四月の終わりの海から優しい磯の匂いがする。
 窮屈なスウェードのショートブーツを脱いで、裸足でやわらかな砂をそうっと踏んだ。弓なりの足の裏のかたちに合わせて、ほのあたたかな砂が沈みこむ。刻んでは風にさらわれていくはかない足跡。ときおり混ざる小枝や小石のざらつきに足をとられないように、歩くたびわたしは、体重のうつろいを足先でたどたどしく確かめた。せっかくすぐそばに渚がさざめいているというのに、駆けてゆくでもなく頼りなく、砂粒をひきずれる足もとだけをわたしは見つめてる。だけどその不安定な、つなわたりのような一歩一歩が、浮き足立ちそうなくらい楽しい。きっと春を忘れさせる水の冷たさよりも、春を明かすようなこの砂の温度のほうが、今のわたしの胸にはすっと馴染むからだ。
 大好きなひとと、二人。せっかちな血を送るこの心臓が、熱をもたないはずがない。

「あったかい。砂の上にはまだ太陽が残ってるみたい」

 そんな感想がぽろりと独りごとのようにあふれる。お昼ごはんを食べて仙台駅を出発したときはまだ、淡いペールブルーの空を車窓から眺めていたはずだけど、あのがらんとしたローカル線はどうやらわたしたちと一緒に不穏な雲をここに運んできたようだ。空の色を映す海は、よそよそしい冷たいにび色をしている。そのうち雨が降りそうで、朝の天気予報はまったくあてにならない。振り返ると、わたしをここに連れてきた張本人は、わたしの脱いだブーツを片手にぶら下げて、わたしのわだちを踏まないように、数メートルの背後をのんびり歩いていた。わたしなんかより、ずっと速く遠くへゆけるだろう、長い脚で。
 白いブレザーでもジャージでもない、私服すがたの天童くんを、わたしは初めて見た。わたしをすっぽり膝までつつみそうな、ゆったりした黒のマウンテンパーカー。その下に、細身のパンツと年季の入ったスニーカーを合わせてる。なんだか、地味なのとは少し違う、静かな格好だな。それが、今日の彼への印象だった。適切な距離をもって天童くんが足を止める。そして、パーカーのポケットに片手を潜ませながら、穏やかに目を伏せた。

「よかった、さんが楽しそうで」
「え?」
「女の子をどこ連れてったらいいか分からなかったから。うちの部って、そういう的確なアドバイスできるやつ居なくってさ。ヤバイよねー囚人生活かっての」

 風が吹けばさらしたくるぶしが涼しい、だけど足裏には捉えがたいほのかな温もりがやっぱり生きている。夏でもないのに海なんか行って、いったい何があるのだろうと思っていたけど、やっぱりそこには何もなくたださみしく、それでも、二人でそういう場所を歩くのも悪くないと思った。天童くんが誰のアドバイスも受けずに決めた行き先なのだったら、なおのこと。
 彼の軽やかな口ぶりには、いつも何か気の利いたことを返さないといけないような気にさせられる。だけど上手くできた試しがない。天童くんはけっこう、お喋りだ。でも沈黙を埋めるそれは、他人から何かを引きだすようなたぐいのお喋りじゃない。むしろ引きだされたくない自分をはぐらかすように、彼は頻繁に口をひらいた。

「で、でもそれはその、バレーが恋人という……」

 毎日、三百六十五日のうち、彼はいったいどれだけの時間をひとつのことに費やしているだろう。ほんとうは、恋人なんかよりずっと大切にされている、彼にとってたったひとつの大本命がある。手垢のついたわたしの言い回しが可笑しかったのか、天童くんは吹きだして笑った。

「ずいぶん美化してくれるねえ。じゃあ俺はいま、浮気中ってこと?」
「えっ!? そんな、」
「いいご身分だこと。愛想つかされなきゃいいけど」

 自分で自分のことをからかうように、天童くんはゆらりと鷹揚にうそぶく。愛想をつかされる、って、それはどっちに? 言葉の意味には追いついても、彼の感情の気まぐれにはなかなか追いつけないでいる。揺れたりぶれたり、自分の感情のかたちをつかむのさえ必死なのだから、そんなのまだ無いものねだりなのかもしれない。あなたはわたしに自分をつかませない。わたしのように揺れたりつぶれたり、そういう自分を、見せてはくれない。
 天童くんは、海に向かって何歩かすすむと、その場におもむろにしゃがみこんだ。波が運んだのだろう、小枝をひろいあげて、尖った先で何を描くでもなく砂を引っかく。わたしは彼の、まるめた大きな背中を見ていた。ふだん同じような上背の女の子とばかり接しているからか、こんなふとした瞬間にも異性の隔たりを感じてしまう。あたたかな砂に埋もれて、足先が少し、かじかんだみたいに震えた。

