生徒会室のドアのすきまから流れでたふたりの秘密は、たったの数日でこの広い広い校内の、あちらこちらに噂話の水溜まりをつくってしまったらしい。だけどまさか、校則が服を着て歩いているようなあの男が、わなわなと固く結んだこぶしを震わせて、俺の前に現れるとは思っていなかった。神経質そうな細目の奥が、今にも切りかからんばかりに、鋭利にひかっている。もちろん俺がそのまがまがしい光に気づいたのは、今日じゃない。ちゃあんと、知っていたよ。だから、その光が照らしている窮屈で盲目的なひなたのなかで、ぞんぶんに遊んでやった。かわいい彼女とも、おまえの劣等感とも。

「あたらないでよ。自分が脈ないからって、こういうの、みじめにならない?」

 恋敵をいきおいに任せて殴ってしまうような愚かな気の大きさはあるのに、好きな女の子に告白する勇気はこれっぽっちもないのだな。瞬時に呆れてはみたけれど、それでもそれは、そのへたくそな一発は確かに、俺がこの男から読み取れなかった、ただひとつの誤算だった。朝礼へと向かっていく夏服の群れは遠く、静かな裏庭には、思考をふやかすような湿気と草いきれが充満していた。腕ずくのけんかの作法など知らない者どうし、生まれてしまってもう消えはしないひとつの暴力をしばらく無言で考える、白昼夢の一分間。
 予鈴のチャイムが鳴って、俺はもたれていた壁から背中を離した。じわりと痛む奥歯も、熱を持つ頬の皮膚も、こんな一撃ではとうてい「あいこ」にならないような酷い形相で立ちすくむ彼を置きざりにして、渡り廊下をまたいだ。干からびた心臓に、あの日の潤んだ記憶がまわる。
 俺はあのとき、長いこと撫ぜるように溶かしてきた飴玉のひびわれに、ついに甘く歯を立てたのだ。








「桃色のドロップは……えっと、“恋愛”」

 袋の裏面に指をすべらせながら、はそこに書きこまれた「占い」の説明を読みあげた。中身の見えない包装紙のなかからは、薄いピンク色のドロップがひとつ。銀色の包み紙のおもてには、「なにごともあなたの思い通りにすすむでしょう」と小さく印字されている。ちなみにひとあし先に彼女が引いた飴玉の色は緑、“仕事”。包みには「邪魔ものには要注意」とあったらしく、生徒会室に入ってきた俺を見るなり、彼女は「やっぱり、及川くんのことだ」なんてかわいいことを言ってくすくす笑った。
 殺風景な長机のかどっこを挟んで、机の下では膝のあたまが触れそうな距離を、お互いにちょっとだけ遠慮しあって座っている。はいつもの定位置だけど、俺はいつもより少し、彼女に近い椅子へ腰をおろした。肩を傾け、の手もとのパッケージに目を落とす。オレンジ、ブルー、イエロー、パープル。着色料ごときでひとを占う、お気楽な暇つぶし。

「が、なんでも“思い通りにすすむ”の?」
「みたい。でも、及川くんなら、占わなくてもうまくいきそうだけど」
「ええ。そんなことないよ」

 数週間前、年下の恋人に愛想をつかされたばかりだ。そんなこと、言うわけないけど。からもらった一粒の甘味を口のなかに放りこんで、月曜日の生徒会室を見渡す。俺と、しかいない部屋。気持ちがいい。いつもだったら数人の役員たちが放課後をつぶしているんだけれど、今日は一学期の予算報告会があって、会長も会計も書記もみな南館の小講堂に出払っているのだという。だけは、生徒会が毎月貼りだしている校内新聞の準備を、居残りで任されていた。人前に立つような役職に就いているのに、彼女はあんまりそういう仕事は得意ではないみたいだ。半年前の、立候補者たちのスピーチを思いだす。顔を俯きかけたその立ち姿はけっして立派なものではなかったし、堂々としているというよりは淡々としているという雰囲気だったけれど、緊張を垣間見せない透明な声で、用意してきた原稿を読みあげるでもなく、彼女は自分の言葉で自分のことを話す子だった。良いな、と思った。傷ひとつない、まだどこも摩耗していない水晶のようで、ああいう女の子のなかに自分を宿してのぞきこんでみたいなって、そんなことを軽々しく考えた。

