※ 若干の性描写あり




 十八歳のの脱衣には、化粧臭さも、乳臭さもない。が半幅帯をほどき、着物を肩からほろりと崩していくさまは、どこか毅然としてすらある。何と言うべきか、ともかく、立派だ。彼女が帯をゆるめるのは、そうしないと先には進めない行為のためではない。は行き止まりのように、ここが最果てであるかのように、纏っていた布を足もとに落とした。飾り障子が切り取るいびつな夕陽が打ち捨てられた布地を照らす。今はもう、何もかもが彼女の背景に成り下がった。彼女に見惚れる、自分さえも。
 赤く実が色づきはじめた万両の茂みをかきわけて、さみしく枝をひろげた晩秋の桃の木の下、八畳一間の離れの密室に静かな呼気が満ちていく。密の濃度。短い夕暮れを選んだ青いからだふたつ。たった布一枚分、崩れていった隔たりが、こんなにもふたりを近づけるものか。力まかせに剥ぎとるのではなく、椿の花が落ちるように、女が服を脱ぎ捨てるということ。

「若利さん」

 に己れの名前を掬い上げられ、若利は導かれるように彼女の襦袢の上に手のひらを乗せた。薄く肉のついた背中と背骨のかたちは万全と美しく、若利は仄暗い部屋のなかでその目映さに思わず瞼を震わせた。こういうひと時を、自分がなんの戸惑いもなく定めのように受け入れていることに、若利は少なからず驚いている。彼の感情の河がふつうの人のそれよりも鷹揚に流れているにしても。の柔肌は若利の指の滑りをみずみずしく押し返して、その白い膜の奥に息をひそめている鬼の正体を彼に告げていた。獰猛で、真実に楚々として、勇ましい。はこんなにもしなやかな姿態をもてあましながら、上等な牙をきらきらと剥いているのだ。

 若利はこんなときになぜか、幼いころにと夢中で食べた瓶入りの水飴のことを思いだしていた。澄んだ水飴を無心にかきまわし、練り上げ、やわらかくほぐれたころには、それはもはや透色のすっかり失われた食べものになってしまっている。口に含むとねばっこく、素朴でけれんみのない甘さが舌でほどけた。水飴はの好物で、若利に美味しい食べ方を教えたのもだ。白く濁ると食べごろなのよ、と。

、おれは今から、お前を濁してしまうと思う」

 きっとさんざんに、そうしてしまう。のどかな思い出のコレクションのなかから水飴のことを引っ張り出して、敢えてこんなふうに宣言するのは、作法を弁えぬとんちきなことかもしれない。若利の懸念をはさっと古い蔵書の埃を払うようにいなした。ふたりの思い出がそよいでいる。同じとき、同じ風のなか、同じゆくえを辿り。「濁すってどんなふうに?」とは首を傾げ、若利の着るカシミヤのニットを指先で気緩くつまんだ。まさか水飴みたいに、なんて調子っぱぐれなことは言えないので、言葉の世界はそこで途絶える。遠くで五時の鐘の音がした。闇の気配はありがたいようで、もどかしいものだった。だけどきっと、貧しい陽の光など。目に映るものをすべて削ぎ落としたら、はいったいどんな姿かたちで昼と夜の狭間を泳ぐのだろう。
 ここにはとても、とても、知りたいことが隠れている。
 そして、若利は艶々と渦を巻くの黒髪から、そっとべっ甲のかんざしを抜きとった。