「天童くんは、ちゃんと楽しい? その、今日……わたしと、」
「うん、楽しいよ。俺の地元って海なかったから、こっちに居るうち、いちど来てみたかったんだよね」

 夏はいつも忙しくてさ、と、わたしの顔も見ずに言う。その楽しさはほんとうにわたしとここに居る楽しさなのかな。そんなおそろしいことは聞き返せないけれど、今はそれでもいいと思えた。永遠に途切れることのない波の音が、微妙な距離のわたしたちを優しくつないでいてくれる。彼のことを少し知ることができた。ここに彼が来たかった理由、彼の生まれた土地のこと、たとえささいなことだとしても。
 天童くんがふと顔を上げる。わたしも、彼の横顔を見つめるのをやめて、同じように空を見上げる。いま、冷たいしずくが頬をかすめた。雲に覆われた空のかなたから、二人きりのつかのまを濡らす、意地悪な雨が降りはじめた。



 女子高になんて入ってしまったから、たとえば男の子にチョコレートをあげる機会なんて、三年間いちどもないんだろうと思っていた。
 友だちのお兄さんが試合に出るからと、連れだされたバレーボールの大会で、わたしは天童くんと知り合った。去年の十月、あのときはなんの大会かも分からなかったけれど、あれから興味本位に勉強して、今はバレーのルールも大会の順番もちょっとだけ詳しくなった自分が居る。天童くんとわたしの友人は、お互い顔見知りていどの関係だったけど、その細い糸を介してわたしはその日、彼と二三の言葉を交わした。緊張して、あんまり何を話したか覚えてない。おそらく大したことじゃない。遠くから試合を観ていたときは気づかなかったけど、彼はとても背が高くて、それに、今まで出会ったことのない独特の近寄りがたい目つきをするひとだった。疎んじているわけでも、拒んでいるわけでもないのだろうけど、けだるく他人におもねらない瞳だ。見つめられたとき、自分だけがそこに閉じこめられたかのように感じて、息が苦しくなった。
 文化祭とか、練習試合とか、友だちに付き合ってもらってかすかな接点をひとつずつ増やしても、点と点をどうやって結んで線にすればいいのか分からない。これ以上はないというぐらいに勇気を出して、バレンタインのチョコレートを渡した日も、連絡先を交換してもらうのがやっとだった。何やってんの、と友人たちに呆れられはじめたころだ。偶然、学校の最寄り駅のホームで天童くんと出くわしたのは。彼は数駅先の整体院に行った帰りで、ベンチに座って乗り換えの電車を待っているところだった。

さん、連絡先交換してくださいって言ったわりに全然連絡くれないね」

 一緒に居た友だちがお節介の気を利かせて、わたしはひとり、ひと足先に電車に乗った彼女に置いていかれてしまった。彼を連れてゆく反対車線の電車が来るまで、たったの五分間。学校の最寄りだから、わたしと同じ制服を着た女の子たちが次々にホームにやって来ては、ベンチに並んで座るわたしたちに視線を投げていく。シラトリザワだ、と、通りすがりの誰かのこそこそ話が耳に届いて、気が気じゃなかった。わたしたち、一体どういうふうに見えてるのだろう。連絡ひとつまともにとれないまま、もうすぐ春がやって来る。

「それは、ええと、……忙しいのに、迷惑かなって……」
「メール読んだり書いたりするぐらいできるけど。どんだけ秒刻みの毎日送ってると思ってんの」

 ブレザーの下に着こんでいたフード付きパーカーのポケットに両手を入れて、脚を組み替えながら、天童くんは息を吐くように笑う。不意に笑った顔に、そぞろだった胸が焼け焦げそうになる。そんな、余裕のないタイミングを見計らうかのように、天童くんがわたしをのぞきこんだ。