「じゃあこれ、ドロップのおかげかも。さんとふたりきりでお留守番」

 がさっと視線を切って、下睫毛のきわを震わせたのは、たんに彼女の察しの良さがなせる仕草ではないように思えた。それはむしろ、自分の内側をけっして俺に悟らせないように、身を崩さぬように、「いけない、いけない」と自分自身をいましめるようなそぶりだった。そうやってやんわりと警戒されるたび、かえって彼女の深層にうごめく好意が見え透いているように思う。隠すって、そういうことじゃないだろうに。

「あのさ、今ちょっとだけ、“思い通り”にしてみていい?」
「思い通り……」
「うん。目、つむってみて」

 目は、つむってもらえなかった。だけど、素晴らしく“思い通り”にはなった。あのとき、もし素直にが目をつむってくれていたら、俺はきっとあの上擦った空気をかわして軽いでこぴんでも繰りだしていただろう。占いは、大当たりだ。
 ボールペンを握ったままこわばっているの手の甲を、手のひらで覆う。こうすれば、時間なんて簡単に止まる。世界を狂わすのはあっけない。そうして俺は難なく、香料の人工的な桃の味の呼吸をひとつ、ふたつ、彼女とわけあった。最初のキスは手品のようで。あった、と確かめたときにはもう、なくなっているような、奇妙にはかないものだった。二度目は、お互いに、自分に相手を紐づけてしまう、刻印のようなキス。ばらばらだった俺と、を、ふたつでひとつにするためのゆるい蝶結び。唇を離したとき、はたおやかにとろけた瞳で俺を見上げていた。ついさっきまで、あんなにうろたえていたのに、恋をしている女の子の順応力って、おそろしい。
 口のなかの飴玉はもうだいぶ薄くなっていた。奥歯に挟むと、あっけなく、溶けかけの水飴はパリッと音を立てて割れた。








『――さいごに今月の部活動報告をおこないます。まずは、六月のインターハイ予選で準優勝の成績をおさめた男子バレーボール部から、主将の三年六組 及川徹くんが県選抜に選出されました。八月の国体予選に向けて、あす、市民体育館にて代表交流戦がおこなわれます。みなさん、応援よろしくお願いします。続いて、硬式野球部は、先週末からいよいよ県大会がはじまり……』

 保健室のスピーカーの音質はわるくって、砂嵐のようなノイズがときおりこめかみを突つき、耳に障る。朝のあかるい灰色の陽ざしがしらしらと窓いっぱいに充ちて、光源はうすもやのかなたに隠れているのに、まぶしさが瞼にじわりとのしかかってくる。
 ふと視線を感じて、彼女をみやる。膝に結んだ両手を置き、神妙に丸椅子に座っているは、ぼうっと俺を見つめて、何かを聞きたげでもあったし、何かを言いたげでもあった。だけどどちらにせよ、俺からその言葉を促してやろうという気は毛頭起きなかった。見られたくないものを見られている。優等生の彼女が、朝礼にも出ずにここに居るということが不快でたまらないのだから。
 鉢合わせてしまったのは偶然かもしれないし、なりに考えがあって、何か予感があって、だから、彼女もまた彼女の水晶をのぞきこんでいたのかもしれない。きっと、占いなんかよりずっとあてになる。「幼なじみ」の距離感には、俺もよくよく覚えがあった。

「……おめでと、う」

 言いたいこと、聞きたいこと、そのかわりに彼女が口にした精一杯の気休めの言葉は、俺にはあまり具合のいい一言だとは思えなかった。軽く横たわっていたベッドから上体を起こす。頬にはずっと氷嚢を押しつけたまま、十五分の朝礼はあとわずかで終わる。すぐにひいた痛みはさして気にならない、それより、残るかもしれない醜い見た目のほうがずっと厄介だった。これ以上めんどうなことになるのはごめんだったし、誰かの、何かの迷惑になるようなことだけは避けなくてはならなかった。そんなことばかり考えていたら、ついさっきの裏庭の惨事は、あの場でかわした言葉や表情、態度や沈黙すべて、すでに過去というよりも遠い国のできごとのように実感のないものになっていた。こんな忌々しい置き土産をくらったのに、なぜか。

