※ 中学三年生|捏造過多




 見えない紐でつりあげたような背中だな、と思った。それが天童にとって、ほとんど唯一の、というクラスメイトに抱いていた印象だった。
 ぼそぼそと喋る陰気な教師よりもうるさく、古めかしい冷房は送風音を響かせている。二時間プールに入ったあとの酷くけだるい午後の授業中、天童はのささやき声におぼろな意識を引き戻された。クラスメイトの半分が背中を丸めて首を落としているような、眠気に充たされた教室で、きれいに背筋を伸ばした白い背中が場違いな野に咲く花のようだ。ななめ前の席に座る彼女は、しょっちゅうとなりの男と机をくっつけている。そう、させられているのだ。彼女は、あいつのお気に入りだから。教科書を忘れたとか、辞書を貸してくれだとか、だらしない理由をつけて彼が机を動かしている姿を、天童は毎日いやというほど見せられていた。

「ヒトもたくさん進化したらいつか羽根が生えるかな」

 生物の進化の仕組みについて、「自然淘汰」とか「遺伝」とか「セキツイ動物」とか、細かな字の羅列が、黒板をみっちりと埋め尽くしている。誰も律儀には写さない。大半のことは教科書にあらかじめ書きこまれているからだ。の独り言のような言葉に、「はぁ?」と呆れたような調子であいつがすぐさま反応する。嬉しいくせに、なぜかけだるそうに。

「飛びたい、飛びたいってずっと思ってたら鳥になれない?」
お前、授業聞いてねえだろ」
「なんで?」
「ばーか」

 反吐がでそうだった。その「ばーか」というからかいにも、どさくさにの前髪に触れた指にも、存分に彼女に対する好意がこめられていたから。隠す気もない。もとより、三十四人の狭苦しい密室にはちょうどいい死角などありもしないのだ。むしろ全て、牽制のようなものなのだろう。ばかばかしい、そう思って、天童はもう一度まっさらなノートに顔を突っ伏した。

 夏休みが明けても夏日はまだ続いている。温まったプールはまるで湯に浸かっているかのようだった。ぱさぱさに乾いた髪の毛がクーラーの風に吹かれるのは心地良い。プールで潰れる体育の授業は嫌いではなかった。泳いでいれば何も考えずに済む。泳ぎきれば自然と倦怠感が襲ってきて、残りの授業も目を閉じているうちあっという間に過ぎ去るからだ。
 中学最後の夏休みはあっけなく、天童はクラスメイトの誰とも一度も顔を合わせないで過ごした。地元の学習塾にも夏期講習にも通わず、もう三年生がみな引退してしまったバレー部の練習に、後輩たちに微妙な顔をされながらも週に何度か混ぜてもらう日々だった。高校に進学してもバレーをする。バレーをするために高校に進学する、と言ってもいい。そう決めてからはやることはただひとつだった。受験勉強なんていう流れ作業、やっていられるものか。

 つまらない授業のせいで、見たくもない戯れを見せつけられて、水たまりのように浅くてお粗末な幻想を見た。
 あの子の背中にとても小さくて、控えめな羽根が生えている。それは薄いブラウスの下、ひっそりと透けて、静かな寝息を立てるように時折りやわらかく羽ばたいていた。



 はけっして自分から目立とうとするような性格の持ち主ではなかったけれど、どこか自然と周りの目を引くような、ささやかな魅力をたずさえている女生徒だった。家のしつけのたまものか、まったく親しくもない天童には知るよしもないが、彼女の言葉遣いやふるまいは嫌味なく、さりげなく洗練されていて、同級生たちを惹きつけた。あの真っすぐと伸びた背筋も、そうだ。気づいているのは、背の高さのせいで、いつでも教室のいちばん後ろの席に座らせられる天童だけだったかもしれないが。
 九月も半ばを過ぎて、担任との個人面談の順番が天童にも回ってきた。もう進路を決めている彼にとってはもちろん、多くの生徒にとってそれはかたちばかりのものだ。体育館から渡り廊下を抜け、校舎を二階へのぼる。進路指導室のなかからはコピー機ががなり立てる機械音が聞こえてきていたが、構わずドアを開けた。事故のように目と目がぶつかりあう。コピー機の前に立っていたのは、だった。