 十年前の春。ふたりの出逢いは彼らが七つの時分であった。
 彼は祖母にしっかりと右手を握られながら、の住まう家の屋敷の門をくぐった。それは両親が離婚して間もなく、若利が随分と祖母に憐れまれ、溺愛されていたころのことである。そのころ彼の祖母は外出の折、どこにでもひとりぼっちの孫を連れて行った。
 彼はこの日のどうでもいいことばかりを今も記憶にとどめている。玄関先で手伝いの者に迎えられ、奥座敷に向かうまでの道すがら、神経質なまでに磨き上げられた廻り廊下のおもてに青々とした庭の葉波が映りこんでいて、まるで水鏡の上を歩いているような夢の心地を憶えた。一時間の正座は耐え切れなかった。初めて甘い黒蜜をかけたところてんを口にした。さては、はどうだったであろう。なにしろ幼い日々からは会うたび違う着物を身につけ、違う髪の結わい方をしていたものだから、はっきりとしたことは思いだせない。そんなの華やかな身なりを、祖母は「成り上がりふぜいの悪趣味」だと陰できらっていた。

(……ええ、この子ももう七つになって……こんな家でも、旅館のひとり娘でしょう? 将来のため芸事のひとつやふたつと思っていたんですの……)

 の母親は、垢抜けた美人特有の不自然なまでに若々しい顔をして、こんな話をとつとつとこぼした。
 の家は戦前のころから代々この土地で、旅籠町であったころの名残りのような、小さな旅館を営んでいる。旅館は仙台の中心街から少しはずれた場所にひっそりと佇んでいて、見た目には少しさみしく、あまり繁盛している様子はない(大人たち曰く家の主な収入源は一帯の貸家であるらしい)。若利は時々、祖母の遣いを任されてこの旅館に足を踏み入れることがあったけれど、昼間の館内はいつも見渡す限り閑散としていた。手入れの行き届いた設え、古い柱時計の音、ヒバの木と畳の匂い、玄関先に飾られている張り子やこけしなどの工芸品、それらの人の手垢を寄せつけない静けさが、子ども心にはいやに不気味でおそろしかったものだ。

(日舞なんぞ習わせなくても、今時のお嬢さんはピアノでも適当にさわっておけばよいでしょうに)
(この子ったら、聞かぬ気のおきゃんなところがあって。娘らしいしとやかな所作が少しでも身に着けばと……)

 断片的にしか若利は覚えていなかったが、の母親と若利の祖母のあいだに交わされたそれは、蠢く腹を探りあうような気持ちの晴れない会話だった。についてのいくつかのやりとり。それからしばらくして彼女は週に一度、土曜日の昼下がりに、着物を身につけて牛島家を訪れるようになった。庭の離れでの、一対一の数時間の稽古のために。は若利の祖母のことを「せんせい」と呼び、若利のことを、祖母に倣って「若利さん」と呼んだ。気取った大人たちに囲まれて育ったせいか、彼女の言葉は総じてどこか古めかしい響きがあった。庭でボールをさわっている若利を目にして、「ごきげんよう」なんて言ってくる。ふたりはちょうど同じ歳であったけれど、若利には週に一度だけ顔を会わせるその少女が、小学校の教室で毎日顔を合わせているクラスメイトの女生徒たちと同じ種類の生きものだとはとうてい思えなかった。あのが赤いランドセルを背負って、黄色い帽子をかぶって、右手を高々と挙げて白い横断歩道を渡るさまなんて、どうして想像できようか。

 「旅籠屋のおひいさん」。近所で評判の美少女がそんなふうに呼ばれてちやほやされているのを、若利も何度も目にしたことがある。それどころか彼女の傍に居ると、若利もまた巻きこまれるようなかたちで、大人たちに有難がられたり、喜ばれたりしたのだ。「ちゃんがおひいさまなら、若利さんはきっとお内裏さまだねえ、かわいいお雛さんたちだこと」……例えばこんな調子で、たやすく、無責任に、彼らはふたりを結びあわせた。それが、にとって良い思い出になっているのか知れない。少なくとも若利の記憶のなかのは、年相応に笑っているよりも、諦念をこめた涼しい目をしていることのほうが多かったのだ。

