八十歳になったとき、彼女のことをなつかしく思い出すだろうか? 思い出すだろうと思う。おそらく、ぼくの人生に起こった最上のできごとのひとつとして、彼女のことを思い起こすことだろう。おそらく、あの日々にかえりたいと思うことだろう。――『ギルバート・グレイプ』ピーター・ヘッシズ




 戯れる水の遊びのような旋律が、鼓膜に淡い波紋をひろげる。
 それは、セミが喚き、脳みそが溶けだしそうなぐらいに暑い八月の午後、母方の実家から送られてきた赤玉スイカをバレー部の連中に差し入れに行ったときのことだった。あざーす、という気持ちのいい大号令を聞き届けてから、俺はマネージャーの二人とともに家庭科室へスイカを運んだ。来賓用の緑のスリッパを履いて、薄暗い廊下を歩いていると、こみあげてくる懐かしさと同時に妙なよそよそしさも感じてしまうから不思議なモンだ。繋心がコーチを始めてから、卒業以来ほとんど来ることのなかったこの場所も、俺たちにとってふたたびお馴染みの溜まり場になった。それでも、ふと気を抜くとまるで、既知の風景という化けの皮をかぶった並行世界に迷いこんでしまったような、座りの悪い感慨を覚えてしまうのだ。これが、歳をとってゆくということなんだろうか。
 窓の外に、まばゆいほどの濃い青空。上昇気流が目に見えるような渦巻く雲のかたち。そして俺たちはあの風に乗って、いちばん高いこの場所から、いつか飛び降りることを運命づけられている。青春を投身自殺に喩えるのは、ああ、さすがに意地が悪い。

「あっこの曲、なんていうんでしたっけ」

 遠くゆるやかなピアノの調べに気がついて、午睡から優しく起こされるような気持ちで俺が顔を上げたとき、谷っちゃんもその、おそらくは上階の音楽室のほうから漂ってくるかすかなメロディーに気をとられたようだった。
 家庭科室の業務用のどでかい冷蔵庫のなかには、各運動部が互いに遠慮しながら敷き詰めたドリンクだとか湿布だとかがひしめいている。どうもスイカを押しこむ余裕は無さそうだったから、俺たちは大鍋に氷水を張ってスイカを冷やすことにした。水道水を流しかけ、一時間もすれば食べごろだろう。二玉のスイカなんて、あいつらの胃袋にかかればあっという間にたいらげられてしまうはずだ。

「仁花ちゃん、クラシック好きなの?」
「いえ、めっそうもない、そんな高尚な趣味は……」

 谷っちゃんが作業の手をとめて、大げさなジェスチャとともに首を横に振ると、清水さんはメガネの奥の瞳をやわらかく細めて笑った。前はもっと大人びた印象の子だったけど、女の子どうしで居るときは、柔和で、年相応の無邪気ささえ携えているようだ。和気藹々とたわいのないお喋りを楽しむ女子高生二人のとなりで、オッサンはもくもくと製氷皿をひねる。涼しい音を立てて、白くにごった氷がトレイから剥がれ落ちてゆく。

「ふふ、でも確かに聴いたことあるね。きれいな曲……」

 製氷皿をつよくしならせる。ばきばきと音を立てて氷の表面が軋む。それはまるで、長らく心臓に凍りついていた、俺の記憶が溶けていく音だ。かたくなにこびりついた雪が溶けていくように、ひとつの思い出が、熱い胸底に舞い落ちる。こんなにも鮮度を保ったまま、十八歳の俺を今なお仕舞いこんでいたなんて。鍵をかけた開かずの部屋に、耳なじみのあるその旋律だけが流れこむことを許される。あのころも、何も、きれいな曲だと思って聴き惚れていたわけじゃない。むしろ聞いているうちどこか不安をかきたてる、心をざわつかせ、静かなみなもを掻き乱すような物騒な音の波だと感じていた。だから忘れられなかった。クラシックの素養などまるでない俺が、どうしてこの一曲に執着してしまったのか。理由などない。恋と同じだ。