「天童くん」

 リスのような澄んだ焦げ茶色の目をして、は突然入ってきた天童を迎えた。びっくりしたのはお互いさまだったので、天童はどういう反応を返せばいいのか分からなかった。近場の高校の過去問や資料がずらりと並ぶ本棚を隔てて、面談室は奥にある。さっさと彼女を横切っていけばいいものを、真正面から目が合ってしまったせいで、ドア付近に突っ立ったまま天童はしばらく動けなかった。

「天童くん、部活してたの?」

 コピー機のカバーをひらきながら、は小さく首を傾げて、ジャージ姿の天童をじっくりと見つめた。みすぼらしい、くたくたの練習着。それが恥ずかしいのか、なんなのか。不自然に視線を逸らして、天童はジャージのポケットに行き場のない両手をひっこめた。

「……いや、もう引退したけど、たまに体動かしてるだけ」
「そうなんだ」

 の声がなめらかに耳に届く。自分のそれとは違う、清潔な上履きの先が動いて、なんとか金縛りのような気まずさが解ける。は原稿カバーのなかから公立高校の過去問題集を引っ張りだし、意外な言葉を続けた。

「じゃあ、高校でもバレー続けるんだね」

 ほとんどまともに話したことのないクラスメイトが、自分の所属していた部を知っていたことも、この時期にまだ練習を続けていることの意味を汲んでくれたことも、天童には新鮮な、思いもよらないできごとだった。だけどそれ以上に驚いたのは、盗み見たの横顔に、どこか嬉しそうな、あるいはほっとしたようなニュアンスがうっすら滲んでいたことだ。
 天童のもとに白鳥沢学園男子バレーボール部から推薦入学の誘いがきたのは、ひと月ほど前のことだった。彼を三年間見てきたバレー部顧問にツテがあって、天童はこの八月、ほとんど放りこまれるようにして白鳥沢主催の練習会に参加した。大して目立ちはしなかったが(悪目立ちはしていたかもしれない)、恵まれた身長と運動神経で得をしたのか、素材の良し悪しを重視する老監督のお眼鏡には適ったらしい。あとは年明けに簡単な小論文と面接の入試を受ければいい。その場所に何が待っているかなんて分からない。特に明るい未来を期待しているわけでもない。ただこのまま、地元の高校に進学するよりは俄然マシな選択だろうという確信はあった。彼にとってはそれでも十分すぎるぐらいの片道切符だったのだ。

「わたし、あのね、観に行ったんだよ。バレー部の試合、七月の」

 顔を上げると、もまた、遠慮げに顔を上げて天童を見据えた。三年間同じクラスだったのに、天童はそのとき初めて、の顔をまともに見たという気がした。というよりも、およそ、クラスメイトの顔というものを。

「……え、中総体?」
「うん。天童くんのこと、応援しに……」

 の言葉が途切れたのは、二人の微妙な距離を引き裂くように、奥のドアがガラッと音を立ててひらいたからだった。いかにも不遜な気配とともに、本棚の影から顔を覗かせた男。最悪の鉢合わせだった。彼はと天童の双方を一瞥すると、乾いた笑みで唇を歪ませた。

「あれ、まだ居たんだ
「あ、えと、もう帰るところ。ちょっと話してて」
「天童と?」
「うん」

 素直にそう頷いて、は長机に置いてあったかばんをあわてて肩に掛けた。進路指導室を出ていく彼女とすれ違いざま、合いそうになった目をまたぎこちなく逸らしてしまう。右半身が毛羽立つような、痺れた感覚が肌に残った。たった数分、ここで交わしたとの会話が、順序を無視して浮かんでは沈む。抑えこもうと思っても、それは強烈な浮力でもって心臓を押し返した。

「おい。なに話してたんだよと」

 の足音が消えた途端、刃物のような視線どうしが擦れあい、険悪な、耐えがたいが先に音を上げるわけにもいかない厄介な沈黙が流れた。
 こんなふうに憎悪のこもったまなざしで目の敵にされだしたのはいつからだったか。小学生のころ隅っこで大人しくしていた弾かれ者が進級するにつれて自然と一目置かれるようになり、いまや市民権を得て平気な顔をして生活していることが、どうにも彼には許し難かったらしいのだ。小中九年間、常に彼は、教室という小さな国の頂にいた。その掌握力は、純粋に感服しなくもないが、枷を持たない独善的な性格が能力の使い道を誤らせている。こんな男が「幼なじみ」とは、現実は悲惨だ。きっと互いに、そう思っているんだろう。