 ――ああ、もう、見ていられない。おやめなさい。本当に、赤線の娘の踊りははしたないねえ。

 稽古中、祖母の怒号はよく庭先にまで飛んできていた。若利には言葉の意味は分からない。ただその尋常ではない剣幕に、三色のボールをいじる手を止めてしまうことは多々あった。と彼の祖母はどうにも馬が合わないようで、彼の祖母はほとんど唯一、の身の回りにいての容姿やたたずまいを安易に褒めそやさない大人であり続けた。
 五時の鐘が鳴って、離れの部屋から祖母が足早に出てくる。若利は縁下の草むらにそっと隠れて、なかの様子を窺った。薄暗がりの正方形の部屋のなかで、が、打ちひしがれたような背中をしてへたり込んでいた。歪んだ帯に夕陽が降っている。見てはいけないものを見た気がしたが、見て見ぬふりも彼にはできなかった。

「大丈夫か」

 おずおずと声を差しだす。がにぶく頭をもたげる。横顔にも夕暮れの波が打ち寄せて、彼女の乾いた瞳のなかで光のしぶきが砕けた。

「舞踊なんてちいっとも好きじゃないわ。三年もお稽古して、なんにも上手にならないの」

 が若利に目もくれずに呟く。好きではないということと、上手にならないということと、若利にはその二つにどういう差異があって、どんなふうに繋がりあっているのか分からなかった。彼は幸福な子どもであったので、その二つの物差しで、別々にひとつのものをはかる必要に迫られたことは、ただの一度もなかったのだ。

「なら、どうして踊るんだ?」

 振り返らないままの横顔がかすかに若利の声のほうへ向く。彼女は呼吸ひとつぶんの間だけ唇を閉じた。その静けさは何と答えるか考えているふうでもあったし、定めた言葉が舌の上で澱んているふうでもあった。

「……わたしの道にあるものから、逃げたくない。それだけよ」

 足袋の爪先を立てて、がみごとなまでにまっすぐ立ち上がる。彼女の所作には無駄がなく、余裕があった。「なんにも上手にならないの」と本人は言うが、若利にはの動作のひとつひとつが舞いのようになめらかに映る。皺の寄った着物も、曲がった帯も、正しい乱れなのだと錯覚してしまいそうだった。


「なあに」
「……いや、帯がくずれている。帰る前に直したほうがいい」
「……うしろ……? ……届かないわ。直してもらえる?」
「……おれにはさわれない」
「そう」

 異性というものに恥ずかしさを覚えたわけでも、怯えていたわけでもなかった。むしろの背中は、薄赤い着物と可憐な帯と艶やかな黒髪を従えているにもかかわらず、どこにもそういう匂いが移ろいでいないように思えた。十歳という年齢のせいではない。が、自分にとって、そういう道に立っているひとなのだと、彼自身がそのとき理解しはじめていたから。

 届かないわ、と言ったくせに、は器用に指先で着物の皺をととのえ、見えもしない帯の歪みを正確に直した。さすが、手慣れている。いつの間にか落としていたボールを拾いあげながら、若利は淡々と遠ざかっていくの背中をまぶしく睨んだ。陽の沈むほうへとの道が続く。彼女のつくった細く長い影が、でこぼこの庭の黒土に延びている。



 小さな薄桃色の唇からこぼれてきた、割れない氷のような言葉が、時々ふいに若利の脳の隅をひやりとさせる。中学校に上がって、若利は平日も休日もすっかり部活動中心の生活になった。と顔を合わせる機会は格段に減り、若利の祖母が腰を痛めたことをきっかけに、も舞踊の稽古を辞めてしまった。家族の付き合いはあるていど残ったが、今では遠い親戚のようなものだ。それでも、何もなくなってしまったわけじゃない。歳を重ねるたび、若利には塞いだ家族以上に、近しい他人がたくさんあらわれた。父が彼の道の上に残した去った、バレーボールをつうじて。今はもう、こんなに遠いのに。はっきりとした他人が、近くもない他人が、いつまでも遠い親戚のようである。薄れも掠れもしないものがあると、若利はどこかで信じた。まるで踏みしだかれない、花の道。

