生まれて初めて観に行ったバレーボールの試合は、覚くんにとって高校最後の試合になった。
その瞬間、彼はコートの上にいなかった。わたしは、覚くんの姿も何も見えない応援席のいちばん後ろにいた。どよめきのような歓声と落胆の悲鳴に包まれながら、覚くんは今どんな表情をしているのだろうかと、そんな気がかりがからっぽの胸に浮かんでいた。くちびるから息を吐いて、全身に回りそうだった痺れを逃がす。それから、もしかしたらわたしはもう覚くんとお別れなのかもしれないなと、漠然と思った。
バレー部の一員として動いていた覚くんに白鳥沢の生徒でもないわたしが近づくことはできなくて、その日、直接彼に声をかけることは叶わなかった。ひとり家に帰って、色々と悩んでいるうち、先に連絡をくれたのは覚くんのほうだった。《せっかく見に来てくれたのに負けてごめんね》という一言に、どれほど苦いものが忍んでいただろう。わたしはそれを量れるほど彼のことを知らない。だけど、《覚くんがいちばんかっこよかったよ》と迷わずに送り返した。すぐに《ありがとう》とだけ返ってきた。絵文字も顔文字もびっくりマークもない、五文字。二人のやりとりはそれきりだった。
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「覚くん!」
東京では昨日、木枯らし一号が吹いたという。冴え冴えとした晩秋の風が頬を打つ。銀杏並木の金色を駆け抜けながら、急いて彼の名前を呼ぶと、覚くんはあの白いブレザーのポケットから手を出して、顔半分を覆っていたマスクをすっと指で剥ぎとった。
あれ、白鳥沢のセーフクじゃない? そう、落ち葉掃きをしていた女の子たちの会話が耳に入ったとき、なんとはなしにどきりとしたけど、まさか彼女たちの視線の先にいるのが自分の恋人だとは思わなかった。ただでさえ背が高くてよくよく目立つひとなのに、こんな平凡な公立校の正門前で、誰もが知っている進学校の制服に注目が集まらないわけがないのだ。それでも覚くんは自分をすり抜けていく好奇の目なんか構うことなしに、わたしの戸惑い含みの視線だけを静かに手繰り寄せた。
「なんで、どっ、」
「のこと迎えにきた」
「でも、駅でって約束……」
「うん、今日は時間あったから。ちゃんと会えてよかった」
よく、ない。心のなかで咄嗟にそう呟きかけたけど、覚くんの呑気な言い分に急ごしらえの毒気も抜かれてしまう。ほんとうは駅のトイレでお化粧も、髪も、直したかったんだけどな。走ってほどけてしまったマフラーを首の後ろで結びなおすと、覚くんが見計らったようにわたしに向かって自然と左手を差しだした。ああ、街中で手をつなぐことは平気なのに、今ここで彼に右手を預けることのなんとこそばゆいことか。
「今日どこ行く? カラオケでもゲーセンでも、の行きたいところ行こーよ」
あの最後の試合の日、ぼんやりと予感してしまったお別れの合図は、まだ二人のはざまには訪れない。彼は今日もわたしと一緒にいてくれる。それはとても幸福なことだけど、かわりにあのとき感じた切なさがずっと淡く延びて続いているような気がする。晴れの日の飛行機雲みたいに、少しずつ紛れて消えてしまうものならいいのに、湧きあがってしまった感情を無理に塞ぎこむのは難しい。彼に悟られないようにすることはできたとしても、自分をごまかすことは絶対にできない。
「あのね、じゃあ……」
覚くんの手はかわいていて温かかった。恥ずかしさを振り切って、指先にちからをこめながら彼を見つめ返す。それはふしぎと自分自身にとっても思いがけない提案だった。覚くんの予期せぬ出迎えのせいで、わたしまで気が大きくなってしまったのかもしれない。平和に弛んでいた覚くんの猫目が、わたしの続けた言葉を吸いこんで何度かまばたきをする。沈黙が痛い。薄い紙きれのような風が吹く。たまらず視線を落として、三秒数えた、「頷いて、お願い」のおまじない。
カラオケも、ゲームセンターも、ファミレスも、ファーストフードも、今日はやめて。二人になりたい、そう、思った。かならず、どんなことにも限りがあるものなのだから。
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わたしの部屋のベッドサイドのオルゴールのなかには、けっして誰にも見せられない秘密が仕舞ってある。
