※ 趣味の悪いお話|若干の性描写あり




 鞄の奥底に入りこんでしまったケータイを手探りしていると、指の腹に尖った金属の冷たさがさわった。引っ張り出さずとも見当がつく。それが、ふたりの秘密基地へと通じる分不相応な鍵だということ。金メッキのキーホルダーごと手のうちに握りしめ、なんとなく、俺はそれをコートの外ポケットへと沈めた。
 青城の最寄駅から在来線に乗って二つ目の駅で下車する。ホームに降りるとき、また、鼻の奥が痛くなるような香水の匂いとすれ違った。同じクラスの連中は「聖女様」だとか「高嶺の花」だとかなんとか言って褒めそやすが、通っている高校と着ている制服だけでその存在を有り難がる神経が俺には皆目分からない。ブランド、というやつなんだろうか。自分からは途方もなく縁遠い発想だ。

 数学の教科書を何ページが犠牲にして挟まっていたケータイは、結局つかうまでもなかった。「今着いた」と連絡を入れるよりも前に、の伏せた横顔を大通りの向こうに見つけてしまったのだ。店内に入り声をかければ、コーヒーの匂いが立ちのぼるようにが顔を上げる。駅前の喫茶店の、窓際のカウンター席。彼女はひとり何かの本を読んで時間をつぶしていた。

「悪い。ミーティングが少し長引いた」
「ううん全然。そんなに待ってないよ」
「払うわ。いくら?」

 待ち合わせの場所はいつも駅前広場の時計の下と、なんとはなしに決まっていた。だけど二月の終わり、約束の時間に三十分も遅刻してくる男のことを、わざわざ屋外で待ち続けるいわれはない。白いダッフルコートを着こみながら、は何も応えず笑顔をつくるばかりだった。マグカップに半分ほど残っていた飲みものを置き去りにして、「行こう」と俺を促す。やんわりとした拒絶を前に、出しかけた財布の行き場はなかった。
 ロータリーの乗り場でバスを待っている数分間、寒そうに口もとで息を吹きかけていたの両手を無言で片手に握りこむと、「定期だせないよ」とは俺のどうってことないちょっかいを軽やかに笑った。三十分の遅刻を、こいつが今さらなんとも思ってないなんて、分かってる。埋めあわせることばかり考えているのは、意地のようなものだ。ドアが開くと同時に、俺はよりも先にバスに乗りこんで、ほどほどに埋まっている車内を隅まで見渡した。

「こっち座れ」
「ん、うん、ありがとう」

 二人掛けの席の通路側の一席が運よく空いていて、俺は迷いなくを奥へと導いた。少し遅れてが通路を歩いて着いてくる。バスが発車し、よろめきそうになった彼女の腕に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。窓際に座っていた買い物袋を抱えた主婦サンが朗らかな笑顔をして立ち上がったのだ。

「お兄さんも一緒にお座んなさい」
「あ、いえ、俺立ってます」
「いいのよ。おばちゃん次で降りるから。そこ、ボタン押してもらえる?」

 そう言われて、はすぐ透明なマニキュアでコーティングされた爪先で窓際の降車ボタンを押した。女どうし、にこにこ笑いあって、真っ先に俺が言うべきだった「ありがとうございます」も彼女に先を越されてしまう。良かったね、と言いながらはするりと窓際に席を詰めた。有り難いけれど、出鼻を何度もくじかれ、格好も何もつかないとはこのことだ。
 ロータリーを走りだしたバスは駅前から通りを抜けて住宅地へと向かう。月曜日の放課後、目的地はたいていの家だった。平日でも、土日でも、俺の家が空になる機会はめったにない。母親は専業主婦だし、二世帯でじいちゃんとばあちゃんも健在だし、家族揃って近所付き合いが好きで、なんつうか、の家に比べれば隙の多い家だ。まあ、俺とがふたりきり家にいたところで、兄妹のようなもので、どちらの家族もなんとも思わないかもしれないが。
 それこそが、何よりまずい。きっとそうなんだろう。

「はじめくん、大きいから、席ぎゅうぎゅうだね」

 無駄にでかいエナメルバッグを抱えこんで、かさばる冬のコートを着こみ、ただでさえ簡素につくられている路線バスの二人掛けは俺のせいでなんとも狭苦しかった。ふたりの腕が当たり前のようにひっつきあっている。コートに立てば人並みもない背丈でも、と比べればもちろん、肩の高さは随分と違う。バスが揺れるたびにの髪の匂いが鼻に届いて、今になってもそんなことにいちいち意識を持っていかれる自分が愚かしいと思った。恥知らずだと。