 十七歳の新年を、若利は部の仲間と一緒に、高校の学生寮で迎えた。数日後に東京での全国大会を控えていて、ほとんどバレー部の面々は寮と体育館に軟禁されているような状態だった。初めて、家族以外の人間と共に過ごす正月。元日の昼下がり、久々の寮の許しを得て、若利は同輩たちと願掛けのような初詣に向かった。近場の東照宮はさすがの混雑ぶりだった。そんななかで、全員が白いマスクをした長身の集団は、あまりにも悪目立ちする。牛の歩みのように流れる参道でも、心なし彼らのまわりにはおのずと道が拓いていくように思われた。

「あとでおみくじ引こうよ、おみくじ」

 手水舎で濯いだ指先をはじきながら、天童はまだほのかに濡れている手をコートのポケットに突っこんだ。その場にいる全員に対する提案だったが、誰が賛同するよりも前に、彼の隣で水を手に受けていた瀬見がすぐさま不満の声を上げた。

「あー、俺パス。春高前に凶とか引いたら終わってんじゃん」
「だいじょーぶ、俺、大吉しか引いたことないし」
「大丈夫じゃねえよ! なおさら凶でたら不吉じゃねーか……」

 天童の言うことはいつも本当なのか適当なのか、その境界を綱渡りしているような言葉ばかりだった。何も答えず、若利もマスクを剥ぎとり、柄杓の水を手のひらに溜める。清々しい冷たさ。コートのポケットからハンカチを取りだそうと視線を動かしたとき、若利は手水舎近くの石灯篭の前に見慣れた人影を見つけた。たったひとり少し顔を俯けている、鮮やかな朱色のケープを羽織った彼女。別人と間違えるはずがない。若利はいつだって、彼女のことを目に見えるものでしるしづけているわけではないのだ。

「……
「ん? 若利なんか言ったか」
、……!」
「っ、おい、若利?」

 手にしていた柄杓をおざなりに戻して、若利は手水舎に並ぶ人波をかきわけ、なんとかのもとへ駆け寄った。若利が伸ばした手に反応して、が肩を揺らし、顔を上げる。うっすらと化粧をしているのだろう。驚いた表情のの縁どられた目はまんまるくみひらいて、彼女の小さな顔には不釣り合いなぐらいの大きさだった。

「若利さん、やだ、……びっくりした」

 彼女と顔を合わせたのは夏休み以来のことだったし、こんなふうに思いがけずすれ違うような経験も今まで殆どなかった。突然駆けだした若利を追って、ぞろぞろと部の仲間たちが彼に着いてくる。背の高い男があとから次々に現れて、は目をまるくしたまま、それでも愛想よく丁寧に頭を下げた。旅館の女将のような仰々しい仕草も、彼女がこなすとさまになる。とうてい女子高生の所作には見えなかったけれども。

「あけましておめでとう。若利さんたちも初詣?」
「ああ、部活の仲間と」
「やっぱり。皆さん、うんと背が高いものね」
「お前はどうしたんだ。こんなところで、ひとりで」

 しらじらと明るいの肌の上に少しの赤みが差している。しばらくこの寒空の下にじっと立っていたのだろう。スウェード地のグローブに包まれた両の手も、冷たくかじかんでいるかもしれない。若利の透明な問いかけには口もとを手で隠しながら笑った。何も面白いことなどない。だとしたら何かをごまかしたのだ。今度は若利が目をまるくする場面だった。彼女は火の中にも凄然と立つような人間だと、曖昧さに心を砕くような人間ではないと、彼は心のどこかで、という人間をそういうふうに信奉しきっていたから。

「少し人とはぐれてしまって、ここで待ち合わせてるの。どうぞお先に行ってらして。今年もバレーボール、がんばってね」

 いくら脇道へ少し逸れているとはいえ、元日の混雑のなかではこれ以上この大人数でそこに立ち止まっているのは難しかった。不自然なほどすべらかなの言葉に押しだされるようにして、彼らは再び参拝客の波に呑まれていく。黒やグレイの薄暗い色味のコートの奥に、の真っ赤なケープの色が消えてなくなってしまったとき、その頃合いを見計らっていたかのように天童が後ろを振り返りつつ口をひらいた。

