出会いよりも再会のほうが印象的な恋の始まりだった。
 去年の九月、長雨のころ。第一体育館脇の体育倉庫で、わたしはバレーボールの重たいネットをひろげたり、たたんだり、不毛な作業を繰り返していた。入学祝いにおねだりして買ってもらったアーカーのブレスレットが腕にないことに気づいたのは、いったん、学校の最寄り駅まで着いてからのことだ。その日は午後の体育の授業があって、バレーボールをして、用具の準備と片づけの当番で班の子たちと体育倉庫に入った。蛍光灯が切れていて、薄暗く、ネットを持ち運ぶとき足がもつれた。そうだ、あのとき。すぐに思い当たったのに、ないかもしれない落としものを見つけるのは至難の業だった。スマートフォンのディスプレイの明かりをたよりに下を向いて、膝をつき、探しあぐねること一時間とちょっと。成果も見えないまま、下校時刻はすぐそこまで迫っていた。

「あのさー、もうここ閉めるけど。何してんのそこで」

 半開きのままだった体育倉庫のドアから突然、声がかかる。顔を上げたとき、暗がりを通して目が合い、お互いに「あ」という表情をつくった。あ、あのときの、って。体育倉庫の鍵を手にして、下校時刻の間際に現れたひと。知り合いというには知らない、だけど、初めましてというわけでもないひと。それが、木兎先輩だった。
 遠くで鳴っていた雷が徐々に近づいてきていた。轟音と、鉄格子の奥の小さな通気窓からときおり差しこむ雷光をうとましく感じながら、わたしは木兎先輩に自分の失くしもののことを話した。先輩はそんなに疲れているふうでもなかったし、多少は着崩れていたけどちゃんと制服を着ていたから、いつもの部活終わりというわけではなさそうだった。腕に抱えていた作戦ボードをスチール棚に返していたから、仲間内のミーティングでもあったのかもしれないし、軽い自主練のあとだったかもしれない。分からない。わたしが話し終えると、先輩は肩にかけていたエナメルのショルダーバッグをどさりと入口付近におろした。

さん、もしかして雷、苦手?」
「……えっと」
「なんか言ってたろ、こないだ電車で。違ったっけ」

 結論から言えば、それは違う、先輩の惜しい記憶違いだった。もちろん雷が好きなわけじゃないけれど、わたしが苦手なのはどうにもからだが怠くて仕方ないような重たい雨の日だ。夏休みが始まったころ、一度、インターハイ前の私学大会の試合を友だちに連れられて観に行ったとき、帰りの電車で数人のバレー部のひとたちと一緒になった。そこに、木兎先輩も居たのだ。五六人でかたまっていたから、あまり先輩とじかに話したという記憶はなかったけれど、みんなで苦手なものや嫌いなもののはなしとか、ちょっとしていたような気はする。うろ覚えとはいえよくそんな雑談の内容をひっぱりだしてきて、今ここで、束の間の話題にできるものだと驚いた。それに、もっと驚いたのは、彼がわたしを「葉山さん」と呼んだこと。たった一度、流すような自己紹介をしただけなのに、どうして。
 今になって思えば、わたしはあのとき驚くだけではなくて、もうちょっとうぬぼれてもよかったのかもしれない。だって彼ときたらほんとうに他人の名前にルーズで、試合のはなしなんかしていても適当なあだ名ばっかり言うのだ。

「……そ、そうです。小さいころから苦手で」

 なんだか圧倒されるような気持ちで、内心呆けたままわたしはそう応えていた。もっともらしい嘘までつけ加えて素直に頷いてしまう。先輩は首の裏を掻きながら、溜め息まじりにわたしの小さな方便をまっすぐ受けとめた。

「だよなあ……そろそろ鳴りやまねえかな、いいかげん」
「あの、もう、今日は諦めます。ごめんなさい、先輩のこと待たせてしまって」

 言っているそばから先輩は制服のポケットからスマートフォンを取りだし、二三の操作でカメラのフラッシュを即席の懐中電灯に変えた。ぱっと白い光が先輩の手もとを照らす。肘までまくった長袖シャツの袖口から突きでた、血管の浮きでたみごとな前腕。日常生活からはずれた鍛え抜かれた肉体は、その片鱗ですら、間近でみると息の詰まるような迫力だった。

