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※ 若干の性描写あり




 保健室のベッドはちょっと姿勢を変えるだけでもパイプが嫌な音を立てて、生乾きのかたいマットもけっして安眠を誘うものではなかったけれど、その日のわたしには気兼ねなく横になれる場所があるだけでもありがたかった。腰が抜けそうになったわたしを、天童くんがここまで運んできてくれたのだ。誰もふたりを見ていない授業中の廊下を、指だけ握りこむようにわたしの手をかよわく引きながら。
 あのあと結局、わたしは六時間目の体育の授業をまるまる休んでしまった。天童くんはというと、貧血で倒れたわたしとたまたま教室で鉢合わせたので、保健室まで連れて行った、という遅刻の言い訳をして途中から授業に参加したらしい。生まれて初めて授業をサボってしまったけれど、でも、とても激しい運動をできるような状態ではなかったのも確かだ。たった数分、彼の注ぐ影にくるまれていただけで、自分自身の影の頼りなさに脚がおぼつかなくなった。彼に溶けだしていったぶんの自分が、もう戻ってこないような、あてどもない喪失感が全身を支配していた。それはとても無気力で、だけどひどく、危険なまでにひどく心地のいい感覚だった。

さんだけ、いつも笑ってないなって思ってた」

 天童くんの爪先がするすると頬に沿ってすべる。なんだかつぶさに肌理を観察されているようで恥ずかしかったけれど、彼が見てとろうとしているのはきっと肌のおもてではなく、その下にうごめく何かなんだろう。軽くてどこにも負荷のかかっていない触り方なのに、超能力とか、催眠術みたいに、気を抜くとごっそりと魂を抜き取られてしまいそうになる。
 あれから一週間が経ったけれど、クラスメイトの目にはわたしたちは今までとなんの変化もなく映っているのだと思う。なぜって、実際、わたしたちふたりはこの一週間ただ、もう一度ふたりになれる機会を暗黙のうちに探っていただけだったのだから。有象無象の視線をかいくぐるのはとても骨の折れることだったし、昼休みと放課後の友だち付き合いをおろそかにして何かを勘ぐられるのも面倒だった。何より天童くんは部活動で絶えず忙しいのだ。わたしの生易しい想像をはるかに超えるぐらいに。

「笑ってる、よ?」
「笑ってないよ」

 笑っているとかいないとか、わたしのことなのに、天童くんのほうがわたしよりも自信ありげにそう言い切る。不敵に細められた目が、わたしを説き伏せるような凄みのあるひしゃげた円を描いている。
 資料室の折りたたみ式のテーブルを公園のベンチのようにして、わたしたちはとなり合わせに座っていた。天童くんの脚は長くて床に足裏がぺたりとくっついているけど、わたしの脚はさっきからゆらゆらと所在なく揺れている。ふたりの身長差は、いったい何センチぐらいあるのだろう。
 薄暗い昼休みだった。月に一度回ってくる日直当番の役目があって、ここには次の授業でつかう資料を取りに来たはずだけど、その仕事はひとまず後回しだった。彼の目敏さには驚かされる。こんなすきまのような「ひとりきり」を「ふたりきり」の時間にしてしまうのだから。

「……笑ってないから、見てたの?」
「目立つよ、あの子たちの中であんな顔してたら」

 うるさいじゃん、あのひとら。天童くんが悪びれもせずにそうつぶやくので、みぞおちあたりがひやりとする。目立つなんて、一度もそんなことは言われたことがなかった。嘘だ、そんなの。それにたとえ目立っていたとしても、そんなことだけで、彼はあんな意味ありげな瞳を忍ばせることができるのだろうか。天童くんの言い分が腑に落ちなくて、なんとも応えられず口をつぐんでいると、彼は両手でわたしの顔を包みこむようにして上向かせた。ああ、また。彼の超能力。催眠術。全身の神経がびりびりと波打つ。

さんはどういうとき笑うの?」

 教えて、とねだりながら、彼はその問いに答える空白をわたしに与えてはくれなかった。予鈴が鳴るまでの数分間ずっと。
 天童くんとこうすること、こうしていること、誰にも言えない行為の只中を、わたしはふしぎと泳ぐような軽やかさで進んでいこうとしている。温かい水。泥のように重くなく、なんの抵抗もなく、肉体を浮き上がらせる水。この水のなかでずっと、無為なばた足を繰り返していたい。そうやってこのぬるい海のなかで力尽きてみたい。だけどチャイムの音と音で区切られたこんな場所に居ては、きっと海に身を投げるような奔放は許されないだろう。わたしはせいぜい、恍惚とした呼吸の仕方と、男の子のネクタイの正しい緩め方を、知れたぐらいだった。もっと進みたい。ひとりのときも、授業中も、友だちと話しているときも、わたしは頭の隅でそんなことばかり考えてしまうようになっていた。
 不自由なふたりにはとても見つけ難く、だからこそ、けっして逃してはいけない日。そんな針の穴のような一日に、はやく、糸を通してみたかった。



