But it thrills me.




 おそるおそる渚のさざめきに素足を浸すように、わたしは彼の部屋にハイソックス履きの足を踏み入れる。なんとも異邦な心地がして胸がさわぐ、落ち着かない一歩目。わたしはこの部屋を見学しにきたわけでも、探検しにきたわけでもない。そんな、たいそうな好奇心や冒険心などなく、どこからともなく流れついて、さみしく波に打ち上げられる、流木のようなものとしてわたしはここに佇んでいたはずだった。つい、五分前までは。それがどうしてこうなってしまったのだろう。たった五分前の記憶がこぼれ落ちてしまいそうなぐらい、いまこのときが高波となって、わたしをむしばみ、浸食して余りある。それほど流麗に、畳の上に女の子を横たわらせる所作というものが、先輩にはすみずみなめらかに身についているのだった。
 窓の向こうで五時の鐘が鳴っている。先輩がくすぐるような繊細なちからで、わたしの首筋に指のふしくれをあてがったときのこと。

「先輩、わたし……六時には帰らなくちゃ」

 一時間後のタイムリミットをおまじないのように口にしたのは、それだけ目の前のひとときに囚われていたから。どんな迷宮にも出口があるのだと、終わりを信じたかったから。
 畳のおもてに背中をくっつけると、いぐさの匂いがつよくかおった。その青い匂いが、ここはわたしの知らないものにあふれた、未知の聖域なのだということを思いださせてくれる。わたしのとんちんかんな言葉に、先輩はまどやかな笑みをつくってこたえた。夕焼け小焼けのメロディーは早くおうちに帰りましょうと子どもを急かすけど、先輩の大きな瞳はわたしをここに釘づけて、わたしを穏当に逃がす気などさらさらないようだった。

「始める前から、終わったあとのこと考えないでよ」
「なに、始めるの」
の好きなことってなに? 今日はお休みの日だけど」

 なぞなぞじみた言い方で、わたしをどこかへ導こうとする。彼はわたしの首筋にあてがっていた手で、わたしの髪を内側からのれんのようにもたげて見せた。塩素の匂いのする水をくぐることなく、月曜日のわたしの髪は芯までかわいている。だからここに居る。それがきっと、彼の欲しい答えなのだろう。

「…………泳ぐの?」

 何も分からないまま、ただ、彼の導くままにわたしは答える。彼がうなずく、手心を加えられたあまやかな笑みが、わたしを浅瀬から沖へとするすると引きずりこんでしまう。ここは干上がった陸地だったはずなのに、わたしの皮膚はいまやじっとりと潤んでいた。つけたばかりのクーラーがじゅうぶんに冷やしきれていない、部屋のこもった空気と、彼が容赦なくわたしに注ぐ、とめどないまなざしの湿度によって。

「そう。まずは適切な息継ぎから」

 さながら泳げない子どもの手を、水のなかで引いてやるように、彼の声がからだの内側にとどろく。目をつむり、意を決して潜ればそこにはまだ見ぬ水中の世界がひろがっていた。
 溺れてはいけない。彼の手加減をうまく利用して、この得体の知れない水のなか、上手に息するすべをはやく覚えよう。そしたらきっとこの部屋を、あなたを深く遠く泳ぐことも、わたしはきっと好きになる。



 小さなころから、ぼうっとしたところの多い子どもだった。きびきび動かなくてはならないスポーツのたぐいはどれも不得手だったけれど、泳ぐことだけはふしぎと得意で、陸の上では言うことをきかないからだも水のなかでは自由に操ることができた。一心不乱に水を掻いたあと、息を切らしながらからだを水から引きあげたときの、全身に感じるあのこころよい重力と疲労感が好きだ。だからつい、くたくたになるまで時間を忘れて泳いでしまう。あの日も、ほどよく混みあったバスの吊革につかまって、わたしは重たくふやけたからだを持て余していた。バスが揺れるたび、わたしはかくんと首を落とす。まぶたに乗った睡魔のなすがまま、わたしはゆるやかなブレーキの振動に身を任せて、意識をほんの一瞬手放した。
 寄りかかったわたしを支えてくれた及川先輩は目をまるくしていて、彼と会話していたもうひとりの先輩まで、ものめずらしそうに身を乗りだしてわたしたちを覗きこんでいた。寝ぼけてぼやけた視界にひろがる、うっすらと左胸の色を変えた彼の白いシャツ。血の気が引いていくようで、車内に差しこむ強烈な西陽の熱も、その瞬間からすっかり失せてしまった。