「まだ最終下校までちょい時間あるからさ、大事なもんなら、そんな簡単に諦めるなよ。ひとりで探すより、ふたりで探したほうが早いだろ?」

 こんなに優しいひとっているんだ、と純粋にそう思ったあのときのわたしも、得意げに口角を上げた先輩の表情も、同様におめでたかった。邪気のないつかのまのこと。恋に落ちる手前で、お互い、好意の宛先をためらうようにはにかんでいた。
 ひとりで一時間探しても見つからなかったブレスレットは、けっきょく先輩が目を光らせてものの数分で、みごとにわたしの手のうちに戻ってきた。雷がひときわ大きく閃いたとき、授業用のバレーネットの端にひっかかっていたゴールドのきらめきを一瞬、先輩の目敏い視線がしかと捉えたのだった。「俺って天才じゃね」なんて言いながら、先輩の器用な指がチェーンの絡まりをほどいて、つまみあげる。きらきらした笑顔で「もう失くすなよ」と念を押されたとき、わたし、心の底で、ずるい気持ちで首を横に振っていた。ううん、そうじゃない。わたしはそのとき、これからもまた何度も、何度でも、彼にわたしの大切なものを抜け目なく見つけてほしいなと、思ってしまったのだ。
 先輩に見つけてもらった入学祝いのブレスレットは、こうして、先輩にだけ見つけてもらいたいハイソックスの下のアンクレットに変わった。先輩の前でソックスを脱ぎ捨てるたび、思いだす。あの日、冷気の沈んだ倉庫のなかで、背骨を伝っていった汗の気恥ずかしさを。



 わたしと木兎先輩はけっして以心伝心の仲睦まじい恋人同士というわけではないから、メッセージアプリをつかったワンコールが何を求めているのかなんて、そんなこと分かりっこない。だけど水曜日の四限終わりに似たような仕方で呼びだされたのは、何も今日が初めてのことではなかった。地学の授業を受けた第二理科室から、中庭沿いの渡り廊下を抜けて、昇降口まで引き返していく。なんの音沙汰もないメッセージ画面とにらめっこしながら、無言の連絡になんて返事をしたらいいものかと思案していると、前方から「葉山さーん」という呑気な声が降りかかってきて足が止まった。よそよそしく、しれっとわたしを呼ぶ、先輩の澄ました声だった。
 自販機の並ぶ休憩室の一角で彼はわたしを手招いていた。歩み寄る足どりがたどたどしく鈍ってしまうのは、先輩がひとりではなかったからだ。見知らぬ女の子が二人、彼との会話を切りあげて振り向く。さりげない化粧で縁取られた二対のまなこが、わたしを頭のてっぺんから爪の先までものめずらしそうに眺めていた。

「だあれ、かわいい子」
「後輩のダチ、二年の。たまに試合観に来てくれてんの」
「ふーん。木兎のお気に入りか」
「タイプだからってすぐ手ぇ出しちゃだめだよ、後輩に」
「出さねえよ!」

 けらけらと楽しげに笑いながら、ひょいとイスから立ち上がり、先輩がいたずらっぽくわたしにだけ目くばせをする。行こう、だか、行くぞ、なのだか。見知らぬ女の子たちに軽く会釈をしてから、急いできびすを返した。賑やかな廊下を通り抜けて先輩がどこに向かっているのかだいたいの見当はついたから、わざと何歩か遅れて先輩の背中に着いてゆく。開けひろげられた廊下の窓から、湿った緑の匂いと、今にも降りだしそうな曇り空。こめかみのあたりがずきずきと痛んで、わたしの大嫌いな、雨の予感のする重たい空だ。
 連休の最終日を先輩の家で過ごしてから二週間、二人のあいだに何があっただろうかと考える。なんにもなくて、あくびが出てしまうぐらい、退屈な二週間だった。あのベッドの上ではあんなに自由にふるまえるのに、たったひとつ歳が違うだけで、この場所では彼と話す機会も、目を合わすだけの瞬間だって、なかなか持てない。ただでさえそういうものなのに、今しがたの先輩のずるがしこい態度はどうだ。彼のことを単純な、なんでも顔に出る分かりやすい人間だなんて思っていたら、読み間違える。彼はこちらが思っているよりもずっと多くのことをわきまえているし、周到なひとだ。わたしを疎遠な後輩扱いすることだって、簡単にできてしまう。