「あんまり気乗りしないな、選抜チームで国体なんて」
「でも、すごいよ」
「こっちでの練習削られちゃうし。あーあ、勝手に応援よろしくとか言わないでほしい」

 いろいろな苛立ちが混ざりあい、影のように伸びては、ふくらみ、正体不明のまま口を突いてこぼれてくる。こんな無様なすがたを見られて、今さら取り繕うこともばかばかしくなってしまったのか。子どもだな、分かっていたけど。煩わしいことばかりが根を張っているわけでもないから、切り捨ててしまうこともできない、纏わりつくいとしいものたちのことを数える。遅刻すれすれの生徒たちが慌ただしく駆け抜けていく昇降口でと出くわしたとき、彼女は割れた鏡のような眼をして俺に駆け寄ってきた。その、光の屑のような瞳の底に、自分を映しこみたいと思っていた。彼女をとおして自分をのぞきこんでみたいと思った。あいつは、遊びだと決めつけ蔑んでいたけど、そういうことは生涯一度も口寂しいときに飴玉を舐めたいと思わないような人間にしか、言われたくないものだ。からドロップを差しだされたら、あいつ、嬉々として受けとるだろうに。いや、もらっても、もったいなくて滅多に口になどできないのかもしれない。飴は、味わうからこそ甘いのに、そんなんだから近くに居てもはなから選ばれもしないのだ。
 また、すらすらと水のように毒があふれ、自分の毒が喉奥にしみて痛みが走った。膿んだ舌先にさわやかな桃の甘味が欲しい。喉も渇いていた。あの日のような潤んだ記憶が欲しい。欲しいものを並べたてて、持っているものからは目を逸らす。こういうときの自分は、ひどく弱い。

「……俺のほうが、みじめか」
「え?」
「ごめん。氷嚢、水になっちゃった。替えてもらえる?」

 氷嚢を差しだすと、はなぜかほっとした様子でうなずき、椅子から立ち上がった。思ったよりも頬の腫れが引いていたからかもしれないし、少しでもここに留まっているわけを与えられたことが嬉しいのかもしれない。
 近づいてきたが、腕を伸ばす。伸ばし、伸ばされた腕の先で、冷水をたっぷりふくんだ氷嚢は無惨にもふたりの足もとに落ちた。ぱしゃん、と涼しい音がする。ゆるんでいた蓋がひらいて、溶けた氷の残骸が床を濡らす。とっさにしゃがもうとしたの腕を、俺はたぶん、その先のたくらみをちらつかせてしまうほどに、強くつかんでしまった。の瞳のなかで反転する景色に、いなずまのように一瞬、俺がよぎる。

「あ、」

 これみよがしに軋むパイプベッドに、俺はおどろいて、は怯えているように見えた。膝上五センチ、きっちり揃ったプリーツが脚の曲線をすべって、歪む。こわがらせようとしたわけじゃないけど、俺のためにせっせと氷嚢の氷を替えるような、そんな浅はかな安寧ならば壊してもいいかなって思ってしまった。ベッドの白に、無造作にの黒髪が散らばっている。見下ろして、顔を近づけると、は肩を縮こまらせるようにして俺を拒もうとした。顔をこちらに向けさせようとした手を瞬時に遮られる。たいした腕力はもちろんないけど、この抵抗を無視してことに及べば、たぶん俺はひとでなしなんだろうなと思わせられる程度にははっきりとした拒絶だった。

「いや、やっ、さわらないで」
「……あのときは、さわらせてくれたのに」
「それは、」
「それは?」

 彼女のからだを押さえつけていた腕の拘束をゆるめて、なぞるように静かに聞き返すと、それだけでは耳まで真っ赤になって顔にかざしていた手を、腕を、おろしてしまった。どうしてこんなにすぐ、許してしまうの。そういう態度、心臓に響く。応援とか、告白とか、何度されたところで、好きな子に好かれているという感覚に勝るものはなく、その感覚に慣れることもない。優しく腕をかきわけ、いばらの向こう、俺の渇きを癒やしてくれるきよらな泉を見つけた。がいま、俺を殴ったあの堅物の幼なじみではなくて、あいつに殴られた俺のそばに居ること。俺を選んだこと。それはもしかしたら、こぶしを受けた俺の情けない左頬と同じ、鈍い痛みをともなうような選択だったのかもしれない。そんな想像がふと巡って、目覚めるように俺は、彼女をここから逃してはならないという強い思いに駆られた。

「ごめんね、俺だいぶ、さんに夢中になってる。だから少し、意地悪なんだ」

 でも大丈夫だよ、これ以上、痛いことはしない。おそろしいこともしない。知らないことも、教えることも、きっとないだろう。ちからを抜いて。らくにして。今度こそ俺の言う通り、ちょっとのあいだだけ目をつむってみてほしい。俺と、に必要なのは、ほんのひとつまみの堕落なんだ。それは甘い飴を分けあうよりもずっとささいな、たやすいことだと思う。だから今だけは、ふたり息を合わせて、同じ速度で落ちてみようよ。









THE END

2017.7.20
♪ イケナイコトカイ - MEG