「なんかないの、俺に連絡ごと」

 二月の甘い空気に託したあのチョコレートだけできっと、わたしの気持ちなんて誰から見ても明らかだったろうけど、彼はまだわたしを遠ざけないでいてくれる。こうしてとなりに座ることを許して、話しかけてくれる。だからって、うぬぼれられるほどの良い思いなんて、何もしていない。いまだに恋人が居るのかどうかさえ知らないまま、こんなに好きになってしまった自分のいくじなしとひとりよがりが痛々しい。好きだ、好きだって思いながら、自分かわいさに相手を遠ざけているのは、わたしのほうだ。
 構内アナウンスが流れて、もうすぐホームに一本の電車が入ってくる。天童くんを連れて行ってしまう電車だ。たったの五分間。ここで、もっと一緒に居たい、まだ電車に乗らないでほしい、なんて言ったら、彼はどんな顔をするだろう。そんなはかない想像力だけがいつも先走る。わたしは、マフラーに埋もれた唇をはくはくと動かした。

「……なんでも言ってたらきっと、メールだけじゃわたし、だめになっちゃうから」
「だめって?」
「……それは、もっと会いたくなったり……」
「会えばいいんじゃん? べつに。練習ない日、教えてあげるのに」

 歯切れの悪いわたしのつぶやきをちゃんと聞き届けて、天童くんはあっけなくそう言った。あまりにも軽々しく欲しくて欲しくてたまらなかった言葉をもらえたような気がして、一瞬、かえって何を与えられたのかも分からなくなる。速度を落とした各駅停車が、二人のベンチの目の前を通りすぎてゆく。エナメルバッグを肩にかけなおして、天童くんはベンチから立ち上がった。黙りこくっていたわたしを見下ろして、彼がゆっくり目を細める。今までいちども見たこともない表情、まばたきなんて、できない。

「今度、二人でどこか行こうか」

 その一言を残して、天童くんは電車に乗って行ってしまった。二人でどこかへ、そんな輝かしい約束をほどけそうなぐらいにゆるく結んで、わたしたちは正反対の線路の先へと帰って行った。
 あのとき別々の電車に乗るしかなかった二人が、新しい季節を迎えて、今は同じ電車に乗りこみ、となりどうし座って揺られている。わたしにしては大した進歩だと思う。でも、満ち足りてはいない。わだかまる後ろめたさがしだいに濃くなって、それがときどきこわい。わたしはまだ、彼に、ほんとうの「連絡ごと」を伝えられないでいるから。たとえわたしのすべてがすでに彼の手中にあったとしても、だとしたらなおさら、はやく取り返さないといけないんだろう。自分の言葉で、彼からわたしを。



 急いで足裏の砂をはらってブーツを履きなおしたから、なんだかざりざりとした感触がずっと足指に残り続けているような気がする。
 春雨に降られて、わたしたちは駅まで二十分の道のりを引き返した。だんだんと雨足は強くなる一方だったけれど、おろしたばかりの慣れないブーツでは、わたしはどうしても天童くんのように速くは歩けなかった。途中、彼は着ていたマウンテンパーカーを脱いで、もたつくわたしの頭に雨避けのようにそれを被せた。大丈夫と言っても、いいから、と。彼のパーカーの内側には、こもった体温と、すうすうする湿布の匂いのようなものがほのかに染みついていた。まるで腕のなかに抱きしめられているみたいで、恥ずかしくて、わたしは彼の優しさを少し恨んだ。
 電車が出発したばかりの駅の待合室に、わたしたちのほかに人影はなかった。けっこう降られたね、と言って、天童くんは濡れた前髪をくしゃりと崩す。ひたいにかかる少し長めの前髪だ。わたしの差しだしたハンドタオルを受けとらずに、彼は手ぐしで髪に纏わるしずくを払い落とした。

「……そうすると、天童くんがかっこいいからやだな」

 口にすべきではない無防備な本音が漏れてしまったと思い、肩にかけてもらっていた彼のパーカーを腕に引き連れ、身ごろで口もとを隠した。そうするとますます彼の匂いが近くなって、動揺を鎮めるには逆効果だというのに。天童くんが首を傾いでわたしを見る。肌に張りついたラグランシャツの肩口を、剥がすように何度かつまみながら。

「かっこいいとヤなの?」
「だって……女の子にモテちゃうでしょ」

 俺がモテる? 天童くんは、もしかしたら今まででいちばんわたしの言葉に驚いていたかもしれない。不安を感じているのは、いつもわたしだけ。毎日、朝から夕方まで彼と一緒に居られるような、ただのクラスメイトの関係を享受している子たちがとてつもなく羨ましい。そんな恨めしさをこめたわたしのまなざしをいなすように、彼は気抜けた笑みをして、はっきりと言い放った。