 十八歳という一度きりの日々は、あのころの俺にとって、人生でもっとも虚しい季節だった。終わりと始まりのさかいめ。何者でもないことを許されていた十七歳はとうに過ぎて、同じ制服を同じように着崩していた連中が、自分とはまるで違う、隔たれたどこかへと方向づけられた異分子のように見えてくる。志望校、偏差値、判定、集中講義。息詰まる単語の羅列に気圧されるように、協調性のない俺はふらふらと異分子たちの牙城を出た。なんとなく教室に居づらいというはっきりしない居心地の悪さを抱えていたけれど、今になって思えば、あれは逃げだったのかもしれない。誰かからではなく、自分からの。
 音楽室から漏れるピアノの音が途切れるとき、その意味を知る者はこの広い校内に俺たちしか居ない。鍵のかからない部屋でそういう二人になるのはちょっとしたスリルがある。俺が長方形のイスに割りこむと、は立ちあがって、鍵盤をしまった蓋のうえに浅く腰かけた。あんなにきれいな音色を響かせるわりに、自分の扱う楽器にたいして彼女は冷めてる。ほんとうはまるで興味がないみたいに。

、五限の現国で音読あたってただろ」

 窓を閉じていても耳をすませば、どこぞの運動部が発する威勢のいい号令が聞こえてくる。だから沈黙は苦手だ。膝の上にを引き寄せて、向かい合うような体勢で距離を詰める。彼女が首をかしげると、束ねていない黒髪が耳からするりと落ちた。

「それがどうかした?」
「いや。喉に残ってなかったかなと思って、俺の」

 の細い喉を撫でながらこんな下卑たやり方で気を引いてみたって、彼女が俺に向ける笑みはいつだって下品なところなど少しもなく、うららかに美しいのだから恐れ入る。俺のひたいにひたいをくっつけて、ばか、とは言った。ばか。他人をからかうありきたりな二音がこんなにあだっぽく響くのは、その二音を発した彼女の唇が、真昼に俺の性欲を紛れもなくしぼりとったからだ。
 。こんな女だったなんて、同じクラスに三年間居て、まるで知らなかった。まるで知らないまま、指先ひとつ触れあわずに卒業していた未来も多分にあったのだと思うと、身震いさえしてしまう。それぐらい、こうなってしまえばとの時間は、俺にとってかけがえのないものに違いなかった。彼女自身のことをかけがえなく思っているかどうかは、ひとまずべつにしても。
 部活の休憩中、あるいはロードの行き帰りによく聞こえてくるピアノの旋律のなかに一曲、いつもやけに耳に残るものがある。そんな話をいつだったか繋心と嶋田にしたら、おまえ集中力ないんじゃねーの、とひどく呆れられた。集中力があるくせに万年ベンチの二人に言われたくはなかったが、確かに、そんなものがことさら気になるなんて可笑しな話だ。だけどなぜか、俺は無性に囚われた。胸の内を不安定にさせるその曲と、その曲を弾いてる誰かの存在に。
 六月の第一週、バレーボールに明け暮れていた日々が唐突に終わりを告げて、俺にはぽっかりと放課後の空虚ができあがった。音楽室の扉をひらいたのは、ちょうどそのころだ。なんの躊躇もなくひらいたドアの向こうに居たのが、だった。俺と彼女。二人の視線がこんなふうに直かにまじわるのは、もちろん初めてのことだった。

「なあ、いつも弾いてる曲、アレなんつうの?」

 鍵盤に手を置いたまま、大きな目をはまばたかせる。四十人がひしめく教室のなかで、彼女はとくべつ目立つほうの人間ではなかったが、かわいいし、頭も良くて、ひそかに男からは好かれていた。たしか、推薦で東京の大学へ行くらしいと、異分子たちが噂していたのを覚えてる。彼女も、いわゆる受験勉強に追われないクチか。だけどその意味合いは、俺とは百八十度違っていた。

「いつもって……いろいろ弾いてるから、それだけじゃ分からないよ」
「じゃあ適当にやってていいよ。ソレだって言うから」
「聞いていくの?」
「どーぞ、俺のこと気にしないでいいから」

