂になっちゃいませんか。彼女さんに、誤解されませんか。全身を心臓のようにしてなんとか口をひらいたとき、先輩は息を吸う間もなくそう言って、どこか投げやりな含み笑いをした。噂、させておけばいい。誤解、させておけばいい。ラムネの甘い水をたっぷり吸ったスカートの裾が、足を一歩踏みだすたびに、太ももと膝に貼りついて気持ちわるい。濡れたサンダルのソールと足の裏がくっついたり剥がれたりして、歩くだけで奇妙な音を立てるのが恥ずかしい。真っ暗なあぜ道をぎゅむぎゅむと踏みしめ、遠のいていく祭りばやしをうずく背骨で聞いていた。
 くりかえす夏が、たった一度きりの暗号を刻んだ日。



 あの八月の宵のことを思いだしても、今はもう、あのとき感じた気持ちのわるさも恥ずかしさもわたしの芯を脅かしたりはしない。だけど思いだすまでもなく、わたしのスカートは今もまだ、甘い水で濡れているような気がしてならないのだった。たどたどしい足の皮膚も、背骨も、右の手首も。こぼしてしまったそれではなく、湧き溢れてしまったようなそれで。あなたの前に立っているだけでみっともない。水っぽい期待が透けていないかと、足もとを俯いて確かめてばかりいる。そうやって目を伏せることにいつまでもかまけているから、未だにこの指は頭上に放たれた三色のボールをうまく捉えることができないままなのだ。

「手首の返し甘くなってんぞ」

 注意力を失った手の弛みを、みすみす素通りしてしまうようなひとじゃない。ボールが高く放られると同時に、瀬見先輩の手厳しい声も一緒になって飛んでくる。これで何球目だろう。そろそろボール籠が空になるころだろうか。瀬見先輩の上げてくれるボールの放物線は正確で矢継ぎ早で、ずっと一緒の姿勢で上を向いていると、彼のように頑丈につくられていないわたしの足腰はすぐに音を上げそうになる。同じ運動部で、同じスポーツに打ち込んでいるはずなのに、歳だってたった一年しか離れていないはずなのに、たぶん同じことをすればするほど、わたしたちはどんどんかけ離れていくのだろうと思う。それが苦しくて、でも喩えようもなく嬉しくもあるのは、なぜ?
 カーディガンの下で汗がうっすらとざわつく。十二月の体育館は明るくて刺すように冷たい。まっしろな天井の骨組みに目をくらませているうち、わたしはまた、適切な距離をはかり間違っていた。指先と軌道の。あなたと、わたしの。

「短いんだよな、ちょっと。ポール目がけて上げる感じにしてみ」
「はっ、はい」

 言われるがままに、彼が伝えようとしてくれていることを想像して、わたしは彼直伝のプレーを必死で真似た。リベロからの転向を勧められたのは今年の五月。入部して一ヵ月も経たないころだった。あの美しいひとが言ったのだ。さん、困ってるなら英太に相談してみたら、と。わたしは言われたとおりにした。わたしはいつも、言われたとおりにする。だけどあのときから分かっていた。あと少しでも深入りすれば、踏み入れられれば、きっとわたしはひとのものを欲しくなってしまうだろうということ。わたしは従順だけれど、良い子じゃなかった。誰に何を言われなくても、自分の心によこしまな縁どりをしたのだから。

「そうそう、その感覚おぼえとけよ。っし、ラスト!」

 もういちど、同じように。最後のボールがわたしにしては出来よくふわりと打ち上がり、大きな弧をなぞって、コートの端に落ちていく。てんてんと、耳に残る音。くちびるで呼吸をしながら、上を向くことから解放されてようやくこうべを垂れる安堵を味わう。わたしはわたしに上を向かせていた彼の、清潔なバレーシューズの先を見つめて、それで。

「っ……ありがとうございました、」

 打ち損じてコートの中に転がっていたボールをなにげなく手に取る。、と先輩の声に引っ張られて振り向くと、空になった籠のとなりで瀬見先輩が軽く手を上げてボールを呼んでいた。目でためらいを訴えながら、下手投げで彼の手めがけてパスをする。先輩は頭上に高々とトスを上げて何度かそれを繰り返した。いつ見ても精緻で、糸を引くようなしなやかさがある。ほんの一瞬、手のひらに触れるだけなのに、その一瞬で彼はどんなボールも操り、我がものにしてしまうのだ。何度、彼の指先の動きや足の運びを反復してみても、けっして写しとれない魔法が宿る。杖も、ランプも、呪文も要らない。その手だけで。

