窓辺の棚に飾られた天体模型に真昼の光が降り注いでいる。金メッキの歯車。青い地球。土星の環。
 薄暗い第二理科室の陽だまりを、赤葦は授業中、何度かにわけて盗み見た。その視線のさなかにの寝顔があって、ひとたびでは胸に収めきれなかったから。目を閉じて、やや俯き、寝息に合わせるようにかすかに首が舟をこいでいる。一番前の、一番窓際の席。するんと黒髪が流れ落ちて、の横顔がふいに隠れ、赤葦はようやく我にかえった。白昼堂々、非現実的な空想を描いていた。彼は近ごろ、目を開けたまま夢に耽っている。真昼に映るそれは、目を閉じて見る夢よりもずっと彼に優しかった。

さん、黒板写せた?」

 チャイムが鳴って目を覚ましたは、しばらく黒板と自分のノートを交互に見て困惑している様子だった。老教師がつらつらと黒板めいっぱいに書きこんだ板書はもはや順序を解読することも難しい。赤葦は身を乗りだして、斜め前に座っている彼女の肩を小突いた。振り向き、が照れくさそうにまなじりを擦る。やわらかくしなる細い睫毛。浅い眠りのせいか、涙袋がうっすらと赤くなっている。

「……あんまり」
「分かりにくいよね、あのひと。よかったら写す?」
「いいの?」
「うん」
「ごめんね、ありがとう……」

 赤葦は黒板の文字をそのまま丸写しにした自分のノートをに渡した。水曜四限の地学の授業は選択必修の科目で、がいつもクラスで共に行動している友人たちと離れる数少ない機会だった。そういうことをいちいち勘定に入れて行動している自分自身を、赤葦は相反するふたつの感情で宥めつけている。浅ましいと思う自分と、こころよいと思う自分が、いる。自分の内面を分析するのは好きではないし、得意でもない。だからこれ以上は詮索しない。それに非連続的な夢の風景を一から十まで並びたてようとするのはお門違いだろう。
 赤葦が座る席の向かいに、は自分の丸椅子を寄せた。方眼ノートの罫線に沿って、彼女はするすると赤葦の書いた惑星の重力一覧表を写しとっていく。赤葦は彼女の書く文字のかたちと、指の動き、なめらかな爪の先を見ていた。あらためて眺めてみると彼女の爪は不格好なほど短く切り揃えられていて、深爪ぎみの爪だった。

さんって爪短いね」
「え、わ」
「あ、ごめん。いや、俺もだから」

 ぎくりとして、シャープペンシルを滑らせていた手を止めたに、赤葦は遠慮げに自分の指先を差しだした。部活中に爪が割れると厄介なので、赤葦は毎日爪を短く整えている。は首をかしげて彼の爪に視線を落としたあと、「ほんとだ、お揃いだね」と言ってシャープペンシルを持ち直しながらほほえんだ。
 同じ授業を受けていた生徒たちはあっという間に教室を出ていって、昼休みの理科室には二人の声とシャープペンシルの滑る音だけが残った。望んでいた静けさの奥から、全身の脈拍が聞こえてくる。いきなり自分の爪なんか見せて、今のはなかったんじゃないかとか。今ここで空っぽの腹が盛大に鳴ってしまったらどうしようか、とか。考えあぐねている。一ミリでもひとつまみでも、のなかに、自分を積みあげていく方法を。

「月に行ってみたいな」

 くるくると交互に二冊のノートを行き来する目の動き。まばたき。少し乾いた唇がひらくのも、今はなんでも、色づいて見える。勝手に浮かんでくるものを沈めるのはとても難しいことだ。

「なんで月?」
「月面ダイエット。あのね、月の重力ではかってくれる体重計があるんだよ」
「ちょっとよく分からない」
「いーの。気持ちの問題」
「身軽になりたいんだ」
「雨の日はとくに」
「晴れてるよ」
「わたし、天気予報より正確だからね」

 冗談めかしてそう答えながら、はシャープペンシルを置いて机に伏せてあるスマートフォンを手に取った。の表情が凪ぐ。晴れでも、雨でも、曇りでもない顔をして、は写しかけの自分のノートを閉じた。