 俺はピアノの向かい、並べられた机のひとつに適当に腰かけた。いきなり図々しいものだ。けれど、彼女は俺を追いださなかった。俺も自分が追いだされるとは思っていなかった。俺にはそういう、この閉ざされた世界でしか体をなさない、染みついた過信のようなものがあった。だからそんな無遠慮なことを、ろくに会話したこともないクラスメイト相手に言えてしまうのだ。
 不思議そうな顔をうつむけて、が肩と足もとにちからをこめると、ふたたび教室には繊細な音楽が流れはじめた。一曲、数分ずつの小品が列をなす。求めていた曲と違っても、俺は口出しせずに黙って聞いた。曲の良し悪しも、演奏の良し悪しも俺には分からない。ある物差しは、好きか嫌いか。ただそれだけだ。
 目当ての曲が奏でられるまで、潰すでもなく流れるでもない時間がそよ風のようにそこにたなびいていた。傾きかけた陽射しがグランドピアノのおもてを黒々と輝かせる。待ち望んでいた響きをかきわけて、俺は立ち上がり、ピアノに手をかけて彼女へ近寄った。目を伏せるは少し笑っているように見えて、焦らされていたのだと気づいたのはそのときだった。

「わざとだろ」

 俺の尋ねた曲をどういうわけか見抜いていて、わざと後回しにしていた。演奏が終わってからそうこぼすと、はちらっと俺のほうを見上げ、いたずらっぽく舌先をだした。こういうやつなんだ。まじめで、そつなくなんでもこなして、男に対してくだけた態度なんてとらないやつだと思ってた。ひとは見かけによらない。鍵盤に布をかぶせながら、は俺に尋ねた。

「滝ノ上くんはピアノ・クラシックが好きなの?」

 問われてみればおかしな状況だとあらためて思わされる。たった一曲の名前も知らないクラシック音楽への執着が、小一時間ここに居座っているうちにすっかり歪んでしまったようだ。好きか嫌いか。簡単で、不躾で、正直な物差し。俺は初めてそれを、彼女というひとりの異性に押しあてた。

「……どっちかっつうと、のほうが好き」

 いたずらにいたずらを返すようなつもりで、とくに大それたたくらみでもなく、俺はぼそりとそう告げた。がまた目をみひらいて、それから愉しそうに笑ってみせる。俺もなんだか愉しかったし、彼女のことをとてもかわいいと思った。たったそれだけの好意で、結果的に俺のその一言は、ただの一過性のいたずらでは済まされない言葉になった。異分子と異分子がわけもなくくっついた、放課後の化学反応。
 この、校舎のはずれの音楽室でだけ、二人は言葉も視線も交わさない、ただのクラスメイトであることをやめるのだ。



「わたし、もうすぐ推薦が決まりそうなんだ」

 二学期の期末テストが終わってしばらく経った放課後、いつものようにクラシックを垂れ流していた音楽室へふらりと立ち寄る。そこにはもちろんが居て、俺を待っているんだか待っていないんだかしらないが、ほっそりとした指先を鍵盤の上で遊ばせている。曲を中断しないまま、は言った。俺は、教科書のひとつも入ってやしない軽いかばんと、コートを、最前列の机の上に放り投げた。

「あー……、W大志望だっけ」
「そう。いとこが向こうに居るから、二人でルームシェアするの」

 自分から東京の名門私立大の名前を口にしたくせに、それだけでとなりに居る彼女が今すぐにでも数百キロの彼方へ遠ざかってしまったような、即席のよそよそしさを感じる。ばかみたいにひよった幻想をいだく。うらやましいと思うわけでも、惜しいと思うわけでもない。彼女は彼女で、異分子。ただ、それだけのことだ。

「滝ノ上くんも大学に行くんだと思ってたよ」

 グランドピアノのふちにもたれる俺を、がなにげなく見上げる。無色透明の問いかけ。手もとなんて注視しなくとも彼女の指先が狂うことはめったにない。からだに染みついた動きというものがある。その感覚を、俺も多少なりとも知っていた。片腕を上げて、ちからなく振って見せながらこたえる。

「ないない。この先また四年も勉強すると思ったら、吐きそうになる。専門でいいんだよ、俺は。就職先も決まってるし」
「バレーボールは好きでしょう。辞めちゃうの?」
「どうかな」