 今日から、昼休みにも放課後にも縛られることのない四十日が始まる。前日の雨が嘘のように、からりと晴れた夏休みの第一日目。夕方のニュースの最初の話題は、今年一番の暑さと東北地方の梅雨明けについてだった。涼しいリビングでソファに横たわりながら、気象予報士と女性アナウンサーの平和な掛け合いを片耳で聞き流す。すると、フローラルの香水の匂いを漂わせたお母さんが不安そうな顔で和室から出てきて、タオルケットの上からわたしの背中をゆらゆらと撫でた。もう、朝から何度目になるだろう。

、ほんとうにひとりで大丈夫?」
「うん。熱ないし、……ちょっと、眩暈がするだけだから」
「心配ねえ。このあいだ学校でも貧血起こしたって言うし……」
「横になってれば平気。気にしないで楽しんできて」

 わたしをさすり続けるお母さんの手をとって、ちからなく眉を下げる。いってらっしゃい、と言い添えて。
 今日は茉莉の家に友人みんなで泊まりにいく、という前々からの計画があった。だからお父さんとお母さんも、娘の不在に合わせて夫婦みずいらずの外食の予約をこの日に入れていたらしい。この夜の空洞は今のわたしにはまたとない僥倖だった。置いてけぼりをくらうために具合の悪い演技をすることも、グループチャットに欠席の連絡を入れることも、誰にも内緒で彼を家に招くための準備を、わたしはなんのためらいもなく周到にしてのけた。おかしいのかな、わたし。だとしたら、そんな自分をおかしいと思えないことがきっといちばん狂っている。

 車のエンジン音が遠ざかり、聞こえなくなるのを確認してから、わたしはさっさと身を起こしてつまらないテレビを消した。リビングの掛け時計は六時過ぎを示している。静けさのなかで時計の針の音ばかりが体内に入ってきて落ち着かない。和室の姿見の前で全身を映してみたり、冷蔵庫から麦茶を取りだして飲んでみたり、充電中のスマートフォンをいじってみたり、それでもどうにも気が紛れなくて、そわそわとして、居ても立ってもいられない。ついには、リビングの窓を開け、縁側に出た。一日中、快適な冷風に浸かっていたからだに、暮れかけの太陽の温もりが染みていく。あったかくて、真夏の熱のうっとうしさはほとんど感じない。それよりも纏わりつくのは、庭先を支配している甘い香りだ。素足にサンダルを引っかけ、誘いこまれるように、芝生とやわらかな土を踏む。足指に感じる草いきれ。地球の体温って、わたしたちと全然違う。

 物心のつく前からそこにある、庭の中央に植わったプラムの木には、ちょうど食べごろの果実が鈴なりになっていた。みずみずしいなめらかな表面が赤く色づいて、見た目にも美しい大好きな旬のくだもの。なんとはなしに低いところに生っているひとつを手にとろうとしたとき、ふと、今日と同じように淡く陽の暮れた、或る放課後のことを思いだした。プラムをもごうとしていた手が一瞬とまる。
 ――美味しいですよ、先輩にもおすそ分けしますね。
 春先、まだたった数か月前、わたしはこの好物を恋人と一緒に食べるつもりでいたのだ。こんなことになるなんて、思ってもみなかった。葉群れの織りなす明るい影の下で、わたしは今ひとり、熟れた果実に歯を立てている。恋人ではない男の子を待ちわびながら。
 鍵をかけた生徒会室で先輩にひどく責め立てられたあの日以来、もとよりぎこちなかった彼への態度がさらに軋んで、わたしは顔を合わせるたびに先輩のことを苛立たせてしまうようになった。彼の不機嫌に出くわすのが怖くて、嫌で、彼の望んでいる行為を受け入れてしまいたくなったこともある。それでも、そんなぎくしゃくとした関係を先に手放したのは先輩のほうだった。しばらく距離を置きたいと、といると自分がコントロールできないと、先輩は苦しげに顔を歪めてそう打ち明けてくれた。ああ、彼も、怖いのだと思った。数日に一度かかってくる彼からの電話は、きっと今晩も鳴るだろう。わたしは、出られない。今日だけじゃない。もう、二度と。