「ごめん、赤葦くん。ノート少しだけ借りてていい? 行かなくちゃ」

 どうして、とは彼女は何も言わなかったし、なんでもない彼女のそぶりを見て、どうして、と思えるほど赤葦もまだ彼女のことを知らなかった。軽く赤葦が頷く。はほっとしたように笑って、ひと足先に席を立った。
 皺ひとつない揺れるプリーツスカートを見送る数秒間、赤葦はの左脚をちらりと見やった。今日もあの左の足首には、目を凝らさないと気づかないほど繊細なゴールドが巻きついているのだろうかと。
 はとりたてて大人びた雰囲気を纏った生徒というわけじゃない。部活も委員会もしていないようだが友人は多くいて、よく喋るほうではないが分け隔てなくよく笑い、幼いところはないが素直なおぼつかなさがあった。それが、あのアンクレットを嵌めた足首だけは、景色が違った。見たことのない風景だった。友人も、誰も寄せつけない、しんとした小さな世界。は、身軽になりたいと言うが、赤葦には彼女があの華奢な鎖で、心許ない己れの浮き身をつなぎとめているように思えてならなかった。
 日ごと目が離せなくなるのは、見えないものに目を奪われ続けているからだ。



 昼休みにと別れたあと、結局その日、彼女は午後の授業に姿を現さなかった。
 五限の英語が終わるころ、「天気予報より正確だから」とうそぶいたの言う通り、薄明るい空からしくしくと雨が降り始めた。小雨だったが、だいぶ春めいてきたぬるい大気を冷まして、新芽のみどりの匂いを鎮めてしまうような雨だった。
 のことが気がかりだった。ホームルームが済んだ慌ただしい教室で、赤葦は彼女の友人に思い切って声をかけた。保健室にかばんを届ける役目を譲り受けるために。保健室に自分も用事があるからとわざとらしいことを口実にして、勘のいい彼女たちには下心を見抜かれてしまっても仕方ない。きゃらきゃら笑うクラスメイトに追いだされ、赤葦は自分のかばんを背負い、のかばんを右手に、階段を降りていった。

「すみません。二年六組のさんの荷物を届けにきたんですけど……」

 保健室に入ろうとしたとき、ちょうどドアがひらいて顔見知りの養護教諭と鉢合わせた。よく気のつく礼儀正しい性分のせいか、赤葦は大人に気に入られやすいところがある。部活中のアクシデントでよく出入りする保健室でも、彼は優等生扱いだった。そのぶん得することも、頼まれごとを任され、同じだけ損することもあるのだが。

「あらっ、ちょうど良かった。赤葦くん、少しだけ留守番頼んでもいいかな。すぐ帰ってくるから」
「あ、はい。あの、さん……」
「ああ、あの子? 奥でずっと寝てるけど、まだ起きてこないのよー。雨の日は苦手みたいで」

 じゃあよろしくね、と言って彼女はいそいそとローヒールを鳴らして速足で去って行った。ひとり残され、半分ひらいた仮眠室のドアからなかを覗くと、窓際のベッドだけカーテンが閉まっている。入っていいものか一瞬迷ったが、それは良心や遠慮のせいではなかった。彼は、周りがそう思いこんでいるほど優等生ではない。
 ベッドサイドの丸椅子にかばんを置く。薄いカーテンの向こうで、が寝息を立てている。かすかな隙間をつくっているカーテンの合わせを、赤葦は指先でつまんで押さえた。さん、大丈夫、心配だったから。そんなもっともらしい言葉を並べればを起こしてもいいのかもしれない。よこしまな感情に理屈をつけるためにだけ働く思考回路に、我ながら呆れた。理屈なんてなく、ひとつの決心さえあれば充分なものを。