 好きか嫌いかも、辞めるか続けるかも。
 これ以上この話を続けたくなかった。俺は俺を無視して動き続けるの腕をとりあげた。子守歌のような柔和なメロディーがぶつ切りになる。こうやって、許された相手の唇に唇を押しつけることを覚えたのは中学二年のころだったけど、とこうしていると、自分がいかにこういうことに不慣れなままであったか思い知らされる。はどうだろう。彼女は今までどういう日々を過ごして、そしてこの場所で俺を受け入れているのだろう。何も知らないし、聞けもしない。それを聞くことが、自分の存在をさらにちっぽけなものにすると、知っているから。

「待って、奥のソファで」

 演奏をやめさせたあと、俺はたいがいをとなりの音楽準備室に連れ去る。そこには内鍵と、古びたソファのお膳立てまでしてあった。だけど今は移動する数歩すらいとわしい。何より、このはち切れそうな禍々しい感情はとても、鍵のかかった小部屋になど仕舞っておけそうになかった。
 彼女を立たせて後ろから短いスカートを擦りあげる。こんな真冬にタイツも履かず、生肌をさらしていることのおそろしさ。たやすく手に届いてしまう彼女のからだは現実そのものなのに、触れるたび夢のようだと思ってしまう。夢のように素晴らしいだとか、美しいだとか、都合がいいだとかじゃない。夢のように、彼女はいつも捉えどころがないのだ。
 ――優等生のさんがこんなとこで男とヤッてんのがバレたら、推薦取り消しかもな。
 鳥肌を立てる彼女の首筋に噛みつきながら、そんな露悪的な言葉を吹きこもうとして、やめた。彼女の未来と天秤にかけられることに怯えたのかもしれない。そんなものはなから、構う気すらなかったはずなのに。自分から冗談を言おうとして、彼女のまっすぐな瞳に「冗談でしょ」と言われることを恐れてる。いつの間にか負け戦のつもりでいるのだから、たいそうなうぬぼれだ。
 無防備な行為を終えて、がらんとした放課後の三年生の下駄箱まで降りてゆくと、外はいつの間にか銀色ににごっていた。初雪だ。朝の天気予報など見てないけれど、母親が勝手に持たせた折り畳み傘を、俺は空っぽのかばんから取りだした。

「わあ、雪だ。ついてない」

 ほんのりとほてったままの頬を隠すように、がざっくりとマフラーを首に巻きつけながら言う。どうやら彼女も朝の天気予報を見逃していたらしい。紺色の折り畳み傘をひろげながら、恨めしそうに雪を見上げているに、俺はほんの少しの勇気をもって声をかけた。

「……傘、入ってくか?」

 が俺を振り返る。さっきまであんなことをしていたのに、体勢が体勢だったから、まともに正面から覗いた顔が新鮮ですらある。は首を横に振りながら、俺の勇気を軽やかにかわした。

「ううん、いいよ。滝ノ上くん、逆方向でしょう。これぐらい平気」

 あの密やかな部屋を出れば、二人はひとつの傘を共有する偶然すら許されていない、ただの疎遠なクラスメイトでしかない。セックスはするのに相合傘はできない間柄というものが、あるらしい。は手提げかばんを頭の上にかざすと、傘をひらいていた俺よりも先に、昇降口の軒下から一歩踏み出した。生白い肌をさらした、ハイソックス履きの細い脚で。

「じゃあね、また明日」

 また明日。また明日。
 そのなにげない常套句すら果たされなくなる日は、あっという間に訪れた。
 一月の終わりにはほとんど授業もなくなって、毎日登校するような律儀なやつはそう居なくなった。それでも俺との密会はなんとなく続いていたけれど、それも今日までだ。穏やかな別れの儀式を通り過ぎて、肩を抱きあったり叩きあったりしている人の波をかきわけていく。バレー部の連中からは、あとで集まろうと言われていた。適当な相づちを打ったけど、地元を出ないいつものメンツと集うよりも、俺にはしたい寄り道がまだあった。どうして誰も、水のしずくのようにしたたり落ちてくる、このメロディーを気にも留めないのだろう。まるで俺にだけ聞こえるテレパシーのように、彼女はその指先で正しく俺を呼びつける。こんな日も、はそこに居た。そして初めて、俺が何かしらのちょっかいを出す前に、自分から鍵盤を手放したのだ。