「俺にもそれちょうだい」

 声は庭の垣根の向こうから飛んできた。口に含んでいた甘酸っぱい皮と果肉をごくんと呑みこみ、顔を上げる。キンメツゲの生垣の奥に天童くんが立っていて、わたしと目が合うと彼はひらひらっと手を振って応えた。はっとしてショートパンツのポケットに入れていたスマートフォンを確認する。彼から「来れるかも」と言われていた時間までまだだいぶ余裕があった。

「天童く、」
「ごめん、思ったより早かった、解散するの」
「あ、ううん、今開ける……」

 スマートフォンを再びポケットに押しこんで、わたしは生垣に走り寄った。もしかしたら玄関のほうからこっちまで回ってきてくれたのかもしれない。勝手口の鍵をはずして、意外な仕方で彼を迎える。天童くんは夏休みの一日目にも今まで通り、見慣れた夏服を着ていた。皺の寄ったいつもの白いシャツ。ネクタイはしていない。今日はこの近くの体育大学で練習試合があると聞いていたけど、彼は思ったよりくたびれた様子もなく、はっきりと醒めた表情をしていた。
 天童くんは学校の近くの学生寮で生活している、らしい。このあたりの地理には詳しくないかなと思ったけれど、家の住所を伝えたら「このへんよくロードワークで通るよ」と地図アプリを確認しながら余裕ある口ぶりで教えてくれた。寮の門限を破ることはできない。自主練習の時間を削ることもできない。夏休みといえども、彼と居られる時間はそう多くはなさそうだと知って、わたしは少し落胆した。だけど、一時間でも、二時間でも、ここに横たわる有限は、学校の、絶えず誰かのざわめきに包まれた休み時間の一角とは大違いだと思う。なんとしても手に入れたかった。たとえ、たくさんの嘘をつくことになったとしても。

「だめじゃん、病人はちゃんとベッドで寝てなきゃ」

 天童くんを招き入れ、横張りの頼りない扉を施錠しなおしているとき、彼の手のひらが横からからかうようにわたしの俯き加減のひたいを暴いた。彼の手はやっぱり生ぬるい。熱くもないし、冷たくもない。どんなときも分身のような温度を宿していて、触れられるだけで、ふたりのさかいめが濁りだす。仮病だと知っているくせに。その、無い熱を計るような彼の仕草はまるで恋人同士の戯れみたいで、わたしは恥ずかしさと可笑しさを紛らわすように浅い笑みを吐いた。わたし、笑っている。こんなときに。偶然ではなく、故意につくった「ふたりきり」を飲みこむために。

「もう治っちゃった」
「ありゃ、せっかくお見舞いにきたのに」
「天童くんが来てくれたから治ったの」

 自分にもこんな切り返しのできる性の含みがあるのかと、思いがけず愉快な気持ちになりながら、髪をすり抜けていく彼の手をうっとり見上げる。わたしの酔いのまわったような目つきに合わせるように、天童くんの瞳も独特の妖気に満ちてふわりと細められた。

「それなに?」

 天童くんがつう、と目線を動かして物珍しそうに問う。わたしの右手には齧りかけの夏の果実。ああ、と思いだしたように、彼の前でわたしはまた一口、熟れた黄色い果肉に口をつけた。

「プラム。美味しいよ。天童くんも食べる?」

 いくらでもあるし、こんなにあってもどうせお裾分けしないと毎年腐らせてばかりだ。彼のために、ほどよく熟れた実をもうひとつ探そうと木に近づこうとしたとき、後ろから強いちからで右の手首をつかまれてすぐさま足が止まった。動けない。びっくりして振り返る。彼はわたしの手首を強引に持ち上げると、腕ごと自分のほうへ引き寄せた。
 バランスを崩しそうになりながら、彼の気まぐれをなんとか凝視する。天童くんは見せつけるように背をかがめ、わたしが手のひらにつかんでいた食べかけのプラムに顔を近づけた。赤い大きな口が、白い歯が、わたしの齧った痕めがけて豪快にプラムにかぶりつく。とろとろと甘い果汁がしたたり、指を、手のひらを、手首を汚した。腕の向こう、満足げに天童くんが微笑んでいる。やわらかな目の奥に焦点を合わせるだけで分かった。彼のこの突拍子もないいたずらが、わたしの情欲をけしかけているのだと。