「今の子…………すーごい、かわいかったね。なんかコフウな感じで」

 話し言葉も、立ち居振る舞いも、着物の慣れた着こなしも、初対面の人間からすればその一言にふさわしいものなのかもしれない。ピーコートのポケットに突っこんでいたマスクの皺を伸ばし、もう一度つけなおす。ゆっくりと足を動かしながら、心はまだの目の前にとどまっているような心地がした。あんなに柔らかな笑顔で「がんばってね」と言われたのに、どうしてその一言から味も匂いもしてこないのだろう。
 否、あんな柔らかな笑顔だったからこそ。

「昔からの知り合いだ」
「へーえ。幼なじみみたいな?」
「ああ」
「カノジョじゃなくて?」
「ああ」
「"若利さーん"?」
「ああ」

 彼女を自分にとっての何と説明したらいいか分からず、若利は適当に天童の問いを上の空であしらった。まだ何かを訊きたげだった天童を強引に引っ張って、瀬見がひと足早く石段を上がってゆく。
 今しがたのの最後の表情を思い返すたび、小骨が引っかかっているかのような不快感が喉もとに走った。あの、笑顔。十年間ずっと見てきたの顔に、十年間、一度も見たことのなかった表情がほのかに漂っている。若利はやがて、ひとを変えたり変えなかったりするのは時間ではないのだと思い至った。ひとを変えるのは、ひとなのだ。



 記録的な猛暑日が更新され続ける東北の八月、毎日が痛みを刻みつけるような陽射しとの勝負で、それは一日の大半を体育館で過ごしている若利にとっても厳しい戦いだった。慣れているとはいえ、いやになる。雲ひとつない空の下を歩いて、何年かぶりにの家の旅館を訪ねると、そこは記憶のなかの不気味に静かな旅館とは随分と違っていた。今の時期だけよ、と迎えてくれたが玄関先のカレンダーを見上げて笑う。八月十三日。若利の十八歳の誕生日には彼をここに招いた。

「若利さん、何か変わったことはあった? お正月はあれしかお話できなかったもの。きっと色々あったでしょうね」

 が、若利の下っ腹を帯できつく締めつけながら訪ねる。誕生日のお祝いに渡したくて、と言ってが若利に差しだしたのは藍色の地に縞柄のシンプルな浴衣だった。のように幼いころから和装に慣れているわけでもない若利には、帯の結び方ひとつ心得がない。こうやって結ぶと簡単だし見栄えがいい、と教えるような口調で言われても、視線をゆるりと下げれば俯き加減ののおそろしく整った貌があって、頭に入るのはくだらないことばかりだった。
 大人たちの言葉を借りれば、はすっかり「娘らしく」なったのだと思う。「おひいさん」と呼ばれて、大して嬉しそうなそぶりも見せなかったころのはどこか高潔で、今思えばその子どもらしくないところが、一等に子どもらしいところでもあったのかもしれない。年齢や性別に抗えるひとはいないだろう。それでもの美しさはそういう束縛に依らないところがあって、若利は今やはっきりと、の寄る辺ない美というものを好いていた。それは誰にもないものだった。少なくとも若利にとっては。

「相変わらず部活ばかりで、変わりないが」
「それが色々なんでしょう、若利さんにとっての」
「色々でもない。同じことを毎日繰り返すのが練習というものだ」
「螺旋階段をのぼってゆくようなものね」

 彼女の受け答えの端々に懐かしい記憶を貴ぶようなうすいろが滲む。かつては自分もその螺旋階段をのぼっていたのだ、という懐古の色。帯を結び終えたの手がそろそろと離れていく。冷房の効いた客間のなかで、若利はじんわりと背に汗をかいていた。