「おとつい、徹くんに会ったよ」

 突然、背骨が冷たく痺れる。その声を通したその名前と、バスの停車するエンジン音と、心臓のあたりで唸る音がぐしゃりと重なる。運転席横の乗降ドアからさっき席を譲ってくれた主婦サンが降りていって、俺たちは同時に会釈をした。

「どこで」
「北口の本屋さん。青城のジャージ着てた」
「ああ……」

 そうだな、そうか、そうだよな。土曜日、練習試合の帰りにあいつとラーメン屋に寄って、電車で帰ってきて、「本屋寄ってくから」と言われてそこで別れたことを思い返す。ガキのころから今まで、三人揃って家も近く、行動範囲はそんなに変わらない。会うよな、会うわ、別に驚くことでもなんでもない。驚いているわけじゃない。こんな、バカみたいに心臓が大きく鳴っているのは。

「なんか言ってたか」
「えー、うーん、ん」

 バスが十字路で左折して、は揺れに身を任せるようにして俺の肩にやわらかく頭を寄せた。彼女の重みが触れた端から滲みだすように、からだの内面からじわじわと、全身に浅く負荷がかかっていく。は変わり映えのしない流れる景色を横目に、猫が甘えるようなそぶりをしてその先の言葉を言いよどんだ。車内の暖房がきつくて、マフラーをしたままの首もとにいやな熱がこもり始めていた。気持ちわりぃ。

「久しぶり、って。あと、おだいじにね、って言ってた」

 嫌気がさすほどふたりのことを知っている。俺はそういうニンゲンだから、その一言だけで、俺の居ないそのときの本屋でのふたりの感じも、が今どういうためらいのなかでその言葉を俺に晒したのかも、よく分かってしまった。自惚れでもなんでもなく、手にとるようにつぶさに。たったそれだけのシンプルな伝言のなかに、の俺への恨めしい気持ちが詰まっているということも。

(あーそうだ、ちゃん、あの子、うちの母さんが焼いたケーキ好きだったよねえ。土日どっちか、一緒に食べにきてよ。つくりすぎちゃったみたいでさー……)

 年に一度、街のいたるところでチョコレートの鮮やかなラッピングが目につくころ、街並みの浮かれた色を通り過ぎながら及川が気まぐれにの名前を口にした。まだ、たった十日前のことだ。不意打ちの誘いに、あいつの声を通したの名前が懐かしく響いた。そもそも、及川は昔から自分なりのあだ名をつけて親しい人間を呼ぶ癖があって、のことはいつも「いもうとちゃん」と呼んでいたはずだ。妹じゃねえけど。あのころ、「いとこ」というものの距離を俺たちはうまく理解できていなかった。
 青葉城西はのアタマには妥協するにしても易しすぎる進路の選択肢だった。三人が足並みを揃えていたのは公立中学までだ。だから、ひと足先に高校に入学してから、俺たちの共通の話題のなかからはだんだんと姿を消していった。試合のときや文化祭のときに少し顔を合わせるぐらいで、及川の散漫な記憶のなかでどれだけの存在が薄らいでいたかは知れない。それでもとにかく、あいつはいきなりの名前を呼んだ。そんな呼び方、あのころほとんどしていなかったくせに、ご丁寧に好物のことまで思いだしながら。

(あいつ、風邪引いてるらしい。たぶん、無理だろ)

 それが、あまりにも突然のことだったから。そんな言い訳では自分さえも騙せないし、むしろ墓穴を掘っているような不自然な伝聞だったけれど、反射的に溢れてしまったものはもう取り返しがつかなかった。それを「ほんとう」にするしかない。「お前よく風邪もらってんだからいい加減にしろ」と、もっともらしいことを咄嗟につけ加えてから、自分の口を針で縫いつけたくなった。嫌気がさすほど知っているということは、嫌気がさすほど信じているということとは、まったく違うらしいのだ。

 信号の色が変わって、車体が上下に揺れて止まる。コートのポケットにそっと指を差しこむと、冷たい金属のかたさが触れて、薄暗い安堵が霞のように胸にひろがった。この鍵は、扉を開くためのものじゃない。鍵を掛けることの欲望は、誰にも侵されたくない何かを隠して、そこに閉じこめておくことにある。