わたしがそれを遊び上手な友人からもらい受けたのは、覚くんと付き合い始めたころだった。こういうのは女の子が気をつけないとだめなんだから、と、彼女は後進に指南でもするようにわたしにそれを分け与えたのだった。けっきょく、その小さな袋を破りあけるような機会は数ヵ月たった今もまだ訪れていないのだけれど。一度、たった一度だけ、夏休みの終わりにそれらしいタイミングはあった。でもそのとき、覚くんは、わたしの秘密に「元カレのおさがり?」と思いがけない疑いを投げかけ、それを手にとろうともしなかった。違うのに。覚くんとの、ためなのに。だけど、素っ気なくてもいつも優しい覚くんの、初めて見るやさぐれた表情とか、態度とか、誤解をとこうと慌てながらも反面、少しだけ嬉しかったのを思いだす。
それを、いま。
覚くんは、あのとき拒んだ銀色の袋を自分からつかんだ。ためらいなくオルゴールの蓋をあけて、わたしの秘密をほしいままに暴いてしまった。ひどい越権だ。こうなることを分かっていたのに、望んでいたのに、わたしはすっかり気が動転して、さざ波立つ浮き身のこころよさに圧されながら、覚くんのカーディガンの胸のところをくたくたに握りしめていた。まるで命綱か、足のつかないプールのコースロープみたいに、必死に。
「さと、覚くん、待って」
ベッドの上、ようやく声がかたちある言葉を紡いで、ひたりと、覚くんの侵攻がとまる。下着の際を撫でていた指のすべりとか、鎖骨に触れる髪のやわさだとか。初めての感覚じゃない。一度は通った道。夏の終わりにも同じようにせめぎあって、同じように辿りついた場所だったのに、彼の手のうちに渡ったそれの使い途を想像してしまうと、いよいよ全身が膨らまし粉で膨らませたみたいにいっぱいいっぱいで、張りつめ、強張ってしかたなかった。彼がわたしをほどこうとすればするほどめまぐるしく、こんがらがって、心とからだが知恵の輪みたいにかたくなに交錯してしまう。
「顔真っ赤だけど大丈夫?」
「だいじょばない……しにそう」
消え入りそうな声で訴えながら、前にも同じことを同じ言葉で彼に伝えた気がすると思った。それを、覚くんも憶えてくれていたのだろう。わたしの前髪を梳かしながら、覚くんは鼻を抜けてくような軽い笑みをこぼした。うぬぼれかもしれないけど、勘違いかもしれないけれど、ごくたまに覚くんが垣間見せる底なしの「じあい」のようなものが好き。わたしにしか見せないカオなんだろうなって思うから、好き。きっとどんなに意固地な表情でも、泣いても、怒っても、ここにしか生まれないものだったらなんでも愛おしく思ってしまうのだろう。そんな自分が、ちょっとだけ、こわい。
「しなないから、もーちょっとがんばろ」
「……ん、」
「おあずけだね、これは」
あっけらかんとそう呟きながらも、冴えわたる勘をたっぷりと蓄えた彼の指がふたたびスカートのなかにもぐりこむので、わたしには安堵している隙などいちぶもない。折り重なるように二人の輪郭が崩れて、わたしと覚くん、どちらのものともつかないたどたどしさと、好奇心が、ペールピンクのシーツに皺の模様をたくさんつくっていく。オルゴールの底に仕舞いなおしたのはもう、わたしだけの秘密でもなんでもなかった。ひとりの隠しごとは秘密でも、二人の隠しごとは約束になる。そんな、いじらしいからくりを知った。なんども指切りをするように、未熟な行為をつなぎあわせながら。
ぎしりと、木製のベッドを軽く軋ませながら覚くんが身を起こして、ベッドの下に足の裏をつける。泳げるところまで泳ぎきって、深い息継ぎのあとには少しの罪悪感が残っていた。だってわたし、自分から覚くんをこの部屋に招いたのに、彼になんにもしてあげられてない。白いシャツに袖を通して、ペットボトルのお茶を飲む覚くんを斜めからもうろうと眺める。わたしも着替えなくちゃと思うのに夢心地が抜けなくて起き上がれもしない。ただ胸もとのボタンを留めなおしただけで、乱れた制服ごと毛布にくるまっていた。覚くんの大きな背中。腕を伸ばし、人差し指で背骨を押したのは、ほとんど無意識の欲望だった。
「……今度はいつ会えるかな」
閉め切ったカーテンの向こうで夕陽がだいぶ傾いてしまったことが分かる。五分待ってて、と玄関でことわって大急ぎで片づけたお粗末な部屋が恥ずかしかったから、本棚とか机とかが闇に沈んでゆくのはありがたいけれど残された時間はあとわずかだ。シャツを引き攣れ、下から上に彼の背骨をなぞる。くすぐったかったのか、覚くんのえりあしがそよぐように小さく傾いだ。