、お前は」

 立ったままの若利を置いて、は座卓のそばに腰をおろした。自家製だという葡萄ジュースをストローで所在なさげに掻きまわす、細い指先。とても長い時間、氷がグラスにぶつかる音が不規則に響いていたような気がした。永遠などない静けさを涼しい夏の音色が彩る。やがては、正座した脚を片手でさすりながら、絞りだすように声を発した。

「わたし…………わたしね、お見合いをしたの」

 の手の甲が太腿から膝、ふくらはぎ、そして白い足袋を履いた足の裏へとぎこちなくすべっていく。なんの覚悟もなかったが、彼女の告白に、若利は驚きはしなかった。ただ、耳なじみのない言葉よりも、がその言葉を言い澱んでいるという事実に、心臓をきつく締めあげられる。逃げたくない、とかつて凛々しく吐き捨てた、あのが。

「去年の暮れのころに。そのひとと、いま、お付き合いしてる。穏やかで、しんとしていて、冬の陽なたのようなひと」

 元日にを見つけてしまったときのことを思いだす。突然目の前に現れた幼なじみを心から追いだすような、彼女のどことなくよそよそしい、柔らかな笑顔。本当はあのとき、気づいていたんだろう。のことも、自分のことも。だからこんなにも、動揺することすらできないのだ。障子に染みる午後の木漏れ日が、ふたりの背中や首筋を温める。もしも彼女がこの告白のために自分をここに呼んだのなら、と若利は考えた。だとしたらそれは、一生分の賭けに出るような残酷さだ。

「結婚するのか」
「ええ。高校を卒業したら、いずれ」
「はやいな」
「そうね。……そうかもしれない」

 渇きとはまた違うひりつく痛みが、言葉を口にするたびに喉もとを襲う。そういえばこの奥まった客間は、ふたりが初めて顔を合わせた場所ではなかったか。

「それが、お前の選んだ道なんだな」

 突き放したつもりはなかったが、若利にとって自分の意志で口にしたその言葉は、思った以上にずっと彼女の選択を責めていた。正しさや優しさではなく、ただの嫉妬のせいで。目も合わせずに大層な話をし続けていたが、弾かれたように顔を上げる。大きな瞳の下に哀しく光っているもの。若利はそのときの涙を初めて見た。彼女は祖母にいくら怒鳴られても、時に手を上げられても、隔たった遠いところに痛みや怒りを蓄えているような、澄ました顔をし続けていたはずなのに。
 着物の裾など気にせずに、重心を傾けるようにして駆け寄ってきたのからだを、若利はとっさに腕で支えた。片手で支えられるぐらいか細いからだのはずなのに、の持て余している熱は重くのしかかり、このままふたりして畳の上へ崩れ落ちてしまいそうだった。息が、詰まる。

「おめでとう、って言って。ねえ、言って。言って、若利さん……」

 言ってとせがまれたその言葉を、若利はついに彼女にかけてやることはできなかった。いくら口先で祝福をしたところで、を責めてしまった身勝手な自分はもう消えないのだ。なんの約束をしたわけでも、確かめあった気持ちがあったわけでもない。それなのにどこかで、そんな態度を出過ぎた真似だとも思っていないような、当然の怒りだと思っているような、どこまでも傲慢な自分がいた。涙なんて程遠い、いっさいの湿り気を帯びていないが好きだったはずが、惜しげもなく自分の胸のうちで泣いているのことまで、いとしいと思ってしまっている。若利は、の熱い背中をなだめながら、或る決心を練り上げた。誰も踏み入れたことのない花の道に土をつけること。がそれを望むのならば、花盗人になることだって、厭わない。