「あ」

 最寄りのバス停を降りての家までは五分もかからない短い道のりだった。あの角を曲がれば屋根のくすんだ赤色が見えてくる、人通りの少ない住宅地の坂の途中で、突然、彼女の足が止まる。数歩進んでしまってから振り向くと、メールでも届いたのかがケータイの画面と顔を突き合わせて突っ立っていた。薄い夕焼けの光がの髪を茶色く染めていて、思わず目を細めた。

「どうした?」
「……ごめん。もう帰ってるかも、お母さん。お醤油買ってきて、って」

 困ったような顔をしてが視線を上げたので、促されるまま彼女のケータイを覗きこむと、画面にひらいていたのはの母親から届いたメールらしかった。買い物に行ったけど醤油を忘れたから帰りに買ってきてほしい、というようなことが書いてある。些細な連絡ひとつ。無言で数秒、ふたりの目と目が合う。冷たい風が吹きつけて、気まずさが心許なさに成り代わった。こんなことで、もう、俺たちは途端に行くあてもなく冬の真下に放りだされてしまうのだ。

「どうしよっか。……駅のほう、行く? あ、お腹空いてるなら、」

  俺の顔を窺いながら、はあからさまに申し訳なさそうな表情をつくった。気を遣わせてしまっている。きっと今、俺が愚かしいほどに分かりやすい顔をしていたから。「どうしようか」なんて考えもせず、ポケットに忍ばせていた手はすがるように金属の尖りを握りしめている。手中にある小さな棘。何度も何度でも俺たちを、袋小路に導いた。

「ガレージ」
「え?」
「……ワーゲンの鍵なら、俺が持ってっけど」

 提案のひとつのような顔をして、腹の内には遠慮のかけらもない、ずるい物言いをした。の眼が、戸惑いを含んでまたたく。理解が及ばないのか、及んでしまったからこそなのか。数秒間も待ちきれず、俺はの腕を引っ張っていた。わ、と背後で彼女の声が洩れる。だけど答えを待つまでもなく、ふたりの居場所はもうそこにしかなかった。

 の家のガレージは、通りの裏手にひっそりと佇んでいる。車二台分のスペースがあって、奥に押しこまれているキャンピングカーは今となってはほとんど使われることもなかった。だけどこのワゴン車には、夏休みのキャンプやバーベキュー、天体観測、そういうガキのころの思い出がたくさん詰まっている。俺たちがなぜかこの車のスペアキーを持っているのも、さんざんガレージを遊び場にしてげんこつを喰らっていた、その当時の名残りのようなものだ。物心ついたころから、この場所は俺たちの秘密基地だった。「秘密」の意味合いは、ある日を境に、すっかり変わってしまったけれど。
 あのころ夢中になった秘密のありかに、異質の秘密が上書きされていくということ。それを思うといつも、後悔と、少しの興奮が胸にせりあがってきた。俺もたいがいクズだ。俺はここにを独占する一番の方法が眠っていると、ずっと気づいていた。

 半分ほど開いていたシャッターをくぐり抜け、内側からシャッターを下ろしてしまう。ガレージに停まっていた車は目当ての一台だけだった。車で通勤しているの父親が帰宅するまでには、まだ充分すぎる時間があるだろう。危ない橋だとも思わない。いつからか、慣れてしまった。
 ガレージの白熱電球の明かりを頼りに、ワーゲンのイスの背もたれをめいいっぱいに倒す。当然のこと暖房も何もついていないから車内は冷えきっていたけれど、北風から逃れられるだけでも有り難かった。鞄をフロントシートに放り投げて、手を差し伸べる。無口になっていたがおそるおそるといった感じで俺の手をとり、右足をサイドステップにかけた。指先まで氷のように冷たい手だった。離したくない、温めていたい。身の程も知らずに、そう思った。

「……ほんとうに、するの?」

 訝しげにそう呟くをわざと知らないふりをして、彼女のマフラーを剥ぎとり、コートの留め具をはずしていく。見慣れた白襟のセーラーと純白のスカーフ。細い腰から服のなかへ手を差し入れようとしたとき、の右手が俺の腕をつかんだ。スカートの裾を皺にして、が俺の膝に体重をかける。それはじゃれているとも、駄々をこねているともとれるような触れ方だった。