「やっぱり、先輩のトスはきれいですね。見惚れちゃう……」

 ボールが籠のなかに返ってきて、閉じきらない胸からつい落としてしまった正直が、彼のあぐねた優しいまなざしにいなされる。そうされて初めて、わたしはとてもつまらない本音で彼の心の表面を削りとってしまったのだと気がついた。誰も居ない体育館に放たれた、一筋のトスがきれいだからといって、一体なんだと言うのだろう。同じコートに立つことのないわたしの感動が、彼の何をすくいとれるだろう。わたしは、黙りこくる。先輩は籠のへりにかけていたブレザーを着こみながら、視線を殺風景な体育館のうつろにさまよわせた。

、こういうの今日で終わりな」
「……こういう、の」
「まあ、免許皆伝ってやつだ」
「でも、」
「ずっとうまくなったよ、。今までよく頑張ったな」

 わたしの「でも」に即座に蓋をする、大好きな瀬見先輩の笑い方。目じりを緩めず、目もとに漂う空気に色をつけるように、彼はちょっと固い笑い方をする。固いというのは、ぎこちないという意味ではない。くしゃりと笑うときでも、吹きだすときでも、彼は目のなかに石のつぶてのような硬質の光を残している。自分を誰にも壊させない。それが彼の優しさで、彼の冷たさなのだ。

「……わたし、先輩のご迷惑でしたか。先輩たちの……」
 ――そういえば英太くん、あのコと遂に別れて傷心ぽいね~。知ってた?

 天童先輩はたわいない雑談の折々にそういう話を挟むのがじょうずだ。尋ねた覚えはないけれど、教えてくれたことを恨むこともできない。練習のあいまに立ち寄った水飲み場で、何かの駆け引きを誘うように迫力のある薄茶色の目がわたしを見下ろしていた。美しいひと。美しいふたり。何を言っても、どんな顔をしても、彼好みの饒舌を晒してしまいそうで、わたしはただ出しっぱなしの流水とにらめっこをしているしかできなかった。

 目の奥に水を押しこめようと、慌ただしいまばたきを何度かする。カーディガンの裾を両手の指で撫でながら、彼が首を振るのをはっきりしない視界のなかで確かめた。違う、と。

「俺が、お前を利用したんだよ。はなんにも悪くない」

 利用なんていう、生々しくて小賢しい感じのする言葉は、瀬見先輩にはまったく似合わない。わたしが利用されていたのだとしたら、わたしもきっと彼のことを利用してしまったのだろう。ふたりで装ってきたたくさんの秘めごと。あの夏のこと。この時間のこと。分かっていて近づいてしまったこと。わたしは彼と同じように、彼よりももっと激しく首を振った。耳にかけていた髪も、逆流した涙も、ぶ厚い温もりも、押さえていたものが一緒くたに頬に落ちてきて、芯からぞくりとする。わたしはもう、彼の前で、何も我慢できないような気がして。

「ごめんな、巻きこんで」

 瀬見先輩の親指が、故意なのか偶然なのか知れないけれど、わたしの流したての涙に触れて離れていく。トスを上げるときのように、ほんの一瞬。その一瞬が、心のゆくえをまったく変えてしまう。魔法よりもふしぎな、生ぬるい指の先。追いかけなくてはならないと思った。気づいたときにはもう、散らかったボールを拾いあげようとしていた先輩の猫背に、わたしはすがるようにして身を寄せていた。わたしのなかにある狡さをめいいっぱいにつかったら、いつだって、彼は立ち止まってくれる。そんな期待をいつも、餌付けのように、与えられていたような気がする。あなたはわたしを飼っていた。こんな真冬の底で、捨てないで。

「終わりなんて、いやです」
「……
「いや……もっともっと、巻きこんでください」

 わたしは従順だけれど、良い子じゃない。
 彼の背中に熱い息を吐く。腰回りのブレザーをつかんでいた手に手が重なって、わたしは引き剥がされると同時に、正面から彼に迎え入れられた。もう、誰のものでもないひと。わたしのものでもないひと。だけどわたしは、あなたのものだ。勝手な都合で拒まれたくない。これはふたりで決めたことなのだから。

 蔦に絡めとられるように、腕と、腰と、熱のひだを複雑に交差させてきつく抱きしめられながら、わたしは薄く目をひらいて足もとにいくつも転がっているボールたちを見ていた。どんなに高々と浮きあがっても、冷たい地べたに運命はくだる。生かされているということは、殺されることもまた容易いということ。それでも、わたしはあなたの指先に願いをこめずにはいられない。
 その指先のたわむれで、一度きりの命の宛て先を歪めてもらいたいのです。









THE END

2016.11