 あの夏の日が嘘のように過ぎ去って、肌を舐める風がきりきりと冴えわたり、あのときの決心がついに孵化して現実になった。待っていてくれと言ったのは若利で、この場所を選んだのはだ。にとって多少の忌まわしさがいつまでも付き纏うこの離れの部屋のなか、若利は彼女がやはり、修羅のような女であることを思い知った。は過不足なく濡れていたけれど、涙を扱うこともなければ、扱うことのできない涙を流すこともない。若利は顔を上げたついでに、の目じりに舌を這わせた。味など分からない。ただ、の小さなからだでは抱えきれない、放出された熱だけが確かに伝わってきた。
 畳の上はかたくて、きっと冷たいだろう。はしばらく若利の背中に腕を回していたが、それも疲れてしまったのか、今はもうすべてを投げ打っていた。夕陽の最後の一滴が、の鎖骨を輝かせている。五時の鐘が鳴って、あれから、時間というものをふたりは捨てたままだ。

「若利さん、聴こえていた? わたしが、赤線の娘だって、あなたのお祖母さまによく怒鳴りつけられていたの」

 衣擦れの音のように繊細に掠れたの声が、たどたどしく耳に落ちてくる。若利は少しだけ頭を動かして、かすかに頷いた。庭先に漂う不穏な密室の空気。あの「感じ」を憶えている。それは若利にとっても、充分、忌まわしい記憶だった。

「意味を知ったときは、すごく悔しかったけど……今はなんだか、思い返すだけで、可笑しいの。だってわたしに、ぴったりでしょう」

 は本当にどこか楽しげで、若利にはの表情も言葉も、謎めいた異様なものに映った。そしてが異様であればあるほど、この行為に現実の色香がしとどに乗り移っていくのを感じた。の腰を撫でながら慎重に支える。いたわっているつもりが、少しでも気を抜けばすぐに、自分の具合のいいように従順なのからだを打ちつけてしまいそうでこわかった。大丈夫か、なんてありきたりな文句を逐一投げかけることができれば。だけど、そんな言葉の応酬は結局、ふたりを傷つけるだけなのだ。

「先生がわたしたちのことを知ったら、きっとまた同じふうに仰るわ」
「頼むから、少し黙っていてくれ」

 が花びらを一枚一枚千切るように笑う。若利は何かを不法にも占われているような気分になって、焦り、昂ぶり、少々手つきを乱した。乱数の内側にこころよさが跳ねる。そういうものらしい。不揃いな手つきがの目を見張らせる。いちはやく頂上までのぼりつめたいという衝動と、永遠にこの衝動のさなかでとどまり続けたいという想いがせめぐ。互いの呼吸の音は、いつのまにか、ぽつりぽつりとふたりが呻き合う声なんかより、ずっと荒々しく大きなものになっていた。

「若利、さん」

 自由なきっかけで、の四肢が甘やかに張りつめる。このままに覆いかぶさっては、の息継ぎを妨げてしまうだろうと、若利は必死に耐えた。けれど、彼女の腕が温かな蜜の匂いのように伸びてきて、耳の裏から、若利の頭を抱えこんだとき、彼のなかですべての緊張の糸がほつれた。逞しい筋肉質な図体を、ペットの毛並みのように撫でられている。ああ、とが、何よりも深いところから十年分の曖昧な関係を許すような溜め息を吐きだした。

「ありがとう、わたしを逃がしてくれて……」

 絶対に渡ることのできない花の道だと思っていた。そこに眩暈するほど花が落ちていたのは、こうやって踏みしだかれる日を待っていたわけではないはずだ。せっかく、盗人になる覚悟をして奥まった場所へと踏み入ったのに、そんな美しい溜め息でこのつまらない逃避行を許さないでくれ。互いに、漸近線のような道の上に生まれてきた。だからこれは、ふたりにとって寄り道のようなものなのだ。逃げても逃げても、いつかは辿る交わることのない二本の道を、頭のどこかでぞっとするほど冷静に弁えている。

 ――それでもたった一度の寄り道もない人生よりも、この一時の夕べはずっと素晴らしいものだろう。









THE END

2017.1
title by Bunzo Uchiumi