「……ぬるくて、甘いね」

 まだ半分ほど食べ残していたプラムが、ぼとりと力なく足もとに落ちる。落としてしまったのではない。落としたのだ。はやくわたしも、こんなふうになりたい。互いにべたべたに濡れた手のひらも、構わず、腕を背中に回す。ぬるくて、甘い。ふたりはもうすぐ平熱を手放して、同じ速度で落下していく。視線が訴えるものは言葉のようにつぶさな機微ではないけれど、真新しい熱を通わせた目くばせで、わたしはわたしの肉体をはやる気持ちで差しだした。



 リビングにつながる縁側の下にサンダルとローファーを脱ぎ捨てて、わたしたちは皮張りのソファの上に急いて身を沈めた。ほんとうは二階の自室まで上がってもらうつもりでいたのに、なかなか四角四面にこの男の子を正しい扉から迎え入れるのは難しいみたいだ。極限の興奮にうなされながら、彼の優しさと荒々しさが絡みあう行為を抱きとめる。こわくはなかった。彼が繰りだす謎々のすべてが、わたしには奇妙なぐらいに親しく、恋しく感じられた。

さんは悪い子だよね」

 しばらく無言だった彼の、唐突な言葉と、ぽたぽた、と涼しい室内とは思えない大粒の汗が瞼に落ちて、わたしはぼんやり目をひらいた。ひろがる、貴い今。おごそかな夕陽が天童くんの白く盛り上がった肩を照らしている。薄いレースのカーテンを透かして届く夏の西日だけを頼りに、電気もつけていない部屋のなかはいつの間にかはっきりとした輪郭を失いかけていた。涙のせいもあるだろうか。思ったよりも冷静さを欠いて、どうしようもなく、混乱している。おぼろげな世界で、しるべはただひとつだった。天童くんが、俺を見ろ、とでも言うような目をしてわたしのことを見下ろしていた。その目に依りすがると、彼はその瞬間を謀ったようにわたしの片脚を持ち上げ、狭いソファの上で微妙に体位を変えた。圧迫感に煽られて悲鳴があふれる。自分の声が気に食わない。ぜんぜん悲しくもないのに、嫌なことなんてひとつもないのに、どうしても虐められているみたいな情けない声がとぎれとぎれに零れてしまうから。

「友だちにも、カレシにも、家族にも嘘ついて、家に男連れこんで、こんなことしてる」

 しばらくぶりに聞く天童くんの声にもほんのりと息苦しそうなトーンが滲んでいて、それが普段の彼からは想像できないような清げな艶めかしさを放っていた。規則的に裸体をこすりつける動きはまるで暴れ続ける脈拍を整えてくれているようで、そんなに気づかいの感じられる速さではなかったけれど、ぐらつく意識を保つにはちょうど良かったのかもしれない。もう少し、あともう少しで、痛みの奥に快感が閃きそうなのに。一番星を待つ子どものように、わたしは、必死にその糸口を探していた。彼と自分をつなぐそれ。きっと、運命の赤い糸なんかより、ずっと上等なもの。

「ぜんぶ、天童くんのせいだもん……」
「ほら……っ、違うよ」

 その「ほら」は、「ほら、そういうところが」という冗談めかした非難を含んだ、突き放した「ほら」だった。腰に添えられていた腕が、突然、臀部にかけて肌を撫であげるようにうごめく。喩えようもなくぞくぞくとして、自由の効かない溜め息を、思わず彼の耳に吹きこんでしまう。なかの具合が変わった。天童くんが、お返しだと言わんばかりに、わたしの耳に噛みついて、それで。

「もとから悪い子なんだよ、は。とーってもね」

 ――俺がそれを、見つけちゃっただけ。
 崩れる寸前の自分の名前に、腐臭にも似た甘ったるさがたちこめている。その言葉はあたかもわたしを挑発するように響いて、同時に、とっておきの愛撫のようにからだじゅうをざわめかせた。どうして彼が、あらゆる視線をかいくぐり、わたしのことを見つめていたのか。あの狭いようで、漠然と広く、出口のない泥濘を誰もがさまよっている流浪の国で、どうしてわたしのことを見つけることができたのか。ようやくその訳を、ほんとうに見透かしていたものを、彼はわたしに教えてくれた。こんな、あられもない瞬間に。

 わたし、友だちや恋人が押しつけてくるような、無口でぼんやりな、おとなしい、良い子なんかじゃない。そうじゃない。だけどその仮面を天童くんが無理やり壊しちゃったわけでもない。わたしが自分から進んで、彼の前で脱ぎ捨てた。そして、ずっと探していたものを見つけた。友だちと教室でお喋りをするのでも、恋人と生徒会室で勉強するのでもない。今日の日のような、夕暮れの使い方を。









THE END

2019.1