「小テストの範囲の確認」

 睨みをきかせたまま近づいてくる不機嫌な彼に向かって、天童は敢えて落ち着き払った声で答えた。目を伏せ、あまり挑発的な態度をとらないよう呼吸を整える。やり過ごせ。やり過ごせ。やり過ごせ。この男と対峙しているとき、天童は常に呪いのようにそう唱え続けていた。

「そういやお前、推薦とるんだってな。バレーなんかで」

 いったいどこから仕入れた情報なのか、教師からの受けもすこぶる良いこの「優等生」のことだから、今しがた面談室のなかで担任から聞き出したことなのかもしれない。彼はきっと、地元で一番の進学校へゆうゆう入る。天童も成績だけ見れば狙ってもいい高校だが、死んでもゆくものかと思っていた。なぜ必死に勉強して、わざわざ、こいつと同じ進路を選ばないといけないのだろう。狭い世界は、地獄だ。

「それが?」
「は? 別に、清々するなと思っただけだよ。お前さ、に手ぇ出したら殺すぞ」

 低く唸るような声でそう吐き捨て、彼はわざと嫌味たらしく天童に肩をぶつけると、乱暴にドアを全開にして指導室を出て行った。気にしない。そう思うことがもう、気にしている。長く深く、息を吐きだす。平気な顔をつくることに慣れても、けっして芯から平静を保てるわけじゃない。不快で、息苦しく、ひとつ受け流すのにも要らぬ消耗をする。
 ぐらつかないでよかった。右腕をいたわるようにさする。半身を甘く支配していたあの感覚は、いつの間にかすっかり消え失せてしまっていた。



 文化祭の前日にあたる十月最終週の金曜日は、毎年のことだが午前中ですべての授業が切り上げになる。
 今年、三年一組の出し物は「縁日」だった。水鉄砲をつかった射的だとか、ヨーヨー釣りだとか、輪投げだとか、五つぐらいのアトラクションを用意して景品に駄菓子を配るのだ。
 イスを出したり、机を運んだり、第一陣の力仕事があらかた終わってしまうとすぐ、参加意識の低い天童はやることがなくなってしまった。受付用なのか廊下に残っていた机に浅く腰掛け、せわしなく行き交う生徒たちを眺める。文化祭など、準備も含めて、彼は一度も楽しいと感じたことがなかった。例えばひとりで祭りの人ごみを歩いていても、誰もいない部室に引っ込んで雑誌を読んでいても、どちらにせよ惨めな気持ちになる。普段の教室でじっと独りをやり過ごすのとは、わけが違うのだ。

「ねー男子、悪いけど誰か仕切りにするボードもう一枚借りてきてくんない? 足りなかった~」

 クラス委員の声が教室のなかから聞こえたそのとき、真後ろから強く机を蹴られて、危うく天童は机ごと廊下にひっくり返りそうになった。なんとか足先を踏ん張って振り返る。教室内のクラスメイトたちも一瞬こちらを向いたが、誰も、何事もなかったかのようにすぐにまた関心を散らした。見て見ぬふり、というやつだ。あからさまに暴力的な態度をとることは少なくとも、三年も同じクラスに居れば誰しも察する。それに彼は、この国の頂に立っている「許された男」なのだ。

「出番だぞ。どうせ暇だろ、雑用さん」
「……は、」
「お前だけ受験から逃げてんだから、少しはクラスの役に立てよ」

 やり過ごせ。やり過ごせ。やり過ごせ……。まるで条件反射のように、あの呪文が脳裏を横切る。擦りきれるほどに念じた、何度も、何度も。こぶしに宿る震えは、もう、怒りや悔しさのような単純な感情を抑えこんでいるわけではない。呪文を覆い隠すようにひろがる彼の言葉を振り払う。一言も抗えなかったが、ただ軽蔑をこめたまなざしを捨て置いて、天童は立ち上がった。