「あ、あの、ごめんなさい……濡れて、」

 しどろもどろになって、自分の言葉に思考をおっつけられないまま、はくはくと口を動かす。立ったまま寝てしまっていた恥ずかしさ、寄りかかってしまった申し訳なさ、そして何より、見上げた彼の表情の目が覚めるような美しさが、わたしを操り人形みたいに不自由にさせていた。

「水泳部の子?」
「は、はい」
「そう。県大会もうすぐらしいね、練習がんばって」

 たったそれだけ、なめらかな笑顔で封をされた、わたしと先輩の最初のできごと。
 こうして不注意を起こすまで、わたしは自分のすぐとなりに立っていた背の高い青城生が及川先輩であることに気づけなかった。ひとつ年上の、他校の友だちにまで名前を知られている美しいひと。わたしに向けた優しい言葉も、余裕のある笑みも、一方的に自分のことを知られていたり、見られていたりすることを当然だと思っているような、抜け目のない慣れたところがあった。わたしはじっと先輩の顔を見つめ続けた。彼が少し首をかしいで、おや、という仕草をするまで、わたしは自分の無遠慮なまなざしがまたひとつ粗相を犯してしまったことに、気づかなかった。
 広い校内で、まるで接点などない上級生とばったり会うことなんて、そうそうない。だから、次の日の昼休み、校庭に続く渡り廊下の自販機で彼のすがたを見つけたとき、わたしはとてもびっくりした。校内にいくつもある自販機のなかで、同じ自販機を選び、同じときに立ち寄るなんて。小銭入れを握りしめながら、わたしは彼のななめ後ろに立ち、黙って彼のことを見つめていて、そしてまたひとつびっくりした。たいしたことじゃないけれど、数あるボタンのうち、彼がわたしの買おうとしていた「フルーツ牛乳」のボタンを押したものだから。ささやかな偶然が重なったような気がした。

「あれ、昨日の。水泳部の子」

 腰をかがめて二〇〇ミリリットルの紙パックを取りあげたとき、先輩はわたしの視線に気づいて振り返った。わたしは慌てて小さく会釈したけれど、その淡い挨拶をしながら、わたしと彼はまったくもって奇妙な知り合いだという気がした。だってわたしは「水泳部の子」で、彼に名前を知られてもいない。それなのに彼はまるで親しい先輩後輩どうしのように、わたしに涼しく笑いかけた。

「今日は髪の毛濡れてないんだね」

 と先輩は言った。昨日のできごとを冗談めかして思い起こさせる、気さくな口ぶりだった。

「はい。今日はまだ……放課後じゃないので」
「あはは。なに律儀にこたえてんの」

 おっかしいな、と先輩が思いのほか楽しげに笑う。流れるように少しだけたわいのない立ち話をした。すると途中、校庭のほうから歩いてきた男の先輩が数人、通り過ぎてゆくついでに及川先輩に声をかけていった。けらけらと、派手な笑い声が狭い通路を支配するように響いて、わたしの肩は縮こまった。ときどき思う。水をくぐればくぐるほど、わたしは地上での息継ぎが下手になっていくと。

「及川、校内でナンパすんなっての」
「しーてないって。話してるだけじゃん」
「日頃のおこない~。ヨメに言いつけちゃる」
「ちょっ、やめてよ、ほんとさー。最近ただでさえご機嫌ななめなんだから」

 やめてよ、と言いながらそれはどこかけだるい、型にはまった予定調和の匂いのする受け答えだった。わたしにはにわかに意味のとれない、だけど放っておくとひとりでに小さな想像がふくらんでしまうような、ひとつ年上の先輩たちの会話。わたしはようやっと小銭入れから百円玉を取りだして、自販機にそれを飲みこませた。ぱっとボタンのランプがひかる。だけど今しがた盗み聞きした言葉のはしばしが頭にノイズのように残って、わたしはなかなか指を動かすことができなかった。

「ボタン押さないの?」
「あ、えっと……あ」

 短いやりとりを終えた及川先輩に声をかけられて、ようやくわたしは目当てのボタンに手を伸ばして気づいた。そのボタンだけランプが点灯していない。どうしよう、何も考えていなかった。暗いランプの上で指をためらわせているわたしを見て、先輩は目をまるくして、ああ、と言った。

「もしかして俺、最後のひとつとっちゃった? じゃあ、これ。はい」

 わたしとは正反対に、彼はなんのためらいもなく手にもっていた紙パックをわたしに差しだした。わたしの買おうとしていた二〇〇ミリリットルの「フルーツ牛乳」の最後のひとつを。わたしは手のひらを向けてそれを拒んだけれど、彼の善意はまったく押しつけがましいところがなくて、だからこそ押しやることのできないふしぎな拘束力を伴っていた。