「寒いか、やっぱ」
「じゃなくて、部屋だと思ってたから……」
「俺も」

 だから安心しろ、なんつう調子のいいことは言えないが、そういう身勝手な意味をこめて、の髪を撫でつけた。溜め息が胸に染む。それが、脈拍を乱していく。夢中になることはたやすい。加速度をつけて一途にどこまでも落下していく。はもう不平も不安もおもてに出さなかった。ただ俺にしがみついて、車内の無機質な冷たさを嫌がるように背中を縮こまらせていた。
 は昔からあまり口数の多いほうじゃない。
 言いたいことがあっても思うように口をひらくことができないで、気づいたら俯いて涙を流していたり、機嫌を悪くして塞ぎこんでいたり、そういう、手がかからないようでいて駄々をこねられるよりもずっと世話のかかるやつだった。が泣くと、ひとつ年上の俺に必ずしわ寄せがくる。「はじめはお兄ちゃんなんだから」と何度言われたか分からない。それでも、俺はをうっとうしいとか、邪魔だとか思ったことは一度もなかった。性分なのかもしれない。世話を焼いて、そうやって、自分の位置を確かめている。今も昔も変わらない。その仕方が、ずれてしまっただけで。

 言葉よりも、の態度は多くを俺に伝える。彼女が沈黙したときこそ言いたいことが渋滞しているときなのだと思うから、こういうことをしていても、息遣いひとつ、反応ひとつにだんだんと神経が研ぎ澄まされていく。
 脚を割るように、タイツの上から内腿を撫でると、は腰を引いて俺の膝の上から逃げようとした。少しかたい、倒したシートの上にそのままの背中を押しつける。薄い黒のタイツは爪先を引っ掻ければすぐ破れてしまいそうで、ただ触れるのにも指先が震えた。
 はじめくん。語尾が溶けてなくなるような早口で、が俺の名前を囁いた気がする。タイツを下ろすのもそこそこに、手に馴染むやり方で、そこに指をうずめたとき。慎重に指を差し入れてしばらく、の呼吸がいつもとは違う吃音を溜めていることに気がついた。顔を上げると、なぜか、がしくしくと泣いていたのだ。それはもう、子どものように。

「痛いのか」

 慌てて指を引き抜いて、問いかける。が乾いた音を立てて鼻をすすり、首を振った。それは横か縦かもよく分からないぐらい、かすかな訴えだった。

「きょう、だめ……」

 暗いなかでもの眼の潤みや、頬に差す色が、獣に還っている俺には難なく見てとれた。痛いわけではないのだろう。それは、引き抜いた自分の指先のぬめりが、彼女の態度としてありありと教えてくれていた。

「……だめ、つっても」
「ひっ」

 の肩が跳ねんばかりに揺れる。拒絶されてしまった右手を、なんとなく彼女の薄っぺらい腹部にあてがったとき、浅くひらいていた唇から小さな悲鳴が洩れた。泣きながら熱い息を吐いている。彼女が何を訴えているのか分からなかった。混乱して、それなのにどうしようもなく昂る。自分を抑えながらの沈黙を読み取るのは、いつも、こんなにも難しい。

「よくわかんねぇけど、落ち着け」
「だめ、だっ、汚くしちゃう、っから」
「大丈夫だから。な」

 大丈夫という一言には特別なんの根拠もない。不誠実を踏み台にしなければ届かない場所に、自分だけが触れたくて、誰からも隠しておきたいものが潜んでいる。めずらしく声を上擦らせたのことを、俺は結局、いつも通りの手順で塞ぎこんだ。そうすれば大人しくなるだろうと高を括っていた。もう一度、指を沈めて、折り曲げる。できるだけ優しく、が痛みを覚えないように。

 大丈夫なんて、なんのあてにもならない。
 俺の、大丈夫なんて。

(大丈夫だから。いいかげん泣きやめって)