「ん、」

 たった一音、蝶々の羽音のような、雨に溶けいりそうな寝言だった。野分が草原を駆けるような鳥肌が指先から脳髄までぞわぞわと抜けていく。はやる指で、赤葦は、黄ばんだカーテンをわずかに払いのけた。カーテンレールがむやみに音を立てないよう、慎重に。
 白いシーツの上に背中を丸めて横になっているを、彼は垣間見た。は体育の授業で着る指定のジャージを、そなえつけの毛布のかわりにして瞼を閉じていた。の上半身とスカートの裾まですっぽりと覆うそれは、彼女の小さなからだには不釣り合いに大きなジャージだった。脚のゆるい曲線は剥きだしで、紺色のソックスがだらしなくふくらはぎを覆っている。指をひっかけて、少し脱がせれば、あの細い足首がたやすくあらわになってしまいそうな。
 ――だめだ、こんなの。
 だめだ。よく分からないけれど、の寝姿を目にしてどんな印象よりも先に脳裏をよぎったのはそんな感想だった。カーテンを小さくひらき、赤葦は咄嗟にベッドの端に折りたたまれていた毛布をつかんだ。二つ折りにした毛布をの脚にそうっとかけてやる。見えないものに目を凝らしていたはずが、いざ眼前にすると、にわかに怖気づく。なぜ、こわいのか。脈略のない欲望に振り回されて、一体自分は彼女に何を見ようとしているだろう。

 食んでしまっている髪の毛を払おうと、寝息を立てるしまりのない唇に、赤葦は人差し指を伸ばした。
 やおらの細い肩が寝苦しそうにうごめいて、指先がかたまる。の瞼が震えてひらく。背中から冷たい汗が染みでて、赤葦は自分がしようとしていたことの図々しさに気がついた。

「ごめ、起こし……」

 はたと目が合う。引っこめようとした指を追うように、がジャージから指先を出したので、赤葦はまたしても指を止めるしかなかった。熱が内臓に集中していて、真冬のように指が凍てついている。短い爪が、二人の揃いの爪が、やわく触れあった。

「ん……せん、ぱい」

 唇から零れてきたたどたどしい音。寝ぼけているのか。それともまだ、夢にうずもれているのか。
 はそれだけ呟くと、長いまばたきを何度かして、ふたたび瞼を閉ざしてしまった。規則的に上下する撫で肩と、髪を食んだままの半びらきの唇。彼女は今、誰にも邪魔されない世界にいる。そしてその浅瀬で、誰かの訪れを迎え入れた。――せんぱい、と。
 震えの解けた指で、赤葦は今度こその髪の毛をすくいとる。彼女の呼んだ〈誰か〉がけっして自分ではないことを、赤葦は驚くほどすんなりと呑みこんでしまった。さみしい予感が的中してしまっただけだと、そう思おうとした。だけれど彼女に、自分ではない誰かとして自分のまなざしを、自分の指の先を、乞われたとき、つぎはぎだらけだった欲望が一枚の美しい絵になってしまったような気がした。どんなに完璧だったとしても、どこにも飾るあてのない絵だったけれど。

 ほんとうは一目見て、分かった。彼女を覆っているエクストララージのジャージの持ち主を。彼女の呼ぶそのひとを。
 分不相応な名前を口にして、赤葦は一度だけ、毛布の上からの脚を撫でた。その奥に沈んでいる金色のアンクレットが、或る時には暴かれ、ささやかな光の連なりになってシーツのひだに見え隠れするさまを空想しながら。悪いことだとは思わない。白昼夢の遊戯に誘いこんだのは、彼女のほうだ。
 二人は今、誰にも邪魔されない世界にいる。



 部室へと向かう道のりは長く重たく、一歩一歩がぬかるみに沈んでいくように思われた。狂った重力を感じながら、それでも歩く。歩いていく。走る。どこまでも、自分の思い通りに足は先へ進む。
 霧にも似た細切れの雨はまだ降りやまない。噎せ返るような花のかおりと引きかえに、青葉を伝った雨水と、やわらかくほぐれた土の匂いがそこかしこに漂っている。
 赤葦は雨だれを見つめ、自分の手のひらを見つめ、彼女の降りた瞼に倣うように目を閉じた。まなうらで制御不能の悪夢が晴れていく。きっともう、あの夢は見ないのだろう。









THE END

2017.3
惑星別重力一覧眺めつつ「このごろあなたのゆめばかりみる」 / 穂村弘