「滝ノ上くんの第二ボタン、欲しかったのに。売り切れちゃって残念だな」

 ほつれた俺の胸もとのボタンホールを見つめながら、が言う。そこについ三十分前まであったもの。なんの変哲もない銀ボタンを射止めたのは、女バレのひとつ下の後輩だった。とくべつ仲が良かったわけじゃないけど、耳を真っ赤にして「頂けませんか」などと言われたら、俺にとってそれは避けがたい一手に違いなかった。悪い気はしないものだ。となりで一部始終を見ていた嶋田からは、「おまえ、相変わらず後輩にだけは人気あんのな」という嫌味と羨みの混じった言葉を投げられた。
 意外だった。とても本心からの惜しさを口にしていると思えず、俺はボタンの消えた学ランの合わせをはぐらかすように指でなぞった。

「嘘つけ、こんなもの」
「どうして?」
「どうして、って……」

 そんなふうにまっすぐ問われると言葉に詰まる。どうしても、こうしても。にこんな、ありきたりなまじないは似合わない。男から銀ボタンを乞うなんて似合わない。その男が俺だなんて、笑ってしまうぐらい似合わない。彼女のことを何も知らないのに、俺は迷いなくそう思っていた。ずっと、うぬぼれの裏側で。が立ちあがる。教壇の上に立っていても、彼女の身長は俺よりも低く、二人の視線は並行にはまじわらなかった。

「わたし、滝ノ上くんのこと一年生のころからずっと見てたよ。この場所から……」

 すぐに逸らされた彼女の視線が、窓の向こうに投げられる。部活の休憩中、ロードの行き帰り、いつも聞こえていたかすかなピアノ・クラシック。第二体育館と渡り廊下を挟んで、向かい側の校舎の三階。いつもひらいていた窓。バレーボールの話題。俺の目当ての一曲を見抜いて焦らした、の不思議なまでの勘の良さ。ふたたび彼女が俺を見上げたとき、いったい俺はどんな間抜けな顔をしていただろう。この場所で、初めてクラスメイトの矩を越えて出会ったときのように、は俺にいたずらっぽく笑いかけた。

「嘘つけ、って思う?」

 長いまつげを寝息のように優しく上下させて、がほほ笑む。別れの日に物悲しいところなどまるでない、抜けた青空のように晴れやかな笑顔が、ひどく俺を動揺させた。手を伸ばせばたやすくつかめてしまう距離に居たのに、あれほど無造作にからだを重ねあったのに、俺は最後の瞬間、指一本も彼女に触れることはできなかった。気づいたときにはもう、彼女は数百キロの彼方にかすんでいた。
 まともなさよならも交わせないまま、あれから、この街で彼女の姿を見ていない。



 戯れる水の遊びのような旋律が、鼓膜に淡い波紋をひろげる。
 変な女だった。八年の月日が経って、高校生活の最後に訪れたあの日々のことを思いだしてみると、そんな気の抜けた感想が浮かんでしまう。高校を卒業して、俺は二年間、専門学校の電気工事科に通ったのち、家の仕事を本格的に手伝うようになった。今じゃ、家電の組み立ても修理もなんでもござれだ。地元を出て生活したことはないけど、この街での暮らしに不満も不自由もない。気の合う友人たちも居る。町内会のやつらと集まって、なんだかんだバレーも続けている。繋心が烏野でコーチを始めてからは、後輩たちの成長を見るのも目下の楽しみになった。やっぱ歳をとったな、と思う。
 この場所は俺たちのたったひとつの世界だった。きっともう二度と会うことはない、この場所でしか交錯することのない、ひとりとひとりが居た。

「これ確か、ドビュッシーのアラベスクだよ」

 からになった製氷皿に水道水を注ぎなおして、そっと冷凍庫に戻しながら言う。楽しげな会話を中断した、マネージャー二人の驚いた瞳にぶつからないように、俺は細々とした作業に集中しているふりをする。耳には懐かしいあの旋律。俺を誘いだした、二人だけの暗号のような調べ。
 もう、誰に呼ばれているような気もしないのに、なぜだろう。よどみない響きの先を、ふと見上げる。
 あいつがそこに、居るような気がした。









THE END

2019.12