「俺もう部活引退したから、これからはわりと暇だと思うよ。まあ、少しはお勉強しないとだけど」
自然に「引退」と口にしながら、覚くんはいつもの淡々とした調子で教えてくれた。覚くんは大学受験するの、って訊いてみたいような、こわいような。いまさら同じ大学に行きたいなんて言ったら、呆れて幻滅されてしまうだろうか。こんなことを心配しているうちは恋人同士といっても「ごっこ遊び」と似たようなものだ。そう思うと、ついさっきまであんなことをしていたのに、途端に心細くて苦しくなった。
「覚くんは、なんでバレー始めたの」
会話のついでのように尋ねてよいことではなかった気がして、言ってすぐに後悔しかけたけれど、覚くんは存外にも軽やかにわたしの問いに答えてくれた。振り返って、背骨を這いずるいたずらな指先を握りこむ。彼は肘を枕にしてくつろいだ様子でわたしのとなりに横たわった。
「俺ね、小学生のときぜーんぜん友だちができない子だったから。それで、親がヤバイと思って近所のバレー教室に通わせてくれたの、同い年の友だちができますようにって」
指と指をほどいて、覚くんはわたしのからだを撫でながら遠い昔のはなしをしてくれた。覚くんのさりげない言葉の奥に、彼の生まれ育った町、歩いたあぜ道、通った学校、たくさんの「今まで」のかたちを想像する。小学生の時分の彼も、あの試合の日に見た彼のように、コートのなかでしなやかに手足を動かしていたのだろうかと。
「そっか。その教室でのバレーが、楽しかったんだね」
「いや、そんな楽しくなかったけど。ハブられてたし」
覚くんは時々、さらっと痛ましいことを言う。なんでもないふうに自分自身の心臓を斬りつけて、平気な顔でわたしの腰を撫でている。いつもとは雰囲気の違う、広いひたいを隠す前髪。濃い夕暮れの差しこみが、彼の表情に影をつくる。彼の裏側がひるがえって、束の間のあらわを晒している。
「……でもすごい楽しそうだったよ、こないだの試合」
「あー、」
何かを言いよどんでいるのか、思いだすべきものを思いだしているのか。覚くんの手の動きが止まる。それから、肘を伸ばしてベッドにぺたりと頬を預けると、覚くんはわたしとそっくり同じ視線の高さで目を合わせた。なよやかな笑みをうっすら赤いくちびるに湛えて。
「そうだねえ、こっちでのバレーは楽しかったかもしんない」
どっ、と血の流れだす音が体内からうるさく聞こえる。だけど覚くんの静かな声が、すぐそばからもっと確かに、はっきりと届く。わたし、話しているのだ。いつもよりずいぶんと饒舌な覚くんと。
「ちょっとの勇気で変わるもんだね。こっちでバレーができたのも、とこうやって会えたのも」
そんな目で、そんな声で、わたしのことを語りださないでほしいと思う。嬉しいのを通りこしてやりきれない切なさに襲われてしまうから。わたしはそんなに、彼に有り難がられるような女の子ではない。精巧にもできていないし、緻密でもない、男の子の幻想を引きとめておく従順さも、打ち破る器用さもない。そんな自分をうまく好きになれるはずがない。だからこんなに、後ろめたい気持ちになるのだ。
「……おおげさだよ。わたしのことなんか、」
「なんで。おおげさじゃないよ、ちっとも」
わたしのくるまっていた毛布の端っこをひっぱって、覚くんのからだが冷たく沈んだ部屋の空気と一緒に毛布の下に入ってくる。ブラウスの隙間から忍びこむ外気より、覚くんの皮膚からほのかに伝わる熱が全身を粟立たせる。覚くんの「おおげさじゃないよ」は、けっしてわたしの卑屈をいたわる彼の思いやりでも、気休めでもなかった。ただ、1と1の足し算が2であるように、覚くんが簡単な等式を教えてくれる。ひとりとひとりが、二人になること。二人だから、ひとつになれること。
「ありがとう」
覚くんの大きな眼が鎖のような視線をまっすぐわたしにつないで囁く。あの最後の試合の日と同じ、わたし宛ての飾り気のない五文字。どんな返事をしたとしても彼の言葉には届かないような気がして、わたしはただ頼りなく首を横に動かすことしかできない。毛布の下、大好きなひととつくる独特の温もりが絡まっている。いっぺんに混ざりあうことのできない、わたしと覚くんだけの、恋の速度がある。大人になんていつでもなれるのだから、わたしたちまだもう少し皺くちゃの白いシャツを着たまま、ちゃんとしてない二人でいよう。
THE END
2017.11
♪ みっくしゅじゅーちゅ - 大森靖子