そのひとはいつも、甘い匂いを漂わせていた。花の香りや化粧品の香りではない、甘ったるいチョコレートやキャンディーの匂いを。

「アンタ、兄貴の女なの?」

 胡桃のシフォンケーキを一切れ口に放り込み、向かいのソファに座っているの澱みない笑顔に向かって不意打ちの言葉を吐いてみる。ティーカップを持つ彼女の指先が一瞬だけ震えたことを、決して見逃さない。見逃せない。それでも彼女から涼しい表情を奪うことは出来なかった。温かい部屋で、なぜだか背筋がぞくぞくする。消えかけの命を前にしたときみたいに。

「……嫌な言い方を知ってるのね」
「違うの?」

 子供っぽい声色で無邪気を装うのは、甘えているのでも媚びているのでもなく、内側から滲みでる悪意をコーティングするためのもの。傷付けたいとか、蔑みたいとか、狂暴な気持ちをヴェールに隠して、単なる「弟くん」になるためのフェイク。
 薄暗く湿っぽい古城の中で数少ない、太陽の光が差し込む明るい部屋。だけが使うことの許されている客間。サーモンピンクのカバーの掛かった豪奢なソファが一式と、テーブルの上には紅茶ポット、ティーカップ、ティースタンドには溢れんばかりのスコーンや焼き菓子の数々、いくつか並べられたボウルの中ではドギツイ色のラムネやグミキャンディーが踊っている。極めつけは、大量のホイップクリームの盛られたホールのデコレイションケーキ。全てが、オレのために用意したものだった。

 物心ついたときからオレは彼女の顔と名前を知っていたと思う。最初の印象は、「お菓子を持ってくるひと」だった。彼女は気まぐれにここへやって来ては、色とりどりの大量の菓子類を置いていった。市販のものから手作りのもの、冷たいアイスクリームから、温かなフォンダンショコラまで。幼少期のオレにとっては彼女が一体どういう人物なのかなんてどうでも良くて、ただその手から零れる甘い菓子と無責任な優しさを欲するだけだった。そして彼女はいつも、オレに全てをくれた。どんなものでも、どんなときでも。
 距離を感じ出したのは、彼女が兄貴の部屋に吸い込まれてゆくのを偶然見つけてしまった日からだ。思えば、彼女がこの家に訪れるときはいつだってそうだった。兄貴に連れられて彼女はこの部屋を後にするのだった。歳を重ねていくにつれて分かったこと、分かってしまったこと、分からねばならないこと。彼女の手によってすっかり甘党になってしまったオレは依然として彼女の持ってくる菓子を心待ちにしているけれど、自分の内に芽生えた新たな欲望に知らんぷりをするには、オレはもう色々なことを知り過ぎていた。知るということは、残酷なことだと思う。だって何処まで行っても、終わりがないのだから。

「どうかしら」

 殆どはぐらかす気のないはぐらかし方で、は目を伏せながらにこやかに呟いた。そしてカラフルなグミを何個か手のひらに取って口に含む。見かけ倒しの、穏やかな昼下がり。こんなに胸がざわつくのに。

「キルア坊ちゃんは、黙ってお菓子を食べていればいいの」
「嫌な言い方だね」

 同じような口ぶりで返せば、何がそんなに可笑しかったのか彼女は至極愉快そうにくすくすと笑った。合成着色料で鮮やかに色付いた棒付きキャンディーは、喉の奥が焼けつくほど甘い。殆ど砂糖の味しかしないみたいだ。
 ねぇ、いつも兄貴の部屋で何をしているの? また何も知らない子供のフリをしてそう聞くことは容易いけれど、それを口にしてしまったら今度は自分から彼女を遠ざけてしまうような気がした。それは嫌だ。遠くならないで。近くに居て。それこそが酷く子供じみた懇願だというのに、一体これ以上、何を取り繕うことがあると言うのだろう。もうすぐ兄貴が仕事から帰ってくる。そうしたらまた、彼女はこの温かな部屋を出て行って、あの仄暗い寝室へと消えてしまうのだ。分かってる。駄々をこねたって変わらないし、もう無責任な優しさは嬉しくない。そんなものより今欲しいのは、もっと確かな、もっとかたちある何かだ。
 おもむろに立ち上がって、テーブルを超えて彼女の隣に着地した。「お行儀悪いわよ」と彼女は眉を顰めたけれど、その実どこか面白がっているふうでもあった。ティーカップを置いたタイミングで、そっと彼女の手首を奪ってみる。は何も咎めない。指と指を絡めても、手の甲に唇を押しあてても。無言。まるで感情を忘れてしまったみたいに、ただ傍観しているだけで。ああ、そっか、もしかして「そうしろ」って言われてンの? それとも、そうしたいの。どっちにしろ逆効果だ、そんなの。

「アンタを見てると、欲情する」

 デコレイションケーキの上に乗ったホイップクリームに指を突っ込んで、その指で彼女の頬をなぞった。誰に教えてもらったわけでもないのに、オレはオレの欲望を現実に還すやり方を知っていた。とぎれとぎれの生クリームの匂いを、穢れなき白を、ゆっくりと舌先で舐め取ってゆく。掠めるのは微かな甘味。皮膚の柔さ。生身の体温。つないだままの手は危なく汗ばんで、熱を帯びてゆくほどに強く絡み合った。このまま歯でこの皮膚を食い千切ったら、彼女の内側からも甘い甘い蜜が零れてくるんじゃないか。クリームでもない。チョコレートでもない。今までに味わったことのないような、蜜の香りが、いっぱいに漂ってきて。それで……

「血は争えないものね」

 はぷっと吹き出すように笑ってから、取るに足らない雑談に相槌を打つかのような声で囁いた。その瞬間、不思議な殺意に囚われた。殺したいと思ってひとを殺したことなんてない。この世はそんな感情を抱くまでもない屑ばかりだから。殺したくもない相手を殺して、たまらなく殺したいひとをどうしてだか殺せない。彼女はその不思議なカラクリを知っているのだと思った。だから笑っていられるんだ。オレがどんな悪戯をしても、我侭を言っても、兄貴の腕の中でも、きっと。

「……兄貴のどこが好きなの」

 彼女の首に顔を埋めると、声は直接耳に流れ込んでゆくようだった。空気に触れず、世界に生まれず、オレからへ、その言葉は一本のはかない線を作った。揺らげば途切れるかりそめの呪文の糸。その代わり誰にも、知られない。
 ぬるま湯のような午後に鋲を打つ、彼女の決然とした口ぶりと、不意に払いのけられた手と、それでもなお「弟くん」のオレのために用意された笑顔と、漂う余裕と、少しの真実。容易く糸を断ち切って、最高に冷たい優しさをくれる。絶対にオレの手には入らないひと。絶対に奪うことの、出来ないひと。

「愛は名指せるものではないのよ」

 鼻の奥に通るこの匂い。
 甘い、甘い、性の味。









THE END

title by Chara