「手、出さないって言ったくせに」

 まるで愚痴をこぼすような声色でぼそりとそうつぶやくと、先輩はわたしの不満を汲んでいるのかいないのか、わたしの髪を弄びながらうっすらと笑みを浮かべた。長机の冷たさがふとももに擦れて、わたしは大げさな身震いをする。

「さっきのさ、木葉の元カノな。茶髪のほう。男よりよっぽど肉食だぜあれ」

 こないだなんてさあ、とわたしにとっては初対面の女の子のことをぽろっと可笑しそうに話しだす。先輩の交友関係は学内にとどまらず、とても広い。彼自身の性格の賜物でもあるだろうけど、何より、彼と出会ったひとは彼のことをそうそう忘れはしないのだ。
 学校という空間には内側から鍵をかけられる部屋が存外に少ない。そんな貴重な場所のひとつがこの視聴覚室だった。二人きりでいると殺風景すぎて落ち着かないけれど、教室の電気をつけなければだいぶいい。付き合いたてのころ、わたしはここで、キスという遊びを知った。いくら鍵がかかるからといって、誰かに気づかれてしまうんじゃないかとか、怒られてしまうんじゃないかとか、色んな心配と緊張で心臓が痛いほど高鳴っていたあのころ。大丈夫だって、と先輩が笑う。顔の輪郭を手のひらで包まれ、唇を唇でやわく食まれる。丁寧に咥内を撫でられているうち、あれほど感じていた胸のつかえは嘘みたいに溶けて、わたしは先輩の仕掛けた遊びにすっかり夢中になっていた。
 この教室で。あのベッドで。内緒の楽しさを、知らないわけじゃない。だけどつまらない嘘を重ねる指切りは、日に日に、二人のことを圧迫していた。

「……なんでそんなに、秘密にするんですか。嘘ついてまで」

 ストラップ式のリボンはなんの情緒もなくすぐに胸もとから落ちていく。制服越しとはいえ久々に先輩の指の感触がからだに降りて、こころよいはずなのに素直に溜め息がつけない。早計にブラウスのボタンに触れようとした手ををふいにすると、先輩はしごくふしぎそうに目をみひらいて、左手に絡めとっていたわたしのリボンをやんわり手のひらで握りしめた。

「え……だから。言ったろ、が嫌な思いしたらやじゃん。俺のことで」
「嫌な思いなんかしないです」
「いやマジで前にあったんだよ、そういうことが。同クラのやつと付き合ってたとき変に噂んなって……」
「その子に未練があるから、わたしのこと知られたくないんだ」
「っな、ばか。んなわけねえだろ。そいつ中学まで女バレでさ、話題が合うっつーかダチの延長線みたいなもんで、」
「ほかの女の子のはなししないで!」
「……、」

 勢いで息巻いてしまったせいか、自分でも予期せぬ涙が突然ぼろぼろと両目からこぼれて焦った。先輩の腕がとっさに伸びてきてわたしの背中にまわる。腕のなかで後頭部をなだめるように撫でられると、その優しい手つきのせいで余計に温かいものが溢れて止まらなかった。こんなにきつく抱きしめられたら、先輩のシャツがきっと不自然に濡れてしまうのに。は、と熱を逃がすように息を吐く。吸って、吐いて、もういちど。先輩の手がわたしの呼吸をうながすように、背骨をゆっくり上下していた。