「女の子のことは分からないけど、俺はそんなんで好きになられても、どうしようもない」

 わたしを安堵させもするし、怯ませもする、彼の言葉はうらはらだった。髪型ひとつで高鳴る胸を、わたしも隠し持っていたから。
 出会ったあの日、どんなふうに天童くんのことを好きになったのか、今となってはよく分からない。ひとを好きになるときの感覚を、わたしはまだひとつしか知らない。何かと較べようもない。わたしはただ、彼に閉じこめられた。彼の独特の眼に。とくべつ優しくされたわけでもない。むしろ素っ気なかった。だけど彼は知れば知るほど優しいひとで、わたしのあいまいな気持ちなんてすぐ引きつける、夢中にさせる、強いちからを持っていた。

「モテちゃうかあ。その言葉、一生言われることないと思ってたな」

 わたしの言葉を鼻歌のように反芻しながら、天童くんは膝のあいだに腕をだらりと垂らして猫背になった。ひとはいつ死ぬか分からないけれど、十七歳のわたしにとって、想像する一生はいつも途方もない年月の束だ。そして、漠然とこうも思う。もしあと十年、二十年と二人が生きられたら、わたしたちはそのとききっと、一緒には居られないのだろう、と。だけどいま、わたしたちは二人でここに居る。このさき人生が長く長く続いても、彼と二人きりになったこのひとときの上に、すべての時間は積み上がってゆく。気が遠くなるような不思議な話だけど、おかしな話ではない。だって人生は、たったひとつだから。

「……わたし、おばあちゃんになったとき、どんなふうに天童くんのこと思い出すんだろう」

 一生の、最後のほとりで。そのときわたしは誰のとなりに居るだろう。あるいはひとりかもしれない。それは分からない。なに気の長いこと言ってんの、とわたしに目もくれずに、天童くんは待合室の掛け時計をちらりと見上げた。まるで戯言をあしらうみたいに。時間を気にしているそんなささいな仕草だけで、わたしが喉を詰まらせること、天童くんはきっと知らない。

「忘れるよ、俺のことなんてすぐ」
「そんなことないよ!」

 張り上げたわたしの声が、がらんとした待合室に響く。彼の前だといつもたどたどしく、自分が自分じゃないみたいにしか話せなくなるのに、そんな緊張がそのとき奇妙にほどけて、わたしは降りだした雨のように言葉をとめられなくなった。

「だって高校の三年間なんて、一生に一度しかなくて、だからきっと、このさき何があっても上書きなんてされなくて……そんなの、簡単に忘れられるわけない。思い返すことが減っても、ふとした拍子に全部、わって思い出がよみがえったり……。天童くんはすぐ忘れちゃうかもしれないけど、わたしは、」

 わたしは絶対に忘れたりしない。そう言いきりたかったのに言いきることができなかったのは、ゆらりと濃くなる影に気づいたからだった。初めて彼と目を合わせたときの、あの言いようのない息苦しい感覚がよみがえる。立ち上がれば彼のほうがうんと背が高いのに、こうして猫背になって伏せた瞳を掬いとられたら、見上げられているのはわたしのほうだ。からだのどこを拘束されるでもなく、言葉の鋲を刺されるでもなく、わたしはたったひとりのひとのせいで、たったひとりのひとのために不自由になる。唇をひらいたまま、自然と息を止めた。
 春の冷たい雨に打たれたせいなのか、二人の唇はどちらともなくかすかに震えていた。

「……初めてキスした子なら、俺もそうそう忘れないかな」

 何かを確かめるように、天童くんはうん、と小さく喉の奥でつぶやく。それからまたいつものように飄々と、何ごともなかったようにベンチに居直り、長い脚を投げだした。電車がホームに入ってくるまで、あと何分あるだろう。今日という日があっという間に終わってしまう。次に会えるのは、いつ? 長い別れと別れをつなぐ小さな蝶番のように、二人きりの時間はいつもはかない。
 わがままを言うつもりはないけれど、五月の天童くんの誕生日には、ひと目でいいから彼と二人で会えたらいい。電話でもメールでもなく、直接会って、目を見て、お誕生日おめでとうと言って、そのときようやく、わたしは奪われっぱなしのわたしの心を彼から取り返す。必ず、わたし自身の言葉をつかって。
 ――あなたのことが好き。









THE END

2020.5.20
♪ 赤いスイートピー - 松田聖子