「悪いです、そんなの」
「いーって、いーって。俺、ほかのも飲みたかったし。押していい?」
「はい、でも……」

 そう言われてしまうと、首を横に振ればいいのか縦に振ればいいのか分からなくなる。差しだされた紙パックをひとたび受けとってしまえば、わたしはすでに彼のふりまく優しさのうちに巻きこまれていた。じゃあこれにしよ、とひかるボタンをひとつ押して、彼がもういちど身をかがめて別の紙パックを取りだし口から拾う。お礼を言うのも忘れてただぼんやりと彼の所作を目で追っていたわたしに、彼は去り際、こう言い残した。少し眉を下げて、わたしの不躾な癖さえも手中に収めたようにうっすら笑いながら。

「あのさ。あんまりぼーっと男見るのやめなね。ほんとにナンパされちゃうよ」

 小さなころから、ぼうっとしたところの多い子どもだった。家族に、友人に、担任教師に、色んな身の回りのひとに、ぼうっとするなと言われてきた。だけど、家族でも、友人でも、担任教師でもないひとに、こうして自分の本性を掬いとられたのは初めてだった。そして気がついた。わたしがぼうっとするのはいつも、自分の外側にひろがる世界に興味をもてないからなのに、彼のことをぼうっと見つめるわたしは、何より興味深いものを彼の内側に見つけてしまったのだということに。急に心臓が、生きていることを主張しはじめた。彼に手渡されたその日のフルーツ牛乳は、なんだか甘ったるくてかなわなかった。



 月曜日のわたしを濡らすのは、塩素の匂いのするプールの水じゃない。
 いつの間にかそれが一週間に一度のわたしの日常になった。恋ってどうやって始まるものなのだろう。いや、恋というよりも、男女というもの。進路を守って泳いでいたはずが波は気まぐれで、そのまま遭難するようにわたしは彼に囚われた。完璧なアクシデントだった。でも、そのつまらない偶然のあみだを辿って、果てはこの部屋まで流れついたのだから、どうやらわたしの乗りこんだ船はだいぶ運のいい難破船だったみたいだ。適切な息継ぎはまだ完璧にマスターしたとは言えないけれど、ここは息をひそめて服を脱ぐには最適な隠れ処だったから。
 この部屋でわたしは週に一度の愉しいレッスンを受ける。小さいころ通った、近所のスイミングスクールのことを思いだす。冷たい水に慣れるところから、水に潜ったり、水を蹴ったり、先生の言うとおりにするより好き勝手に泳ぎたかったけど、今は違う。マンツーマンの授業って、すてきだ。なんだって従順に、彼の言うことを聞きたくなってしまう。

は練習熱心だね、ほんと」

 かり、と先輩のたいらな爪先がわたしの肩のまるみをくすぐる。長い夢のような口づけにこたえているうち、いつのまにか剥がすみたいにシャツを肩から落とされていた。下着の肩ひもをずらして、その下にくっきりとついた日焼け跡を、及川先輩が楽しそうになぞりあげている。彼の指先ひとつで、ぞくぞくと、背中が啼いた。ああなんて、気持ちいいのだろう。

「室内プールがつかえないだけです、水温調節できなくなっちゃって」
「そういう意味じゃないんだけど……」

 まあいいか。ひとりごとみたいにつぶやいて、放課後のバスでわたしを支えてくれた腕が、今やわたしを突き落とすみたいに布団の上に押し倒す。シーツを海の波にたとえるひとは正しい。わたしは何度もこうして沈められ、そのたび引き上げられる。まるで何かのドリルをくりかえし解き続けるみたいに。

「あんまりひとりで先に行かないでよ。教えるのも楽しいんだからさ」

 涼しい顔をしてわたしのはるか先に佇んでいながら、先輩はそういう言葉をもてあそぶ。そういう言葉遊びが、じつに似合うひとだなと思う。
 ほかの女の子よりちょっとだけ泳ぐのは得意だけど、この部屋でのわたしはまだ、息継ぎもうまくできない頼りない遭難者のままでいる。だってそのほうが教え甲斐というものがあるんでしょう。ひとりで自在に息するよりも、少しの不自由を感じたって、今は二人でひそめた息を合わせてみよう。そしていつか偶然ではないちからで、もういちどあなたの左胸を濡らしてみたい。そんな凶暴な気持ちを今日も、寄せては返す波間に隠した。









THE END

2018.6
title by Kaori Ekuni