「どーした。んなことで駄々こねるとか、らしくないじゃんか。なんかあったか?」
「……そうじゃないけど、……」

 わたしらしさなんて、そんなもの。今までのことこれからのこと、いくぶん衝動的な不安と不満を引き金にして流れた涙を、どう説明したらこの気持ちごと伝わるのだろうか。言葉に詰まってしばらく押し黙っていると、やがて先輩の腕のちからが緩まり、目もとのやわらかな皮膚に親指を押しつけられた。涙のせいか、雨の気配のせいか、痛みでしびれているこめかみに、先輩の唇が無遠慮に触れる。
 それからいきなり、からだのバランスが崩れて、上下を失い、わたしは危うく長机の上から腰を落としてしまいそうになった。
 視聴覚室の机は先輩の質のいいベッドのようにやわらかくもないし、広くもない。それでも先輩は何もかも心得た手つきで、わたしに痛い思いをさせないだけの器量をもって突き進んでいく。違う、わたしにじゃない。わたしに、じゃない。

「せんぱ、」
「……わるい、。あんま時間ないから」

 こんど、絶対ちゃんと、はなし聞くから。そう言って、なぜかすこし苦しげに眉をひそめた表情で、先輩は自分のネクタイの結び目にするりと手をかけた。いつもなら好ましいと感じるその余裕のない所作も、今はどうしても、ひび割れてしまったお気に入りの食器のように痛々しい悲しいものに映る。時間がないから、と口走ってわたしを机に押しつける先輩も、時間があるから、と言ってわたしの失くしたものを一緒に探そうとしてくれる先輩も、けっして別人ではない、同じひとのなかに棲んでいる背中合わせの本性なんだろう。どちらかいっぽうを嫌いになったり、どちらかいっぽうだけを愛してみたり、そんな中途半端なことはできない。したくない。
 スカートの裾が擦りあがって、すっと、ふつうなら通らない風が脚のはざまをすり抜けて身が縮こまる。ろくに脱がされもせず、憐れな皺をつくるブラウス。その指先が産みだす刺戟のなかに拒絶しないといけないようなものは何もないのに、だからこそ、どうやって気持ちよくなればいいのか分からない。
 ソックスの下で、暴かれることも晒されることもなく、金色のアンクレットが黙りこんでいる。



 目を覚ましたとき、わたしは保健室のベッドで先輩のエクストララージのジャージにくるまっていた。息を吸いこむと肺が痺れるぐらいに先輩の匂いがして、呼吸の自由を奪われたようで苦しくて、こんな日はまたすぐに浅い夢見に逃げこんでしまいたくなる。今は何時で、彼は、いつの間に来てくれたのだろう。とろとろと頭を動かしてスマートフォンを手に取ると、友人たちからのメッセージに紛れて、いや紛れもなく、先輩からの短いメッセージがいくつか届いていた。

《ごめん》
《むりさせた》
《大切にしたいんだ、でも》

 みっつ連なったシンプルな言葉たちの送信時刻は、ちょうど五限終わりの休み時間のあたりだった。どの口が、えらそうに。そんなことを意地悪く、まっさきに思う。昼休みのあいだじゅうわたしを押さえつけて、金脈でも見つけたみたいに目の色を変えて抉り続け、餌を前にして聞き分けのできない獣のようになっておいて、あとからしゅんと肩をしぼめて恋人きどりのことわりをいれてくるなんて、調子のいいことだ。
 みずからすすんで彼の獲物になるのは好きだけど、わたしは彼の空腹を満たすだけの食糧ではない。

《ばか》
《さいてい》

 ぽん、ぽん、と先輩をなじるような言葉を立て続けに並べる。きっともう部活中だろうし、しばらくは既読のしるしもつかない。深呼吸ふたつぶん、迷って、ためらって、それから。

《すき》

 と、何かに導かれるようにひらがな二文字を打ってしまう指先。それなのに、どうしても、送信ボタンをあとひとつ押せない指先。どちらも同じわたし、別人ではない、わたしのなかに息づいている背中合わせの本性。

「……すき」

 指先をすべらすかわりに、まくらにひたいを押しつけ、嗄れた声でひとりごちたひらがなの二文字。どんなに強引にやられちゃっても、身勝手にいじけられても、学習も反省もせず獣じみたまねを繰り返されても、こんなにもわたしがあなたを信仰していること、あなたは一生、絶対、知ることはない。









THE END

2017.9.20
あたしの恋人のなかには虎と神がいっしょに住まっているのだ。
『オートバイ』A.ピエール・ド・マンディアルグ