 浮かれた活気に満ちた廊下と教室を、忌々しく通り過ぎていく。機械のような足どりで突き当たりの階段にさしかかったとき、よどみなく動いていた足の先がひたりと止まった。の背中。彼の目に飛びこんできたのは、彼女の、よたよたとふらつく後ろ姿だった。重たそうな暗幕を両腕いっぱいに重ねて抱えながら、一段一段、見えない足もとを気にして慎重に段差を降りている。天童は思わず、何も考えもなしに、彼女のもとへ駆け寄った。の腕からごっそりと暗幕をとりあげる。彼女は、一ヵ月前、進路指導室で垣間見せたような小動物の目をして天童を見上げた。埃の匂いのする暗幕の下で、二人の指と指が、かすかに触れあう。

「天童くん、」
「危なっかしくてみてらんない」
「あっありがとう……」
「準備室?」
「……うん。ごめんね、忙しいのに」
「いいよ。ついでだし」

 軽々と階段を降りて歩いていく天童に、は黙って着いてきた。来なくていい、とは言わなかった。周りの騒々しさが打ち消されてしまうほど、心臓が今になって、分かりやすく喚きだした。
 「理科準備室」のプレートの前に着くと、両手の塞がっている天童を一歩追いこし、は教室のドアをひらいた。荷物が多すぎるせいなのか、真昼間だというのに室内は陽ざしを拒み、ほのかな暗がりをつくっていた。適当に暗幕の山に暗幕を積み上げる。がもう一度、ありがとう、と背後で遠慮げに呟いた。

「何か借りていくんだよね」
「パーテーション。……ああ、これでいいや」
「わたし、貸出表書くよ」

 天童はあたりを見回し、窓際に何枚か残っていたアルミ製のパーテーションを一枚、適当にひっつかんだ。上履きの先で床に散乱している段ボールを押しのけて道をつくる。足のキャスターが錆びていたようで、滑りが悪く、無理に引っ張りだそうとするとそれはキィキィと耳に障る音を立てた。

「天童くん、最近バレーどう?」

 キィキィ、キィキィ、滑車が空気を軋ませる。天童はこのおんぼろの滑車と同じぐらいぎこちなく、を振り返った。なんて、言った? 薄暗いなかで、彼女は落ちてくる髪を耳にかけながら、さらさらと貸出表にボールペンを走らせていた。

「え?」
「バレーボール。図書室で自習してると、天童くんがときどき練習してるの、窓から見えるから」

 聞き間違えられない美しい発音で、バレーボール、との唇が動く。天童がこの場所で三年間、唯一守り抜いたものの名前。ペンを置いて、まばたきをして、彼女はまたあの日と同じような横顔を彼に見せた。彼にとっては、とても不思議な。あれ以来、話す機会もなく水のように味気ない日々が流れていくあいだも、ずっと考えていた。恥ずかしいたましいで。のことを、何か一筋の、トンネルの奥の光のようなものとして。

「バレーしてるときの天童くん、羽根が生えてるみたい」

 のあどけない横顔をぼんやりと見つめながら、天童は密かなもどかしさに波打たれていた。ついたてを支えていた手を離し、制服のズボンで手のひらをぬぐう。自分の手では届かない、自分の裏側が疼いているようで、熱くもないのに手がしっとりと汗ばんでいる。天童は生まれて初めて、誰かに触れたいと、そんな欲望に駆られていた。この子に触れたいと。その前に、確かめるべきことが、彼女のなかにも、自分のなかにもまだ残っていると、頭では分かっているのに。

「……さん、あのさ、」
「あっ」

 天童の言葉をさえぎるように、は突然、指先で右目を押さえた。顔をうつむけて、まるで溢れる涙を拭うような仕草で。

「どうしたの」
「コンタクト、ずれちゃって……」

 天童はに近づくと、彼女の代わりに貸出表を棚の上に戻した。がうつむいたまま押し黙って動かない。裸眼で生活している天童には、コンタクトがずれるという感覚がさっぱり分からなかった。ずれるものなのか。目の中で異物が迷子になるさまを想像すると、それだけで背筋がぞっとした。

「……痛いの?」

 背をかがめてを覗きこむと、横顔を覆っていたの手がひらいて、潤んだ瞳と至近距離で目が合った。ほんとうに泣いている。そう思って、一瞬怯んだそのとき、は天童のカーディガンの合わせをつかんで彼を引き寄せた。秒も触れない、目なんてもちろん瞑っていられない、生温かい空気が掠めるぐらいの感触。息のかかる距離で、の瞼がゆっくりと上下する。やっぱり彼女は、泣いていた。彼女の細いまつげが、きらめく水晶体の表面にたっぷりと涙を含ませていた。