 今も脳裏に刻印されている、十歳の夏のこと。の親父はこの車で、俺たちを近場のキャンプ場に連れて行ってくれた。今思い返すと夢の中のようで、俺も寝ぼけていたし、はもう覚えてもいないかもしれない。懐中電灯をつけなければ何も見えないような闇のなか、泣きじゃくるに揺り起こされて、ふたりでキャンピングカーを抜けだした。零れんばかりの星の海が、ガキの俺たちには綺麗でもなく、ただ怖ろしく、真夜中が眼をみひらいて睨みをきかせているように見えた。
 昼間はどうってことなかった道も、夜の幕が下りるとまるで別の顔をする。懐中電灯を頼りに歩いた簡易トイレまでの道のりは、慈雨には我慢ならないものだった。道半ばでがしゃがみこむ。ずっと泣き声を聞かされて、俺はただ、哀しい気持ちになっていた。

(ごめん、っ、ごめん、ね)

 の手から潰れたポケットティッシュを奪って、俺は、の濡れた内腿を拭ってやった。汚いとか、面倒だとか、少しも思わなかったけど、の涙が喉にうつって、呼吸が苦しかった。泣くなよ。泣くな。その願いは、自分のための願いだった。

(いいよ。ずっと、つらかったんだろ)
(はじめくん……)
(ん?)

 星明りの下で、闇に慣れてきたふたりの目が合う。ぼろぼろと落ちてくるのに、なぜか、の涙は星よりも遠い。せわしなく息をするの唇がひらいて、しんとした黒い空気に彼女のか細い声が透き通った。

(とおるくんに、いっ、言わないで、ね。内緒に、してね)

 あのときは、からかわれるのが嫌なのだと、単純にそう思った。
 バレーを始めてから、俺はほとんど毎日あいつと一緒にいたし、ふたりが時折、俺の家で鉢合わせると、あいつは必ずのことを「いもうとちゃん」と言いながら構って、彼女を困らせているように見えたから。それに俺が、及川の見てくれがどうやら異性から見て恵まれているらしいということに気づいたのは、もう少し先のことだった。
 そういう幸福な鈍さをいつまでも大切にしておけばよかったと、今になって思う。すべて、後の祭りだ。
 ここには、ふたりの思い出がありすぎる。
 一年前の夏、近所の花火大会を抜け出して、俺たちはここに懐かしい秘密の巣をつくりなおした。は最後まで抵抗した。彼女が拒んでいたのは俺自身でも、その行為でもなく、ふたりの関係そのものだった。俺だって罪悪感が何もないわけじゃない。それでも俺は、涙を流し続けるにたったひとつの証明を迫った。泣くな。泣きやんでくれ。あの日も自分のためだけに、彼女の涙を止めようとしたのだ。

「……だめ、って言ったのに……」

 の涙は止まるどころかどんどん酷くなる一方だった。目じりに寄せた指先も手痛く払われ、はこちらを向いてくれもしない。脱力したからだを俺からそむけて、顔を腕で覆い隠し、泣くばかりだった。
 付け根が濡れてしまったタイツも、染みをつくってしまったシートカバーも、傷つけてしまったも、もう元には戻らない。頭を冷やして考えるべきことや言うべきこと、するべきことがたくさんあるはずなのに、血はひとところに溜まり続け、正常な巡りを忘れてしまった。粘液にまみれた指先を見下ろして思うのは、過ぎ去った今までのことばかりだ。今ここで、毒にも薬にもならない十歳の夏の記憶なんか引っ張りだして、これから先のことなんて何も浮かびはしない。この非常な一点すら越せない自分に、この先もクソも、あるだろうか。

「……
「ひ、ひどい、っ、ばか、はじめくんの、ばか」
「ごめん」

 全然、何も大丈夫じゃなかった。何も安心させられず、何の不安も分かってやれなかった。

「ごめんな、馬鹿で」

 どれだけごめんと言ったところで嘘になるのは、半分はお前のせいだと思う。どんなに泣き叫んでいても、明日になればまた、何事もなかったように笑いかけてくるのがだ。うんざりだと思う資格も、救われる資格も、俺にはないけれど。

「っ、あ、」
「これ、終わったら一緒に、醤油買いに行こうな」

 どろどろに溶けていく中途のからだから、潰れた声をひねりだす。閉じてしまったものを、何度でも抉じ開けること。ひらいたそこに、無理やり、秘密を閉じこめること。ここにあるのは、たったそれだけの平らかな行為だ。脚を抱えこむと、異常を察したのか、まるくなっていたの背中がぴんと強張る。優しさの糊で封をしておけるものは少ない。果実のように潤ったの半身に、俺は、俺の張りつめた半身を強く押しつけた。









THE END

2017.2