「ごめんね、嘘」

 何が嘘で、何がほんとうか。そんなことはどうでもいいことだった。ただ天童は、泣いている女の子がこんなにも凛々しいものなのかと、頭をまっしろにして、彼女に釘づけになっていた。今、二人がしたことをうまく咀嚼できないまま、彼はひたすらの潤んだ眼の深みに吸いこまれていた。

「好き」

 彼女の苦しげな声と一緒くたに、あの呪文が壊れる音がした。二人の足もとに、脆いガラスのように、彼を縛っていたこの場所でのたったひとつの生き方が、粉々になって砕け散った。跡形もなく。
 立ち去ろうとしたの腕を、天童は離さなかった。
 そして彼は、産まれたての淡い欲望を、「触れたい」という願いを、今度こそ自分の手で羽化させた。



 遠くで陽気な空砲が鳴っている。キャンプファイヤーに集いはじめる生徒たちの騒がしさが、閉じた窓を突き破って耳に届く。結局、二日間の文化祭は天童になんの思い出も与えなかったけれど、それはもう呪いに囚われた「やり過ごす」だけの時間ではなかった。この退屈な二日間は、もう一度この場所でと会うための、二人にとって適切な距離だったのだ。誰かを待っている。その思いだけで、待つという行為は苦痛から解き放たれる。十五歳の自分たちにとって未知というものはそうあるべきだと、は彼に教えてくれた。

「白鳥沢の文化祭って、楽しそうだよね。きっと凝ってて、すごいんだろうな」

 身を乗りだすようにして校庭の賑やかさを見つめている彼女のとなりに立ち、天童も、きっと見納めになるだろうその光景を眺めた。あの輪の中に入っていくことはついになかったけれど、独りの惨めさが彼の胸を衝くことはもうなかった。

「どうかな」
「遊びに行ってみたいな」
「うん」
「そしたら、天童くんが案内してくれる?」
「暇だったらね」

 ぜったい、暇じゃないよ。が呆れたように笑うので、天童も心地よくなって頬を緩めた。そっちこそ、バスを乗り継ぎ何時間もかけて、ほんとうに遊びに来るのかなんて。小指と小指をゆるく絡ませながら、少し先の未来のことを考える。無責任に。奔放に。絶対なんて、分からない。
 低く、うなるような振動音がして、二人はふと顔を見合わせた。同時に、またか、というような笑みをつくる。これで三回目だ。

「鳴ってる」
「ずっと鳴ってるもん」
「あいつ、探してるんじゃない」
「じゃあずっとここに隠れてようかな」

 天童くんと。は意味ありげに彼の名前をつけ足して、携帯電話を取りだすと無為な電源を切ってしまった。そういえば俺、あいつに殺すぞって言われていたんだっけ。そんなことを頭のすみに思いだして、天童はむしろ愉快な気持ちになった。小指をほどいて、を腕のなかに引き入れる。彼女のからだのかたちを抱きしめながら、ありもしないものを想像して、天童はつぶさに、ゆっくりと彼女の薄い背中を撫でた。くすくすとが笑っている。肺に温もりが落ちて、息をするだけでも気持ちがよかった。

「……くすぐったい?」
「ううん」

 は小さく首を振ると、天童の胸に頭を擦りつけるようにしてささやいた。

「ヒトって、こうやって進化するんだなって、思ったの」

 謎めいた触り心地のする言葉だった。だけど、天童には糸がほつれるようにあっけなく、すんなりと、その言葉の意味が分かった。
 の手のひらが天童の背中に触れる。彼の手のひらと同じように、の熱い手も指も丁寧にうごめいて、天童の背中をくまなく、優しくさすった。誰にも見えない彼の透明な翼が、ひろがる寸前の少し臆病な二片の羽根が、には見えている。彼女の手は、はっきりと、そういう動きだった。

 ヒトって、こうやって進化する。
 誰もみな、いとしいひとに翼を撫でられ、新しい自分へと飛び立ってゆく。









THE END

2017.5.20
inspired by『天使の擬態』萩尾望都